晴天の下、歩く背中は二つのみ

キヅカズ

旅人の話

がたん、と荷馬車が揺れる音がした。

その振動で眠り続けていた少年が目を覚ます。

気持ちの良い目覚めと言うには少々荒っぽさが際立つし、おまけに頭を荷馬車の壁にしこたま打ち付けてしまい少年は不服そうに体を縮こまらせた。


「ねえ、まだつかないの」


少年の質問に、横に座っている女性が風に靡く長い髪を雑に束ねながら答える。


「待て。まだかかる」

「遅すぎだよ」

「文句言うな。第一、荷馬車とっ捕まえて金払ってやった恩を忘れたか」


女性の結び切れなかった後れ毛が少年の頬をくすぐる。

荷馬車は人が乗ることを想定していないせいか、乗り心地はあまり良くない。長時間ろくに身動きもできずに揺らされていれば、体中がしこたま痛くなってくる。

しかし徒歩よりはマシだ。

通りがかった荷馬車に金を払い、乗せてもらうよう交渉したのは女性だ。

言い返すことができず、少年は不貞腐れるようにして荷馬車の壁に寄りかかった。

今日はやたらと天気が悪い。

いつもなら綺麗な青空を見上げていれば満足するのに、その観察対象すらないとなると少年の気分はますます落ち込むばかりだ。

気を紛らわすために荷馬車から身を乗り出すと、舞い飛ぶ砂が目に入って痛みを生じさせた。

うぅ、とうめいて即座に荷馬車に引っ込めば、女性は少年を見て豪快に笑う。


「がはははは。なっさけねぇの。ゴーグルでもつけとけ」

「それ砂漠用の防塵ぼうじんゴーグルじゃん。嫌だよ」


こんな砂漠とは無縁の場所で防塵ゴーグルをつけるなど、浮いてしまって小っ恥ずかしい。

砂が目に入ったのも偶然だというのに、ここぞとばかりにからかってくる女性に腹が立った少年は女性の足を蹴った。

しかし少年の力は弱く、女性はびくともしない。


「痛くもねぇ。もっと力込めろ」

「最悪」


せめてもの抵抗として悪態をつけば、すぐさま拳骨が落ちてきた。

先程壁に頭を打ちつけた時とは比べ物にならないほどの痛みに酷く悶絶する。


「おい、静かにしねぇか。引き摺り下ろすぞ」


どうやら騒ぎすぎたらしい。

荷馬車の運転手が振り返って、痰の絡んだダミ声で怒鳴ってくる。

「失敬」と女性が短く謝罪すると、ふんと鼻を鳴らして運転手は再び前を向いた。

今日は運が悪い日に違いない。

少年は己の不運を嘆き、長い長いため息を吐いた。


◆ ◆ ◆


それから小二時間ほど経ち、おんぼろの荷馬車はようやく最寄りの小さな町へたどり着いた。東の端の、退廃的な雰囲気が漂っている町である。

荷馬車から降りた途端運転手が少年に向かって手を突き出したので、少年は何が何だか分からずその手を凝視する。

馬を操作する際の手綱が粗悪品のせいか、手のひらは非常に荒れていた。


「金」

「え?」

「金、寄越せや」

「待ってよ。乗る前に払ったでしょ」

「あれっぽっちで足りるもんか」


運転手の失礼な物言いが気に障り、少年は気づかれないよう密かに運転手を睨む。

すると少年の後ろからひょいと女性が顔を出して、銀貨を運転手に握らせた。

少々煤けた鈍色の硬貨に舌打ちを一つすると、運転手はそのまま荷馬車に乗って挨拶することもなく去っていった。

荷馬車の後ろ姿が堪らなく腹が立つ。

それに加えて女性の対応が気に食わなかったらしく、少年は怒りの籠もった高い声で尋ねた。


「何で銀貨なんてやっちまったんだよ。あんな失礼な野郎、金無くなっちまえ」

「払っておいたほうが後腐れなくていいんだ。お前もスマートな大人になりたかったら覚えておきな」

「アグリはスマートじゃないだろ」

「うるせえチビ坊主が」


言い争いを始めた二人に、町に住む者達が不審な目を向ける。

突然現れたと思ったら急に喧嘩し始めたので当たり前の反応だ。

町にとっては迷惑極まりない二人であったが、そこで一人の少女が彼らに声をかける。


「あ、あのっ」

「は?」

「ひえっ、す、すみませんすみません」

「馬鹿、怖がらせるなよ」


女性の鋭い目つきに怯えた少女が涙を浮かべたので、女性を押しのける形で少年が少女に笑いかけた。


「こんにちは。俺達に何か用事でも?」

「その、はい。旅人さん、ですよね」

「まあそうだね」


肯定の返事に、少女の顔色が一気に明るくなる。


「よかった。私の家、宿屋やってるんです。泊まっていきませんか?」

「もちろん。案内ありがとう」


少女の提案に少年は即座に頷く。

女性はそんな少年の判断に呆れて肩を竦めた。


「鼻の下一丁前に伸ばしやがって。このマセガキ」

「マセガキじゃない」

「大体な、私ら旅人は常に金欠なんだよ。どこの宿が一番安いかしっかり調べてから泊まるんだ」

「そう言ってさっきの運転手に銀貨握らせやがった奴はどこのどいつだよ。おまけに前回の町じゃあばら屋に泊まらせやがって」

「あれは必要な処置だったんだよ」

「もう寒さに凍えて眠れないのはごめんだね。こんなに可愛い女の子がいるならきっと宿だって暖かいに決まってる」


やんややんやと言い合いを再開してしまったので、少女は思わず萎縮した。

しかしこの町に旅人がやってくるのは珍しい。通りかかることは多いが、誰一人としてこの町に興味を示して滞在しようとしないのだ。

こんな偏屈な田舎町なので、宿泊客がいないと成り立たない宿屋は、かなり経営が厳しい。

なので宿屋をやっている物好きは少女の家だけである。しかしそのことを伝えようにも二人は言い合いに集中してしまっていた。

何としてでもお客を捕まえたい少女は、この場から動くことをできずにじっと留まっている羽目になった。

二人の言い合いに決着がつくまで待っているつもりだったが、注目が集まってきて町中の人間が彼らを傍観している。

いよいよ居た堪れなくなって少女は二人の手を取り、その場から逃げるように駆け出す。

そのまま自らの家である宿屋に駆け込むと、勢いよく入り口の扉を閉めた。

全力疾走したので肺が痛い。

早い呼吸を繰り返していれば、ポカンと二人がこちらを見つめていることに気づく。

どうやら手を掴まれて驚いたらしい。


「いきなり手を掴んでしまってすみません……」

「いや、気にしないで。俺らが騒いでたのが悪いんだ」


少年は少女を警戒させないように、できる限り優しい声と口調を心掛けた。

そんな少年の態度に少女は警戒心を緩めたが、今度は女性が少女の前に立ったので先程の恐怖が蘇る。

慌てて少年の後ろに隠れようとしたが、女性がさせまいと少女の肩を掴んだ。

何をされるのかと身構えると、女性は驚きを隠せないまま少女に言った。


「あんた……行動力あるね」

「あ、ええと、ありがとうございます」

「気に入った。今夜はここで泊まるぞ」

「やった」


女性が泊まることを承諾したので、少年は小さくガッツポーズをした。

ここにしばらく身を落ち着けると決めた二人は、早速身に纏っていたローブを脱ぐ。

少年は小柄なせいかローブが身の丈に合っておらず、随分とぶかぶかだ。

ローブは旅人用にしっかりとした素材で作られていて、衣擦れと共にたちまち砂埃の臭いが鼻を掠めた。


「メイナ。お客さんかい」


そこで少女の母であろう者が二階から慌ただしく降りて来る。

少女は嬉しそうに頷いた。


「そうよ、お母さん」

「はじめまして。俺、ルイって言います」

「アグリだ」


少年のほうがルイ、女性のほうがアグリ、と名乗る。

少女の母は「これはこれはご丁寧に……」と深々と礼をした。


「どうぞゆっくりしていってください。ローブはこちらでお預かりいたしますので」

「どうも」


少女の母が二人分のローブを受け取り、奥に引っ込んでいく。

それを見送った後、少女__メイナは二人の方へと向き直った。


「お母さん、お客さんが来たことにびっくりしてるみたい。ちょっと焦ってるかも」

「別に構わない。それより早く部屋に案内してくれ」

「はい」


アグリに急かされ、メイナはカウンターに掛けてある鍵の内一つを取って二人を二階へ連れて行く。

部屋は二階の一番奥で、鍵を使ってドアを開ければポプリ独特の匂いが漂ってきた。


「こちらになります」

「ありがとう!」


ルイが早速部屋に上がった。

小さな体に似合わぬ、物がたくさん入っていびつに歪んだ鞄がベッドに投げ出される。

メイナはそこで改めて二人を観察した。

ルイのほうは、メイナより年若いのではないだろうか。

メイナは今年で十六になるが、そんなメイナよりルイは背が小さい。

大きめに見積もっても背丈は百五十センチくらいしかないし、何より服の袖から覗く腕が細いので成長過程であることが窺える。

黒色の髪は長くなったところを適当に切ったのか、歩くたびにぴょこぴょこと忙しげに揺れていた。


「落ち着きがなくてすまない」


反対にアグリはとても背が高い。

女性とは思えぬほどの巨体で、見上げていると首が痛くなってくる。

恐らくルイのものよりも大きいはずの鞄は、彼女が持てば小さく見えてしまうので不思議だ。

薄い茶色の髪は腰ほどに長く、一つに結えられている。

この二人はこれだけ背丈も違えば、髪の色も違う。

どう見ても親子に見えない二人の関係が気になってしょうがない。

しかし客の素性を探ることをタブーとされている宿屋の娘としては、ここで二人にどういった関係だと質問することは憚られた。


「メイナちゃんっていったっけ」


そこでルイが駆け足でメイナの前にやってくる。

ルイの無邪気な笑顔に微笑ましくなって、メイナは「うん」と穏やかな声音で返す。

するとルイがこんな質問をしてきた。


「このお店静かだね。僕ら以外のお客さんはいないの?」

「……そうなんだ。お客さん、いないの」


彼らが泊まる部屋以外は伽藍堂で、物音一つしやしない。

掃除に入る度に備え付けられたベッドや鏡がもの寂しげに埃を被っているのを見ると、心にくるものがある。

せめてもっと旅人がこの町に滞在してくれたらと願うが、簡単に叶わないのが現実だ。

落ち込んでしまったメイナに焦り、ルイはアグリの体を揺らした。


「アグリ、ねえアグリ」

「何だ」

「今すぐこの宿屋の全部屋借りるね」

「この馬鹿野郎が!」


アグリがルイの頭を思い切り殴った。

ちょいと叱るには行き過ぎた痛みであった。


◆ ◆ ◆


その後、町を見て回りたいと言うルイにメイナが案内することを名乗り出て、二人で外を散策することになった。

アグリが宿泊部屋でサバイバルナイフを研いでいたので、ルイは一応声を掛けてみる。


「一緒に行かないの」

「行くわけないだろう。若い二人の間に入るつもりはない」

「珍しく気が利くな」

「黙って行ってこい」


アグリがそこで小銭が入った麻袋を投げてきた。

落としそうになったので抱き締めるような形で受け取れば、ずしりとした重みと硬貨が入っていることがわかる硬さが伝わってきた。

この麻袋も薄くなって破れそうだし、もうそろそろ買い替えたほうが良いだろう。

アグリが普段管理している金を寄越したということは、旅荷物の調達をして来いという意図がある。

ちゃっかりと頼まれたおつかいに気づいた頃にはもう遅く、アグリはとっくに部屋のドアを閉めていた。


「ああ、面倒臭い」

「ルイさん」


そこにメイナが顔を出す。声は弾んでいた。

大きめの白いワンピースに麦わら帽子はメイナの小麦色の肌によく映えて、素朴で可愛らしい様子である。

外出用に着飾ったメイナを食い入るように見つめていれば、不思議そうにこちらを翡翠の瞳で見つめ返してきた。


「どうしました?」

「あ、何でもない」


ルイは旅人だ。

こうして年頃の近い少女と町に繰り出すチャンスは滅多にない。

恋仲になりたいとまでは思っていないが、これをいい思い出にしたいと考えているのは事実。

といってもルイは初心うぶだったので、メイナの横を歩くだけで満足であった。


「行こう。俺、旅荷物を揃えたいんだ」

「だったらいいお店を知ってます」


メイナもこうして家族以外と街へ買い物に行くのは久しぶりで、浮かれているようだった。

二人はそのまま宿を出ると、メイナが勧めた道具屋へ足を踏み入れる。


「おじさん、いる?」

「メイナちゃん」


メイナが呼びかけると、道具屋の奥から恰幅の良い男が出てきた。

どうやらこの男が店主らしい。


「席を外していてすまないね」


たっぷりと蓄えた口髭を揺らして笑うと、今度はじろりとルイに視線を移した。


「見かけない子だね……それにメイナちゃんと比べてかなり小さい」

「自分でもそれはわかってます」


小さい小さいと言われ続けてきたので、今更特に思うことはない。

店主はルイの頭をポンポンと叩くと、再び人好きのする笑顔を浮かべた。


「君、大人びておるがメイナちゃんより歳若いだろう。いくつだ」

「十二です」

「十二!」


これには店主もメイナも驚いた。

小さいといっても、歳は十四、十五くらいだと思っていた。

その若さで旅を続けてきたとなれば、人知れない数多くの苦労を重ねてきたことだろう。

何か旅をせねばならない事情があるのかもしれない。


「それは……大変だったね」


店主がやっとのことで選んだ言葉を押し出すと、ルイはそっと目を伏せてか細く言った。


「これには訳がありますので……寒空の下、凍えたこともありました。なにせ、旅人は貧乏なのです」

「おお、頑張ったんだなぁ」

「どうか商品を恵んでくださると助かります」

「待っていてくれ。すぐに持ってくる」


ルイに憐れみと尊敬を抱いた人の良い店主は、あげられるものがないかと店の奥へ再び引っ込んでいった。

するとルイがそこで小さく吹き出した。


「ぷっ、くく……あのおじさん、騙されやすいんだね」


先程のしおらしい態度はどこへ行ったのか、堪えきれないとばかりに笑い出す。

メイナはルイに戸惑いがちに尋ねた。


「え、演技?」

「交渉だよ。これに騙されてくれる人もいれば、簡単に見破ってくる人もいる。まあ僕ら旅人にはありがちな手段。お金がないのは本当だからね」

「訳があるっていうのも嘘?」

「俺とアグリの旅に訳なんてないよ」


実はメイナも騙されていたため、ルイの図太さに呆れるやら驚くやらで何も言えない。

そこに店主が戻ってきたので、ルイはわざとらしいほどに眉を下げた。


「申し訳ありません。こんな我が儘を言ってしまって」

「いいんだいいんだ。受け取りなさい」

「ついでに麻袋もくださると嬉しいです」

「すぐ持ってくるよ」


店主が思ったよりも騙されやすかったので、この店を紹介したことをメイナが後悔し始めたその時であった。


「おい、店主」


筋骨隆々とした男が店に入ってきた。

ルイと同じく余所者のようだ。

アグリとは違った種類の巨体に威圧感を感じ、メイナがたじろぐ。

それを気に留めることもなく男は店主に続ける。


「その坊主に商品やって、何で俺にはくれないんだよ」

「お客様はっ、店の物を盗んだでしょうっ。そんな方に商品をお譲りすることはできませんっ」


恐怖のあまり声が揺れる店主に不愉快げに舌打ちをすると、男が商品棚を蹴っ飛ばした。

がしゃん! と大きな音を立てて陶器の壺などが粉々に割れる。

割れ物は円を書いて空中に舞い飛び、メイナのほうへ向かって行く。メイナはギュッと目を瞑るが、ルイが咄嗟にメイナを庇って前に出る。

頬を掠めた割れ物がルイの薄い皮膚をあっさりと切り裂き、出てきた真紅の血は顎まで垂れて床へ落下した。

男は続けて果実なども手当たり次第に投げ飛ばして、ようやく男の動きが落ち着く頃には店の中は既にぐちゃぐちゃに汚れていた。


「これで勘弁してやるよ」


満足したのか、男はそのまま店を出て行った。

男がいなくなった瞬間、メイナがルイに駆け寄る。


「ルイさんっ」

「気にしないでよ、別にそんなに痛くない」


頬の血を適当に拭うルイだったが、その行為がメイナの不安を更に膨らませる。ポケットに入れていたハンカチをそっと傷口に押し当てると、メイナはそのまま黙ってしまった。

そこであまりに乱暴な仕打ちにしばらく呆然としていた店主が、我に帰って泣き崩れる。


「ああ、何てことだ。私の店が」

「おじさん……」

「あの人、酷い」


メイナが男が出て行った店の出口に向かって吐き捨てる。

店内どころか店主やメイナ、ルイにも飛び散った果実が服や肌について酷い有り様だ。


「やっぱり今日はついてないみたいだ」


せっかくの散策はそこで中止となって、ルイとメイナは店の片付けに協力した。


◆ ◆ ◆


翌日。

相も変わらず空はどんよりとした曇りで、晴れる気配は一向にない。

太陽がないと目覚めるには非常に億劫で、ルイは重たい体をなんとか引き摺ってベッドから這い出た。

しかし疲れは一切溜まっていない。

やはり前回の宿__あばら屋は酷かった。

隙間風で眠れず居心地は最悪。シーツなんて薄っぺらく、骨張ったベッドの触感がそのまま伝わってきてうんざりした。

その点この宿のベッドは枕までふかふかであり、長旅で疲労が溜まったルイを泥のような眠りに落とした。

横を見ればアグリのベッドはもぬけの殻だ。

もうとっくに起きているらしい。

日課の朝の散歩をするために宿を出れば、宿前でメイナが洗濯をしていた。


「メイナちゃんおはよう」

「ルイさん。おはようございます」

「こんな早くに何洗ってるの?」


ルイがたらいの中を覗き込めば、そこにはルイとアグリのローブがあった。

大変汚れていたのだろう。水はもうとっくに茶色くなっていて、砂やら埃やらが浮いている。


「洗ってくれてたんだ」

「は、はい。これも仕事なので」

「ありがとう。嬉しいよ」


ローブは大きい上に水を良く吸って重たいだろう。

早朝特有の肌寒さの中、文句一つ言わずにローブを洗うメイナにルイは密かに感動した。


「僕も手伝うよ」

「け、結構です! お客さんが、そんな」

「いいっていいって」


遠慮するメイナに構わず、ルイは水の中に手を突っ込んだ。

予想していたとはいえやはり冷たいが、メイナが感じていた冷たさだと思うとこれくらいは乗り切れる。

しかしローブには汚れらしい汚れはもう見受けられず、ルイの出番はないようだった。


「水、捨てます」


メイナがそう言ったので、濡れたローブを絞って抱えた。

二人分のローブは正面から見るとルイをすっかり隠してしまって、まるでローブが歩いているようだ。

メイナが水を捨てると、茶色に濁った水が一気に地面に吸い込まれて消えた。


「汲んできますね」


メイナが水を汲みに井戸へ向かったので、ルイはこのままローブを抱えて待つ。

しかしローブは思った以上に重く、足元がおぼつかない状態で待機していれば、後ろから聞き慣れた声がした。


「何だい。手伝いかい」


アグリの声だ。

振り返る余裕もないので、ルイはそのまま答えた。


「そうだよ」

「珍しいねぇ。やっぱりあの子気に入ったんだろ」

「メイナちゃん可愛いし」

「お前と違ってな」

「俺も可愛いだろ」

「普段から可愛げなんて微塵も感じられない癖によく言う」


アグリはルイの前に回り込むと、ローブで顔が見えなくなった姿を上から下までジロジロと眺めた。

アグリが何を考えているのかわからず、ルイは何とかローブから顔を覗かせて眉を顰めた。


「何だよ」

「いや、チビだなって」

「アグリがデカすぎるんだよ」

「お前はチビだろう」


言い返すことができずにキッと眼光を鋭くすれば、アグリはケラケラと笑った。


「何だそれ。睨みつけてるつもりか」

「うるさい」


ふとそこで、すんとアグリが鼻を鳴らす。


「何か鉄臭くないか」

「……言われてみれば」


今朝からずっと漂っていたこの臭い。

気のせいだと思い続けていたが、アグリが言うからにはそうではないのだろう。

その時、「キャアーっ」と甲高い悲鳴がつんざいた。

メイナの悲鳴だと理解が追いついた矢先に、ルイはアグリに持っていたローブを押し付けて悲鳴の聞こえたほうへ駆け出した。

転びかねない勢いで走って向かえば、メイナが涙を流して座り込んでいる。


「どうしたの」

「ルイ、さん」


メイナはルイに気づくと、ふらふらと立ち上がってルイに抱きついた。

突然のメイナの行動に赤面するルイだったが、メイナの見た物が目に入るとすぐさま顔面を蒼白に変える。


「これ」

「い、今、見つけました。多分昨日の……」


そこに転がっていたのは、昨日店を荒らした男だった。

否、男であった肉塊である。

何かに食われたような痕が肩口にあり、その部分の肉がごっそりと削げ落ちている。

その他にも右足、左腕が中途半端な長さでなくなっており、無惨な死体であった。

夥しい量の血液が流れたようで、男の下は赤黒く湿っていた。

観察していると死んだ男と目が合った気がして吐き気が込み上げる。


「あ、あぁ」


力なくメイナがルイにしがみついた。

しばらく頭が働かず呆然としていると、アグリがようやく追いついてくる。


「おい。一体何があった」

「アグリ」


ルイが男の死体を指差すと、それだけで状況を察したらしいアグリが苦い顔をした。


「鉄臭いのはそれか」


それからアグリがメイナの母にこのことを伝えに行った。

男が死んだという知らせは光のような速さで伝わり、葬儀屋が死んだ男の元に着く頃には住人達の人だかりができていた。


「ごめんなさい。失礼します」


葬儀屋が男を運び出すと、町の人々が一気に騒ぎ出した。


「本当に死んだのか」

「そうだ。間違いない」

「死体を見た? とんでもない血の量だった」


すると集団の中にいた老婆がこんなことを言い出した。


「ヌシ様だ。ヌシ様がやりなさったのじゃ」


は、とルイの喉から掠れた空気が漏れた。

町の人々は老婆の発言に次々と納得の意思を示し始める。


「そうだ……きっとそうだ!」

「ヌシ様の怒りに触れたのだ」

「あぁ忌まわしい」

「そういえばあいつ、道具屋を荒らしたそうだぞ」

「ヌシ様が懲らしめてくださったのね」


口々にそう言って興味を無くしたように散っていくものだから、ルイはポカンと阿呆みたいに口を開けているしかなかった。

人間一人が死んだというのにヌシ様とやらの存在を口にして去っていく姿は、まるで奇妙な夢を見ているようだ。

何だこれは。一体、何が起きている。気味が悪くって仕方ない。


「アグリ」


不安を誤魔化すように、頼れる大人の名前を呼ぶ。

見上げれば、アグリは何かに思考を巡らせているらしく真剣な表情をしていた。

一旦熟考し出すとしばらく反応しないことは今までの経験上わかっていたので、アグリに話しかけるのはやめて今度はメイナの様子を伺うことにする。


「メイナちゃん、メイナちゃん」

「うぅ」

「大丈夫?」

「ごめんなさい。……動揺してしまって」


死体の第一発見者はメイナだ。

誰もいない状態で発見してしたとなれば、相当なショックを受けたに違いない。

しかし先程よりは顔色は安定しており、町の人々と同じようなことを繰り返す。


「ヌシ様がなされたことだったんですね。きっと昨日のことで天罰が降ったんです」

「その、ヌシ様って何なの」


ルイが信じられないものを見るような目で凝視してくるので、メイナはルイ達が旅人であったことを思い出した。

旅人にとってこの文化は異色だろう。


「ああ、ルイさん達はヌシ様のことをご存知ではありませんでしたね。ヌシ様は、この町の守り神様なんですよ」

「守り神……」


この町は、どこかおかしい。

気づいた時にはとっくに異変の渦中にいて、ルイはごくりと唾を呑み込んだ。


◆ ◆ ◆


宿に戻ると、メイナの母から朝食を出された。

先程の死体がどうしても脳裏に浮かんで食欲が湧かないルイだったが、アグリは気にすることもなく卵を頬張っている。

その豪胆さが今はとても羨ましい。

食事に手をつけることなく出されたパンや卵達を眺めていると、メイナが二人にハーブティーを入れてきてくれた。


「どうぞ」

「ありがとう」

「私が積んできたんですよ、そのハーブ。気に入ってくれると嬉しいです」


このまま待っていても出された食事は食べられる気がしなかったので、ハーブティーのみいただくことにする。

一口飲めばすっきりとした香りと温かさがルイの体をほぐし、多少の落ち着きを取り戻すことに成功した。


「メイナちゃん、ヌシ様について詳しく聞いていいかな」

「ヌシ様ですね。いいですよ」


「失礼します」と言って、メイナは二人と向かい合わせになって座る。

どんな話が飛び出すのかとルイは緊張して固まっていたが、メイナはそんなルイに気づいていないのかゆっくりと語り出した。


「ヌシ様は私達を守護してくださる神様なんです。この町の近くの森に住んでらっしゃって、たまにああやって町の害になる人を退治してらっしゃるんです」

「……へえ」


余所者であるルイにとってはあまりに不可解な話だ。

本当に守り神様とやらがいるのかも定かではないし、もしかしたらここは町という名の宗教的な集落なのかもしれない。

ここで、黙り込んでいたアグリが食事を終えて口を開く。


「聞いていいか」

「は、はい」

「ヌシ様は、どんな外見をしている。人か? 獣か?」

「ヌシ様は下界の存在ではありません。神様なんです。虎と同じ姿をしているそうで」

「姿を見たことがあるのか」

「私はないです」

「いつからいるかわかるか」

「私が物心ついた時から」

「犠牲になった町の者はいたか」

「……一応。でも、評判が悪かった人達ばかりです」

「本当か?」

「え」

「本当に、悪党ばかりだったか?」

「………」


メイナは最後の問いには答えなかった。


「ありがとう」


質問を終えると、アグリが席を立って宿を出た。今はメイナと二人きりでいるには気まずかったので、ルイはその後を追う。

宿屋の裏までやってくると、アグリはルイに向き直った。


「どうする」

「え?」

「だから、どうする」

「どうするって」

「この町、出るか」


先程の出来事がルイの心に傷をつけたのは、火を見るよりも明らかだ。

アグリはルイに町を出るかの判断を委ねることを決めたらしく、ただルイの返事を待っていた。


「……俺、は」


ルイの脳裏に男の死体が浮かぶ。

正直死体を見たこの町に長居はしたくないし、ヌシ様と呼ばれる謎の存在が気がかりで仕方ない。

ここは見て見ぬふりをして去るのが賢明な決断なのだろう。

__しかし。

本来ならルイ達は一度立ち寄った町に数日間滞在する。

もうその分のお金は宿に払ってしまったし、世話になったので、お金を返してくれと言ってメイナの落ち込む姿は見たくない。

おまけにただでその金をやれるほどルイ達は金持ちではない。

旅を続けるには各地で集めた珍しいものを売って資金を調達せねばならないし、この町を去れば、次の町につくのは相当先のことだ。このまま町を出るには経済的に厳しい。


「……宿にお金払ったじゃん。その分だけいよう」

「別に気にするな。出たいなら出たいでいい」

「でも、お金ないよ」


ルイはそう言うが、瞳には怯えの光が灯っている。

アグリは「本当にいいのか」と再度ルイに尋ねるが、ルイは頷くばかりであった。


「わかった。なら、旅の資金を調達したらすぐここを出る」

「うん」

「後、そんなに怖がるな。あれはあまり起きないことだと思うぞ」

「どうしてわかるの」

「ヌシ様の正体は多分、ただの獣だ。別段珍しいことでもない。腹が減ったら人里に降りてきて空腹を満たしているだけだ」


しかし獣と片付けてしまうには、この町の者が何故守り神として讃えるのかがわからない。

調べてみたいと思っているとどうやら見透かされていたらしく、アグリにしっかりと釘を刺される。


「いいか。間違ってもヌシ様のことを町の奴らに聞いたりなんてするなよ」

「何で」

「お前は人の地雷を踏みかねん。宗教上の争いほど見るに耐えないものはない」

「宗教じゃないじゃん」

「似たようなものだ。人は信じるものを否定された途端凶暴になるぞ」

「実体験?」

「そうだ」


こうしてはっきりと「やめろ」と言われてしまうと、ルイは従うしかない。

アグリの言うことに逆らうと碌なことがないと身を持って知っているからだ。

「わかった」と返すと、アグリはそのままルイの頭を乱暴に撫でた。

アグリの大きな手に対してルイの頭は小さくて、こうされると大人に庇護されていることを実感して安堵できる。

アグリの手が離れる頃にはルイの髪の毛は普段よりもぐちゃぐちゃになっていたが、それを見てアグリは満足げに笑った。


「元気出してけ、坊主」

「うん……うん」


大丈夫。旅の資金を揃えたら町をすぐ出ればいい。

自分に言い聞かせ、ルイは心の安定を図った。


◆ ◆ ◆


それから宿に戻ると、アグリは売り物を捌くと言ってさっさと出て行ってしまった。

既に鞄の中身を整理しておいたのだろう。

未だにルイの鞄は整理なんてされていないし、物が出鱈目に詰めてあるので売り物がどの辺りに入っているかわからない。

ひとまず整理をするために鞄の中身を全て出して丁寧に並べていると、メイナが部屋に訪ねてきた。


「あの、ルイさん……」

「メイナちゃん?」

「入っていいでしょうか」

「いいよ」


ルイに許可を取れたので、メイナはそっと部屋に足を踏み入れる。

突然メイナがやって来たので何かあったのかと心配したが、どうやら違うらしい。メイナに焦りは感じられない。


「どうしたの?」

「その。ヌシ様のお話、あまり気にしないでくださいね」


メイナまでアグリと同じようなことを言うものだから、ルイは思わず笑ってしまう。

しかしメイナの注目はもう、床に所狭しと並べられた旅荷物や珍しい商品に移っているようだ。新品のおもちゃを見る子供のような純粋な瞳をしていた。


「凄い。旅人さんの荷物ってこんな風になっているのですね。これは?」

「これは大蜥蜴おおとかげの鱗。旅の途中で出くわしてね。アグリがやっつけた時の戦利品」

「大蜥蜴?」

「そう、蜥蜴だよ」

「見たことないです……」

「うーん、蛇に足がある姿って言うのかな。とにかく、旅をしていれば珍しい生き物にたくさん会うんだよ」

「素敵」


まるで物語を吟遊詩人に聞いているような、そんなワクワクとした感情がメイナに湧いてきた。

ルイがベッドに座ることを促したので、そのまま腰を掛けると様々な物を見せてくれる。


「これは?」

「それは夜に光る蝶の鱗粉。綺麗だよね」

「えっと、じゃあこれは?」

「貝殻。海から拾ったんだ」

「じゃあこれは?」

「わっ、触っちゃ危ないよ。それは護身用のナイフ」

「ごめんなさい。……あら?」


メイナはそこで、手のひらくらいの大きさの羊皮紙が床に置いてあることに気づいた。

大事そうに他の荷物と離してあるところを見ると、これはひょっとしたらルイが手放すつもりはないものなのかもしれない。

興味が出て拾い上げると、それは一枚の絵だった。


「ルイさんに、アグリさん?」


そこにはルイとアグリが描かれていた。

随分と昔に描かれた絵のようで、ルイは今以上に幼い印象が見受けられる。

絵の中でアグリはこちらに笑いかけているが、ルイはむすりと不機嫌そうにアグリに抱えられている。


「あー、それ?」


ルイは恥ずかしげに人差し指で頬を掻くと、ポツリポツリと語り出した。


「俺さ、孤児なんだよね」

「え」

「驚いた? でも俺とアグリって親子には見えないでしょ」

「は、はい」

「俺の生まれた故郷はここよりずっと小さい集落でさ、親は流行り病で亡くした。集落には余所の子供を引き取りたい大人なんていなくて。それから一人で生きてたんだ」

「……ちなみに、ご両親が亡くなられたのはいつ頃ですか」

「十歳ぐらいかな」


メイナの顔が悲痛に歪んだ。

十歳で親を亡くすという体験をしたルイのことを哀れんでいるのだろう。

泣き出しそうなメイナに「優しいね」と言って、ルイは続けた。


「それから集落の長が変わったんだけど、酷くてさ。長の権限振りかざして俺達の育てた作物ほとんど持ってきやがった。身寄りがない俺なんて、親が残した畑自体取られちゃって。食べるものがないなんて当たり前だった」

「………」

「そろそろ死ぬかなって時にアグリが来てさ。俺見た途端に何したと思う?」

「どう、されたんですか?」

「集落の長の家に乗り込んで長を殴り倒しちゃってさ! 「お前の家はこれだけ肥えているというのに、何故集落に死にそうな子供がいるんだ!」って怒鳴って! いやー、今でも一語一句覚えてる」


無意識か力の籠った声でそこまで言い切ると、ルイは「ふははっ」とかつてのことを思い出して軽く笑う。

ひときしり笑い終えた後、小さく恥ずかしげに言った。


「嬉しかったなぁ……すっきりしたって言うの? 長は集落の食べ物独占してたからね。それからアグリは長に食べ物を分配させて、俺を引き取ったんだ。私と一緒に来いとか言われちゃって。何かの冗談かと思った。だってさ、集落の大人達ですら、俺を引き取れないって言ったんだよ? それなのに何の関係もないアグリが引き取るなんて」

「アグリさんは、優しいお方なんですね」

「お人好しだよ。普段は怖がられやすいけどさ。俺の命の恩人なんだ」


あれだけ隙あらば言い争っていたというのに、ルイのアグリに寄せる信頼は絶大だ。

いや、信頼しているからこそ、小言にいちいち反応して口論するのだろう。

ルイはメイナから羊皮紙を受け取って、表面に指を滑らせた。


「これも何回も触ってるうちによれてきてるけどさ。引き取られてから最初についた町で、絵の上手い人に描いてもらったんだ。その頃の俺はいまいちアグリを信用しきれなくてさ。どっかで売られるんじゃないかとか思ってた。凄い顔してるだろ?」


絵の中のルイは笑顔を向けるどころかそっぽを向いてしまって、こちらに愛想を振り撒く様子はない。

しかしアグリはそれも愛おしいというようにルイを抱えているので、この時のルイはアグリのことがまるでわからなかった。


「あいつさ、誤解されやすいだろ。メイナちゃんだって最初、アグリのこと怖がってたし」

「す、すみません」

「別にメイナちゃんのせいじゃないよ。アグリが粗暴なんだ。あいつあんなのばっかりだけど、許してやってほしい」

「はい。でもアグリさんは優しい方だとわかりましたので、もう怖くはないです」

「良かった」


そこで話の合間に割って入るように、アグリがドアを勢いよく開けて部屋に入ってきた。


「ルイ! なに油売ってる! お前が商品を売ると決めたんだろう!」

「ちょっとは待てよ。せっかちか」

「生意気坊主が言うもんだ」

「えぇ……」


先程のしんみりとした空気がまるで嘘のように言い合いを始めてしまったので、その変わり身の速さにメイナは困惑して唸る。

しかしまだ彼らと過ごしてたったの二日しか経っていないというのに、メイナはもう言い争いの場に慣れてしまって、口を挟むような真似はしない。

ここはそのまま去るのが一番だ。

そう思い部屋を出ようとすると、アグリに腕を掴まれる。


「待ちな嬢ちゃん。ルイと喋ってただろ」

「は、はいぃ」


あまりの圧にメイナの語尾がみっともなく震えた。

額がくっつき合うのではないかと思うくらい至近距離での会話なので、アグリの声が余計に大きく聞こえる。


「ルイと一緒に商品売ってきな。ほら、行った行った」


いつの間にか商品を袋で包んだルイごとアグリはメイナをつまみ出した。

ばたん! とドアが風を感じるほどの速さで絞められ、メイナは呆然とドアの木目を眺めるしかない。


「……アグリさん、やっぱり、怖いかもしれません」

「まあそうだよね」


あれを怖がらないのは無理がある。

今のはアグリが悪かったとルイでも思うし、あの態度はきっと生まれつきなので改善することは不可能だろう。


「ごめんね、俺ら絶対厄介な客だよね」

「あはは……」


「はいそうです」とは言えないので、メイナは笑って誤魔化した。


◆ ◆ ◆


結局そのままメイナはルイについて行き、町で商品を売ることになった。

飲食店の横側に空いているスペースを見つけたので飲食店に許可を取り、早速絨毯を広げて商品を綺麗に並べる。


「メイナちゃん、呼子してきてくれないかな。きっとメイナちゃんが言うなら町の人達も来てくれるから」

「わかりました」


呼子と言ってもしつこく付き纏わないように、と忠告を受け、メイナは町の人へ声掛けに行った。

メイナの背中を見送り、客が来るまでルイは客に渡す小銭用の麻袋に硬貨がきちんと入っているか確認していく。

旅をしていると硬貨同士もかなり雑に擦れてしまっていて、傷ついているものばかりだ。

客に嫌がられないだろうか。

不安が募る中、町の人々がルイの商品に気がついたらしい。

じろじろと見てはくるが、警戒心が強いのか近寄っては来ない。

そこでルイも声掛けを始める。


「珍しい商品が揃ってるよぉー。珊瑚の髪飾りに部族の置き物、傷を治す軟膏まで!」

「ほう。見ていくか」

「まいどぉ」


上のほうから好意的な言葉が降ってきたので、ルイは上機嫌に頭を上げる。

しかしそこには低い声音から想像していた男はおらず、虎のような生き物がいた。


「っ!」


ヒュッと過剰に空気を吸い込み喉が鳴る。

思わず後ろに飛び退けば、町の人々がその虎に向かって膝まづき始めた。


「ヌシ様だ」

「頻繁に降りてくるなど珍しい」

「ヌシ様は旅人がお気に入りなのかもしれないわ」

「ヌシ様だと?」


それは虎というにはやけに綺麗だった。

白色の毛並みに金の瞳をしていて、酷く幻想的な生き物に見えるそれは、ルイをじっと睥睨した。

自分もあの男のように食われるのでは。

そう危惧して早鐘を打つ心臓を服の上から押さえると、ルイは"ヌシ様"に尋ねた。


「声を掛けてきたのはあなたですか」

「ほう、見ていくか」

「商品が欲しいんですか」

「ほう、見ていくか」

「あの」

「ほう、見ていくか」


何度も何度も男の声で同じことを繰り返す。

何とも不気味な雰囲気を放つ"ヌシ様"に、ルイは気味が悪くて口を閉ざした。

アグリはただの獣だと言っていたが、ルイにはどうにもそのようには見えない。

本当に神なのではないだろうか。

しかし話が通じている様子もない。

そこで先程から"ヌシ様"の発する声に、聞き覚えがあることに気づく。

あれは確か、死んだ男の声ではなかったか。


「ヌシ様……?」


そこにメイナが戻ってきた。

"ヌシ様"を視界に入れた瞬間、慌てて他の住人のように膝まづく。

すると"ヌシ様"は首をもたげると、一目散にメイナに向かって飛びかかった。


「あ!」


食われる。

ルイが恐怖と驚愕で動けないまま硬直していると、突然銃声が響いた。

銃弾は惜しくも"ヌシ様"の傍を通って壁に当たる。


「外したか……」

「アグリ!」


発砲したのはアグリだった。

背中にはルイとアグリの鞄が背負われている。

猟銃を下げ"ヌシ様"に傷がつけられなかったことを確認すると、今度は逃さぬよう再び構える。

しかしそれを阻止したのは他でもない町の住民達であった。


「やめろ!」


大勢で飛びかかられ、アグリは地面に押し付けられる。

そのまま猟銃が手からすっぽ抜け、一回転してルイの足元に転がった。

身動きが取れなくなったアグリが住人達に訴える。


「見ればわかるだろう。あれは神なんかじゃない。人を食い散らかす獣だ」

「ええい、何て無礼な!」

「ヌシ様はな、俺らを守ってくださっているんだ!」

「ああ、確かにお前達には都合が良い存在だろうな」


アグリは嘲笑すると、一転して低い声で威嚇するように言った。


「あの虎に町の害になるものを食わせていただろう」

「っ」

「わかりづらかったが、先日の男の死体に拘束されたような痕があった。さしずめ、町の男総出で捕らえたということか。今の私のように。死体をそのままにしたのは見せしめだろう。それだけじゃない。定期的に町から生贄を出しているな? 人の味を覚えた獣の腹は、悪党だけじゃ収まらない。町にいる全員がこのことを把握しているわけではないだろうがな」


住民達はばつが悪そうにうつむいた。どうやら図星であるらしい。

アグリは住民達に怒りを滲ませた声で叫んだ。


「いいからどけ。誰も殺されたくなかったら!」

「うるさい! ヌシ様はなぁ、この町の神なんだよ! 誰が殺されようがっ、それは揺るがない!」

「確かに神に見えるほど綺麗なガワだ。だがな! あれはただの獣だ!」

「ヌシ様の邪魔をするつもりか!」


何て救いようのない奴ら。

住人の説得は早々に諦め、アグリは自力で脱出しようともがき出す。

しかし男達総出で押し付けられては、流石のアグリも抜け出すことはできずにいた。

そうこうしている内に、"ヌシ様"はまたメイナを襲おうとしている。


「っ!」


ルイが足元の猟銃を拾い上げ、見様見真似で構えた。

アグリに銃を触らせてもらえたことは一度もない。お前にはまだ早いの一点張りで、決してルイに触らせなかった。

初めて手にした銃は思ったよりも遥かに重く、構えればルイの上体が不安定に揺れた。

そのまま"ヌシ様"に向かって撃とうとすると、少女の悲鳴じみた叫びが阻む。


「やめてぇ!」


叫んだのはメイナだった。

今にも襲われそうだというのに、必死になってルイに言う。


「お願い! ヌシ様は、ここの神様なの。私となんかじゃ価値が全然違う。私はいいから、お願い……」


まさに命懸けの懇願であった。

ルイに一瞬の躊躇いが生まれる。しかし止まるわけにはいかない。

ここで止まれば、自分もアグリと同じように取り押さえられてメイナが死ぬ。

時間がない。速やかに引き金を引かねば。

しかし外すわけにはいかない。外したらメイナに当たる。緊張で視界がブレた。しかし"ヌシ様"は待ってなどくれない。

とうとうぐわ、と牙を剥いて、メイナに向かって噛み付こうとした。

そこで極度の集中力を発揮し、ルイは"ヌシ様"の体で最も範囲の広い胴体に銃口を合わせる。


「当たれ……!」


ダァン、と銃の発砲音が天高く鳴り響いた。


◆ ◆ ◆


「落ち込んでるなよ、坊主」


本当に嫌な目にあった。

ここ最近で一番最悪な出来事だったと断言できる。

むすくれたままのルイにアグリが続けた。


「あれは食った人間の声帯を借りて人間を誘き寄せ、また食らうを繰り返す獣だ。周りの人間の言葉を真似するだけの知能はあるが、言語能力はない。恐らく見た目と声を操る能力から神として讃えられていたんだろうな。名前は何ていったか……」

「どうでもいいよ、そんなの」

「何だ。まだ痛むのか?」


銃の撃った際の反動はそのままルイにやってきて、一日経った今でも肩と腕が痺れたような痛みを放っていた。

気遣って代わりに荷物を持ってやっているのだから文句を言うな、とアグリは言いたいのだろう。

しかしルイの気分が憂鬱なのはそれだけではない。


「助けてあげたのに、出てけって言われた」


あの時ルイが放った銃弾は"ヌシ様"の胴体の上部分に当たり、負傷させることに成功した。

住人達が動揺したところですかさずアグリが拘束を振り解き、ルイから銃を奪い取ると心臓に弾を命中させた。

"ヌシ様"はそのまま倒れて死んだ。

そこからが大変だった。

住民達から一斉に非難され、メイナですらも涙を流してこう言ったのだ。


「お願いだから、出て行ってください……」


これにはルイも相当ショックだったようで、しばらくは一言も喋らなかった。

住人達から町を叩き出されてしまったので、そのまま次の目的地まで歩かねばならない。

しかもルイはまともに商品を売れるどころか町に全て置いてきてしまったため損ばかりである。


「せっかく、せっかく仲良くなったと思ってたのに……」

「でもどうせ別れは来ただろう。名残惜しくなくて良かったな」

「良くない。それにアグリ、追い出されるってわかってただろ」

「どうしてそう思う?」

「荷物をあの場にわざわざ持ってきてた」


なかなかに鋭い観察眼だ。

しかしルイはひたすら落ち込んでいるので、アグリが褒めてもきっと反応しない。

ならばとアグリは自分なりの慰めを口にする。


「ルイ。お前はな、あの町をある意味救ったんだぞ」

「どういうこと」

「あのままだったらもっと食われてた。お前のやったことは間違いじゃない」

「でも……」

「まあ、ありがた迷惑だったかもな」


ルイは言葉を詰まらせた。

自分がやったことは所詮自己満足であると理解したからだろう。

自らの命を投げ打ってまで阻止しようとしたメイナの思いを、実質的に踏み躙ったのだから。


「旅を続けるにはこういう町にもまた出会う。その時また考えろ」

「……うん」

「ところで、弾をよく当てられたな。お前には素質があるかもしれん」

「でも銃は触らせないんでしょ」

「まあまだ早い」


もう忘れてしまいたいくらいのトラウマだ。

気分を晴らすために食べ物を漁ろうとすれば、「無駄に食うな」とアグリが手を弾いてくる。


「あ」

「どうした」

「いや、空。晴れたなって」

「そういえばずっと曇ってたな」


ルイの気持ちとは正反対に空は晴れ行き、青々と雲一つなく広がっている。

あれだけ見たいと思っていた青空が、今はルイを小馬鹿にしているように思えた。


「あー、馬車通んないかな」

「通っても乗らないぞ」

「何で」

「金がない」


ああ、荷馬車に乗りたい。

憎かったはずの荷馬車を恋しく思い、ルイは空を仰いだ。

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晴天の下、歩く背中は二つのみ キヅカズ @yukizukayuzu

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