第56話 とあるウェイの神の・後編ザファイナル

『望み通りの瘴気にあり。お気に召されたか?』


 凪いだ”声”が聞こえる。

 ここまでの激情をはらんだ瘴気を晒しておきながら、その態度はどこまでも静かで落ち着き払っていた。理解の出来ないその有様。辺りを重々しく漂う瘴気に、自らの気まで狂わされそうですらある。


 そんな折、か細い”声”が聞こえた。


『や、止めてくれぇ……ッすまない、私が悪かったからッ!』


 それはあの酔いどれであった。地にへばりついた痺れる体を無理やりに動かし、何かの形に持っていこうとしている。

 ――平伏の体位である。それはおおよそ神がとる形ではない。下の者が、尊き存在に畏まってとる形。服従の形。べしゃりと頭を地に着け、震えながらに蹲る様子は、見るからに不格好でみっともなかった。




 その時のことである。ふ、と圧が掻き消された。


 突如として失せたそれに、その場にあった者のほとんどが地面にへたり込む。ひりつく思考のままに辺りを呆然と見やれば、真っ黒に穢されていたはずの地には、瘴気の欠片も無くなっていた。どこも黒ずんでなどいない。――ただ、美しい緑に覆われていたはずのそこには、不自然に平たい土地が広がっていた。

 一切が平らである。それ以外には何もない。文字通りの無である。


 まっさら、という爺の言葉が、不意にウェイの神の脳裏によみがえった。




 カチカチという細かな音が聞こえ、はっと我に返る。それは己の口元から聞こえ来ていた。上下の歯列が小刻みに打ち鳴らされ、奏でられるは軽やかな調べ。それは己の脳髄に妙に響いて、静かなる空間を縁取っている。


 知らず、ウェイの神は震えていたのだ。

 それに気づくや否や、その心の内はただ一つの感情に塗り潰された。


 ――恐怖。


 その感情は根源的なものであった。己の存在するその根本の部分が、目の前の存在に怯え、直ちに逃げろと警告を発する。


 それは生まれて初めての感情だった。日をうららかな天上界で過ごしていた神々には、知りえぬ感情であった。

 内なる震えは、己の神髄を揺らして思考を麻痺させてゆく。体も動かない。


 ウェイの神には分からなかった。

 目の前の存在が、如何様にしてこのような有様になってしまったのか。

 ウェイの神には分からなかった。

 目の前の存在を、このような有様にさせたその由来かんじょうを。

 ウェイの神には何も分からなかった――けれど。


 祟り神の頭飾りが青に染まり行くのが見えた瞬間、ウェイの神は思わず其方へ駆け出していた。




 青だ。深い青がそこにある。


 その装飾がこのような色に染まる様は、今までに見たことがなかった。

 けれど、それが野山に孤独に咲く、竜胆の花の色とよく似ていたからであろうか。ウェイの神には、彼の神が悲しんでいるように見えた。寂しさに打ち震えているように思えた。

 その凪いだ表情は何の感情も写してはいなかった。

 けれど、兄たるウェイの神には分かってしまったのだ。この弟と認めた者の、心の叫びが。絶望が。


 されど、この神が彼のもとにたどり着く前に、その踏み出された足は止められることとなる。


 祟り神が、やにわに地に膝をつけた。

 そしてすっと滑らかに体を前に倒すと、目の前の神に向かって額づいたのである。




 それは信じられないような光景であった。しかし、流れるような所作はまるで洗練されており、日ごろから行われていたかのようですらあった。それは、あたかも人の子が祈りをささげる様にもよく似ていて――


『顔を上げなされよ。酒が入りていたとはいえ、余計なことをしてしまったのは私だ。この楽しき宴を壊してしまったこと、心からお詫び申し上げる』


 発せられた”声”の調子は、先まで浮かべられていた、きっと伏せたその先にもあるであろう波風の立たない淡々としたものであった。

 あたかも、今まで言葉無しに吐露されてモノを、何も無いかのように。無かったかのように。


 と、地べたでひしゃげているようにも見えた酔いどれの神が、こわごわと言った様子で応える。


『そ、それは元はと言えば、我が其方に無理を言って求めたからだ! 全ての非は我にあり。済まなかった……ッ!』


『いや、瘴気を晒してしまった私が悪いのだ。真に申し訳ない』


 申し訳なさが滲み出る声色が発された一拍後に、するりと祟り神の陳謝が入る。さすれば酔いどれがより一層誠意を見せ、真の詫びで返される。

 次第にやり取りは大きくかつ、素早く繰り返されるようになって行く。


『否、其方ではない。我が悪いのだ。済まなかったッ!!』


『いや私が』


『否、我が!!』


『いや、わた『待て待て待て、先ずは落ち着こうではないか。ほれ、とりあえずウェイの文言でも唱えようぞお二方、ほれ、ウェーイ!!』


『『う、ウェーイ??』』


 永遠に続いてしまいそうな謝罪の応酬に、ウェイの神は思わず間に割って入り、ウェイの文言を用いる。

 ウェイは全てを解決すると、そうこの神には確信があったのだ。現に、二人の妙な諍いもぴたりと止まっている。


 しかし、それで周りの空気をもが覆えせたわけではなかった。この文言にも太刀打ちできないものはあったのだとウェイの神は戦慄する。そして、この痛いような静寂と、相変わらず青いままの祟り神の頭飾りを見て、必死で言葉を探し始めた。


『其方はまっことをかしき奴よ! あれほどの瘴気を見事に消し去って見せたかと思えば、今はその欠片すらも感じられぬ。今までもそうとは悟らせずに隠し持っていたのであろう? いや、真にあっぱれであるな!』


 ははは、と笑った己の”声”が、妙に乾いて感じるのは気のせいだろうか。

 相変わらず場は静まり返っていた。ウェイの神は静けさが嫌いだった。常、華やいでにぎやかでいる場こそが、己の住処とするところであったのだ。


『おい、其方らもそう思うであろう? ……あろう? ほれ、其方ら……ウェーイ、ウェーイ! ……おい、ウェーイ!!』


 仲間たちに向け、重ね重ね眼光鋭く意味深き視線を送りながら文言を発すれば、幾度目かで意図を察した彼らは、ようやく口々に祟り神に向けて文言を発し始めた。

 一時は疑った文言の効力であったが、たった一度の失敗で見切れるほど、ウェイの神の文言に対する思いは軽薄ではなかった。一発で効かぬというのならば、何度も放てば良いのである。信ずれば、文言も必ず答えてくれる。


 そのようにどうにも苦し気に抗っていた折である。意外なところより助け舟が入った。


『――確かに、その瘴気があるンならば、彼の嵐の御神を前にして尚、今もここに在るということも納得できンことはない』


 それは元茄子みづらの神であった。否、今は炎の鬼神とでも呼ぼうか。彼はさりげなく配下を引き連れ、こちらと周囲の神々の間にあった空白に立ち、その多くの視線から祟り神を守るように壁となる。

 その見事な位置取りに、ウェイの神は内心絶賛の嵐であった。今までの評価を是非とも見直したいところである。


『フン、その程度の瘴気、このには微塵も効かンわ。それに比べ貴様らは、既に一切の仕舞われたものに何時まで怯えてンだ。こンな滑稽なやり取りをしている時点で、こ奴の何処に恐れる必要がある。あぁ?』


 言いながら彼は祟り神の頭を鷲掴むと、おもむろにぐりんぐりんと回し始めた。明らかに煩わしいであろう行為をされても、何をする、と嫌がりこそすれ、黒き神から瘴気が噴き出すことは無い。


『これだから貴様ら天上育ちの清らなる凡下は。軟弱にして貧弱。甲斐なし共め。』


 周囲を一瞥して鼻を鳴らせば、沸点の低い幾らかがやかましく噛みつき返す。その騒ぎに乗り、おそるおそると幾らかが会話を戻せば、次第にぼそぼそと音が戻りだし、たちまちのうちに元の酒場の喧騒へと戻って行く。




『……感謝する。お二方』


『何のことだか』


 祟り神がぽつりと言えば、炎の鬼神はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 そのやり取りをする黒き神の頭飾りは既に薄紅に色を変えており、それを見てすっかり嬉しくなったウェイの神も満面の笑みで応えた。


『ウェーイ!!』


 やはり、ウェイは全てを解決するのである。






 ――それからしばらく、酒場にいた一同はもれなく太陽の神殿の元にて、殿上の神にこっぴどく絞られていた。


『何故儂までが……』


 隣でそう漏らす爺の神に、ウェイの神は思わず拳を握り締め喜ぶ。しかし、すぐに殿上の神に認められ、鋭い眼光を浴びせられて身をすくめた。




 事の発端は、ウェイの神のこの一言であった。


 『そうだ、其方、噂に聞けば、下界にいた時は山のように大きな大蛇の姿をしていたと聞いたぞ。この天上界にも獣の姿を真の姿に持つ神々が多くいるのだ。実は我もその内の一柱でな!』


 それを聞いていた周りの神々が、各自各々仕入れていた下界での祟り神の有様を話し出したのを皮切りにして、宴会中に伝搬したこのやり取りから、期待のこもった熱い視線が祟り神に送られた。

 喉元過ぎれば熱さ忘れるとはこのことである。うららかな天上界では、警戒心なるものは育たない。あるのは絶対的なまでの好奇心であった。


 先ほどまでとはまるで温度の違う視線に、これまたたじたじになっていた祟り神であったが、先から塗り替えられた会場の雰囲気と、何より心を許している(とウェイの神が勝手に思っている)神の期待があったからか、おずおずと言った様子で正体を明かすことを承諾した。


 そうしてヒトガタを解除した彼の神の本性は、切り立った岸壁に囲まれた渓谷をも、その身一つで潰せてしまいそうなほど巨大な大蛇であった。三つに光る眼が、はるか頭上よりこちらを見下ろしている様には、皆口をぽかんと開けて呆けるよりほかになかった。


 そんな折、神々の元に橙に輝く帯の髭が差し伸べられた。それは、色変わりの頭飾りをそのまま大きくしたようであり、彼らの大半はあのひらひらがただの装飾でないことを、この時初めて知った。

 一方、この大蛇が緊張していることをその色からいち早く読み取ったウェイの神は、持ち前の脚力を使って帯の髭を飛び跳ね伝ってゆくと、あっという間にそれと同じ色をした角の生えたかしらまでたどり着いた。


 そして、その場から見える絶景を見るや否や、思い付きのままに言ったのだ。『我らを物見雄山に連れて行ってはくれぬか』、と。


 それを大蛇と成った祟り神は良しとし、場に在った神々の全てをその背に乗せて、大蛇は彼らの求めるままにこの天上界を巡り行くこととなったのである。


 道行く折、夜の神々が闇を作り、星の神々はそこへ幾千もの灯を投げやって、流星煌めく夜空を作った。それは宴の場をより盛り上げようとして行われたものであったが、今は翡翠に輝く帯の髭や背棘が、この夜空に輝く様子はひどく美しい。煌めく光に照らされた景色もなかなかのもの。


 そうして巡り行く末にこのタカマガハラへとたどり着いたわけだが、ある程度天の都に近づいたところで、殿上の神々に見つかりお冠を喰らうことになったというわけである。

 その折、他の神々の案内に導かれるままに動いていた、まだ天上の地をよく知らぬ祟り神よりも、そこへ先導した者や焚きつけたものが悪いとなり、一応実行した彼と共にウェイの神とその仲間たちが最前列に呼び出され、ついでに監督不行き届きにて、自然司る神々の中でも位の高い爺の神が呼び出されたのがこの現状である。


 ――しかし、とウェイの神は思う。


 すっかり祟り神を恐れることも無くなった彼らとの道中のやり取りを思い出せば、自然と笑みが浮かんでくる。この調子者の神は、打ち解け合った仲間たちと飲む酒が何よりも好きだったのだ。


 そうして殿上の神々に叱られていることも忘れ、ウェイの神は実に朗らかに笑った。ウェイの文言も用いて陽気に笑った。それは、今もからりと晴れ渡った青空のような笑い声であった。なお、そののち瞬く間に殿上の神々の神術に頭を撃たれ黙り込むこととなる。




 彼らの頭上、どこまでも続く青空を照らし、太陽はただ静かにこの地を見守っていた。

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