第32話 とある下手人の・後編
ソレは世にも恐ろしい化け物。
日が沈むと同時にこの世に産声を上げたその化け物は、その身から噴き出す瘴気にて一帯を焦土と化させた。
黒々としたそれは噴煙のように迫り、森を乗り越え麓の村にも襲い掛かる。人々は混乱して逃げまどい、村の祈祷師の力により結界の張られた館の中へと逃げ込んだ。
側人の男と現王は、村にたどり着くなり真っ先にその中へ転がり込んだ。例の皇子を始末して森を抜ける途中、背後を全てを死に至らせる黒い靄に追われることになったのである。
村にたどり着いた時、現王は王としての矜持のなにもかもを捨て、尻を犬にかまれた猪のような金切り声を上げ、顔じゅうから汁という汁を垂れ流し幼子のように泣き喚いていた。そうして館の中にいた人々を無理やりに押し分け踏みつけ、集団の真ん中に座り込むと小さくなってガタガタと震え出した―――そこには、王の威厳のかけらもない。
ソレは祟り神であった。この世に在るモノの中で、最も忌み嫌われる存在。
身の内に自身を焦がすほどの怨嗟を飼い、抑えきれなかった怨念が呪がとなって周囲をも焦がす。如何なる時でも常に憎しみを抱き、解放されることのない渦巻く念に魂は削られ理性はなく、その身に仇成す者は皆一様に、漏るることなく祟り殺すモノ。
あまりに強大なソレを倒せる方法はなく、唯一の対処法は封印を施し新たな力の補給を断ち、自身の憤怒に引き起こさる魂の崩壊により自然に消滅するのを待つのみ。
村の祈禱師は呟いた。しかし、その処置が出来るほどの力は自分にはないとも。
一度は嵐のように過ぎ去ったソレが、再びこの地に舞い戻って来た。しかも此度は明確な意思を持って。唯一残ったこの館を見定め、一直線に襲い掛かって来た。
悪夢のような光景である。
いともたやすく剝がされた屋根の向こうに
『現王は何処に。現王差し出だせ』
叩きつけるがごとき圧倒的な力が殴り掛かる。体の内がびりびりと震え、”声”がどこからともなく響いては過ぎ去って行く。己の境界線が世界にほどけて、意識が裏返るような心地を味わう。
凄まじいまでの威圧感。
集まる人々は皆、その人物がいる方向を眺めやった。ざっと音が揃うほどに一糸乱れぬ動き。視線視線視線が突き刺さる。
ただ一人、ずぶ濡れの子犬のように震えるばかりの、哀れな
全ての視線の槍に一挙に全身を貫かれ、現王は発狂した。声を裏返して悲鳴を上げ、人の波の中に突っ込み老女を殴り幼子を蹴り飛ばした。
逃げる王を追うように蛇の頭が近づく。開かれた口にはびっしりと鋭くとがった歯が生えそろい、松明の光に照らされ鈍く光った。
奥へ奥へ奥へ。とうとう隅に追いやられ逃げ場を失った王は恐怖に戦慄いた。命乞いにこの場の人間を引き合いに出し指差し喚く。その姿のなんと惨めたらしいことか。
ずるずるとその体が床に沈み込み、股の間がおもむろに黄色い液に満たされる。しばらくして、何とも言えぬ臭いが場に漂い始めた。
王とは民を守り、集団の長として人々を率いそして守る者である。荒ぶる神を諫め、時に叶わぬことを知りながら対峙することもまた、王の責務の一つであった。その責務から真っ先に背を向け、守るべき民を盾にする現王の姿に、人々は絶望する。
屋根を取り外されたことでいともたやすく打ち破られた結界を修復するため、祈祷師は何事かぶつぶつと唱えていた。
それを傍から見ていた現王の側人の男は何を思ったか、祈禱師の腕から光る宝剣を毟り取った。
その宝剣は祈祷師の彼が結界を張るのに術の媒介として使っていた宝具であったが、奪い取られたことで術の要としての機能を失い、この場を守護する手段は何一つとして潰えたのであった。
そうして何をする気なのか察して制止する人々を振り切り、男は金切り声を上げて見開かれた化け物の三つの巨大な目玉のど真ん中に、不思議に輝く宝剣を思いきり突き立てたのである。
―――――ッ!!!
化け物の悲鳴が轟いた。その不可思議な不協和音に脳髄が揺さぶられ、あまりの不快感に髪を引き千切らんばかりに掻きむしって地に転がる。中には胃の内からせり上がる吐しゃ物をこらえきれずに戻す者もいた。
生理的に湧き上がる涙の膜の向こうより、空から真っ赤に光る帯の腕が伸ばされた。
遠い高みから覗く三つの視線に人々は恐怖する。祟り神の怒りを買っては如何なることか。男は糾弾の渦に晒されたが、それらすべてをうるさいの一言で一蹴すると、降り掛かる化け物の腕を切り裂かんと飛び掛かった。
男が刃をふるえば、薄いその
止める人々、訳も分からず暴走する男。混乱の渦に取り込まれ、皆の焦りも沸き立つ。各自が好き勝手に喚き、叫び、騒然とするこの場に乱闘騒ぎまで起こった。
―――既に、誰一人として正気を保つ者はいなかった。
なかなか目当ての者が差し出されないことに痺れを切らした化け物は、再びおぞまし咆哮を上げると、ついに瘴気を解き放ったのである。
地獄とは、まさにこのようなものではあるまいか。
阿鼻叫喚の様相より、一瞬にして静まり返った館の中。折り重なるようにして積み重なるは、数多の体。老若男女問わず、全て一様に倒れ伏す。
神の怒りに触れた者の、その末路である。
化け物は人の姿をとる。ソレは異形の出で立ちをしていたが、あの皇子の面影をくっきりと残していた。
自分が止めを刺したあの皇子が、祟り神へと成り果てたのだ。
人々が地に沈む中、一人小康を保っていた男はその事実に至るや否や、錯乱して剣を振り回した。
しかし、その切っ先が異形の首を捉えることはなく、居合の元に弾き飛ばされてしまった。
くるくると剣は宙を回転し、かつりと床に突き刺さり光を失う。
その瞬間、どっと襲い来る不快感と倦怠感に地に縫い付けられたかのように、男は動けなくなった。
剣を持った化け物が、現王の元へと静かに歩み寄る。それを男は血走った目で見つめていた。
ああ、せっかく作り上げた傀儡の王が、今まで築いてきたものが、何一つとして失われてしまう。
正気を失った男に、正しく物事を捉える力は残っていなかった。命を守り逃げることもせず、ただ富と地位が失われることを恐れ、飛ばされた剣へと向かって這い蹲って進む。一心不乱に剣に這い寄る姿は、その動機と絡めていっそ滑稽なほど。
やがて男は剣にたどり着く。その剣に触れるや否や、光が灯り男の体の不調がすうと抜けてゆく。これはしめたと、男は笑う。嗤う。哂う。
喜び勇んで雄たけびを上げ、男は化け物に向かって突進した。
そうして手の内の剣を、化け物のその胸に突き立てたのだ。
間近で見るその面立ちは異形の成り立ちなれど、異様なほど整っており美しい。
普段は丸く見開かれたその瞳をゆるりと半眼に細め、そこから放たれるどこまでも冷たい眼光に、魂の芯からぞっと怖気立つ。
―――嗚呼、アアァ。
異形と成り果てた■は今この時、初めてとんでもないことを自らが成してしまったことを悟ったのであった。
『哀れよの』
どこからともなく、”声”が降る。
『妾の愛し子を一人ならず二人も傷つけおったのは、お主じゃの?』
蛇の神はするすると音も無くその蛇の下半身を引きずり、■の元へとやってくる。
『何とも汚らわしいことよ。自らが甘い汁を吸うために兄を誑かし操り、あまつさえその弟を血縁である兄の手で始末させようとしたか。
■は動くことのできなくなった体にぽっちりとついた目玉で、蛇の神がこちらに近づいて来るのをただ眺めていた。
『嗚呼、何と罪深く、嘆かわしいことよ。守り神であるわしの膝元でやりおったのだ。お主、覚悟は出来て居ろうの。地獄に堕ちるより
童女の姿をとっていた蛇神の姿が、真白の大蛇へと変わりゆく。
その鱗は雪のように白く、金色の瞳は、先ほどまであの化け物らに向けていた眼差しとは打って変わって鋭く冷たい。刺すような視線に射すくめられ、肉塊となった■はさながら蛇に睨まれた蛙。本物の蛙よりもへしゃげた鳴き声を上げて、ただただ蠢くことしかできなかった。
蛇神はその口を大きくあけると、■を一呑みにしてしまった。
あとに残されたものは、汚れた獣の毛皮と脇に置かれた神剣のみ。蛇神は、少し考えるようなそぶりを見せると、その神剣を口に咥えた。一つ力を籠めれば、それはあっけなく砕け散った。煌めく破片は光に融けて集まり、ただ力の塊となって球を作る。
蛇神は、実に美味そうにそれを呑み下した。
そうして白蛇のその姿が
眠りにつくのだ。
無事に全ては腹の中に納まりて、これにて終幕。あな、めでたしめでたし。
とっぴんぱらりの、ぷう。
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