鈍色の夏

よる子

鈍色の夏

 地方の民間伝承などに興味を持ち趣味として学びたいと集まった者たちで結成されたのが、この民俗学サークルである。特に都内で生まれてなに不自由なく育った僕なんかは、田舎の奇妙な言い伝えなどに対する興味関心がひとしおで、だから迷うことなくこのサークルに入った。都内にだっていろんな都市伝説や迷信めいたものがあるけれど、それらはどうも心惹かれない。

 大学二年の夏休み、もううんざりするほどの暑さのなかで、クーラーもない部室には僕と部長のセリノさんしかいなかった。誰が持ち入ったのかも不明な民間伝承に関する本を読み漁ってはスマホのロック画面を見ての繰り返しをしていた最中、セリノさんが独り言ちるように言った。

「お前が読んでるその本に、ワヅキ町の話が載ってるだろ」

 何かしらの書類を整理しているセリノさんの背中に返事をする。

「どのへんですか」

「真ん中より少し進んだページ」

 一切こちらを見ないで淡々と言うので、僕も黙ってページをめくった。手のなかをあらゆる民間伝承が滑っていく。ワヅキ、ワヅキ、その文字が見えて覗き込んだ。なんでも海がきれいで静かなところなんだとか。流し読みをするがあまり惹かれる民間伝承はない。そもそもワヅキ町が持つのは1ページもなく、下半分には次の町について書かれている。僕はワイシャツが肌にへばりつくのを感じながら顔を上げようとして、手に持っていたその本がセリノさんの手に攫われていくのを見た。

「ここに行く」

「……なんでまた」

「なにかおもしろいものが、ありそうじゃないか?」

 その言い切るような自信はどこから来るのだろう。訝しげな僕は、しかしこの人の武勇伝を思い出していた。テスト勉強をしないどころか授業にも一切出ないで勘だけでテストを乗り切っただとか、入学後間もなく誰に聞くでもなく学食の裏メニューを全制覇しただとか、まぁそんなくだらないものたちを。つまり彼本人、またはその周りで少し不思議なことがよく起きると学内でも噂になるほどの人がそう言うので、僕は乗らざるを得なかった。斯くして僕とセリノさん、それから同級生のミナセは夏休みのうち一週間をその町で過ごすことにした。

 新幹線と鈍行電車、それからバスと徒歩。東北の日本海側に面するさびれた小さな町へ行くには思っていたより手間取った。修学旅行ぐらいでしか都内を出たことがない僕は小学生みたいに落ち着かない。観光マップの隅っこに載っているのを見る限りでは海がきれいで海鮮の類が美味しい、らしい。しかしもちろん僕らの目的はありふれた名所や名産物などではなく、その地に伝わる民間伝承を調べること。

 波が寄せて返す音、鳥が話し合う声。人混みがなければ人影すらない町を男三人で歩いた。道路を挟んで砂浜という立地の、見るからにぼろぼろな民宿にチェックインして荷物を置く。建て付けの悪い窓からは魚が死んで腐った匂いが漂ってくる。興奮気味に窓から身を乗り出す僕はそれが海の香りだと教えられ、じいっと水平線を見た。

 翌日、僕らはそれぞれ軽い手荷物を持ち宿を出た。民間伝承の調査は三人ばらばらに行うので帰宅時間だけを確認し合い三方向に散る。セリノさんは漁港のほうへ、ミナセは人が集まる商店街のほうへ。僕は地元の人しか立ち寄らなさそうな鬱蒼とした小さな森へ続く小道を歩いた。まだ午前中なのに木々が空を覆い隠してしまってなんとも薄暗かった。蝉の大合唱を聞きながら、舗装はされているものの歩きにくい砂利道をのんびり進むと、少し開けた場所に出ることができた。そこに一か所だけ光が射している場所を見つける。草木を掻き分けて覗くと、いびつに丸い池が静かにあった。絵の具を垂らしたみたいに鮮やかな青は太陽の光を反射してきらきら輝いている。汗をかくことも忘れた僕はそこに、人影を見た。若い男の子で上半身が裸だったので泳いでいたのかと考えたが、どうやら僕が目にしたのはそんな簡単に説明できるものではなかったらしい。

 その人は外国人と見紛うほど美しい顔立ちで、髪は黒曜石で出来てるのかと思うほど黒く光沢があり、体はやけに白く細く、それから、それから。

「あの、」

 足がなくって、代わりに尾びれがあるのだった。

「……こんにちは」

 光る鱗を認識した瞬間僕はその人に声をかけていた。こちらを振り向く動作さえも洗練されていて息をのむほどに美しい。その反動で濡れた髪から滴る水が落ちた。

「こんにちは。ここの人じゃないね」

「東京から来ました。……名前教えてください」

「……なんぱだ」

 鈴が鳴るみたいに笑うその人はちょいちょいと手招きをして僕を呼んだ。

「ぼくは名前ない。きみは?」

「……アズミ。どうして名前がないの」

 しゃがんで鱗をじっと観察する。ひとつひとつが宝石に見えた。顔を上げるとその人は痛いくらいやさしく笑っていた。

「ぼくは、人魚だから」

 そういえば、ここは蝉の声がしなかった。




「さて、今日でここを発つが、心残りはないな」

「俺は大丈夫です。アズミは」

「あ、僕もうちょっと残る」

 一週間後の昼間、僕たちは部屋で調べた民間伝承について紙にまとめていた。セリノさんとミナセが着々と帰る準備を進めるなか、僕だけが荷物を広げっぱなしにしていた。宿主のおじさんには話が済ませてある。

「調べ残し?」

「うん。まぁ」

 興味なさげにミナセが言ううしろでセリノさんが難しい顔をしていることに気づいた。僕と目が合うと少し考え込んで、

「いいが、ちゃんと帰ってこいよ」

「わかってます」

 そうして二人を見送り、あの砂利道を歩いた。蝉の死骸があちらこちらに転がり、たまにそのひとつが弾かれたように暴れまわる。夏はそこかしこから死の匂いがする。

 池の中心に人魚が浮いていた。僕はあの出会いからすっかり人魚の美しさに惹かれ、この一週間セリノさんやミナセに見つからぬよう夜な夜な彼に会いに来ていた。いろんなことを話したし、いろんなことを聞いた。

「アズミ。来てくれたの」

 器用に尾びれを操り僕のほうへ泳いでくる。波紋はゆらゆら揺れて池の端に消えていった。僕を見つけて嬉しそうに微笑む人魚はやっぱりきれいだった。

「セリノさんとミナセは帰ったけど、僕はもう少し残ることにしたんだ」

「そうなの」

 陽を知らない肌は青白く透き通りそうなほどだ。

「アンタはどうして池にいるの?普通人魚は海にいるものでしょう」

「ここのね、池は下で海と繋がってるんだ。だから自由に行き来できる」

「仲間はいないの?」

「ぼくは自分がいつからこうしてここにいるのか、知らないから」

 どうでもいいことのように言って池を泳ぎ回る姿は寂しそうで、まるで囚われのお姫様みたいだと思った。アズミ、か細い声で人魚が呼ぶ。

「ぼくはね、ここから解放されたい」

 その言葉は僕の頭を縛り付け、宿に戻ってからもずっと聞こえ続けた。縋るように、苛むように、祈るように。

 僕のすぐそばを人魚がゆうゆうと泳いでいる。背後を過ぎゆく景色、目まぐるしく変わる時代、ひとりぼっちの美しい人魚。彼はただ項垂れ真珠のような涙を流していた。心も体も世界に囚われながら孤独に浮かぶ彼は、だから美しいのだ。解放されたいと叫ぶ彼を救えば、その美しさは失われてしまう。それはいやだった。

 目が覚めたのは翌日の夕暮れだった。風は生ぬるく海の匂いを運んでくる。上体を起こすと同時に廊下に面した襖が音もなく開かれた。

「おはよう、もう夕方だよ。今起きたのかい」

「……おはようございます」

 全然起きてこないから心配したんだよ、宿主は頭をかいてふんわり笑った。ゆるい風は風鈴を鳴らすこともなくただ部屋のなかをくるくると踊る。薄い敷き布団を畳む僕に、宿主は襖の向こうから話しかける。

「そうだアズミ君、このワヅキの町に伝わる人魚の伝説は知ってるかい」

「人魚ですか。知らないです」

「ずうっと昔からある話なんだけどもね。ほら、地図にも載ってる小さな池あるだろ、そこに棲みついているっていう話。なんでもその人魚の肉を食った人間は同じ人魚になって、永遠の命が手に入るとか、なんとか」

「……おもしろいですね。おじさんは見たことあるんですか」

「俺はないなぁ」

 宿主は背中を向けてそう笑って、階段を降りていってしまった。

 吉報だった。これで彼を失わずに、彼を救える。彼はようやくひとりぼっちから解放されるのだ。僕は散らかった荷物も畳んだままの布団もなにもかもを放り出して、あの小道へ走った。こんなにも心がわくわくするのはいつぶりだろう、使命感や義務感に駆られるようにひたすら池を目指す。ひぐらしの声すら応援してくれているみたいだった。

 夏の日は長いが、木々に隠されたこの場所は夜を感じさせるほど暗かった。人魚の姿を確認する。

「……アズミ」

 人魚は僕を見て安心したように笑った。そして僕が手に持つそれを凝視して一言、絞り出す。

「それ……なに……?」

「大丈夫。たぶんちょっと痛いけど、アンタには僕がいる」

 青ざめ震える人魚の、木の枝のように細い手首をきつく掴んだ。鈍い銀色をしたナイフは、どこから入ったのか茜色の光を浴びてこわいくらいに輝いた。まって、まって、と首を振る人魚の手に、僕は振り下ろした。

「ちょっと血が出るくらいで死なないよ」

 苦しそうにあえぐ人魚の腕を掴んだまま、切り取ったばかりの指を飲み込んだ。指の断面から落ちる血は池の隅っこを紅葉が散ったみたいに赤く染めていった。そしてふいに足に痛みを覚えて、気づいたころそこにあったのは見事な尾びれだった。いつか見た彼の美しい尾びれと鱗を彷彿とさせる。もうアンタはひとりぼっちじゃない、そう言おうとして、目を閉じぐったりと陸に倒れこむ人魚を見た。

 その鱗はもはや輝きを失い低く暗く、辺りに転がる石ころと同じに見えた。虫の声ひとつしないこの空間で、僕だけが息をしていた。

 そうして僕は理解した。人魚が目を覚まさない世界で僕が生き続けるらしいということは、残酷な事実であるが受け入れるしかないようだということを。いつかの人魚と同じように、時代に取り残されたまま生き、そして孤独に溺れる。僕が僕を救うにはあの人魚が解放されたことを祈るほかなかった。

 どれほどの時が流れたかもわからないなかで、今日もここを訪れる人間を待っている。

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