淋しがりの君⑤

 夜──今は22時30分ころだ──のお城は、深夜のビジネスホテルのような佇まいだ。物音を立てるのは警備の人間くらいで、静かな気配が建物全体に充満している。

 そんな、快適だけれどさむしさのある通路を、独り──ディランとは、ティメオを地下牢に入れた後に別れた──自室を目指して歩いていると、過去の事件の資料が保存されている部屋(資料室)から漏れる明かりが、視覚を刺激した。


「……」


 歩を進め、資料室の前に差し掛かったところで、ドアがき、短髪に四角い眼鏡の男性──先輩裁判官のジェイデン・スタンリー(37)が現れた。


「お疲れ様です」と俺は、無難すぎて気持ちが込もっているか否かの判別が困難なフレーズを口にした。


「ノア君もお疲れ様」ジェイデンが、彼の厳格さを窺わせるやや冷たい声色で言った。「丁度良かった。今、時間はあるか」


「……大丈夫です。私の部屋を使いますか?」ここからならば俺の部屋のほうが近い。


「ああ」と重そうな資料を抱えるジェイデンが頷く。「使わせてもらえると助かる」


「少し持ちましょうか?」俺が申し出るも、「いや、いい」と端的に断られた。


「……では、行きましょうか」と移動を開始する。







「いや、いらない」ジェイデンは、先ほど聞いたのと兄弟のように似通にかよった文言で、紅茶をれようとする俺を止めた。


 未だ暖まらない部屋の、冷えきったソファに腰を下ろす。


「話というのは何でしょうか」


 ややあってから、ジェイデンがおもむろに口を開いた。「……お前は甘すぎる」


「……」


「あの淫魔にだって身体しんたい刑を科していないのだろう」


「いえ、それは……」咄嗟につたない嘘が出そうになるが、無意味であることは自明だ。だから小さく、「はい」と認めた。


 勘違いするな、とジェイデンの視線がやや下に向けられる。「ダーシー様が黙示もくしに容認したことだ。私に法的責任を追及するだけの力はない」


 それはつまり、力さえあれば──、ということか。


 ジェイデンは落ち着いた声音で続ける。「たしかに、魔族ならばそれでも不利益はほとんどない。ダーシー様の性格とお前の性格──信念を考えると、当然の帰結と言えるかもしれない」だが、と視線を鋭くさせる。「ルーバン氏殺害事件の被疑者は、全員、人間なのだろう?」


 常識的に考えると魔族が真犯人などという事態は、そうそうあることではない。ジェイデンの推測は極めて真っ当なものだ。


 否定する意味はない。だから、「そのとおりです」と答える。


 ジェイデンが何を言いたいのかは、すでに察している。


「であれば、判例に従え」静かながらも反論を許さぬ圧。


「……」


「魔族と人間では、厳罰を与える意味が違う。お前も理解しているはずだ」


「……はい」


「メイソン氏殺害事件の時は犯人が魔族だったからこそ、ダーシー様も犯罪抑止効果を度外視した。しかし、人間が犯人の場合はそうはいかない。彼ら自身に、〈罪を犯したら自分もこうなる〉と思わせる必要がある。したがって、ダーシー様は厳罰以外は認めないはずだ」


「……理解しているつもりです」ジェイデンの言っていることは間違いなく正しい。


「……」静黙せいもくしたジェイデンが、じっと俺を見つめる──まるで被告人の最奥さいおうにある真実を探すかのように。


 そのまま露許つゆばかりの時が流れ、不意に圧が霧散した。


「ノア君が目指しているものは……」数拍の間。「いや、いい。何でもない」私は帰るよ、とジェイデンは立ち上がった。


「はい」俺も起立し、「ご忠告ありがとうございました」と頭を下げる。


「……それ、たまにやるけど、どんな意味があるんだ?」ジェイデンが首を傾げた気配。


「……あ」ミスった。


 ハイヴィース王国やその近隣諸国には、〈お辞儀〉は存在しない。だから、俺の行動は奇行以外の何ものでもない。恥ずかしや。


「い、いえ、何でもないです。ちょっと腰が痛くて」意味不明な供述である。


「まずは腰痛の完治を目指すことを勧めるよ」


「はい……」




▼▼▼




 シエンナ・ロビンソンは、自身の10歳の誕生日を祝うパーティが開かれている会場を何とはなしに見渡した。

 

 何度か形式的な会話を交わしたことのある貴族、顔は知っているが一度も会話をしたことのない貴族、全く知らない貴族。

 10歳の少女の平均的な身長しかないため、見えない人のほうがずっと多いけれど、たくさんの人がいることは間違いない。そして、彼らは皆、シエンナを美しいと褒め称えることに生き甲斐を感じているということも確信できた。

 なぜなら、それが今までの人生で幾度となく繰り返されてきたことだからだ。贈られた誕生日プレゼントの数と価値からも明らかだし、今も感じる複数の卑猥な視線もシエンナの美しさ故である。


 いい気分。


 美しい、可愛らしい、と褒められるのは気持ちのいいことだ。時折、本当に気が向いた時だけ、演技系スキル──〈独りぼっちのおままごと〉──を使って媚態びたいを演じてやることもある。赤面し、慌てふためく様は滑稽で笑えてくる。勿論、スキルにより表情は完璧に統制されているため、嘲笑ちょうしょうが出てしまうことはない。


「おねえさま、おねえさま」少しだけシエンナに似た幼い声。妹のエスメが駆け寄ってきたのだ。「これ、あげる」と皿を差し出された。何やらよく分からない黒い塊が載っている。


「まぁ! ありがとうございます」シエンナは、エスメの頭をやんわりと撫でてやりながら、「でも、これはいったい何なのでしょう?」と訊ねた。


妖精ピクシーのハンバーグだよ! 作ったの!」褒めてほしそうだ。気持ちは分かる。


 もしかしなくてもこれを食べろということだろう。いい迷惑だ。如何にも身体に悪そうなゴミを好んで食べる人間などスラムにしかいない。シエンナは侯爵令嬢だ。したがって、あり得ない。


 今すぐ召使に廃棄を命じたい衝動に駆られるシエンナだったが、なんとかこらえて、「エスメさんがお作りになったのですか?! まだ5つになったばかりなのに凄いです」とそれらしいだけの薄っぺらい賛辞を絞り出した。


「うん!」きらきらと答えたエスメは、早く食べて、と急かすように笑っている。


 どうしよう……。







 13歳になったシエンナは、第二次性徴を迎え、より女性らしく、より美しくなっていた。


 シエンナは、父親のブライアンに呼び出され、彼の執務室を訪れていた。呼ばれた理由は察している。


 低く、奥行きのある声でブライアンが言う。「お前の嫁ぎ先が決まった」


「はい」シエンナはしずしずと答え、次いで、「どちらに」と問うた。


「ウィリアムズ家だ」


「ウィリアムズ家……」腑に落ちない。あそこには年頃の男子はいなかったはず。「どなたが夫になるのでしょうか」


「テディ・ウィリアムズ」ブライアンは平坦な口調で告げた。「精通を待って、あちらが予約完結権を行使する手筈になっている」


「私たちに予約完結権は──」


「そんなものはない」とブライアンは、不満がまつわりついた言葉を発した。


「失礼しました」


 テディは現在、5歳だ。婚姻しても子をせない。

 加えて、あちらが格上──公爵家であることが、婚姻予約契約、所謂婚約に留まった理由だろう。則ち、ウィリアムズ家は、ロビンソン家が格を落とす愚行をした場合に、すぐに切り捨てられるようにしたのだ。

 

 気に入らない。腹立たしい。


 この私が嫁いでやるというのに、巫山戯ふざけた話だ。


 ブライアンも同じ気持ちなのか、不満げな顔をしている。シエンナにはそう見えた。







 ブライアンの執務室を出たシエンナは、庭──敷地の奥へと向かっていた。

 ロビンソン家の敷地は広大だ。敷地内に山も森もある。ちょっとした秘密を隠すには十分すぎるだろう。


 シエンナの〈独りぼっちのおままごと〉は年々その性能を上げていた。昔は演技が上手くなるだけだった。しかし、今は違う。具体的には、実際に会話を一定時間以上したことのある人物を演じる──例えば、ブライアンの真似──際、〈役作り〉という工程を経ることでその対象者の能力(スキルを除く)を少しだけ模倣できるのだ。

 今のシエンナは護衛騎士を演じている。つまり、身体能力も気配察知能力も、本人には劣るものの、ただの小娘ではあり得ないレベルで有しているということだ。


 周囲の気配を探る。


「……」


 監視はいないわね。


 人目を避ける必要があるのだ。木々の間──森へと足早に侵入する。

 警戒を怠らず、けれど大胆に駆ける。

 一定の律動りつどうを刻む自身の呼吸を聞くことに飽きてきたころ、シエンナはようやく目的地──打ち捨てられた小屋に到着した。

 中から彼の気配を感じる。走ったせいで荒くなった呼吸も赤くなった頬も、スキルのおかげで通常よりも早く落ち着いてゆく。衣服を軽く整えてドアノブを捻る。


「早いっすね」中にいた三白眼の少年──ヒューゴが、シエンナを見て微笑んだ。


 頬に朱をそそぐ──ということだけは・・・、スキルが阻止してくれた。







 シエンナのスキル、〈独りぼっちのおままごと〉にも、当然、副作用デメリットはある。

 このスキルは、シエンナに強い孤独感を強制するのだ。それはつまり、シエンナは常に淋しさや周囲との果てしない距離を感じ、一方で、他人を、自身の心を理解し受け入れてくれる存在を強く求めてきたということ。ここで言う〈強く〉は〈病的に〉あるいは〈中毒症患者のように〉と言い換えることができる。それほどの渇望だった。

 しかし。

 シエンナは誰かに本当の自分を理解されることはなかった。なぜなら〈独りぼっちのおままごと〉は、シエンナの意思に関係なく常に発動状態にある〈常時発動型〉だからだ。則ち、シエンナは生まれた瞬間から一時も休むことなく自分ではない誰かを演じてきた。誰も気づかぬほど巧みに。

〈異常な孤独感の強制〉と〈演技──仮面の強制〉、〈渇望〉と〈自縛じばく〉。

 この相反あいはんする副作用デメリットに圧迫されることこそが、演技の頂に至る可能性の代償であった。


 だから、シエンナは終わらせることにした。もう疲れたと自死じしを選択した。

 本当の自分を理解してほしい。けれど、シエンナ自身、本当の自分がどのような存在なのか理解していなかった。思考している自分自身が偽りであることは分かっても、その仮面の奥は、ただただ淋しいという激情を除きぼうとして見えない。

 それはとても苦しいことだった。世界の中で誰にも認識されず、自分自身でさえ自分を認識できず、不安定な足場に独りぼっちで立ち尽くしている。

 見てほしい。理解してほしい。愛してほしい。けれど、それが叶うことはなかった。彼ら彼女らが見ているのは、理解しているのは、愛しているのは、仮面だ。シエンナではない。

 

 淋しい。ずっと淋しい。生きてる限り淋しい。それなら、死のう。

 

 そうして死に場所を求めて森の中をさ迷っている時に、三白眼の少年と出逢った。

 ぼろぼろの布を纏った少年を見て、自分とは住む世界の違う存在だと思った。そして、邪魔だとも思った。


 ──どうしてここにいるのですか。


 ここはロビンソン家の所有地だ。この少年のような人間のなり損ないがいていい場所ではない。


 と、この時、シエンナは気づく。私も似たようなものか、と。


 ──君は……。


 少年は哀れむように呟いた。


 ──っ!


 心の臓が跳ねる。仮面がかれた──心を見られた。理屈ではなく、感覚が、スキルがそう教えてくれた。

 鼓動がどんどん速くなってゆく。 


 この少年は私を知ったのか。私の知らない本当の私を。


 あんなに願っていたのに、いざ叶うかもしれないとなった瞬間、言いようのない恐怖が湧き上がってくる。

 けれど、と冷静なシエンナもいる。かのじょは問う、その恐怖は本当にあなたの感情なの、と。


 そんなのこちらが訊きたい! 


 じっとりと脂汗がにじむ。くらくらしてきた。どうして、どうして、どうして私はるの私は誰なの私は私はわたしは──。


 ──?


 やにわに、楽になった。全てではない。しかし、酷く心をき乱していた、ぬるぬるとした異物が減ったのは確かだ。息ができる。


 ──大丈夫っすか。


 少年が目の前にいた。いつの間にか手を握られている。肌に挟まれ、押し潰された汗が、互いの心を繋げている気がした。


 ──やばそうだったから、勝手に貰っちゃったっす。

 

 ──貰った? 


 ──そうっす。君の〈淋しい〉を俺の心に移動させたんすよ。


 ──……そんなスキルがあるの。


 ──あるみたいっす。


 少年が、落ち着いたっすね、とシエンナの手を放した。

 まだ落ち着いていない、と思ったが、言葉にはできなかった。


 ──ねぇ。


 ──なんすか?


 ──名前を教えて。


 ──あー。


 少年は、逡巡しゅんじゅんしている様子だったが、やがて、ヒューゴっす、と名乗った。


 ──私は……。


 今度はシエンナが躊躇ためらううも。


 ──シエンナっすよね? 見ちゃったから知ってるっすよ。


 ──うん……うん!


 これがシエンナとヒューゴの出逢い。シエンナに婚約成立が伝えられるひと月ほど前の出来事であった。







 森にある小屋から城に戻る道中、シエンナは婚約について考えた。けれど、考えたところで現実には何の影響も与えられないという結論が、頭の中を占拠するだけだった。


 周りに人けのない扉から城に入り、泥棒の少年のことなど何も知らぬ、と何食わぬ顔で廊下を歩いていると、侍女を伴ったエスメが前方からこちらに向かって歩いてきた。赤い顔の侍女が、分厚い本を何冊も抱えている。


 シエンナとエスメの距離が会話に適したものになったところで、互いが立ち止まる。


「ごきげんよう、お姉さま」エスメは、年齢の割には様になっている微笑をたたえて言った。


「ごきげんよう、エスメさん」シエンナは、完璧な微笑みを浮かべて返した。


 一瞬、エスメの微笑がかげったように見えた。気のせいだろうか。


「お姉さま」品が損なわれない程度にエスメが笑みを深める。「ご婚約おめでとうございます」


 耳が早いこと。


「ありがとうございます」


「……それでは、私はやることがありますので」と述べたエスメがシエンナの横を通り過ぎる。


「ええ、ごきげんよう」


 足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。エスメから挨拶は返ってこなかった。







 シエンナは17歳になった。その美貌はあと少しで完成の時を迎えるだろう。


 シエンナは自室の姿見に映る自分と見つめ合う。


「……」


 美しい、と誰もが言う。当然、今までの人生で容姿をけなされたこともない。

 しかし、最近、シエンナは疑問に思うことがある。


 則ち、この美しさに価値はあるのだろうか、と。

 則ち、最愛の人に捧げられない美しさに価値などあるのだろうか、と。


 今もヒューゴとの関係は続いている。しかし、決定的な・・・・肉体関係はない。それは、ハイヴィース王国の慣習上、貴族の初婚においては処女であることが加点要素になるからだ。有り体に言えば、処女性は一種の担保であり、つまりは、新婦が新郎以外の男性の子を身籠っていないことの証拠として扱われているということだ。貴族は血の繋がりを重んじるが故の慣習である、と言い換えることもできる。


 しかし、ヒューゴを愛してしまった。


 この想いさえ真実であれば、シエンナは自分の存在を許してやれる。他の男の理想を演じることも受け入れられる。


「……嘘だ」鏡の世界から聞こえた。


 本当はヒューゴと結婚したい。供に町を歩きたい。彼と私の子どもが欲しい。


「……ふふ」


 くだらない。そんなことが現実になるわけがない。考えるだけ時間の無駄だ。どうせこの想いも押しつけられた〈役〉に引きずられたものだ。全部嘘。そうに違いない。

 

 そうに違いないんだ……。


 不意にノックの音。


「お食事の準備ができました」侍女が告げた。「食堂までお越しください」


「分かりました。すぐにきます」


 溜め息をつき、それからシエンナは行動を開始した。







 その日、夕餉ゆうげで出されたスープを何回か口に運んだ時、シエンナは小さな違和感を覚えた。


「?」

 

 そして、10秒、20秒と時間が経過するにつれて、その違和感は痛みへと変貌していく。足の先から痛みが上ってくる。膝、太もも、臀部でんぶ、下腹部。

 痛み自体もどんどん強くなってきた。もはや激痛と言っても差し支えない。熱く、痛い。


「──」しかし、今は完璧な侯爵令嬢を演じている。悲鳴を上げることはできない。


「お姉様?」姉妹だからだろうか、エスメは、シエンナに外見上の変化が一切なくとも異変に気づいたようだ。


「──」痛みが引かない。視界も白くぼやけてきた。


 席を立ち、駆け寄ってきたエスメが、「お姉様!?」と声を上げた。


 毒だ。シエンナはすでに悟っていた。


 でも、どうして──どうして笑っているの、エスメ……!


 ここで、シエンナの意識は途切れた。

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