筋肉令嬢ビルドアップハイスクール

特撮仮面

鍛えたお嬢様

「二百八十一、二百八十二ッ!」




 熱気渦巻く部屋の中心で、裸の女性が腕立て伏せを行っていた――のだが、その格好が明らかに普通ではなかった。




「二百八十六ッ! 二百八十七ッ!!」




 一本、左人指し指一本である。重力なんて関係ないというかのように力強く大地に聳える大木のように指先一つで倒立の姿勢を保ったその女性は、一糸乱れぬ動きで腕立て伏せを実行し続ける。


 その動きに迷いはなく、その動作に乱れはない。瀑布の如き力強さを持ちながら、その動きは剣閃の如くぶれることがない。




「二百九十七ッ――二百九十八ッ!!」


「お嬢様、お時間で――お嬢様ッ!?」




 ノックをして部屋に入ってきた男が主人である女性の姿を見て目を剥いた。


 それも仕方のない事だろう。筋トレをしていることは日常茶飯事であるが、その格好が問題であった。


 裸である。全裸である。これだけの過酷な筋肉トレーニングを行っていて尚膨れ上がることなく、密度のみを上げ形状と柔らかさを美しく保つ正しく神秘的な肉体その全てが曝け出されているのである。




「二百九十九ッ!! 三ッびゃぁぁ――ックッ!!」




 最後の一回だけ深く深く行った女性は、ばねの様に指先だけで鋭く跳躍すると、空中でくるりと姿勢を正して着地。部屋の入り口で固まっている男性を見て朗らかに微笑んだ。




「あら、おはようイアン」




 彼女の名前はマシュル・プロティヌス。このプロティヌス侯爵家第一子息であり、いわゆるお嬢様――もとい、このとあるゲーム作品に出てくる設定によく似た世界の設定において悪役令嬢と呼ばれるポジションに居た少女である。




※※※※






 そもそも、とあるゲームとは何か。


 それは【遥かな世界の果てで】という題名のゲームであり、いわゆる乙女ゲームと呼ばれる恋愛シミュレーションゲームに属されるPC及びコンシューマーゲームであった。


 この作品は同時にギャルゲーとしても発売されているのだがそれはまた違う話なので割愛し、この遥かな世界の果てで、の設定について説明しよう。


 このゲームの特徴は、とりあえず鬼畜難易度というところである。ストーリーは、主人公の平民の少女が紆余曲折の末貴族御用達の国家最大級の学校に入学し、王子様と恋愛して実は色んな出生の秘密があったんだよ! そして二人は幸せなキスをして終了。というありきたりなものなのだが、何をとち狂ったのか開発者はとんでもないゲームシステムを導入したのだ。


 それが、育成システムとSRPGである。主人公の少女を様々な形で育成、成長させるだけではなく、様々な場面で本場のSRPGのようなコマンドバトルが繰り広げられるのである。しかもその難易度がかなり鬼畜であり、プレイヤーにはヒーローとの恋愛をこなしながら同時にSRPGの敵と戦わなければならないという超絶難易度のゲームとなっているのだ。


 だが、この濃密なSRPG要素と必要以上に需要に応えようとした結果のヒーロー層は本来狙うはずだった女性よりもネタに奔るゲーマーや男性プレイヤーに人気となってしまったという伝説のあるゲームである。




「だからっ、お嬢様っ、せめて下着くらいは着けてくださいとあれほどですね」




 学生服に着替えたマシュルにイアンが進言する――窓枠に指先を引っかけて廊下を移動しながら。




「いやよ」


「いやってそんなことおっしゃらずに」


「だって、筋トレしてたら下着とか凄い邪魔じゃない。動き難いし。それに――」




 突如廊下のど真ん中で立ち止まると、両足を肩幅に腰をクイッと捻り胸を開くように腕を広げ言う。




「わたしは誰かに見られて恥ずかしいような肉体をしているつもりはないッ!!」


「…………そうですねッッ!!」


「……なんでそんな高速懸垂してるの?」


「私の筋肉が囁いているのですッ! 今此処で筋肉を鍛えろとッ!! 燃焼せよとッ!!」


「そう」




 彼の突発性の筋トレには慣れたものだ。いつもの光景に彼を放置してマシュルは食堂へと向かう。


 彼女が食堂に到達するのと両親が着席するのはほぼ同時であった。




「おはようございます、お父様、お母様」


「おおマシュル、おはよう」


「おはようマシュル」




 腰かけているそりの深い顔をし、貴族でありながら大胸筋と僧帽筋によって盛り上がったタンクトップ姿の金髪の男性の名は、ルスム・プロティヌス。このプロティヌス家第一七代当主であり、星を支える腕と大地を支える大樹のような脚、そしてこの地上全てを表す大胸筋と腹筋を持つ齢五十に突入しようかというわりととんでもない人物である。


 その隣にそっと寄り添うように座るドレス姿の女性の名は、ミシュル・プロティヌス。病弱の薄幸少女という出で立ちだった彼女は、今でははかなさの中に強かさを持つ花のように美しい女性となった。ちなみに年齢はもうすぐ四十の大台なのだが、見た目や肌のハリからは未だ二十代で通用するような美女である。


 大きなテーブルの上に並ぶ三人の朝食は、白い鶏肉や野菜などを主体とした脂っこさのあまりない食事だ。


 質素ではあるがしっかりと栄養を考えて練られたメニューの数々に舌鼓を打ちつつルスムはマシュルに近状を尋ねた。




「どうだマシュル、最近学校は」


「楽しいですよ。魔法学は退屈ですけれど、戦技の教官が物凄く強くて、そうだ! 先日教官にお前は筋が良いって褒められたんです!」


「良かったわね、マシュル」


「はい!」




 思わず口元が緩んでしまいそうになってしまう温かな家族団欒の光景。だが、この光景はこの世界の貴族からすると異端極まりないのである。


 貴族は基本的に自分の財などの力を誇示できるものを好み、それを見せびらかすようにすることで自分の地位を周囲にすり込もうとする。


 その為彼ら、彼女らの食事は基本的に高カロリー高たんぱくのメタボリックシンドローム一直線な食事が基本となり、父と子、母と子という関係は明確な上下関係としているためこうしてあまり笑い合うようなことはない。


 メイドや執事が居ないことも異質な光景だ。自分の分は自分でとる。大皿の上にある肉を取り分けるなんて普通はしない。




「お父様、また大きくなりました?」


「ははは、わかるか。ちょっと鍛え直してな」


「あまり無理はしないでください」


「ははっ、大丈夫だよ。最愛の妻と娘を守るために頑張っているだけだからね」


「もうっ」


「はははっ」


「ふふふっ」




 二人が笑い合う光景を見てマシュルは微笑んだ。


 この光景は彼女のたゆまぬ努力の結晶と言っても過言ではない。毎日見ているとはいえ最初の頃を思うと達成感と幸福感に包まれる。


 元々このプロティヌス家も他の貴族と同じような生活をしていた。義理に厚くもどこか貴族としての驕りをもった父と、部屋に籠りっきりで出てこない母。


 もちろん、現代日本から転生してきたマシュルもまた貴族としての生活にどっぷりと浸かっていた。メイドや執事に世話をされ、甘くて美味しい菓子と肉に囲まれた生活。生前場末の独身OLだった彼女にとってこの世界は正しく天国だったのだ。


 魔法に剣術。イケメン教師や将来有望な王子様に囲まれ、生前には無かった才能の塊のような身体に特別感と優越感を覚えて他の者を虫かなにかのように見ていた幼少期。


 だが、そんな幼少期からの考えは今のプロティヌス家には欠片も残っていなかった。それはなぜか?




「お嬢様、そろそろ出られなくては……」


「もうそんな時間なの?」


「む、では私もそろそろ出るとしよう」




 マシュル専属執事である、イアン。彼がこの家に来たことで全てが変わったのだ。


 元々イアンは平民の家出身。雇われ遊撃隊なる特殊な傭兵部隊に所属しており、ルムスとは過去に何度も戦場を共にした仲だったのだという。


 各地の戦争も終結し条約の結ばれた現在、彼は職に溢れ路頭に迷っていたようで、そんな彼をルムスがこの家の衛兵として雇ったということだった。


 では、衛兵だった彼とマシュルがどうして主人と執事という立場となったのか。




「ねえ、イアン」


「どうかされましたか? お嬢様」




 振り返ると彼が居る。


 所々切り傷のある男臭い深い顔立ちに、お世辞にも似合っているとは言えない燕尾服姿。よく遠回しに彼を執事にするのはよせと言われるが、そんなのはありえない。




「いつもありがとう」


「……いえ、礼を言われるようなことはありません」




 私の背中を、この世で一番格好よくて素敵な男性が守ってくれている。その事実があるだけで彼女は今日も戦えるのである。






※※※※※※※※※








「おはようございます、プロティヌス様っ!」


「今日もお美しゅうございます、プロティヌス様!」




 校門を越え、彼女が姿を現す。


 彼女が歩くだけで道行く人々が皆道をあけて彼女に頭を下げていく。身なりの良いお坊っちゃんも、平民らしいお嬢さんも、皆彼女にキラキラとした憧れの視線を向けていた。




「おはよう、マシュル」


「あら、今日は早いのねアーサー?」




 彼女の隣にならんだのは、金髪碧眼の見麗しい少年。彼の名前はアーサー・ブリトニウス。ブリトニウス公爵家の長男であり、ゲームではメインのヒーロー、この学校では最も格好良い男性として持て囃されている。


 マシュルとアーサーは所謂幼馴染みのような関係で将来は結婚するのではとされていたのだが、現在は、掛け値なしに格好良いしとても信頼できるが、致命的に筋肉が足りない親友というポジションに落ち着いている。




「いや、ちょっとね……」


「ふーん、前途多難ね貴方も」




 ははは、と頬を掻くアーサーに肩をすくめる。


 掛け値なしに格好良いし立場もある彼であるが、立場があるがゆえに女性に対してアプローチが苦手だったりと色々問題もあるのである。




「そ、そういう君だってまだ彼とそういう関係になってないじゃないかっ!」




 余裕綽々といった雰囲気に少しプライドが傷ついたのだろう。彼女の恋を知っている者として、そして同じく身分違いの恋をする者として、そっちはどうなんだ、と指を指す。




「ふっふっふっ、今日のわたしはひと味違うわよ?」


「な、なに?」


「――彼に裸を見せたわっ!!」


「……よし、早く教室行こう」


「ちょっ、もっとしっかり反応しなさいよ! こらー!」






※※※※※※




「ごきげんよう、プロティヌス様」


「…………」




 昼休憩、テラスに向かったマシュルは、いつものように照らすのすみにあるテーブルに向かい、そこで待ち構えていた人物に声をかけられた。彼女はそちらをチラリと一瞥するが、何事もなかったかのように椅子に座る。




「あの、無視とか酷いと思うんですけど!?」


「…………」


「あの、マシュル?」


「なんでしょうか? 申し訳ありませんが私はあんな下心ばかりが先行する者がするような挨拶をする友人を持った覚えはありませんよ?」


「ごめん! ちょっとした出来心だったの! だから許してマシュルぅ~」




 マシュルのニコニコ笑顔に泣きが入った赤髪の少女が縋りついてくる。そんなことになるならからかうんじゃない、とため息を吐く。




「ああ貴女はっ! 身分違いの恋に恋する乙女で最近の悩みは増え始めた体重。お兄さんがいつまでたっても家に帰ってこないから酒場を切り盛りしている親孝行な酒場の娘っ。その健気な姿と喧嘩を仲裁する姿から老若男女誰もが憧れる、通称黄金の右を持つ女、酒場の女傑ことクリスさんではありませんかっ!」


「スゴい説明口調だ!? というか何で体重のこと知ってるの!?」


「先週話してたじゃない。私の差し入れが美味しいのが悪いって怒るし」


「だって、食べ過ぎちゃうんだもん」




 今日だってね、と続きそうだったので、今度から差し入れやめようかなぁ、とボソリと呟くと、クリスはそれだけは止めてと必死に頭を下げる。




「それだけは、それだけはどうか勘弁してください」


「どれだけ欲しいのよ……」




 クリスが言っている差し入れとは、チョコレート菓子である。貴族御用達の菓子とは、それだけでも価値があるものなのである。


 勿論、平民向けの製菓は存在しているのだが、貴族用の物と比べるとどうしても質が落ちてしまうのだ。




「良いじゃん。あ、ところでなんだけど彼とはどうなのよ?」


「……唐突ね」


「だって気になるじゃん。ヴァルキュリアと名高いプロティヌス様の熱愛」




 ヴァルキュリアとは、旧き時代に魔王を封印したとされる神からの御使いのことであり、このヴァルキリス王国の名前の由来となった女性の名前である。




「ヴァルキュリアって……わたしは――」


「鍛練と休養を怠らなかっただけ、でしょ?」




 悪戯っぽく微笑まれて思わず口を閉じる。


 マシュルは、プロティヌス家という名門、そしてその容姿と戦技の成績からヴァルキュリアと持て囃されているのだが、彼女からするとこの身体もこの技も日々の鍛練によって出来たもの。誇りを持ってはいるが、その称号だけでとやかく言われるのが好きではなかった。




「でも、私だってそう思うよ? マシュル、すっごい格好良いんだもん」




 本当にヴァルキュリアみたいだった、というのはクリスが彼女の戦技の実技を見たからこその感想だった。


 全員共通した、デザイン性も何もない武骨な胸当てや手甲という下級の騎士が装備するような武具を装着しているはずなのに、その立ち姿は威風堂々と、まるで伝説に出てくる神の武具を纏っているような気迫。


 そして、鎧を破壊され、武器を折られて尚立ち上がり戦い抜こうとするその誇り高い後背筋は見る者の心に熱い何かを宿らせるには十分だった。


 そして、プロティヌス家というこの国の中で最も凄まじい下克上を成し遂げた伝説と呼べる家系でありながらその生まれを振りかざすことなく、自分のような平民にも優しく接してくれる。


 心酔していると言っても過言ではないほどうっとりと、マシュルが如何に素晴らしい女性であるかを語られ、本人は堪ったものではなかった。


 自分が変われたのは彼が居たからで、あの時立っていたのも、ただではやられたくないという意地でしかない。クリスと友達になったのも、真っ直ぐな彼女に好感が持てたからだ。


 でも、こうして自分の行いを肯定してもらえるということが、今までの努力は無駄ではなかったという達成感やら、友達に評価されることが嬉しいやら恥ずかしいやら。色んな色がごちゃ混ぜになってしまい彼女は肩を縮めてぽしょりと呟く。




「あ、あり、がとう……」


「――ぁああもうっ!! マシュルはかぁいいなぁっ!!」




 キリッとした美しい少女が耳まで真っ赤にして恥ずかしがる姿はどこか小動物のような可愛らしさがあり、彼女に対する親愛が振り切れたクリスが彼女に抱き着き、彼女の頭を胸に抱えると猫撫で声でよーしよしよしと全力で撫で始めた。




「きゃっ!? ちょっ、クリスっ!?」


「あー、マシュルは可愛いなぁ本当に可愛いなぁもう食べちゃいたいくらい――じゅるり」


「は、はなれろー! わたしはノーマルだからっ!? わたしはノーマルだからぁっ!!」




 背筋を駆け抜ける悪寒に決死の抵抗を試みるマシュル。


 意外と簡単に拘束から抜け出すことに成功したマシュルは、身を抱きキッとクリスを睨み付ける。


 しかし、頬を染め涙目の状態で睨まれても精々猫が睨み付ける程度の迫力しかなく、普段の女豹然とした姿を思うと可愛らしさが勝るばかりだ。




「大丈夫! 私もノーマル! ちょっとマシュルに対する愛とか愛が溢れてるだけだからっ!!」


「息を荒くするなっ!? なんだそのわきわきは本当にやめろー! 怒るよっ!? わたし本気でやっちゃうよいいのっ!? すごいからねっ!? わたし凄いんだからねっ!?」


「ふへへ、ええやないかお嬢ちゃん。ちょっとだけやんかぁ?」


「怖いっ!? ちょっ、誰か助けてー!?」




 ぐへ、ぐへへ、と危ない笑みを浮かべるクリスに本気で危機感を覚えて距離をとるべく腰を浮かすマシュル。


 さあ、どう出る。相手の行動を制すためのにらみ合いが続き、空間が最高潮まで高まったところで、二人の間を黄色い悲鳴が切り裂いた。




「ロースさまぁ!」


「ああ、カイル様……」




 ああ、あの子か、と二人が制止して悲鳴の方を向く。彼女たちの視線の先に居るのは、この学校トップのイケメン集団とその中心に居る一人の少女。




「……あー、しらけちゃったね」


「相変わらずのハーレムね……面白いやら哀れやら」




 中心の少女の立ち振舞いと、それに魅了される男たちにマシュルは大きな大きなため息を吐いた。


 彼らのような伯爵家など、大きな家名を背負う者にはそれ相応の苦悩が待ち構えている。


 その悩みを受け入れてくれる、また、その悩みに理解を示してもらえる相手なんてそうそう居ないことも理解できる。


 だが、アレは無いだろう。幼馴染みは幼馴染みの義理で助けてやったが、彼らは本当にどうしようもない。


 主人公とよろしくやっている男たちを一瞥し、マシュルはそろそろ良い時間だなと席を立つ。




「あれ、マシュルもう少し見ないの?」


「当たり前でしょ。次はグラン教官の戦技の授業なんだから、準備はしっかりしておきたいでしょ?」


「それもそっか」




 何やら視線を感じるが、そんなことより今日はグラン教官による効率の良い筋肉の維持法と全身のバネを用いた戦闘法の訓練だ。


 待ちに待った自分の長所を最大限に発揮できる場所。彼に自分の勇姿を魅せるためにもやる気が入るというものだ。




「――あ、そうだ!! ねぇ、マシュル。来週の戦技祭のペアの人決めてる?」


「勿論決めてる」


「あー、やっぱりかぁ! いいなぁ、ペアになれる人」


「なに言ってんの? あなたがペアに決まってるじゃん」


「……ほんと?」


「ほんとよ。なんでこんなことでじょうだ――」


「マシュルぅううっ!!」


「わっ!? こ、こら抱きつくなぁっ!!」


「マシュルたんマジ天使っ愛してるっ!! ああもうマシュルマシュルマシュルゥ!! ――くんかくんかハァハァ……」


「にゃああ!? ほんとは離れろやめろいますぐはなれろぉっ!? ちょっ、やっ、だめそこは――」


「お嬢様どうかしまし――ごふぁ!?」


「イア――イアンっ!? どうしたのイアァアアンッ!?」


「は、はだ、はだががが……」


「ぐふ、ぐふふふふ……」


「いい加減に――しろぉっ!!」


「ぎにゃあああ!?」






※※※※※※※






 彼と出逢ったのは、もう五年以上前になる。




『貴方みたいな平民が、何故私のようなこうきなものの――』




 初めて彼と顔を合わせたときは、彼のことがとても怖かった。


 大きな手に、鋭い目付き。父も同じようなものだったが、野獣のような彼の方が数倍怖かったことを覚えている。そして、彼に放った自分の厚顔無恥な言葉の数々も。


 今思い出しても顔から火が出そうになる。前世、というほどの物ではないが、大人の自分が居て尚よくそこまで出来るなというような立ち振舞いの数々。


 正直な話、あの頃の自分は彼のことが大嫌いであった。怖いし、平民だし。だが、そんな考えが変わったのはいつ頃だったか。




『勝者――イアンッ!!』




 いや、何時かなんて分かりきっている。あの武闘会で 己の身一つで頂点まで上り詰めた彼の背中に魅せられてからだ。


 ボロボロで、お伽噺に出てくる勇者のような――いや、勇者よりも遥かに格好良いわたしの英雄。


 彼に憧れ、彼に師事を仰いだ。勿論、良い返事なんてもらえるはずもない。だが、わたしは諦めずに彼に頼み込み続け、今では彼と同じトレーニングをして、彼と同じ技を学んでいる。


 彼が居なければ、わたしはきっとただの贋筋に成り下がっていたことだろう。貴族としての、プロティヌス家の誇りを忘れ、ただ権力を振りかざすだけの贋筋に。


 その道を正してくれた。彼にそんな気はなかっただろうけれど、彼のお陰でわたしの今があって、わたしたちの今がある。


 わたしにとって彼は、憧れの人で、プロティヌス家を救ってくれた恩人で、何より人生でこの先二度と現れないくらい本当に好きで好きで堪らない男性。


 五年、五年だ。五年間ずっと想い続けてきた。立場もある、思想もある、だが、そんなことはどうでもいいっ。


 わたしは彼が好きで、彼が欲しくて堪らないのだ。彼と共にトレーニングをするのではない。執事として彼を側に置くのではない。わたしを彼の傍に、彼をわたしの傍に。


 その為にここまでやって来た。わたしももう良い歳だ。今後のプロティヌス家の発展を願うのならここが生涯一度の正念場。


 だから、わたしの邪魔をするモノは全て真正面から打ち砕くッ!!




※※※※※※






 圧倒的、などと言う言葉では終わらない。


 完封、完全に封じるという言葉がこれほど似合う闘いもないだろう。いや、最早闘いにすらなっていなかった。




『しょ、勝者、マシュル・プロティヌス、クリスペア――』




 何故だ、何故敗けた。私は最高の筈だった。イベントをこなし、戦闘に長けたペアも居て。これは悪役を叩き潰す最高のイベントではなかったのか。


 混乱する頭で、全身が発する痛みの中で少女は必死に考える。何がいけなかったのか。どのルート分岐を間違えたのか。


 だからこそ彼女は気づけない。この世界をゲームと同じだと考えている彼女だからこそ、彼女のたゆまぬ努力と目指す道に対する情熱を理解できないからこそ彼女は答えにたどり着くことが出来ない。




「やったよマシュルッ!」


「当然です。私がこの鎧を纏って、何より親友である貴女がいて敗北なんてありえません」


「マシュルやっぱ愛してるッ!!」


「ちょっ、だから抱き付くなここ公式の場ッ!!」




 剣闘祭決勝戦を終え、優勝の決まった彼女たちに近づいていく司会。


 今回の大会について一言、とマイクを渡されたマシュルは、興奮しっぱなしのクリスを嗜めると一呼吸おいて口を開いた。




『……ご紹介いただきました、マシュル・プロティヌスです。皆さま、本日はお日柄も良く、いい戦技日和であると――』


「マシュル、それ違う違うっ!」


『え? あ!?』




 マシュルの慌てた様子に観客席からクスクスという笑い声が響く。だが、それは彼女を嘲笑うようなものではなく、伝説の戦乙女の如き戦いをもって皆を魅了した少女の意外な一面を微笑ましいと思うからこその笑いだった。




『……こほん。プロティヌス家初代当主である騎士プロティヌスは、平民出の騎士でありながら、この剣闘会を優勝し、一代で今の地位まで駆け上がりました。そしてわたしもまた、こうして先祖と同じ場に立っている。これほど嬉しいことはありません』




 こうしてこの場に立てることに感謝を、胸に手を当て彼女は言う。




『今回こそわたしたちがこうして優勝することができましたが、次に相対したときに勝利できるとは限らない。わたしたちが戦ってきた者たちは皆、鍛練の果てにある何かを求める誇り高き者たちでした。共に戦えて本当に感謝しています。ありがとうッ!』




 胸がカッと熱くなる。自分がわりと熱せられやすい性格だと自覚し、普段はそれを制御しようと努力しているのだが、優勝の栄誉、夢を果たせるという達成感がマシュルのストッパーを破壊する。




『わたしには夢があり、戦ってきた皆、この場に居る全員が、きっと自分だけの夢を持っていると思います。わたしの夢は、あまりにも無謀で、あまりにも大きな覚悟が必要な物ですっ。ですがっ、私は諦めないッ! ただ一心にそれだけを求めてきたッ! そのために日々鍛錬し続けてきたッ!! だからこそ皆に言いたい』




――筋肉は絶対に裏切らないッ!!




『たとえ夢破れようとも、たとえ志半ばで果てようとも、そこに行きつく為に行ってきた鍛錬は絶対に血となり肉となるッ!! 鍛えられた筋肉は絶対に助けてくれるッ!! だから、諦めるなッ! 前を向き、前へ進めッ!! プロティヌス家家訓を、この場に居る全ての方にッ!!』




――そして、




「マシュル・プロティヌスはこの場の全員に、そしてヴァルキュリアにプロティヌス家の名を賭けて誓いますッ! わたしは、専属執事であるイアンを生涯全てを賭けて愛し続けるとッ!!」




 マイクを投げ捨てマシュルが叫び、最高潮に高まっていた会場が静まり返る。




「――はっ!? ちょっとマシュル!? いまここでそれ言う!?」


「五年間ッ!! 五年間この時を、この瞬間を待ち続けてきたッ!! この瞬間を夢見てきたッ!! 最早躊躇などいらないッ!! もう一度言おうッ!! イアンッ!! わたしはッ、あなたのことがだいすきだぁあああああッッ!!」




 鍛えられた腹筋が横隔膜を収束させ肺の中の空気が声帯を揺らし咆哮へと変える。腹の底、胸の奥、魂から沸き起こる彼女の叫びが木霊する。


 浜辺を打つ波のように静かに反響する叫び。彼女の声が虚空に消え、シンと静まり返った会場に、微かな音が響き渡る。


 一つの拍手は二つに、二つは三つに、そしてたくさんの音は声と口笛に彩られた大合唱に変化する。


 周囲から聞こえてくる彼女の恋を応援する声に、マシュルは頬を朱に染めて口元を両手で覆うと、大きく頭を下げてそのまま控え室に走り去るのであった。






※※※※※※※※






「にゃぁあああッ!?」




 その日の夜。プロティヌス家の一室、マシュル・プロティヌス自室のベッドの上で、一匹の猫が布団を被って叫んでいた。




「あ、ああああっ!? にゃぁあああっ!?」




 叫びの主はマシュル。彼女は控え室に帰って服を着替えた時、ようやく自分が仕出かしたことに気が付いたらしく、後夜祭に出ることなく家に逃げ帰りそして自室に引きこもったのだ。


 かれこれ三時間以上も布団のなかで叫び、悶え苦しむマシュル。


 ついに夢を叶えた。でもやってしまったことはとても恥ずかしい。今まで築いてきた関係ならきっと――そう主張するマシュルと、反対に、強引な告白、これでは否定しづらい状況に追い込んでいる、嫌われたのではないか。告白を断られたらどうするんだと主張するマシュル同士が、彼女の頭の中で全力のキャットファイトを行っている状態であった。




「だ、大丈夫よおちつきなすいマシュル。わたしはつよいこおんなのこ!」




 明らかに落ち着けていないのだが、ようやく叫ぶことと悶えること以外を選択できるようになったマシュルは、とりあえず空腹を訴える腹を落ち着かせるべく亀のように布団から顔を出すと恐る恐るといった風にベッドから這い出ると、盗人のように抜き足差し足と扉に向かって近づいていく。




「お嬢様、よろしいですか?」


「はひぃっ!?」




 ノック音と声の主。マシュルの頭脳がその二種類の音を自分の専属執事の物であると瞬時に察知するより早く、稲妻となった信号が脊髄から放たれ彼女の身体は時が巻き戻るかのような素早いバックステップでベッドの上に。


 彼女の声を聞いて扉を開けたイアンは、その姿に思わず頬をひきつらせて言った。




「お嬢様、なんですかその格好は」


「ほ、ほら、ジャパニーズ正座スタイルよ。いつでも頭を下げる覚悟は出来てるわっ!」




 ベッドの上で変な座り方をして意味のわからないことを叫ぶ主の姿に困惑しつつ、イアンは手に持った皿をテーブルの上に置いた。




「お嬢様に何か、と奥様の命で」


「あ、あらそう……あ、ありがとう。い、いただこうかしらぁ!」




 普段通り振る舞おうとするが、マシュルはまるで筋トレ初めて三日目の筋肉痛でろくに動けなくなった人のように、プルプルガチガチと身体を動かして椅子に座る。


 意識しないようにしようとすればするほどイアンの顔を見、姿を意識してしまうマシュル。


 やっぱりイアンって格好良いよね、がっちりしてて本当に、と意識して彼の格好良さに更に彼を意識して緊張するという無限ループに陥っているマシュルは、とにかく一度冷静になろうと机の上に置かれた皿の上に乗った狐色のパンに手を伸ばし、勢いよくかぶり付いた。




「――んっ!?」




 ビクッと彼女の肩が震え、その動きが停止する。




「お、お嬢様? なにか悪いところでも」


「い、いえ……これ、貴方が?」




 震えるマシュルの問いにイアンは頷く。


 ガチガチの筋肉野郎と思われがちなイアンであったが、その実料理や裁縫などもできる万能人間である。もちろん、その技術はその道のプロと比べれば低いものであるが、一般的な平民の家庭を考えると十分なものである。


 そして、そんな彼が得意としている料理の一つが、このホットサンドウィッチだった。


 こんがりと焼けた外側の香ばしい味わいに、内側から溢れんばかりに押し寄せる甘い卵の味わい。


 マシュルは子供の頃からこの彼が作るたまごのホットサンドが好きで好きでしょうがなかった。


 夢中で食べ進めるマシュルの姿はまるで子供のようで、口元を卵で汚す姿に微笑みを浮かべて声をかけた。




「お嬢様」


「なに、いあ――んっ」




 ナプキンで口元を拭われ、それほどまでに夢中になっていた自分を自覚して耳を赤くして顔を伏せてしまうマシュル。


 そんな彼女のいじらしい姿に胸を掻き乱されつつ、イアンは部屋に入ってまず視界に入ったものに気がついた。




「お嬢様、あの人形をまだ使われているのですか?」


「え? あ、ええ。だってあれはイアンが初めてくれた宝物だもの。捨てるはずが無いじゃない」




 ちょっと待っててと彼に言って席を立つと、マシュルは枕元に置かれた小さな熊のぬいぐるみを手に取った。


 元々は値の張る代物だったのだろう。美しい毛並みは萎びてしまい、目や手などに当て布が施された熊のぬいぐるみ。これはイアンが初めてマシュルにくれた誕生日プレゼントであり、同時に彼女と彼の真意味での初めての思い出の品であった。




「覚えてる? 腕がとれたのを、貴方が直してくれたの」




 まだ彼に憧れていなかった時代、いくら平民からの贈り物であっても貰った以上は大切に扱う、そう決めたその日に不慮の事故で熊のぬいぐるみが壊れてしまったことがあった。


 それがなぜだかとても悲しくて、悔しくて、大泣きしていた彼女を見て、彼が熊のぬいぐるみを直してくれたのだ。


 幼かったマシュルには、みるみる内に熊を直すイアンの姿がまるで魔法使いのように見えていた。




「あれから七年。……思ってみればあのときからそうだったのかも。あ、そうだイアン! これみ、て?」




 気づけば彼が背後に居た。




「ん、どうした? 続けてくれよ」


「え、あ、うん……その、わたしもイアンみたいに頑張って直してみたの」




 微かな違和感に困惑しつつ、マシュルは言葉を続ける。


 つい先日布地に綻びが出来ていることを見つけたマシュルは、何時間もかけて熊の修理を行ったのだ。


 前世含めてこの方針仕事なんてしたことがなかったマシュルは当然のごとく大苦戦したのだが、なんとか修復に成功。指に何度も針を刺し、見映えも決してよくないため誰にも言わなかったのだが、これは密かな彼女の自慢であった。


 少し自慢気な彼女の姿に、彼の中で何かが切れた。




「お嬢様――」


「っ!?」




 彼女の天地が反転し、ベッドのスプリングが軋みをあげる。


 倒された? マシュルの頭が状況を理解するよりも早くイアンの身体が彼女の身体を押さえ込む。




「俺が平民、しかも傭兵団出身の筋金入りの奴ってことは知ってるよな?」




 そんなことはとうの昔に知っている。大人しく首を縦に振るマシュル。




「でも、お前はそんな俺の贈り物をこうしてずっと持ってるし、毎回毎回あれな格好で無邪気に近づいてくるし。で、今度は告白か」




 告白、と言われて身体が跳ねるのだが、上からのし掛かられてしまえば女性のマシュルに抜け出す術はない。




「あ、あの、イアン?」


「あの告白、本気なのか?」




 あれだけの観衆の中での告白、今後なにを言われるか分かったものではない。下手をしなくともどちらの立場も悪くなる可能性だって大いにある。




「……確かに卑怯だったけど、本気を疑われるとは思わなかった」




 あの数を前に告白なんて相手からすれば断ることを封じられているようなものであり、確かに逃げ道を封じたのは卑怯と言われても仕方がない。しかし、本気を疑われるなんて思っていなかったマシュルの目頭が熱くなる。




「あっ、その……すまん……」




 マシュルの表情が歪んだのを見て、自分も無粋な質問をしてしまったと思ったのだろう、バツの悪そうな顔をして目を逸らしてしまう。




「ううん、いい。本気かどうかなんて疑われるようなことをしたわたしが悪いし」


「いやちょっと待て、それは違う」




 そもそも、あれほどの人数の前での告白。そう、告白だ。平民と公爵、天と地ほどの差がある身分の者が恋をするなど到底許されることではない。


 下手をすれば拘束されることすらありえた状況での告白、その覚悟を見誤っていた自分が悪い。


 マシュルは彼の言葉を聞いて嬉しそうにはにかむと、そっと彼の首裏に手を回し彼の鉛色の瞳を見る。




「――わたしは、マシュル・プロティヌスは、貴方のことを愛しています。婚約を前提に、結婚してください」




 潤んだ深い海のような碧眼に呑まれそうになるイアン。二人の間に沈黙が訪れ、次に放たれたのは。




「――ぐくっ」




 イアンの堪えきれない笑い声であった。




「イアン?」


「ぐっ、くくくっ。反則だろそれは」


「ちょっ、なんで笑うの!?」




 わたしスゴい真面目だったんだけど、と憤慨するマシュルにイアンは謝罪しようとするのだが、どうしても言葉の端に笑いが混じってしまう。




「すまんすまん、いや、笑うつもりはないんだ。ないんだけどな」


「笑ってるじゃん! もうっ!」


「ですがお嬢様、今の言葉をもう一度思い出してください」




 もう一度思い出す? 首をかしげるマシュルであったが、イアンの言葉に素直にしたがってみることにした。




――わたしは、マシュル・プロティヌスは、貴方のことを愛しています。婚約を前提に、結婚してください。




 何もおかしいところはないじゃないか。キョトンとしたマシュルに、そこまで気づかないのかと笑みを深めつつイアンは言う。




「お嬢様、婚約と結婚、順番が逆じゃありませんか?」


「順番? ――あっ」




 婚約を前提に結婚してください。確かにおかしい。何をどう間違えたらこんなことになるのか。


 もっとスマートに事を運ぶ予定だったのに何をやっているんだろうか。真っ赤に湯だった頭では、もう何がなんだか分からなくなって首をすくめることしか出来ない。




「お嬢様――」


「ふ――ぁっ!?」




 頭の中が真っ白になる。今自分は何をされているのか。目の前にある肌色は何? 唇に感じるかさついた感触は――




「お嬢様、私は――お嬢様?」


「……ふぇ?」




 彼の行動が現実のものであると理解した彼女には、もう思考するだけの余裕が無かった。


 そもそも彼女の脳は筋肉ほど鍛えられていないと言うのに、昼間の大告白と今の告白で脳の情報処理能力を上回っている状態。そんな状態であんなことをされてしまえば脳が情報を処理しきれずに熱暴走してしまうのは仕方のないことと言えよう。


 ヴァルキュリアと呼ばれる美しき女性たる敬愛すべき主が、今自分の下で頬を染め潤んだ瞳で見上げている。


 再度結んだ理性の紐が物凄い力で引きちぎられる。


 プロティヌス家は代々脳筋の家系。元々脳筋のサラブレッドたるマシュルの師匠でもあるイアンが脳筋でないはずがなかった。




「マシュル、俺はお前のことが好きじゃなかった」


「――ぇ」




 告白に対する返事は、拒否。惚けていた彼女の身体を稲妻が打ち据える。




「ルムスは貴族社会に染まってるし、お前もくそったれな貴族共と全然変わらねぇ。昔のよしみで職貰ってたから文句は言わなかったが、正直お前らの立ち振舞いには何度か腹が立ってた」


「ぁ、う……」




 そうだ。彼と出会って間もない頃のプロティヌス家は現代の貴族と同じく、自分達こそが特権階級でありそれ以外は塵ほどにも思わない、そんな家だったのだ。元々は同じ平民であった筈なのに、なぜこうなってしまったのか。


 今は先祖のような、領民を守り、国を守る。誇り高き騎士としての一族を取り戻しつつあるとは言え、ほんの少し前までは貴族でしかなかったのだ。


 しかし、特権階級に生まれ、その生き方を遂行して何が悪いのか。貴族社会は陰謀に染まった世界であり、権力とずる賢さ、外道としての力もまた必要な世界。そんな世界で騎士を貫こうと言う方が間違えているとも言える。


 それでも彼女はそうあろうと考えた。あの日見た彼の背中に、逞しい後背筋のようになると。ただの貴族ではない、別の世界の日本という国から来た前世を持つ者として何ができるのか、そして憧れた男性と共にあるためには何が必要か。ただそれだけを考えて必死に頑張ってきた。だが、全ては後の祭り。




「――ぁ、の、ごめ、なさい」




 自然と涙が溢れ出し嗚咽が漏れる。ごめんなさいありがとう。たったそれだけの言葉すらも上手に言うことが出来ない。




「――だから、俺ってなに泣いてるんだ!? 俺なにか言った!?」


「――ぃって」




 その単語を発しようとするだけで口がわなめき涙が溢れる。




「きらい、って……」


「あっいや、それは違うっ! ちがくてだなっ!?」


「でもっ、きらいって……」




 大粒の涙を流すマシュルに、だぁああ、と頭を掻くイアン。


 娼婦や傭兵の相手をしたことはあれど、年頃の少女と接するような、それも告白なんてされたことがないイアンには、複雑な乙女心の理解なんて出来るはずもなかった。


 だから彼に残された道は実力行使のみであった。




「マシュルッ!!」




 先程のような啄むようなキスではない、相手の意思など関係ない貪るようなキス。唇を食み、逃さないと身体を押さえ込み唇を割って舌を口内に差し入れる。


 生まれて初めての経験に呼吸も許されない。混乱も恐れも全部吹き飛んだマシュルはただただ彼に蹂躙されるだけ。


 どれほど貪られていただろう。何時間もしていたようにも思えるし、もしかしたらほんの数秒の出来事だったのかもしれない。涎が零れ、口内から抜き取られた舌が透明な糸を引く。




「マシュル」


「――ぁっ」


「俺の子を孕んでくれっ!!」




 と、そこで彼は気づいた。


 あれ、おかしくね、と。気づけばもう全身から冷や汗を流し叫びながら今すぐ首を落としたくなった。


 違うのだ。自分がしたかったのは自分も好きですという告白であり、孕めなどというとんでもない言葉ではない。




「マシュルッ、これは――」


「――いいの?」


「へ?」




 マシュルの問いかけに気の抜けた声が漏れる。




「わたし、あなたのこどもを産んで、良いの?」


「……ああ。むしろ産んでもらいたくて堪らない」




 もうどうにでもなれ、と一周回って冷静になったイアンの言葉にマシュルの表情が完全に崩れた。




「――やったぁっ……」




 涙を溢れさせ鼻水を垂らしたくしゃくしゃの顔で彼女が笑う。その笑顔のなんと嬉しそうなことだろう。


 頬を緩めたイアンは涙を流すマシュルに唇を落とし――彼女の服に手をかけた。




「ふぇ? ――ちょっ、イアンっ!?」


「どうしたんだ?」


「どうしたって、な、なにやってるの!?」


「……もしかして、着たままの方が良かったか?」


「いやいやいやいや!?」




 ちょっと落ち着いて、と彼を手で制すのだが、彼の手は止まりそうになかった。




「今朝も裸だし寝る前なんてこんな透け透けのベビードールだし。なんだ? 誘ってんのか? 俺がどれだけ理性を保つのに苦労したと思ってんだ」


「いやそのそれはごめんなさいだけどちょっとまってっ!!」




 今日は顔が酷いしせめて顔を洗わせてほしい、今日はまだ身体を清めていない、と取って付けたような言い訳をしながら彼を止めようとしているマシュルだが、そもそも彼の身体を掴む手には一切の力が入っていないし、言い訳も今だけはダメと言っているだけで彼とそういうことをすることを一切拒絶していない。


 そんな状態では彼を止められるはずもなく、あわや服を脱がされる――瞬間、部屋の扉が爆発した。




「ィイアンンンッッ!!」


『お父様だんなさまッ!?』




 扉を蹴りやぶってきたのはマシュルの父、ルスム。


 何故か完全装備の彼は手に持った長剣をイアンに突き付けて吼えた。




「やらせはせんっ、やらせはせんぞっ!! 泣くところとキスまでは百億歩譲って許してやらんこともないがそれだけは許さんッ!!」


「ちっ、良いところだったのによぉ?」




 イアンがベッドから降りルムスと向き合う。一気に剣呑な雰囲気になった部屋のなかに、二人の声が響いた。




『表に出ろッ!!』




 言うや否や部屋を飛び出した二人。


 ほんの数秒後には爆発音が部屋と窓を揺らしだし、微かに罵倒するような怒鳴り声の応酬が聞こえてくる。


 ベッドから身を起こしたものの、事態に追い付けずに呆然としているマシュルを、扉から半分顔を出したミシュルが見つめて言った。




「残念だったわねぇ、最後まで初めてを捧げられなくて」


「お母様ッ!?」






 その後、再起動を果たしたマシュルと共にルムスをラブラブ合体必殺技で仕留めた二人は、改めて互いに告白をして無事に結ばれたのだという。




 また、この大告白事件のあとから平民と貴族の結婚が急増、戦技会の優勝者が告白すると必ず成功するというジンクスが生まれたり、結婚から十年と少し、マシュル・プロティヌスとイアン・プロティヌスの娘、アスル・プロティヌスが北から侵攻してきた、大魔王ダービルディーボ率いるビルダー軍団と、この地に眠るとされる伝説のプロテインをめぐっての大戦争を起こしたりするのだが、これはまた別の話である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

筋肉令嬢ビルドアップハイスクール 特撮仮面 @tokusatukamenn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ