きちんと洗いざらい吐かないと、ね


 馬車から降りる寸前、豪宇は香月に念を押してきた。

「お前がどうやって『紫丁香』と偽ってるか知らねぇから、ひとまず俺は梁を名乗るぞ。ただ、万が一必要であれば高も名乗る。でもそれは作戦に支障が出ねぇようにする為であって、お前の為じゃない。今回だけだかんな」

 香月は、豪宇が本気で『高』を捨てたのだと改めて思い知る。

 香月にとっての『呉』をはじめとする化粧師一族は、誇りであり大切にしたいもの以外の何物でもない。だからこそ尚更その言葉が胸に刺さった。

「すみません、後宮管理長にお取次ぎいただけないでしょうか」

 豪宇は後宮門の外側を張っている郎官にそう申し出る。

 郎官は「またか」というような表情でため息をつき、

「なんだ、宦官希望か?今は募集していないぞ」

と冷たく返した。

 庶民が高職に就くには、科挙に合格するか宦官になるかしか道が無い。こんな風に庶民の男性が後宮門を叩く時は、後者を希望するものがほとんどなのだろう。

 しかし豪宇は極めて冷静に、その言葉を否定した。

「いえ、私はご覧の通り『姜家』に連なる者で、求職の為に来たわけではございません」

 少し離れた場所に停めた馬車を指して豪宇がそう言うと、郎官はその手を辿り馬車の家紋を見て目を見開いた。

 豪宇の服装は特に豪奢では無いのに、馬車は如何にもな造りで尚且つ『姜家』を表す生姜の花の紋章が描かれている。

 老舗商家『姜』の名前の力はすごいなぁと香月は他人事のように感心した。

「無断で女官を連れ出した件について、謝罪に参りました。後宮管理長へ、お取次ぎをお願いします」

 改めて豪宇がそう願うと、郎官はようやく香月を目にして事態の深刻さに気づいたようだ。

「…少し離れて待て」

 侵入等の警戒の為か離れるよう言われたので、二人は素直に馬車の方へと戻った。

 郎官は重厚な門を開け、内側の郎官と何やらやり取りをしているようだ。昨晩香月が姿を消した件は、何処まで広まっているだろうか。

「ねぇ豪宇。正直、正面から無事に帰れるとは思えないんだけど」

「…まぁそこは俺とお前の演技次第だろ。いいか、話合わせろよ。失敗したら俺だって姜さんだって、タダじゃ済まねぇんだからな」

 香月は頷きながら、ここで後宮管理長を呼ぶのは確かに正しい判断だったなと思案する。もちろん流儀的にはそれが真っ当なので豪宇の選択は当たり前なのだが、如何せん今は『紫丁香』の姿なので、水晶などを呼ばれてしまうと少し面倒ではあった。

 その点、後宮管理長であれば手解き役であることも理解されやすいだろうし、俊熙まで引き合わせてくれる可能性が高い。

 ただ一つ不安があるとすれば、後宮管理長が少し『曲者』らしい、というある点だけである。

「来たぞ」

 豪宇がボソリと放った声に、香月は後宮門を見遣る。背が高くスラリとした体格の宦官が門から出てきた所だった。

「行くぞ」

 豪宇の合図で掛け出すと、その宦官の眼前に迫るや否や豪宇は勢い良く地面に額を押し付けた。

 合わせろと言われていた香月もその勢いのまま平伏する。

「……紫丁香、ね」

 静かな声が頭上で聞こえる。

 姿を見たことは何度かあるが、声を聞くのは初めてだ。これが、後宮管理長・朱芳馨(しゅほうきょう)の声。

「昨晩姿を消したと聞いていたけれど…これはどういう了見かしら?」

 ……曲者とは噂で聞いていたが、なるほどこんな感じか。宦官の中にはまるで女性のようになってしまう者もいるようで、こういった話し方をする宦官は珍しくはない、らしい。ただ香月はまだ後宮に来て一年の為、実際に出会うのは初めてであった。

 香月は色んな人が居るなと思いながら言葉を返す。

「芳馨さま、ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」

「どうかお許しください、育ての親の危篤でした、申し訳ございません!」

 被せるように、豪宇も額を地面に付けながらそう謝罪する。

「……アナタは?」

「は、梁豪宇と申します。丁香の従兄にあたります」

 芳馨はしばらく無言になってから、一度大きなため息をついた。

「どうやって後宮から出たのかしら」

「私が、丁香に抜け出すよう指示しました。西門の方に少し低い石壁があるので、そこを使って」

「何故許可を得ず?」

「一刻を争っていました。私の母、丁香の育ての親の危篤です。丁香は許可証を得に行くと言っていましたが、その時間も惜しかったので無理に…」

「はぁ…それで、そんな勝手な規律違反をしておいて、よくのこのこと戻って来れたわね、紫丁香?」

「…は、い…申し訳ございません」

 よくもまぁそんな無茶な出鱈目を、とハラハラしていたが、矛先が突然自分に向いて香月の声が上擦る。

 後宮では無許可の外出は禁止されている。規律違反は官位剥奪、追放。もしそれが駆け落ちだった場合は処刑という重罪だ。と言っても、無許可外出は戻る気のない覚悟のいる選択の為、こんな風にわざわざ正面から出戻った例は未だかつて無いだろう。

 凡例外の為、どこかに逃げ道があれば良いが。

 ――正直言えば、荒事ではあるがいっそそのまま人質にとってくれた方が、香月の今後の後宮生活においては有難い話だった。しかしそれでは最終的に姜家が危険となる。

 つまり、ここで香月も踏ん張るしかないということだ。

「処分はお受けします。ただ!私は、主のお役に立ちたい、その気持ちだけで後宮に参りました。それ以外の邪心などは一切ございません。これからも一生、主をお守りする覚悟です。どうか…それだけは信じてくださいませ…!」

 必死ではあるが、嘘はひとつもついていない。

 またしばらく無言のあと、芳馨はぽつりと呟いた。

「まぁ、それは話には聞いているわ」

 その言葉に香月は平伏しながらも首を傾げた。『紫丁香』は俊熙の作った偽造身分の筈、末端の末端であるのでどこでそんな話を聞いたというのか。

「で、ご母堂様はどうなされたの?」

「はい、無事一命を取り留めました」

「それは何よりでしたわね」

 香月が思案する間も、会話が進んでいく。

「梁豪宇、と言ったかしら。姜家の家紋のようだけど」

「は、姜商家の執務役をしております」

 え、そうだったのか。流れる会話が耳に入って思わず思考を止めた。

 子豪の小間使いかと思っていたが、どうやら姜商家の中でもきちんとした役割を担っていたらしいことに香月は驚いた。

「なるほど、身分は確実なもののようね」

「はい、姜家に問い合わせ頂いても構いません。ただ、今回の事は姜商家とは関わりのない事でございますので、それだけはご高配いただきたく…」

「ああ、わかったわ、もう結構よ」

 いくつか会話ののち、芳馨は今回の件をどうするか決定したようだった。ドキリと、緊張で香月の心臓が大きく鳴る。

「紫丁香、とりあえず中に入りなさい。ここでずっとそうしてられても困るのよ。梁殿、また追って沙汰を出しますから今日の所はお帰りになって。姜殿によろしくお伝えくださいね」

 その言葉に思わず豪宇と目を見合わせ、上手くいったという安堵から笑みが出る。

 もう一度平伏を深めてお礼を言うと、豪宇は颯爽と馬車を走らせ去っていった。


 香月は後宮門をくぐると、ついてこいと言う芳馨の後を静かについていく。てっきり後宮の管理室へ連れて行かれるかと思っていたが、向かうのは東宮の方だ。もしかすると『手解き役』ということから、紫丁香の身元管理は東宮側になっているのかもしれない。

 つまり、俊熙と引き合わせて貰えるかもしれない、ということ。

 大きな安堵が胸に広がり、思わず深いため息が出た。すると、前を歩いていた芳馨がちらりと振り向いた。

「呉香月、あの者は高洪宇で間違いないかしら」

 その台詞に心臓が止まるかと思うくらい驚く。

 後宮管理長ならば『紫丁香=呉香月』ということを承知している可能性は確かにあったが、『梁豪宇=高洪宇』だとはっきり言われるとは思ってもいなかった。

 驚きで何も言えずにいると、芳馨はまた前を向いて歩き出した。慌ててそれについていく。

「驚かなくていいわ、アナタが呉家である事の裏付けをとったのはワタシよ。親戚まわりのあれこれは、申し訳ないけど把握させて貰ってるわ」

 その話になるほどと納得する。確かに、太燿に以前香月のことを調べたと言われたことがあった。どうやら女官の身辺調査も管理長の仕事だったらしい。

「それにしても……」

 香月がふむふむと納得していると、芳馨は意味深にその言葉を切った。

「俊熙が今朝言っていたのよ、姜商家の者の出入りが怪しいって」

 俊熙という名前と、姜商家の名前に、香月の心臓がまたもや鳴る。

 俊熙を呼び捨てにしていることももちろん驚きだが、姜商家が怪しい、と?

「アナタがこうして戻ってこなかったら、拉致の疑いで今晩にでも姜家に出向く予定だったのよねぇ」

 事態は思った以上にギリギリだったらしい。

 別に香月が悪事を働いた訳でもないのに、背中には冷たい汗が流れた気がした。

 芳馨は今一度立ち止まり、今度は身体ごと香月を振り返る。

「きちんと洗いざらい吐かないと、ね」

 その顔は、笑っているのに目が笑っていない。とても綺麗でまるで女性のような顔立ちをしているのに反し、瞳の奥には鋭い光が宿っていて、本能で『ただの役持ち宦官』でないことだけはわかった。

「うちの俊熙の賢さ、忘れた訳じゃないでしょう?」

 芳馨の立つ向こう側には、東宮門の前で仁王立ちしている俊熙の姿が見えた。


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