ただ平穏に過ごしたいだけなんです


 いや何でこうなった。

 桔梗殿の応接間で、香月は何故か皇太子の右腕と向かい合っていた。あろう事か豪奢な椅子に腰掛けて、だ。

 右には主である梦瑶が座っていて、楽しそうに向かい合った皇太子と歓談している。そっと皇太子・太耀の顔を窺うが、こちらもそこそこ楽しそうに梦瑶の話に耳を傾けているようだった。

 なるほど主人が言っていた通り、太耀はとても整った顔をしていた。肩より下まで伸びた黒髪は、おそらく正装の際には綺麗に結わえるのだろうが、今はただ下ろした状態でありその艶やかさは目を見張るものがある。きっと櫛の通りも良いのだろう、一体どんな高級な香油を使っているのか。

 肌もハリがありキメの細さが少し離れていてもわかる。歳は確か十六かそこらだったはず。この年代は出来物をこさえる青年が多いが、そんな苦悩とは無縁そうだ。

 召し物もさすが皇太子だけあって上等である。希少な絹に金色の糸で細かく刺繍されたそれは、窓から入る光を浴びてキラキラしていた。

「…おい」

 職業柄、上から下までじっくり観察しまくっていた香月は、向かい側からの堅い声でハッと意識を取り戻す。いけない、今のは不躾だった。不敬過ぎる。

 冷や汗を首筋に感じながら向かい側を見ると、皇太子の右腕・俊煕が鋭い目で香月を見ていた。

「見すぎだろう」

「申し訳ございません、思わず」

「先程は太耀様のご尊顔に興味は無いと高々だったが、やはりお前もその辺の宮女と同じか」

「……」

 いや、自分の不敬さには気付いていたからそう言われてしまうのもわかる、わかるが…この人、高圧的過ぎません?一般女官より身分は当然上だとは思うが、こう、馬鹿にした感じが透けて見えているのが無性に腹立たしい。

「いやー、俺も視線感じるなとは思ってたんだけど」

 妙な空気になった所を飄々とした声で太耀が割り込んできて、少しだけ香月の溜飲が下がる。

「俺、あんな風に言われたの初めてだったから新鮮でさ」

 あまり皇太子然としない話し方の太耀に、何と返せば失礼がないのか、香月は少し戸惑った。助けを求めるように右を見遣れば、梦瑶がニコニコとそれを受け、変わりに会話を拾ってくれる。

「殿下、こちら呉香月と言って、わたくしの自慢の女官なんですのよ」

「…お初にお目にかかります」

 主人による紹介から、香月は椅子に座ったまま上半身だけ平伏の態度をとった。本来ならば主人と並んで椅子に座るなど、ましてや皇太子と同じ椅子に座るなど以ての外なのだが、梦瑶の強い要望によりこんなことになってしまっている。水晶が急務で席を外しているせいで、今は香月が水晶の代わりのように振る舞わなくてはならず、重圧に押し潰されそうである。まだ梦瑶妃付きになって一年なのだが…。

「ああ、堅いの嫌いだから、平伏解いて」

 太耀がカラリとそう言うので、おずおずと腕を下ろす。やはり先程の失言に怒っている(というか根に持っている)のは俊煕だけで、太耀も梦瑶もあまり気にしていないようだった。

「実は香月、化粧師なんですのよ」

「…化粧師?」

 太耀が少し驚いた様子なのは、ただの後宮女官には似つかわしくない職名だったからだろう。

「この結髪も、化粧も、着付けも、全部彼女がしてくれたのですわ」

 この国には、ひと握りだけだが化粧師・造形師という職に就く者がいた。国を挙げての式典や儀式の際に呼ばれ、皇帝や皇后、妃達の支度をするのである。

「香月の支度は、特別なんですの。なんだかわたくしが特別になれる気がして、自信に溢れることが出来るのです」

 梦瑶は化粧師が言われて一番嬉しい台詞を、心の底から言ってくれている。自分の仕事で主人がそう思ってくれているということが堪らなく嬉しく、香月は照れたように梦瑶に笑顔を向ける。

「…へぇ、そうなんだ」

 しかしそんなほんわかな空気をかき消すかのように、太耀の声色が何か含んだようなものになる。

 思わず太耀を見遣ると、口は笑っているのに目は品定めしているかのような底知れない色になっていて、香月はびくりと肩を揺らした。およそ十六歳とは思えぬ眼力に、この方が時期皇帝候補なのだと思い知らされる。

「殿下、怖がらせていますよ」

「ん、ああ、ごめんごめん」

 俊煕の呆れたような指摘に、ふっと空気を緩めた太耀がカラリと笑った。威圧感が一気になくなり、香月はほっと胸を撫で下ろす。

「まぁ殿下、香月はあげませんわよ」

「えー、くれないの?」

「いくら殿下のお願いでも、ダメですわ」

 梦瑶は先程の空気感に気付いているのかいないのか、いつもの調子で太耀と軽口を叩きあっている。

「それと、香月は何故か化粧師という職を隠してるみたいですから、他の方にはしーっ、ですわよ」

 人差し指を口元にあててそう言った梦瑶に、香月は目を見開いた。気付かれていたとは思わなかった。

「そうなの?なんで?」

 純粋な疑問からか、太耀が問う。先程梦瑶からも同じような指摘をされたような。

「…私はただ、平穏に過ごしたいだけなんです」

 香月は苦笑しながら答える。

「やはり珍しい職ですし、特に後宮だと…利用されやすい技術、ですから」

 後宮は妃と妃が、皇帝の寵愛を奪い合う世界である。そしてそんな妃に仕える宮女たちも、自分の主人が一番になるようにと、水面下で牽制し合うような場所なのだ。少し特殊な知識と技術は、その分特定妃を有利にしてしまう。

「…わたくしが我儘を言ってしまったからですわ」

 少し声音を堅くさせて、梦瑶がそう呟いた。

「それは違います、姫さま!私は私の意思で、姫さまの化粧師で居るのです!」

 そう、これは本音だった。どん底だった香月を救ったのは、梦瑶の無邪気さと清廉さだった。だから、香月はここに居るのである。

「香月…」

 梦瑶は少し目を潤ませて、香月を見ていた。

 と、そこへ、急務で席を外していた水晶が扉をノックして部屋に入ってくる。

「大変失礼いたしました、お茶のおかわりもお持ちしました」

 茶器を伴って入ってきた水晶と入れ替わるようにして、これ幸いと香月は席を立ち慇懃に礼をして、サッサと部屋を退出したのだった。


 危ない、あまり目立たないようにしなければ。

 皇太子とその右腕とお近づきになったと知れたら、どんなことが起きるかわかったものではない。まだ妃付きになって一年なのに、最高位女官の水晶と同じ立ち位置で居るわけにはいかないのだ。

 香月は周りに人がいないことを確かめながら、急いでその場を去る。――去ろうとした。

「待て」

 去ろうとしたのだが、堅い声と同時に右手首を掴まれ、物理的にそれを阻止される。

 振り返ると先程まで向かい合わせに座っていた俊煕だ。

「な、何の御用でしょう」

 宦官とはいえこんな顔の整った男性と二人で居る所なんて絶対誰にも見られたくない。思わず早口になる香月に、気にした風もなく俊煕はゆっくりと言葉を紡いだ。

「呉香月。君に頼みたいことがある」

 そう言うと俊煕は少し畏まったように居住まいを正し――爆弾を投下した。

「太耀様の、手解き役になってくれないだろうか」

「…はァァ?」

 思わず地の底を這うみたいな声が出てしまったことは許して欲しい。

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