猫の神様

無秋

第1話 始まりに意思はなくて

 最初はただ静寂に包まれていた。ほんの少しというには程遠い距離をヒックは旅してきだが、その旅程のほとんどは同じことの繰り返しだったので、それほど苦ではなかった。元いた場所から考えれば、この場所はとてつもなく寒くはあるが、それは想定内のこと。幸いにして隕石や宇宙デブリに遭遇することもなく地球へと近づくことはできた。しかし、問題はそこからだった。目の前に立ちはだかるは大気圏。ヒックの移動してきた距離から見ればほんのわずかな空気の層、薄皮一枚といっても過言ではないその空間。しかしてそれがヒックの旅程の中では最も過酷なものだった。シミュレートしていたものより何割も増している抵抗、そしてそれに伴う熱気。直前までの寒さが一気に消し飛び、窓から見える景色は圧縮された分子で真っ赤に染まる。

無理をしてでも減速用の燃料を多めに積んでおくべきだった。

ヒックがこの旅程で唯一といっていい後悔を抱き始めた頃、加熱が収まり機体の制御可能な大気密度まで高度が下がった。ヒックは機体の姿勢バランスをわざと崩し、空気抵抗を上げて減速させる。減速できているのかできていないのか、計器はどうやら大気圏突入時におしゃかになったようでまったくわからない。しかしそれでも、置き去りにしていた音が機体の挙動に追いつくようになったので、音速以下に落ち着いただろうとヒックは判断を下す。

 そこから先が博打なんだよな、とため息を零したりもするが。

 上から見たら茶色い部分と青い部分、後は緑に分かれていた地球だが、今ヒックの目に映っているのはほとんど青のみだった。どんどんと青が近づいてくる。そして頃合を見てパラシュートを開くためのレバーを引いた。一拍の間を置いて、鈍い音と共に機体後部からパラシュートが飛び出す。あまりに緊張していたヒックはその一拍の間で予備のパラシュートまで開きかけていたが、一つ目が正常に作動した事を理解し、予備のパラシュート用レバーから手を離す。同時に襲ってきた急制動の圧力は容易にヒックを押しつぶそうとした。

ぐへぇと情けない声をもらしながら、急制動に堪え、速度が落ち着いたと感じた頃には既に水面が目の前まで迫っていた。

 あぁ、これが海か。

 初めて見る水面に見とれていたヒックは着水の衝撃に備え損なった。高く水しぶきを上げる水の反動に、再度ぐへぇと声を漏らし、ヒックの意識は途切れてしまった。


 *


 腰の深さまで海水に体を浸けて、少女は立ち止まった。

あと数歩で一気に海が深くなるその場所で、少女は空を見上げている。空に何かが見えた気がしたのだ。再度目をこらして見ると、晴天の空に点在する雲と雲の合間に、小さな点が見えた。鳥にしては位置がおかしい。あれほど上空を舞う鳥を少女は見たことがない。

 最初は小さな点だったそれは見る間に大きさを変え、ほんの数秒で黒いその全容を少女の瞳に写した。黒い大きな塊に、背後に線を引いて布の幕が広がっている。

 落下してきているのでは、と少女が考える頃にはもう遅く、黒い塊は少女の目と鼻の先に着水した。

 着水と同時に高い波が立つ。少女は全身に海水を浴びるが、それでも一度も目を離さず、それこそ瞬きすらせずにその黒い金属の塊を見つめていた。

 こういった場合どうすればいいのか、少女に判断は付かない。村の大人達はおろか、両親も少女にそんなこと教えてくれなかった。こんな場合を想定しろというのも酷な話ではあるのだけれど。ともあれ、少女は黒い塊が立てた波が収まり、その異様な物体が海水に浮いているのを確認すると、あまり考えもせずにそれに近づいていった。

 足が着かない場所に落ちたので、少女はぎこちない動きで泳いで近づく。表面に触れてみると、その黒い塊はとても熱かった。ずっと火に晒されていたような高温。しかしそれも海水で徐々に冷やされていっている。

 先細りの円錐形をしたその黒い塊は、底面から頂点までが少女の身長三つ分ほどはあった。少女は周囲を観察して、横倒しに浮かんでいるその黒い円錐の側面に取っ手のようなものが付いていることに気づいた。

 立ち泳ぎをするのも辛くなってきたと感じ始めていた少女はその取っ手を掴む。そのまま黒い円錐によじ登ろうとして体重をかけると、横向きだった取っ手は縦方向に回った。がこんと鈍い音を立てて、取っ手ごと側面の一部が大きく手前に開く。そして、黒い円錐の中にある空間を少女は見た。

 透明な板、光る球体、動物の皮とも絹とも違う薄い布状のもの。どれも少女が見たことのないものばかりである。しかし黒い円錐の内部において少女の目を引いたのは、生まれて初めて見たそれらではなく、唯一見たことのあるものだった。ものと言うか生き物。

 一匹の猫がその中にいた。

 黒毛にグレーの線が入っているその猫は、目を閉じたままで動こうとしない。怪我をしているのだろう、その体にはいくつかの赤い染みができていた。

 少女はしばしその猫を見つめていた。生きているのか死んでいるのかも曖昧な猫だったが、一度だけ耳がぴくりと動くのを見た。

「・・・。」

 さてどうしたものかと悩んでいると、開いた側面から海水が黒い円錐の内部に浸水し始めた。

 反射的に少女は中へと手を伸ばし、丸まっている猫を掴むと黒い円錐の内部から引きずり出す。引きずり出して再度思案。

 少女は猫を服の中にしまい、溺れないように気を付けながら浜へと引き返す。幸か不幸か、誰も見ている者はいなかった。

 

 *


 やけに眩しくて暖かい光が目を照らしている。

 しばらく気を失っていた猫が最初に感じたのはそんな感覚だった。目を開くと橙色の光が遠くに見え、体が布の上に横たえられているのがわかった。猫は四肢を動かそうとしたが、痛みが走ったのでやめておいた。しかし痛むということはまだ死んではいないのだろう。そう結論付けて、猫は慎重に体を動かし始めた。

 ゆっくりと時間を掛けて頭を起こす。見渡すと、四方を木材で囲まれた空間にヒックはいた。

「どこだここ」

 ぼそりと言葉を呟くがそれはとても擦れた音がした。酷く喉が渇いているのだ。

 猫にとっては独り言だったのだが、予想外にもその呟きには返事が返ってきた。

「私の家だよ」

 と声が聞こえた。

 足元の布がするりと動くと、その中から少女が現れた。猫は驚いて飛びのこうとして、体が満足に動かせないことを痛みと共に思い出した。

「気分はどうかな猫さん」

 猫さんと呼ばれたヒックは体をこわばらせるのみだ。というか、それしかできない。あとできることといえば喋ることくらいである。なので、猫は取りあえず会話を試みる。

「あんたは女神さまかい?」

 問われた少女は重そうにしていた瞼をぱちりと開いて笑った。

「私が神様に見えるかしら」

「話に聞いてた神様と似た形をしてるよ。ぼくの知ってる神様は人間ってやつにそっくりなんだ。あんたが神様だと話が早いんだけど」

「なになに、猫さんは神様を探してるの?」

「そうだよ。厳密に言うなら、神様というよりは創造主だけれど」

 猫の言葉に少女は首を傾げた。

「そうぞ・・・?」

「創造主だよ。世界の作り手さ、僕達のね」

 猫の説明を受けても少女はいまいち納得できていないらしく、「ふーん」と気のない返事をする。

「まあ悪いけど私はどちらも違うわ。ただの人間よ」

 まるで自嘲するように言う少女だが、猫にはその微妙な表情の変化はわからなかった。

「へえ、人間か。生きてる人間は初めて見たよ」

「人間を見たことないなんて、猫さんは山奥にでもいたの」

「もっと遠くだよ」

「海の向こう側ってこと?」

「いや、空の向こう側ってこと」

「意味わかんない」

 少女は体を起こす。水分の少ない髪の毛には藁がいくつも絡まっていた。それを一つ一つ落としながら、少女は思い出したように猫に言う。

「ああでもそうか、猫さんは空から降ってきたものね。雲の上にでも住んでいたのかしら」

 そうだったら素敵ねと少女は嘯く。しかし少女はその言葉とは裏腹に、そんなことは微塵も信じていないようだった。

猫は困ったように考え込む。説明する分には問題ないのだが、何と説明していいやらわからないからだ。とりあえず思いついた辺りから訊いてみることにした。

「大気圏って知ってる?」

「知らないわ」

 即答。

「惑星という言葉に聞き覚えは?」

「ないわね」

 これも即答。

「宇宙船とか人工衛星とか宇宙開発なんてのはーー」

「猫の言葉って難しいのね」

「だよね」

 猫は苦笑いする。猫は、どうやら知識のレベルにおいて自分と少女では結構な差があるらしい、ということに遅まきならがら気付いた。空の先にある世界を少女は知らない。そしてそのことを猫もようやく理解した。

「まあ雲の上から降りてきたってことにしておくよ」

 猫としては、一応嘘は言っていない。真実が遥か彼方にあるだけなのだから。

 自分の言っていたことと同じ答えになったなと思いながら、少女は猫の言葉をあまり真に受けずに、「へー、そうなの」とだけ返事した。そして猫から目線を外し、膨らみ広がっていた髪の毛を髪紐で無理やり一つにまとめる。

「今から少しお手伝いに行かなきゃいけないのだけれど、猫さんはどうする?」

「どうすると言われても、僕はこのとおり動けないからね。じっとしてるよ。・・・えっと、してていいかな?」

「いいわよ。また後でお話をしましょう、猫さん」

 少女は眠たそうな目のままひらひらと猫に手を振る。

猫はそういえばと思い至って、部屋から出ようとした少女に声を掛けた。

「ヒックだよ」

「・・・?」

 不意に掛けられた言葉に少女は首を傾げる。

「ぼくの名前。ヒックっていうんだ」

 猫の言葉にまた、少女の瞳は大きく開いた。

「へえ、名前があるのね。私はツカサよ」

「よろしくツカサ」

「ええ、よろしくヒック。潮村にようこそ」

 猫と少女――ヒックとツカサは挨拶を交わした。


 *


 ツカサが家から一歩外に出ると、浜の辺りに大人たちが数人集まっているのが見えた。顔ぶれからすると、主に漁を生業としている人たちの集まりである。ここ数日、彼らはよく浜に集まっては意見を交わしていた。誰かの家にでも集まればいいことなのだが、海を糧としている彼らにとっては、海と船の見える浜にいた方が落ち着いて話ができるようだ。

 ツカサの家は漁師たちの住む浜辺からは少し離れた丘の中腹にあり、鋸の歯にも似た入り組んだ浜辺を見渡すことができる。そこからツカサは漁師たちが集まるのをよく見ていた。

猟師たちは年に数回、ああやって浜辺に集まっては意見や報告を交わしている。大体は季節の変わり目だが、稀に海に異変が起きたときも同様に浜に集まるのだ。ここ数日の集まりは後者の方だ。そしてそれが何なのかは漁師でないツカサも知っていた。

海に出れない時の漁師は気が立っている。生きる場所を半分海上に移しているのだから詮無いことではあるが、だからとて、とばっちりを受けては適わないとツカサは浜から大きく迂回する道を歩き始めた。

しばらく歩くと見慣れた民家がツカサの視界に入ってくる。広い畑と羊を放牧する土地を持っている潮村の中でも裕福層に当たる家だ。ツカサの家とは比べ物にならない程の大きさの平屋には、キリクという少女が住んでいる。ツカサと年の近い少女ではあるが、ツカサは別にキリクと遊びに来たわけではない。ツカサはこの家に手伝いをしに来ているのだ。

「ーー。」

 ツカサガ戸を叩くと、中からキリクの母が出てきた。ツカサを一瞥すると、無言のまま敷地の隅に繋がれた羊達を指差した。今日は羊の毛を刈れということだ。

「・・・わかりました」

 ツカサは肯いて羊の元へ向かう。ツカサの返事が言い終わる前に、家の戸はわざとらしく音を立てて閉められた。キリクの母が取った態度はいつものことだ。キリクの家で手伝いをするようになってから、毎日同じような接し方をツカサはされている。

 文句は言わない。言える立場ではないことをツカサは重々承知しているからだ。特に今日は、輪を掛けてというものだ。

 それに、ツカサはそれで気分を害したりはしない。ただ申し訳なく思うのみだ。

 父親と二人暮らしだったツカサは、父がいなくなってからずっとキリクの家族による庇護を受けている。毎日手伝いを行い、一日分の食料を分けてもらう。米と野菜、日によっては魚も付く。ツカサ一人で食べるには充分な量だ。一日の大半がキリクの家で手伝いをして終わるが、それもツカサにとっては決して重労働というものではない。その上、実際のところはツカサが手伝いを行わなくてもキリクの家は困りはしない。キリクの家には働き者の家族が何人もおり、その誰を取ってもツカサに劣る者はいないのだから。

 つまり、ツカサは手伝いという体裁を与えてもらい、生活の糧を施してもらっている立場なのだ。キリクの母もぞんざいな態度を取ってはいるが、決して理不尽な扱いをするわけではない。ツカサは食べるのに困ったこともなければ労働の苦しさに心折れたこともない。

 だからこそ、それをツカサは申し訳なく思うのだ。いる必要のない自分のために役割をもたせてもらっていることに引け目を感じる。もちろん、だからといって、己のプライドのためにそれを突っぱねるような無謀もツカサの中にはない。情けなくとも生きて行くにはそうするしかないのだから。

 いっそ逃げ出したくなるほど辛い労働や扱いを与えてくれたらと、そんな風に考えることもある。その度に贅沢な悩みだなとツカサは自嘲するのだが。

 太陽が真上に位置する頃には、ツカサは与えられた仕事をやり終えた。一日の労働としてはまだまだ少ない。ツカサは追加の指示を仰ぎに母屋へと向かう。出てきたのはキリクの母ではなく年の離れた兄だった。ツカサは与えられた仕事を終えた旨を伝える。

「おや、もう終わったのか。なら次の仕事はーーと言いたいところだけど、実のところ今日は特にやることがないんだよ」

 キリクの兄はキリクの母とは違い柔和な態度でツカサに言う。しかしその言葉の歯切れがいつもより悪い。

「ほら、まあ現状色々あるからさ」

「そうですか、では今日はこれで」

「ああ、ちょっと待って」

 去ろうとしたツカサをキリクの兄は引き留める。

「今日の食料渡してないだろ。取ってくるから待っててくれ」

「いえ、でも」

 時間と内容、どちらを取っても大した労働ではなかった。流石にこれで食料を分け与えてもらうのは忍びないとツカサは逡巡する。

 そんなツカサの態度を見て、キリクの兄は笑って言う。

「働いた時間は短くても労働は労働だ。対価がなければ我が家の沽券に関わる。それに、仕事をしようが休もうが、お腹は減るものだろ」

「それはまあ、そうですが」

「だろ。いつもどおりに渡すから、いつもどおり受け取ってくれ」

「・・・ありがとうございます」

 ツカサの礼を聞き、キリクの兄は母屋の中へとって返し、直ぐに食料を持ってきた。一日分の米と野菜、それに干した肉も付けて。

 もらいすぎだとツカサは思ったが、どう言ってもキリクの兄は渡してくるだろう。押し問答をするのも相手の好意に悪いと判断し、何も言わずにツカサは食料を受け取った。

「また明日、いつもの時間に来ます。明日があれば」

「ああ、わかった」

 挨拶を交わしツカサは家に戻った。

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