このラブコメはフィクションです。
ポトフ一郎
第1話
序章
→という体裁の痛々しい独り言。
『どこにでもいる平凡な○○』って物語の始まり方が昔から嫌いだった。凡人な主人公がひょんなことから高嶺の花と付き合い始めるラブコメが始まったり、世界の命運をかけた壮大な冒険譚が始まったり。もはやある種のテンプレートと化したその謳い文句を見るたび、俺はまたかと冷めた気分になってしまう。
何故なら凡人には作品のように劇的な物語など待ち受けている筈もないからだ。勿論生きていればそれなりに苦労することはある。所謂人生の節目とやらも経験するだろう。一度くらいなら多分恋人もできる。仮にできなくても独りの楽しみ方とやらも段々と見に付いてくることだろう。
さて、ここで問題。これら凡人の1場面――過程――は果たして『物語』と呼ぶに相応しいものだろうか?事実であれ嘘であれその物語は胸をときめかせるだけの救いがあるだろうか?答えはどちらも否である。何故なら物語とは夢が詰まっていなくてはならないからだ。希望がなくてはならないからだ。救いがあって然るべきだからからだ。だから人はそれが虚構と知っていてなお『誰かの物語』を好んで貪るのである。需要と供給という言葉ではなく『物語』として。人がありもしないものをそう呼ぶ訳を考えれば、如何に現実とやらが退屈で虚しいものかは推して図るべしだろう。
だから俺は『どこにでもいる平凡な○○』という常套句が心底嫌いなのだ。まるで『凡人でも主人公になれる』と無神経に言われているようで。まあ話が面白ければそれでも読み進めてしまう性分ではあるのだから、その矛盾が自分でも時折腹立たしくなるのだけれど。
じゃあ見るなよ、というメタい発言なぞ知らん。
ま、つまり何が言いたいかと言うとーーー
「凡人に、ドラマなんてある訳ないだろ?」
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