無気力少女は眠れない
夢見茅
第1話
今から話すのは僕が中学2年生の夏休みの話。
僕は父さんと母さん、歳が1つ下の妹の4人で旅行に行った。
旅行と言っても海外みたいにお金がかかるものじゃなくて、車で行けるちょっとした温泉街だ。
「お父さん!早く早く!」
妹が母さんの手を引き走り出そうとするが重量の差でただその場でぴょんぴょんと跳ね回り、車から荷物を下ろしていた父さんを急かす。
「落ち着きなさい、温泉は逃げないから」
「そうよ、
2人から注意を受け渋々といった感じで跳ねるのをやめる。しかし、楽しみで仕方がないと言わんばかりに母さんと繋いだ手を前後に揺らし満面の笑みを輝かせていた。
「はーい。お兄ちゃんも早く起きて!着いたよ!」
車酔いで眠っておりまだ後部座席でウトウトとしていた僕を見つけた妹は僕に駆け寄り、有り余った元気を照らして目を覚まさせようと試みた。
「うぅん。あと10分だけ」
眠たい目を擦り体を捩らせる。
「だーめ!コーヒー牛乳が待ってるよ!」
「それは舞里が飲みたいだけでしょ?」
妹はコーヒー牛乳が大好きだ。家の冷蔵庫には必ず雪印のコーヒー牛乳が常備されている。妹が言うには「お風呂上がりのコーヒー牛乳はかくべつ!」なのだそうだ。
「
「眠いんだからしょうがないの」
僕は生来、人より睡眠時間を多く必要とする。普通は六から八時間程度だが僕は十二時間寝なければ眠気が取れない。今回の場合は車酔いも合わさりより酷いことになっている。
しかし家族旅行を台無しにしたくないと、元より楽しみだった温泉に思いを馳せ無理やり目を開けた。
「ほらほら、喋ってないで行くわよ」
温泉が大好きだった僕と父さん。
風呂上がりに飲むコーヒー牛乳が楽しみでよく近くの銭湯に行ったものだ。
温泉街を一通り散策し、旅館に到着した僕達は荷物を置き一目散に温泉に向かった。
浴場はとても広くゆったりと入ることが出来た。露天風呂から見える深緑の山々や川で遊ぶ子供たちを眺め一息つき、ささやかな幸せを噛みしめつつ温泉を後にした。浴衣に着替えると扇風機の風を火照った体に浴びせ冷ましていく。
すると妹が駆け寄り、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。卓球しようよ!負けたらコーヒー牛乳奢りで!」
「嫌だよ、僕が運動出来ないの知ってるでしょ。父さんに頼んだら?最近、運動不足って言ってたし」
「お父さんはお酒飲んじゃったから駄目だよ」
父さんの方を見遣ると温泉から出るや否や部屋に備え付けの冷蔵庫からビール瓶を取り出しグラスを傾けて顔を赤くしていた。
「じゃあ母さんは?」
「お母さんは強いから嫌」
「我が儘言わない」
「いいでしょ?ね?」
両手を顔の前で合わせ、上目遣いで僕を見つめる。
「はあ・・・。少しだけだよ?」
「やった!ありがと、お兄ちゃん!」
卓球が終わり再度温泉に浸かり、美味しいご飯を食べた。
父さんが飲みすぎて母さんに怒られたハプニングがあったがそれも良い思い出になったと思う。
とても楽しい旅行だった。
こんな幸せが続けば良かったのにな。
今思い返せば、そんな事を考えてしまう。
帰り道、高速道路を走っているとあろう事か反対車線からトラックが突っ込んできたんだ。
気が付くと目前にはトラックが迫っていた。
「舞里、危ない!」
僕は妹に被さるようにして伏せた。
そこで僕の意識は途絶えた。
微睡みの中、目を覚ますと白い部屋に白いベッド、そこは病院だった。
横には心配そうに身を乗り出して顔を覗き込む妹がいた。
「お兄ちゃん大丈夫!?痛い所ない!?今、お医者さん呼ぶからね!」
目を覚ました僕に気づき、咄嗟に椅子から立ち上がりナースコールを押す。
「げほっ、げほっ。大丈夫だよ、心配かけたね?」
喉が乾いていて上手く喋れず咳き込んでしまう。
僕は自分の声がやけに高い事に気づくが、入ってきた医師らしき人に意識が向く。
「
「特には無い、ですね。少し怠いくらいです」
体を起こし、布団から出ている両腕を確かめる。少し日焼けしていたはずだが今は真っ白になっており、細く小さくなっている気がする。
「そうですか。えっと、ですね。少々言いづらいのですがまだ、お気付きになっていらっしゃらないようですね」
医者が気まずそうな顔をする。
「実際にご覧になった方が早いですね。鏡をお持ちしましたのでご自分の姿を確認なさって下さい」
若干の怠さを抱えながら医者が持ってきた姿見を見た。
衝撃が走る。
何も考えられなかった。
ただただ、鏡を眺めていた。
肩まで伸びたサラサラの髪。
不安げにこちらを見つめる一重の目に、ぷっくりとした綺麗な桃色の唇。
背は低いが胸には大きく膨らみがある。
そこには10人中10人が美少女だと言うだろう女の子がいた。
「え?嘘、ですよね?なん、で僕、男、なのに」
「落ち着いて下さい。これからきちんと説明致しますので」
医師は僕が事故に遭ったこと。
両親が亡くなったこと。
妹を庇って意識不明の重体になったこと。
偶然、病院に自殺して出血多量で脳死した女の子がいたこと。
駆けつけた爺ちゃんがその子の両親を説得して脳移植をしたこと。
僕の身体はもう火葬を済まして納骨もしてあること。
それを聞いた途端、涙が溢れ出だした。
女の子になった事もそうだけど、父さんと母さんが死んでしまったことが悲しかった。
その後から記憶が曖昧だ。
女の子の身体に慣れるため看護婦に色々教えて貰ったこと、舞里と爺ちゃんと婆ちゃんが見舞いに来たことは、ぼんやり憶えているけど後はさっぱりだった。
いつ退院したかも分からなかった。
気が付いたら爺ちゃんの家に引き取られることになっていた。
僕には10畳間の和室が与えられた。
いつの間にか家にあった本が本棚ごと移動されていて、その部屋に布団を敷き、引き篭もった。
引き篭もったと言ってもご飯は食べに居間に行くし、トイレにも行く。
だけど、学校には行かなかった。
行く気になれなかった。
怖いんだ。どんな反応をされるかなからないから。
男がいきなり女の子になったんだ。
気持ち悪がられるかも知れないし、男共が元男だということをいいことに良くないことを仕出かすかも知れない。
実際は無いだろうけど、断言出来ない。
それが怖かった。
そんな僕を爺ちゃんも婆ちゃんも優しく見守ってくれた。
そのせいもあったんだろう。
1年経っても僕は学校に行くことは無かった。
たまに舞里と出掛けることはあったけど自分からは外に出なかった。
ただ、爺ちゃんに言われて勉強だけはしっかりやった。
爺ちゃんは教職に就いてるらしい。
そのお陰で妹に教えられるくらいには頭は良かった。
中学校の卒業式が近くなったある日のこと。
爺ちゃんに話があると言われて居間に行った。
「瑠里。お前が学校に行きたくないのは分かる。だがな、高校くらいは出ておいた方が良いと思うんだ。このご時世学歴がものを言う。最終学歴が中学卒業だと何をするにも困難が付き纏うだろう。だから俺が理事をしている高校に入らないか?ある程度は融通が効くし、何かあっても直ぐに対処出来る。悪い話じゃないはずだ。少し考えてみてくれ」
そう言って仕事に行ってしまった。
「お兄ちゃん、どうするの?」
盗み聞きをしていた妹が不安そうに半開きの襖から顔を覗かせる。
「聞いてたんだ。学校は行かなくていいの?」
「今日は土曜日だから休みだよ」
「ああ、そっか。そうだったね」
曜日の間隔なんて、ない。当たり前だ毎日が夏休みなんだから。
襖を閉め、炬燵に入る。
「それでどうするの?高校、行くの?」
「どうしよっかな。義務教育じゃないからね」
「お兄ちゃんはそろそろ人に慣れるべきだとわたしは思うよ。この前出掛けた時も男の人が近くを通るだけで足が震えてたでしょ?」
────い
「あれは寒かったからで・・・」
「あれだけ重ね着して?マスクに帽子までして?」
────さい
「うっ・・・。でも」
「でもじゃない!わたしは心配なの。これからもずっと一緒に居られる訳じゃないんだよ?お兄ちゃんが1人でも暮らせるくらいには人に慣れていて欲しいの」
「──るさい」
「え?」
両手で机を叩き付ける。突然の大きな音に妹は目を見開いて驚いた。いや、違うだろう。驚いたのは僕の顔を見たからかも知れない。
それくらい僕は顔を歪めていた。
「煩い!煩い!煩い!分かってるよそんなこと!いつまでもこの家には居れないことだって分かってるんだよ!でも、それでも怖いんだよ!舞里にはわからないだろうね、人の視線を感じる度にその目が僕を気持ち悪いって、化け物がって言うんだ!・・・僕の勘違いだって頭では分かってる。けど体の震えが止まらないんだ。乱暴されるんじゃないかって。こんなに女の子が弱いなんて知らなかった。嫌なんだよ、これ以上失うのは。もう、嫌なんだ・・・」
──やってしまった。
あろうことか妹に当たってしまうなんて。
違うんだ、妹は悪くない。
悪いのは僕だ。
一歩を踏み出す勇気のない、臆病者だ。
耐えられなくなった僕は顔を伏せ目を逸らす。
「・・・そっか」
びくり、体が震える。
「ごめんね、気が付かなくて。そんなに思い悩んでたなんて、知らなかった。ううん、知らなかったなんて言い訳だよね。わたし、お兄ちゃんのこと全然知ろうとしてなかった。いつも、わたしを守ってくれて我儘を聞いてくれて、飄々としててなんでも上手くこなせるお兄ちゃん、そう決めつけてた。わたし、駄目な家族だね。お兄ちゃんがずっと辛い思いをしてるのに、心配してる傍らで『お兄ちゃんのことだからどうせ、直ぐに慣れるから大丈夫』なんて思ってた。わたし最低だ、許してなんて言えるわけないよね。ごめんね、ごめんね」
違う、舞里は悪くない。
やめてくれ、僕が、僕がしっかりしていれば良かったことなのに。なのになんで。
鼻をぐずぐずにして泣いている妹。
僕を思って、泣いてくれる妹。
嫌だ、僕の前から居なくならないで。
ずっとそばに居て。
僕を置いて、いかないで。
僕は顔を上げる。
そこには泣いていても僕からは絶対に目を離さない、強い目をした妹の姿があった。
目頭が熱くなる。凍りついていた心が溶けてゆくようだった。
僕は大馬鹿者だ。両親が亡くなった今、守るべきはずの妹に守られ慰められ、終いには逆ギレして泣かせるなんてお兄ちゃん失格だ。
「舞里・・・」
「ごめんね。わたし、もう構わないから」
「舞里、僕は・・・」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんのペースがあるんだもんね」
「舞里っ!・・・話を聞いてくれ」
びくり、と震える妹。
「僕は人が怖い。近づいてもし嫌われたら、気味悪がられたら、そんなことを考えてしまう。・・・でも舞里は情けない僕を見捨てずに守ってくれた。一緒に居てくれた。だから、舞里」
今までは守られていた。
「う、うん」
すぐには無理かもしれないけど、
「舞里はこれからもずっと僕と一緒に居てくれる?」
前みたいに守ってあげれるお兄ちゃんになるから。
「うん・・・!勿論だよ、お兄ちゃん!」
だから、もう少しだけ、
「その言葉、信じるよ」
一人で歩けるようになるまで、
「うん!」
隣にいて欲しい。
「僕、学校に行くことにする」
雨に濡れた蕾が花開く。満開の笑顔は僕にとっての希望だ。もう、絶対に失いたくない。だから手放さない。
「うん、うん!じゃあ、入試に向けて勉強しなきゃね!制服ならわたしのを使ってね!少し大きいだろうけど、男子制服よりマシだと思うから!」
「ありがとうね、舞里」
一年ぶりくらいの笑顔は少しぎこちなかったけどそれでも、僕は一歩を踏み出した。
「うん、一緒に頑張ろうね!」
こうして僕の高校生活が始まろうとしていた。
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