第68話 階段

 お世話になっている自転車店『エンシェント・バレー』に入店して、直ぐに店主のシゲさんに声をかける。

 早く息子さんの形見のロードバイクを返却しないと!


「シゲさん! このロードバイクーー」

「どうだった? 前のより乗り心地が良かっただろう?」


 シゲさんは私の話を遮ってロードバイクの感想を聞いてきた。


「そういう事ではないです。形見なんでしょう、息子さんの」


 ふーっ。シゲさんがため息をついた後、隣に座る様に促す。

 私はロードバイクをスタンドにかけて、隣に座った。


「誰に聞いた?」

「峠の頂上で北見さんに聞きました」

「そうか、それは良かった」


 嬉しそうに笑うシゲさん……話がかみ合わず困惑する。

 シゲさんが喜んでいる理由は、私が峠まで走りに行った事だとは思うけど……

 困惑して黙る私を見て、シゲさんが話を続ける。


「俺が何で喜んでいるのか分からないのかい?」

「私が帰宅しないで峠まで走りに行ったからですか?」

「正解だ。楽しんでもらえたのなら、貸した意味があったってもんだ」

「どうして私に貸してくれたのですか? 他の店に行ったことがない私ですら、代車が嘘だって事くらい気づきますよ」

「嘘じゃないさ。本当に代車だ。まぁ、普段やってないから、特別対応ではあるけどな」

「何で特別対応を?」

「もったいねぇよな」


 シゲさんが一息ついた後、ロードバイクを眺めながら、しみじみと言った。

 亡くなった息子さんを思い出しているのだろう。

 でも、どうしてお客さんの中の一人でしかない私に特別対応をするのだ?


「何が勿体ないのですか?」

「中杉さんが走る事を止めてしまう事だよ」

「私が走る事?」

「そうだ、愛車を大切にしてた奴が止めるのはもたいねぇ。どれだけ大切にしていたか分かるさ。安価なアルミフレームだけど、綺麗に清掃して使ってたよな。走る度にメンテナンスしてなきゃ、あんなに良いコンディションは維持出来ないさ」

「愛車なんだから普通じゃないのですか?」

「そんな事はないさ。手間だから自分では清掃しないし、チェーンの注油すらしなかったりする人も結構いるのさ。最後は調子が悪くなったからって、新しいカーボンフレームに乗せ換えてポイってな。だけどな、中杉さんのフレームは違う。レース機材としての寿命を全うしたんだよ」

「それでも私のミスで壊したのです」

「だから、コイツが必要だと思った。だから咄嗟に代車とか言って渡した」

「今の話にどう繋がるのですか? 全く分からないのですが」


 私のメンテナンスの話から、息子さんのロードバイクを代車として貸し出した話にどの様につながるのか分からない。


「そいつの前の持ち主もね……同じだったのさ。乗りたいって言うから16才の誕生日にプレゼントしたのさ。高校生に高級なカーボンフレームは贅沢だと思ってな、適当に選んだアルミバイクをな。何が楽しいのか毎日磨きながら愛車を眺めていたな。自分でメンテナンスもしてね。でも、レースで落車してフレームが折れてしまってね。アイツも中杉さんみたいに悲しんだけどな、そいつに乗って乗り越えたんだ」


 シゲさんが息子の形見のロードバイクを指差す。

 彼はどういう心境で乗り越えたのだろう?

 乗り続ければ分かるのか?


「会った事がない中杉さんは知らないだろうけどな、見た目も性格も違うのに、ロードバイクとの関わり方が似てるのさ。もしもアイツが生きてたら、俺と同じで中杉さんに貸してたと思う。だから預かっていてくれ。まだ迷っているのだろう?」

「迷ってますね……」

「なら決心がつくまでで良いさ。ここで止めるにも、続けるにも、考えるのに時間が必要だろう」

「分かりました。ありがたく使わせて頂きます。負け続けの私には似合わないかもしれないですけど……」

「Stairs to victoryか……俺はなぁ、勝利への階段じゃなくてな、人生の階段を地道に上がって欲しかったんだよ。負けてもいいんだよ。生きて楽しく続けられるなら……」


 シゲさんが立ち上がり、ロードバイクに刻まれた階段状の傷を指でなぞる。

 人生の階段か……シゲさんは息子さんの成長が楽しみだったのだろうな。

 負けてもいいか……生きて楽しく続けられるなら。

 プロではないのだ。勝ち負けよりも大切な事がある。

 それを忘れて私は愛車を失った。

 どうしても同じ失敗をするのではと心配してしまう。

 迷いは晴れない、それでもシゲさんの想いを受けて、少しだけ気持ちの変化を感じた。

 もう一度、考えてみよう。

 走る理由を!


「心に留めておきます。今日は有難う御座いました」

「気を付けてな」

「はい」


 私はシゲさんに手を振り、帰路についた。

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