第10話「花瓶」

 ゴールデンウィークが明けてから春斗の日常はやたら忙しくなった。大学の講義に加えてバイトが急に忙しくなったのだ。原因は勿論分かっていた。女子高生がゴールデンウィーク中は殆ど毎日出勤していたが為に春斗の出番は後に追いやられていた、といったところ。バイト先のコンビニでは春斗は完全に都合合わせに使われているのであった。

 そうして利用される春斗、だが春斗としては何一つ文句は言えなかった。おかげでゴールデンウィークは休み尽くしだったのだから。

 そんな日々の忙しさに撃たれ打たれ討たれかけた春斗であったがどうにか土曜日の朝から昼にかけてのバイトを乗り切る事でようやく休みを手に入れる事が出来たのである。

 特に理由もなくそんな愚痴を昨夜携帯電話のメールで冬子に送ったところ、バイトが終わった後の昼にコンビニに集合という事になり、春斗はバイトを終えてすぐ、冬子を待ちながらコンビニでマンガ雑誌を立ち読みするのであった。

 普段から読む程の時間もなく、大抵の作品が分からない、幼い頃にはアニメで観ていた看板タイトルももう何年も追っていなくて最新話は主人公が出て来なくて主人公の仲間のひとりしか分からないという有り様。

 そんな春斗はいつ読んでも大丈夫そうなギャグ漫画を開き、軽く読んで行く。登場人物たちのセリフが声となり頭の中にて響く言葉がそのネタを春斗に魅せつける。頭の中で読んだ文字が声となり流れ出す人とそうでない人がいるのだというが春斗はどうして違いが現れるのか気にはなっていたがその事を詳しく調べようとも思えなかった。

 そのマンガを読み終えるや否や雑誌を棚に置いて後はただひたすら窓の外を眺めて待つだけ。

 それから10分近くが過ぎたその時、見覚えのある車が駐車場へと入って来たのだ。そして車は止まり、背の低い女が運転席から降りてきた。

 女はそのままコンビニへと足を踏み入れる。

「よっ、春斗。元気してたか」

「もちろんだよ」

 近くで見れば分かる事、冬子の目付きは相変わらず悪く、目のクマはより濃くなり疲れている様子であった。そんな冬子に春斗は優しい言葉をかけずにはいられなかった。

「冬子疲れてない? あんまり無理はしないで」

 冬子は無理やり笑顔を作る。

「いいんだ、今夜はちゃんと寝るから。秋男のアホが酒飲んで電話越しに喚いてたからな」

ーああ、それはー

 春斗の想いはただ可哀想、それだけであった。

 冬子はコーヒーを買ってコンビニを出ると、春斗を助手席に乗せて車を走らせた。



 そこはある大きな神社の境内に並ぶ様々な店のひとつ、鯛茶漬けの店。

 狭い店にひと組の男女が入るのは完全に誤解を生むであろう。春斗としては誤解が本当になれば、嘘から出た誠から始まる恋愛生活が出来るのに。そんな願望を抱いていたが、それはあまりにも見え透いた幻想。春斗は世界を背負った主人公でもなければ恋愛映画の主演でもないのだ。そのくらいの事は理解していた。きっと、今隣りにいる君はいつかどこかへ消えて行くのだから。そんな事を思いながら淡い色をした鯛の刺し身が乗った茶漬けに箸をつける。食べ始めると虚しい想いはどこかへと飛んで行き、そして想うのであった。これが美味なのだと。

 茶漬けの店を出た後は車で移動して都会の駅の近隣の商店街を歩いて行く。

 そこは都会だという割には寂れた商店街。閉店したのか昼だというのにシャッターのしまった店が何軒かあり、活気はいまいち。

 そんな中、春斗はある店の入り口に置いてあるテーブルに目を向ける。テーブルには様々な陶器や磁器が置いてあり、春斗には詳しくは分からなかったが、その中でもある花瓶が気になっていた。白くて素人目にはとくに特徴があるとも言えないその花瓶。しかし春斗はどうしてもそれに目が向いてしまう。春斗は冬子を呼び花瓶を指すも、冬子は花瓶から目を背ける。特に理由はないがなぜだか目を背けたくなるそうだ。春斗に関しても特に理由があるわけでもないがなぜか目を向けたくなる。

 そして春斗は花瓶を手に取り中で立っている60手前ほどと思しき女性に声をかけるのであった。

「これ下さい」

「はい、3000円です」

 春斗は財布を取り出すのであった。



 日暮れの空の下、冬子は春斗の家の前にて車を止める。

「春斗、今日は楽しかった」

「俺も楽しかったよ」

 冬子は不器用な笑みを浮かべて別れの挨拶をするのであった。

「また今度な」

 去って行く車を眺めながら春斗は思うのであった。

ーまた今度、かぁ。また会えるんだねー

 それはやはり嬉しく、その日が楽しみであった。気が付けば冬子と話す事に慣れていた春斗。確かに秋男の言う通り話しやすい人物だ。

 車が見えなくなった後、春斗は家へと帰る。

 ロフトのついた狭いワンルームのアパート、そこに置いているテーブルの上に花瓶を置いて、晩ごはんを食べる。昼が豪華であった分、夜は質素に。晩ごはんを1人寂しく食べ終えたあとは新聞を手に取る。窓を眺めるとそこは既に闇に包まれていた。

 新聞を読む時、人間の味も香りも感じられない淡々とした文章を読む時はその文章を自分の声で読んでいるように再生されるが、今日はその声に雑音のようなものが混ざっていた。そんな事は初めてであったが特に気にする事もなく読み進めていく。初めは雑音だと思っていたが、頭の中で流れる自身の声から1拍遅れて流れてくるもう1つの自身の声。そう、それは異様であった。恐怖であった。

 黙読する時に脳内に響く自分の声を追いかけるようにまた響く自分の声。明らかに他人が言っている感覚。それはやまびこのようだがやまびこであるはずもない。

 何が原因か、何がきっかけか。

 春斗は目を新聞から花瓶へとズラす。その花瓶は白く、飾られている花は冬子と一緒に選んだ桃色の可愛らしいもの。洒落っ気ひとつない春斗の部屋を彩る唯一の鮮やかさ。

 その向こうに見知らぬ女性の姿を見た。女性を見て感じた異様な気配、それは間違いなく断末魔の残り香。

ー誰だ?ー

 1拍置いて流れる春斗の声。

『誰だ?』

「誰だ?」

 なんと、その声と共に女が苦しそうな声で同じ言葉を放っていた。

 危機感に頭を揺らされた春斗は即座に立ち上がる。

 頭に広がる嫌な感覚、恐怖による支配。この世で最も単純な感情は記号のような分かりやすさで易々と心に刻みつけられる。

 女が手を伸ばすと共に春斗は駆け出しドアを開いた。

 逃げる春斗を追う女、それを見て足をもつれさせながらも走る春斗、恨めしい感情を向ける女、アパートを出て更に逃げるべく道路に出た途端、春斗の目の端に鋭い光が迫り来る。

 車だ、そう気が付いた春斗は向こう側へと飛び込むも、時は既に遅し。

 迫る車はブレーキを踏むも間に合わず、春斗の脚を身体全体で殴り飛ばす。

 春斗は大きな痛みと共に身体を飛ばされ転がって身を赤く染めるのであった。



「って事があったのかバカなのか春斗さんよぉ」

「やめろ、春斗もひとりで霊に会って大変だったんだ」

 白い部屋では迷惑な程に大きな声で笑う秋男とそれを窘める冬子。

 冬子は春斗に頭を下げた。

「ごめんな、私が気付いてあげられたらもっとどうにかなったかも知れないんだが」

「そんな気にしなくていいよ。冬子と秋男が見舞いに来てくれるだけで助かってる」

 春斗は白い部屋、病室にて脚も動かせずにベッドに寝転がっていた。

 あの夜、車にぶつかった事で全治2ヶ月の脚の怪我を負ったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る