マイルドヤンキーで凸凹な彼女と離れ離れになるまでの30日間
Cigale
一日目
深夜でもセミが鳴く蒸し暑い夏の闇をアテもなく
午前三時半。僕はいつものように自室を出て、団地の自転車置き場へ向かう。イオンで買った一番安いママチャリが僕の愛機だ。ガチャン、と音を立てて開錠される。この音が僕は好きだ。自由の音って感じで。
その時、背後の階段から足音が聞こえた。
僕は緊張しながら後ろを振り向く。
そこにはジャージにTシャツ、クロックスという典型的なマイルドヤンキーファッションをした若い女性が立っていた。
僕は、彼女の姿を見るなり緊張が解けた。脱色した髪といくつもピアスをつけた耳という近寄りがたい要素だらけだったが、僕にはもはや見慣れたものだった。
「お」
「あ」
そんな言葉になってない、挨拶ともつかぬ反応を互いにした。
彼女は自分のママチャリの鍵を開けて、「行こうぜ」と言う。
僕は「うん」と返した。
待ち合わせをしたわけではない。だが実に当たり前のように、僕らは二人連れ立って団地を飛びだした。
自転車を走らせると、形容しがたい夏の匂いが胸に満ちていく。それは昼に焼けたアスファルトの残り香だったり、朝露に濡れていく草木の匂いだったりする。あるいは、ときどきすれ違う自動車の排気ガスでもある。空は濃紺で、全てが群青に染まっていた。肌を流れる風は心地よい温かさと触感で、天使の羽で抱かれているようだ。虫の音が鳴るなか、遠くのトラックの音が響いていた。
……夏だ。
味覚以外の五感全てが、僕に夏を伝えてくれた。
「なー、少し腹減ってこねー?」
情感に浸る僕におかまいなしに、彼女は食欲を訴えた。
「この辺は昔から食べるところないの、知ってるでしょ。今の時間でもやっているとなるともっと限られる」
「あ、でもファミレスはやだ。夜料金ウザいから」
高速道路の下を潜ると、少しばかり畑が多くなる。
こういう国道沿いの大型店舗って少し休憩しようと思ったら、眼鏡屋だったり自動車ディーラーだったりするんだけど、そういうときのガッカリ感は半端ない。
だが幸いなことに左手にハンバーガーショップが見えてきた。
「ここにする?」「うん」という二つ返事で、僕らはお店の駐輪場に自転車を止めた。
自動ドアが開かると、心地よい冷気が僕らを包み込む。僕らは注文を済ませて、一階の席に着いた。朝方に飲むコーヒーは、どうしてこんなに美味しいのだろう。
「バイト、クビになった」
唐突に彼女が切り出した。僕はまたか、と思いながら「なんで?」と聞き返す。
「お菓子を折りコンの中に入れて運んだら、台車が横に倒れて全部ぶちまけた」
僕が聞かされた彼女の仕事でのやらかしはもう、両手の指を自乗しても足りないくらいだった。
そんなことを駄弁りながら、二十分くらい過ぎたときのことだった。
「ねえお姉さん。アップルパイ忘れたの、そっちのミスでしょ。ナニ開き直ってんの?」
ブロースカットと茶髪のガラの悪そうな二人組が、レジのお姉さんに絡んでいた。しかもどちらも若者というには苦しく、中年に片足突っ込みかけてそうな外見なのが痛々しい。
「これはお詫びとして、負けてくれなきゃ割りに合わないなあ。え? ちょっと聞いてんのかって――おぐぅふ」
茶髪は珍妙なうめき声をあげて黙り込んだ。
いつの間にか彼女が立ち上がり、手刀で茶髪の喉を跳ね上げたからだ。
僕は自分と彼女の荷物を引っ掴み、慌てて彼女の手首を引っ張った。ブロースカットが何か喚いたが、僕は一切振り向くことなく入口へ駆け込み、駐輪場へと走った。鍵を解いて必死にペダルを漕いだ。逃げる原因をつくった当の彼女は、僕よりも早く自転車を駆った。……
海岸通りを爆走して限界になった僕は、浜辺に自転車を停めて、砂の上にへたり込んだ。潮風が生温くて、少し気持ち悪い。
「相変わらず全然体力ねーな」
肩で息をする僕に、平然とした態度でそう言った。そこには「自分のせいでこんなことになって申し訳ない」という反省が欠片も感じられなかった。
僕の胸中に怒りは湧いてこなかった。今日みたいなことは彼女と知り合ってから、数えきれないほどあった。いい加減、悟りの境地というわけだ。
彼女はけして、正義感からこういうことをするわけではない。
単に自分にとって楽しいかウザいか。彼女の判断基準は、竹を割ったようにはっきりしている。はっきりし過ぎていて、地元の人間からはハブられている。
「あっ、見ろよ! 太陽がすげーキレイだぜ!」
彼女が声を弾ませて言った。僕は顔をあげる。
日の出だった。
水平線から太陽が昇ってきて、海を黄金の光で染め上げていた。
「……うん」
曖昧な返事を僕はした。
海に近い街に住んではいるけれど、浜辺で日の出を見るのは小学生のとき以来だ。まだ生きていた父親が元旦に車を出してくれて、母と僕と、そして彼女と彼女の母親を、この浜辺へ連れて行ってくれたっけ。
「勉強難しいか?」
彼女が突然訊いてきた。彼女はこのように、頻繁に話が跳ぶ。
「う、うん」
「大変だもんな。市役所の職員になるのって。倍率高いし」
「……うん」
「でも受かったら、ずっとここにいられるよな? な?」
彼女が、妙に上擦った声でそう訊く。それはまるで、親に何かを嘆願する。
「……ああ、そうだね」
「だから、その時はアタシと…」
そこまで言いかけて、彼女は言葉を泊めて「いや、何でもない」と顔をそっぽ向けた。その顔が赤くなっていたのは、朝焼けによるものだけでないことがわからないほど、僕も疎くはない。
「……」
胸の中が、罪悪感に満ちていく。
二週間前。僕がブラックなバイトを辞めてフラフラの状態で実家に帰ってきた日――僕は、彼女に嘘をついた。
この市の職員の採用試験を受けると、彼女に言ってしまったのだ。
本当は、東京の大学院を受験すると決めてあるのだ。もし合格できたら、学費の捻出のためのバイトと研究でいっぱいいっぱいになり、地元へもそうそう帰って来なくなるだろう。
……僕は、彼女との生温い関係が壊れることを恐れて、余りにも残酷な嘘をついてしまった。
「嘘」がバレて、彼女と離れ離れになるまで――あと二十九日。
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