第44話 サービス

 八月に入るといよいよ甲子園への出発が近付いてくる。

 国立がなんとかお願いしたのは、甲子園という舞台には、とんでもない化け物が時々でてくるための、選手たちの心の準備である。

「というわけで、プロでも大学生でもありませんが、日本最高クラスのピッチャーに来てもらいました」

「まあ、最近はかなり鈍ってますけど」

 佐藤直史召喚である。


 プロに行かなかった名選手、というのはそこそこいる。

 甲子園で魅せた守備の野手や、大学でもエースとして投げて一般企業に入ったり、またオリンピックを夢見てプロには進まなかったなど、色々な理由でプロに進まなかった人間はいるのだ。

 その中で誰が一番か、というのはもちろん答えは出せない質問である。

 だが世間の声を拾うなら、直史が一番と今なら言われるだろう。

 そしてその意見は、おそらく正しい。


 ユニフォームではなくジャージ姿の青年は、ちゃんとスパイクとグラブの準備はしてある。

「マジで大魔王だ」

「よく召喚されたなあ」

「監督、寿命の半分ぐらい使ったんじゃね?」

 一年生も含めて、遠慮のない物言いである。


 ピッチャーとして、白富東の先輩として、何よりプロに行かなかった、ほとんどのプロより優れたピッチャーとして。

 都市対抗の予選の試合を、見ていた者はそこそこいる。ただ同時期に県大会があったので、ベンチ入りメンバーには一人もリアルタイム視聴者はいなかったが。

 だが後から見たら、逆によく分かる。

 人間とは思えないピッチング。

 まるで映画撮影のように、リテイクを何度も繰り返したかのうような、完全な配球。

 悪魔に魂を売って、あの制球力を手に入れたというなら納得出来る。

 結局は他のピッチャーが打たれたため、当たり前だが本戦には進めなかったが。

 しかし格下相手とはいえ、大学時代を髣髴とさせるピッチングであった。


 あれが五月の話である。

 三ヶ月弱の間に、成長しているとは思わない。なにしろ既に、完成されていたからだ。

 そして弱体化していても、140km台後半のスピードと、様々なコントロールは健在である。

「ベンチ入りメンバー、一人10球まで。その後は休憩を入れて、心が折れなかった者には追加で投げてくれるそうだから」

 200球。

 バッティングピッチャーでも、それはないだろう。

 言葉通りに聞くなら、休みなしでそこまでは投げてくれるというのか。


 甲子園でも熱投200球とかいう記録はある。

 だがそれは、ちゃんと自軍の攻撃という、休みがあってこそだ。

 国立が本気で言っていて、それを訂正しないのだから、まさに白富東の佐藤は化け物か、という話になる。

「順番は早い者勝ちで」

「はい!」

 一番に手を上げたのは優也であった。




 映像では何度となく見た、生きた伝説。

 それと対戦したいという気持ちは、もちろん誰にでもあった。

 しかし同時に、そこからちゃんと学び取りたいと考えている者は、一番に手を上げることは出来ない。

 球筋が少しでも頭の中に入らないと、とても打てそうにないだろうと想像しているからだ。


 本質的にピッチャーで、バッティングはオラオラの優也だからこそ、一番に手を上げることが出来た。

 本能で察する悠木や、計算高い正志は、ある程度球筋を見た上で、加えてまだ球威が衰えていないであろう順番ぐらいに打ちたい。

「よし、じゃあ二番手以降は先に決めておこうか」

 そしてここで二番手に立候補し、じゃんけんなしで認められたのが潮であったりする。


 ポジションを言ってから、打席に入る。

 直史は最初の五球は、球種だけは言う。普通は球種だけでも分かっていれば、ちゃんと打てるはずだ。

 そのレベルのバッターが、白富東にはいる。

 そしてそこから先は、球種の宣告をせずに投げるか、あるいはもう少し打ちやすい球を投げる。

 こちらは球種を告げた上でだ。

 甲子園前に、選手の心を完全に折ってはいけないからだ。


「さあ来ーい!」

 いやお前、佐藤さんに向かってその口の利き方はどうなんだと、一年生だけではなく上級生も顔色を変える。

 だが国立は苦笑して、直史は全く表情を変えなかった。

(いや、図太いのは分かってたけどさ)

 キャッチャーの塩谷としては、怖いもの知らずにしても、すげーなと思う。

 まあ甲子園行きを決める決勝のマウンドで、堂々と投げた時点で、認めざるをえないのだが。


 直史としては、一番に手を上げたのがピッチャーというのは不思議ではない。

 高校生レベルでは普通に、一番打てるバッターがピッチャーであったりもするのだ。

 大学野球レベルであっても、リーグ戦で武史はホームランを何本か打っていた。

 万一何か怪我をしても、野手転向出来る。

 その点では明らかに、武史は直史よりも優れている。




 一番に手を上げる人間は、当然ながらイケイケである。

 普通なら打ち気を削ぐボールを選ぶところだろう。直史も同意見である。

「ストレート」

 打ち気を削ぐために、ストレートを投げようか。


 初球ストレート。

 おそらくアウトローいっぱいの、極限のコントロールを見せ付けてくる。

 勝手にそう判断していた優也は、真ん中高めのストレートに反射的に手を出していた。

 そしてバットにも当たらず、空振り。

「なんかすっげえ伸びた」

 塩谷はそんな言葉にも無反応で、どうにかちゃんとキャッチ出来たことに安心する。


 球速であれば去年エースであったユーキの方が、明らかに上のはずだ。

 だから、球質が違うのだ。

 そして球質が違いすぎるので、球威が上になる。


 二球目のカーブは、高いところから大きく落ちてきた。

 そして三球目のスライダーは、外に逃げていく。

 三球連続で空振りして、さすがにあせる優也である。

 球種が不明であるなら、確かにありうる。

 だが事前に宣言しておいてこれでは、さすがに情けなくなる。

「チェンジアップ」

 いや待て。

 チェンジアップは、不意打ちだからこそ打てないのだ。

 宣言されたチェンジアップを、打てないはずがないではないか。


 そう思って待っていたが、ボールが想像以上に遅かった。

 ここまではカーブやスライダーでさえ、それなりにスピードがあったのだ。

 チェンジアップはおそらく100km前後で、これまでとは明らかに遅さの次元が違う。


 四度目の空振りをして、回転してすっと立つ優也である。

 本気で投げてくれるのは、あと一球。

 どんな球種か分かっているのだから、打てなければいけないのだ。

 しかし実は直史も、最後の球は迷っていた。

 チェンジアップに変に粘らず、盛大に空振りをした。

 ああいう潔いバッターは、けっこう一発があるのだ。

 もちろん普段のコンビネーションを使うなら、むしろ打ち取りやすいバッターだ。


 だが、球種が宣言されるこの場面。

「ストレート」

 仕方がないので、ちょっとしたペテンを使おう。


 最初と同じストレート。

 今度こそアウトローか、もしくは厳しいインハイに、あの伸びる球が来るのか。

 だがそう考えていた優也に投じられたのは、ど真ん中のストレート。

(失投!?)

 そう思って振ったが、力が入りすぎた優也もミスショット。

 内野ゴロでようやく、打球が前に飛んだのである。


 ど真ん中にストレートを、しかしスピン量を少なくして。

 下手をすれば単なる棒球なのだが、それを意識的に投げることが違う。

 これはいわば、特殊なチェンジアップなのだ。

 それでも140kmは出ていたので、チェンジアップとは言いがたいが。




 五球も投げてもらってまともに飛ばなかったこともだが、その次の五球は逆に、完全に打たせてくれた。

 違う球種で五球、全てヒット性の当たりであり、三球はネットにまで飛んでいった。

 空振りを簡単に取れるピッチャーは、逆に長打を打たせることも出来るのか。

 バッターボックスから戻って、さすがに「すげえ……」と呟く優也である。


 二番手の潮は、難しい最初の五球を、四球目までは見ていった。

 そして最後の五球目のカーブを打って内野フライである。

 しかしそこからの五球は、センター返しを心がけた。

 ピッチャーの足元を抜けるような打球を、三つほどキャッチされてしまったが。

「フィールディングものすごく上手い」

 ショートタイプではないが、サードなどを守ってもかなりの野手ではないだろうか。


 直史の方もこの二番手が、球筋をじっくりと見て、そして続くバッターにも見せるために、振らなかったのは分かる。

 キャッチャーというポジションで、自分は打線の中の一人として、チームメイトに球筋を見せたわけか。

 なるほど確かに、性格もキャッチャー向けである。


 そこから四番目には、打順も四番の悠木が出てきた。

 ここで初めて直史は、最初の五球の中の一球をヒット性の当たりに打たれた。

 感覚的な打者だな、と直史は判断する。

 下手に読み合うよりも、直感を重視する。

 球種が分かっていても、それまでの三人はまともに打てなかったのに。


 難しい球を六球目からは要求してきたので、コンビネーションを駆使して投げてみた。

 空振りが四度あったが、それなりに当たりのいい内野ゴロがあった。

 さすがに四番の調子を狂わせるわけにはいかないと、直史が少し加減したものであったが。

(自分の中で上手く言語化できたら、プロに行ってもおかしくないかな)

 上から目線なわけではなく、これまでに対決してきたバッターとの比較で、しかし感覚はのバッターとの対決は、今でもあまり好きではない直史である。




「よし」

 もう残りも少ない中、150球以上を投げても、直史に疲れは見えない。

 さすがにこの真夏の八月、汗はかいているのだが。

 本当に休憩を取らずに大丈夫なのかと、選手たちは思ったものだ。

 一度だけ給水をしただけで、あとは延々と投げている。


 ここで18人目の打者として、ようやく正志は手を上げた。

 ピッチャーの本当にいい球は、さすがにキレが鈍っているかもしれない。

 だがそれだけ観察してようやく、なんとか打てる気配が見えてきた。


 これは甲子園もかかっていないし、他の公式戦とも違う。

 だがある種の人間にとっては、重要な対決だ。

 そう、プロを目指す人間にとっては。


 この人を打てなくてプロにいったバッターが、多く活躍している。

 ならばこの人を打てるならば、自分はプロに行けるはずだ。

 試合とは全く違う条件だが、正志はそう思う。

 そして胸に手を当ててから、バッターボックスに入る。

 最初は無意識のものであったが、既に完全なルーティンになっている。


 これまでのバッターとは違うな、と直史は感じた。

 悠木もまた独特の雰囲気を持っていたが、この少年は明らかに、ここで打つことに意味を見出している。

 ならば一球は打たせておいた方がいい。

 ただしあまり甘すぎるボールを投げたりもしない。


 直史が最初に投じたのは、落差の大きなカーブ。

 それを正志は、真正面から叩いた。




 貴重な体験であったろう。

 かなり変則的な対決であったが、間違いなく超高校級よりも、さらに優れたピッチャーとの対決であった。

 そして何より、全てが一級品の変化球を体験した。

 なお、他に投げる者がいないスルーは、一球も投げていない。


 残りの五球を、宣言なしで投げてもらった正志は、四球目のストレート以外は空振りした。

 ただそのストレートを、ネットまで持っていくことが出来た。

 直史は五球目にもストレートを投げて、それを打とうとした正志のバットは、見事に空を切ったが。


 その後にも付き合って、結局300球ほどを投げた直史は、さすがにヘロヘロであった。

 球数よりも、気温の問題である。

 大学野球では全日本と日米大学野球こそそれなりに暑い季節にあったが、あとは春の早慶戦と、秋の序盤ぐらいしか、暑い季節の中での公式戦はない。

 スタミナ自体もかなり落ちているが、それ以上に暑さへの順応性が落ちている。

 大学の夏休みは、普通に練習試合などはあったのだが、ほとんど参加していなかった直史である。

 それでも一試合を休み休み投げるなら、充分すぎるほどの体力は残っていたが。


 自転車を漕いで家に戻るのもしんどかったので、国立のミニバンに載せてもらって送ってもらうことになった。

 その中では自然と、今日の選手たちへの感想を聞きたくなる。

「どう思ったかな?」

「打線に関して言えば、優勝してもおかしくないレベルだとは思いましたね」

 まあかなり本気の直史から打ったバッターがいるのだから、その評価にはなるのだろう。

 ただ直史としては、アレクや悟レベルのバッターはいなかったと思う。

 高校生は試合の中で、一気に成長するものだが。


 問題は、だからそちらではない。

「ピッチャーをどう休ませることが出来るかでしょうね」

「ピッチャーはね……」

 一年生のいない去年の秋、本当に惜しいところまで関東大会は進めたのだ。

 だから甲子園でも、それなりには勝てるのだと思う。

 一年生の戦力は、即戦力だ。

 ただし夏の甲子園で、ずっと投げきるのは難しいと思う。


 そもそも直史自身、一年時の自分であれば、決勝まで投げきるのは無理だったろうなと思っている。

 岩崎と分担しても、春日山や大阪光陰に当たっていれば、確実に負けていただろう。

 むしろそこまででかなりの体力を削られていたはずだ。

 よくも吉村はベスト4まで勝ち進んだものである。

 あの年の勇名館と今の白富東の戦力は、大方の部分は白富東の方が上回っていると思う。

 ただ白富東は、エースがいない。




 信頼感という点では耕作、能力では優也。

 国立としては優也は、精神面でも充分にエースの資格は持っていると思う。

 だが問題は肉体面だ。

 ここまででも一試合を投げさせてみた。

 地方大会は球場を分散するため、むしろ序盤は甲子園より過密スケジュールである。

 ただトーナメント序盤では、弱いチームを相手にコールド勝ちが出来る。


 甲子園はコールドがない。

 さらに重要なのは、シードがないということだ。

 直史が初めて出たのは、二年のセンバツ。

 一回戦からいきなり、優勝経験もある天凜が相手であった。

 それに勝ってベスト8まで進んだのだが、夏の試合は初戦が桜島で、二回戦が名徳。

 何かのバツゲームなのかという、強豪の連続対戦であった。

 三回戦こそ楽に勝てたが、そこからは福岡城山、大阪光陰、そして春日山。

 大阪光陰戦が決勝であれば、白富東はもっと楽に勝てたのではないか。


 甲子園で優勝するには、明らかに運も必要だ。

 もちろん実力もなくてはいけない。あの夏は一回戦で、いきなり春のベスト4の大阪光陰と神奈川湘南が当たったのだから。

 トーナメントを思い出すと、あの二年の夏が一番過酷であった気がする。

「ピッチャーか……」

 国立も分かっている。優也は素質は優れているが、今はまだ全国レベルの超高校級と当たるには辛い。

「まあ実質中学三年生が投げて、優勝しちゃった例もありますけどね」

「あれはチーム全体も強かったからねえ」

 苦笑する国立である。


 ともあれ今日の経験は、間違いなく貴重なものであった。

 国立としては絶対に、一つは勝っておきたい。

 甲子園で校歌が流れる姿を、テレビで見せるのだ。

 誰にも言えないが、ただ一人のために、勝利の姿を見せなければいけない。


 甲子園で勝ちたいと思わない監督などいない。

 だがこれほど、負けられないと思ったのは、初めての国立であった。

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