二章 ここが、夢見た場所
第43話 もう一つの母子
千葉県の代表校は、全国でもかなり早い時点で決定する。
初日に試合があるとしても、たっぷり二週間の時間が取れるのだ。
その間には色々とやることが多くて、むしろ練習より精神的に疲労することが多い。
「なんで試合する俺らに、わざわざ疲れるようなことさせんだ?」
優也の言葉には、うんうんと頷く白富東の選手団である。
白富東の選手というのは、昔から頭は良かった。
だが品行方正とは全く違う。
ラインを見極めた上で、そのギリギリで悪ノリをする。
その傾向は性質が変わってきた現在でも、魂の部分で変わらない。
優也以前の問題児としては、鬼塚が挙げられる。
だが一般的な野球部的に考えれば、直史や手塚も充分に問題児である。
それを受け入れる懐の深さがあるからこそ、白富東は強いのかもしれない。
野球イズムを捨てた、勝利至上主義。
それが白富東なのである。
国立が呼ばれたのは、校内の一室。
また誰かお偉いさんが来たのかと、溜め息をつく国立である。
こういったことはだいたい部長が引き受けてくれるのであるが、中にはどうしてもと国立に会いたがる人間もいる。
そしてその道筋において、教頭から国立は聞かされる。
「山根君のお母さんです」
少し噂は聞いていた、優也の母親であるか。
ピシッとスーツに身を固めた優也の母は、秘書を連れて来ていた。
不動産を多数所有する、オーナー型の社長であると聞いたが、確かに上に立つような雰囲気はある。
ただ別に想像していたような傲岸不遜なところはなく、初対面では深々と頭を下げてきた。
「先生には優也がお世話になっています」
丁寧なもので、ここまでは良かったのだ。
だがそこからが問題であった。
同席していた校長の前には、なにやら封筒を一枚。
そして国立の前には、分厚い封筒を一つ。
「どうぞお納めください。小切手の方は領収証を後日いただければけっこうです。国立先生の方はそのまま」
現金か。
しかもこの厚みからすると、100万ぐらいはあるのではないか。
100万の札束は持ったことはなくても、教員であると100枚の紙束はけっこう持つことが多い。
「これは……その、受け取るわけには」
校長の方を見ると、困った顔をしている。
まあ普通に、受け取るわけにはいかないのだが。
「ええと、野球部の件についてでしたら、専門の寄付をしていただければ」
「それは校長先生にお渡ししたものです。ですけど国立先生は公務員ですから、なんらかの名目で受け取ることは難しいでしょう?」
なるほど、だから現金なのか。
公務員の副業禁止規定というのがある。
まあ公務員というのはその身分がかなり安定している代わりに、その業務をしっかりとこなすために、副業をしてはいけないというものだ。
幾つかの例外はあるが、確かに銀行口座などに振り込まれると、税務署が目をつける証拠が残る。
だから現金であるのか。まあ、それは分かる。
国立自身はそうではないが、優秀な選手を集めるためには、高校や大学は金を使うものである。
車が買えるほどの金と引き換えに、強豪私立に進学を決められたなどという選手とは、大学でよく話したものだ。
当然ながら生徒本人ではなく、親を落とす。
そういったところから逆に、優秀な監督のところへ、うちの子をプロ野球選手にしてやってくださいと、金色の菓子折りをもって訪れる親もいたものだ。
今ではかなり規制されていて、高校レベルではそこまで露骨なことは行えなくなりつつあるが。
ただ、大学はまだまだ野放しである。
逆指名のあった頃の大学野球は、一人の選手の獲得のために、普通に10億単位の金が動いたという。
球団が動かす金は、選手のみならずその親、あるいは親の勤める会社にまで、その手を伸ばすのだ。
それに比べればこれは可愛いもので、私立の雇われ監督であれば、普通に収めてしまうものだろう。
だが国立はあくまで教員であり、監督は部活顧問の一環なのだ。
「国立先生は奥様もいて、お子さんも小さいと聞いていますので、これからますます物入りになるでしょう?」
いや、それはそうなのだが。
別に国立は、聖人君子ではない。
それにこういった行為を、軽蔑するわけでもない。
ただ、受け入れるかどうかの話なのである。
「万一バレただもう、教師は出来ませんからね。これは野球部への寄付としていただきます。領収書は後で一緒にお渡ししますので」
相手の顔も潰さない、いい対応であろう。
だがむしろ、これで国立は気に入られてしまったようだ。
優也は本当に、昔から指導者にも教育者にも、いい人間に当たらなかった。
などという身の上話から始まるのだが、既にこの時点で国立は白目を剥いている。
優也の父は細菌の研究者で、海外を飛びまわっているという。
別にだから裕福なわけでもなく、一家の大黒柱は親から多大な遺産を相続した母親であった。
子供の頃から徹底的に優也を守り続けた母。
それは過剰な愛情であり、傷つけるもの皆、傷つけ返した。
さすがに中学生になる前ぐらいからは、人格もしっかり確立したので、干渉する事は避けてきたが。
ただそれでも優也のことを最優先にし、周囲の環境を整えようとしていた。
「寄付ならいくらでもするつもりでも、私立の学校はどうも信用ならなくて」
優也がセレクションに落ちた理由の一つは、寄付金の問題である。
あちらから来てくれと言っておきながら、まず最初に寄付かと言われれば、警戒するのが企業経営者である。
優也を強豪校に進学させるのが目的ではなく、プロ野球選手にまでするのが目的の母であった。
競争の中でちゃんと優也を育てられるのか、かなり不信があったのだ。
そこで選んだのが、プロ野球選手の輩出については、圧倒的な実績を誇る、最近の白富東。
特に国立の指導した中では、大学を経由したとはいえ、去年もドラフトで指名された選手がいた。
その国立が白富東の監督となったのである。
なるほど、と国立は納得した気がした。
正志は例外としても、確かに優也の身体能力や潜在能力は高すぎる。
まだ全く完成形が見えないということで、特待生として迎えることはともかく、セレクションには普通にどこも受かると思っていたのだ。
学校側はあくまでも打診程度のものであったのだろう。
だが盲目的に息子を信じる女社長は、それだけで一気にこちらから、私立を見放したわけだ。
クセはものすごく強いが、面白い人だと思う国立である。
一歩間違えば完全に優也はスポイルされていたと思うが、絶妙のところで子離れしたわけである。
優也がめんどくさいお袋と言っていた理由は、なんとなく分かる。
だが彼の持っている野球の道具などは、全て高級品だ。
新しい物を買って、それが手に馴染んできたら、古い物を他の部員にやっているところも見た。
典型的な金持ちのボンボンの姿である。
色々と問題はある。
少なくとも入学の時点まででは、優也はかなり精神的にコントロールが未熟であった。
ただそれは今は、ほぼ改善されている。
そしてその理由についても、国立は潮に聞いて知っていた。
「お母さん、生徒のために、選手のために教師が頑張るのは、当たり前のことなんです」
100万円は欲しいなあとは思うが、それに手をつけては、指導者としていられないだろう。
「だから彼が成長したと思ったなら、それは彼自身と、周りの生徒たちのおかげなんです。まだまだこれから、彼の人生は長いわけですから」
頷いた母は、しかし何か決意した顔をしていた。
「分かりました。では野球部で必要なことがあれば、なんでも相談してください。全力で力になりますので」
それはおそらく圧倒的な銭戦力での支援なのだろうなと、国立は遠い目をしてしまうものだが。
こういった親から生まれた子供が、まっすぐに育つ可能性はかなり低いと思う。
少なくともこの母親は、経済的には完全に息子の要求をかなえ、したい放題にさせていたようだ。
また中学時代の野球成績にしても、指導者の責任だと思っている。
これは悪い親なのか。
多分悪い親だと思うのだが、少なくとも優也は、陰湿なゆがみ方はしていない。
ただ世の中に漠然とした不満は、今でも感じやすいようだが。
本当に難しい。
ただ国立の経験からすると、優也は野球で大学に進めば、その才能がスポイルされるだろうなとは思う。
伝統だとか礼儀だとか上下関係だとか、そういうもので潰されるのが優也のようなタイプだ。
正志は大丈夫だろうが、優也が白富東に入ってしまったのは、もうここからプロ野球選手にでもしないと、良い未来が見えてこない。
優也の母が去ったあと、校長がぽんと国立の肩に手を置いた。
「お金、いいのかね?」
「綺麗ごとを言うつもりじゃありませんが、選手をフラットに見るためにも、自分の指導に歪みを持たないためにも、それは頂戴できないと思います」
「うん、分かった。じゃあ今度一緒に飲みに行こうじゃないか。私の奢りで」
それはそれで、家で待っている奥さんと息子に、ちょっと後ろめたいところがあるのだが。
三里から白富東へ、若くして既に名将と呼ばれる国立。
しかしその本質はあくまでも、普通の家庭を持つ公務員であるのであった。
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