番外編

『海とくじらと夏の空』 (ティアのみ)

 ふいに風が吹き抜けたので、ぼんやりとテラスで本を開いていたティアレイルはゆうるりと顔を上げた。

 ぱらぱらと本のページが風にめくられていくのを眺めながら、翡翠のように穏やかな瞳が微かに笑う。

 まるで、読むでもなくただただ本を開いて眺めているだけというのを知った風が、自分をからかっているようだとティアレイルは可笑しくなった。

 静かに凪ぐ海から匂る潮風が心地よくて。そして、ここからの眺めが何故か心安らいで、プランディールから離れた小さな町の海辺に建てられたこのペンションに、ティアレイルが時々訪れるようになって、もう一年が経つ。

 魔術派の象徴という立場と大導士という責務の双方が与えてくる忙しさに、そう何度も来られるわけではないけれども、浜辺に面したテラスに置かれたテーブルでぼんやりと時を過ごすのが、彼のささやかな楽しみでもあった。

 いつもは半日だけとか。多くて一日。その程度の時間しか訪れることが出来なかったこの若い大導士が、なぜか今回は珍しく三日間滞在していた。

「ティアレイルさん。お疲れのようですねぇ。ローズヒップティーをどうぞ」

 ことりと、冷たいハーブティーをテーブルに置きながらペンションの主人は僅かに目を細めた。

 ティアレイルの父親よりも、三つ四つ年上だろうか。ひどく優しげなその顔をおおう濃茶の髪には、ちらほらと白いものが混じり始めている。

「え? ああ。ありがとう。いただきます」

 甘酸っぱいローズヒップの香りがふわりと空気に溶けて、柔らかな空間を織り成すのを感じながら、ティアレイルは透きとおる紅の液体をひとくちだけ口にした。

「美味しい。……でも、私はべつに疲れているわけではないですよ」

 疲労回復にも効くというハーブの香りを楽しみながら、穏やかな眼差しを家主に向けて蒼銀の髪を僅かに揺らす。

「ここに来ると、なんだかとても気持ちが安らぐしね」

 ゆうるりと海の方へ顔を向けて、ティアレイルは笑った。

 その穏やかで静かな横顔はとても綺麗で、けれどもひどく寂しげだと思う。

 魔術派の象徴として人々の畏敬を一身に受けている青年。いつも穏やかな強さをたたえた笑みと言葉で、自分たちに安心と平穏を与えてくれるこの大導士は、まだ二十歳になったばかりという若さなのだ。

 彼の双肩にのしかかる責任と人々の期待は計り知れない重みを持って、その心を彼自身さえも気付かぬうちに圧迫しているのではないかといつも心配になる。

「そう言っていただけると嬉しいですねぇ。このペンションもティアレイルさんが来ると、とても喜んでいますから、それでかもしれませんね」

 当初は大導士と呼んでいたこの若い客を名前で呼ぶようになったのは、そのことに気が付いてからだ。ここでは彼に魔術派の象徴ではなく、何でもないただの青年に戻ってもらえればいいとそう思うのだ。

「家が、喜ぶんですか?」

 ティアレイルは不思議そうに天井を見上げた。

「ええ。とても空気が優しくなりますからねぇ。建物や物にも心があるんですよ。好きな人がくれば柔らかな雰囲気になるし、嫌いな人がくれば刺々しい雰囲気を作る。それが、相手にも伝わる。居心地が良いとか悪いとかは、たぶんそれなんでしょう」

 家主はしっとりと微笑みながらそう言うと、最後に「ごゆっくりどうぞ」と言い置いて厨房の奥へと戻って行った。

「そうか。自然だけじゃなく、物にも心があるんだな」

 くすりと笑って、ティアレイルはひとりごちた。

 この家が自分を気に入ってくれている。家主のその些細なひとことが、なぜかとても嬉しい気がした。

 信仰にも似た、深く盲目的な信頼を寄せてくる人々とは違い、物は何も自分に期待してこない。

 それでも好いてくれるということが、ティアレイルにとっては大きなことだったのかもしれない。

 人々の想いがと感じたことはないけれど、それでも時々は息が詰まりそうになる。そして……逃げ出したくもなる。それは、仕方のないことだった。

「 ――― !?」

 不意に、心に氷塊を落とし込まれたような気がして、考えに沈んでいたティアレイルの表情が一気に緊張し、こわばった。

「……なんだ?」

 かたんと小さく椅子を鳴らし、ゆうるり立ち上がると海の向こうを眺めやる。

 心の中に生まれた小さな不安の影は、何かが起こることを彼に報せる、予知になる前の微かな予感。海が、悲鳴をあげているような気がした。

 その声に己の魔力を研ぎ澄ませ、ティアレイルは瞳を閉じた。

 普段はそんな小さな予感を何から何まで察知するわけではない。そんなことをしていれば、気が狂ってしまうだろう。

 けれども。いま目の前に広がるこの海が、自分の内で起こる事故を防ぎたいとティアレイルに悲痛な声を上げ報せていた。その思いが強ければ強いほど、ティアレイルの予知は鮮明なものになる。

 最初はぼんやりと。そして次第に心の視界がクリアになっていく。

「いけないっ」

 二人の子供が乗った小さなボートが、今にも波に呑まれようとしている光景にティアレイルは叫び、そしてテラスから姿を消していた。



 ティアレイルが転移したとき、まだ、ボードは静かに海の上をただよっていた。

 楽しそうにはしゃぎながらボードをこいでいた二人の子供は、突然現れた青年を驚いたように見上げ、状況が理解できないというように目を瞬いた。

「おにーさん、どうしたの?」

 転移してきたのだということはすぐに分かったけれど、いったいどうして自分たちのボートに来たりしたのだろうか?

「一緒に、乗せてもらおうかと思って」

 まだ予知した事故までは少し時間がある。ほっとティアレイルは息をつき、ゆうるりと笑った。

 子供たちは、その言葉に可笑しそうに声を上げて笑った。

 いきなりどこからか転移してきてボートに乗りたいだなんて、なんて面白い人なのだろうと思った。

 見知らぬ人だというのに警戒感を覚えない穏やかな翡翠の瞳も。僅かに癖のある蒼銀の髪も。そして優しげな顔も。どこかで見たことがあるような気がしたけれど、それが誰なのか思い出せなかった。

「ふーん。別にいいけど。おにーさんもくじらが見たいの?」

「くじらって、あの大きな?」

 意外な言葉にティアレイルが首をかしげて訊き返すと、二人の子供は楽しそうに目を輝かせ、何度も頷いた。

「うん。そうだよ。この海には、くじらが住んでるんだよ。おじいちゃんが言ってたんだ。この近海の主なんだって。運が良ければ会えるんだって」

 年上らしい少年がそう言うと、もうひとりの少年はにこにこと笑った。

「くじらに会える運の強さがあれば、それが幸運に転じてお願いがひとつ叶うんだって、おじいちゃんが教えてくれたの。だからお兄ちゃんと一緒に探しに来たんだよ」

 櫂を漕ぎながら、少年たちはどこか強い眼差しをティアレイルに向ける。その表情に、彼らには何か願い事があるのだとティアレイルは悟った。

「くじらに会ったら、何をお願いするのか訊いてもいいかな?」

 翡翠の瞳をやわらかに細め、少年たちを穏やかに見る。

 そんなあたたかな表情に安心したのか、少年たちは明るい笑顔を互いに見交わして、そしてティアレイルに向き直った。

「うん。お母さんの手術がうまくいきますようにって」

 ちょっと難しい手術だけれど、それさえ成功すればお母さんは元気になるのだと、少しの暗さもない笑顔と声音で少年たちは声をそろえた。

 思わぬその告白に、ティアレイルは深く息を吐き出した。そして、にこりと笑う。

「そうか。きっと、大丈夫だよ」

「……うん!」

 何の根拠があって言ったわけでもないはずなのに、この青年が言うとそれが本当に大丈夫なのだと思えてくるから不思議だ。

 少年たちはゆうるりと心に染み入るように広がるその言葉に一瞬驚き、そして嬉しそうに顔を輝かせて頷いた。

「私も、くじらが見たいな。そうしたら、三人分の幸運でお願いしよう」

 本当は事故が起こる前に安全な場所へ連れ帰ろうと思っていたのだけれど、その気が変わった。

 こうして自分に見せている笑顔は曇りのない明るさでも、きっと心の奥では不安なのだろう。だからこそ、彼らはくじらを探しに来たに違いないのだから ―― 。

 事故が起こるから彼らを連れ帰るのではなく、それが起こる前に事故の原因の方を取り除けばいい。それには少し、連れ帰るよりも多くの魔力使うけれども、そんなことは彼にとっては考慮することではなかった。

 ただ、ティアレイルは少年たちにくじらを見せてあげたいと思った。

 こんな浅瀬の多い海に、あの大きなくじらが住んでいるとは思えなかったけれど、信じてみようという気もする。

 自分をここに呼んだ海からの声は、ただのの叫びとは思えなかった。もしかすると、この海の主だというそのくじらが呼んだのかもしれない。

「うんっ。そうしよう。ありがとうおにーさん」

 弟の方がくしゃりと破顔して、兄の方は一瞬だけ泣き出しそうな顔になる。けれどもすぐに笑顔になって、出発進行と元気よく右腕を突き上げた。

 くすりと笑ってそれを見ていたティアレイルの緑色の瞳が、ふと、何かに気付いたように大きく見開かれる。

 潮が、とつぜん膨れ上がるように満ちてきていた。

 科学的には到底ありえない、不自然すぎる潮の動き。

 けれども、ティアレイルは魔術派の象徴だった。そんな人間の常識を超えた自然の意思があることを、誰よりもよくっていた。

「ボートから放り出されないように、しっかり掴まるんだよ」

 さりげなく二人を自分のもとへと引き寄せて、ティアレイルは強い笑みを浮かべた。

 とつぜん高く荒くなった波に怯えていた少年たちは、その声と腕の感覚に落ち着きを取り戻し、不思議そうに海面を見やる。

「いきなり、どうしちゃったのかな。ボート、沈んだりしないかな」

 それでもやはり少し不安そうに、少年はティアレイルを見上げて訊いた。

「沈んだりしないよ。だって、君たちはものすごい強運の持ち主だからね」

 くすりと、ティアレイルは笑った。

「えっ?」

 そのどこか楽しげな言い方に、きょとんと少年たちが首を傾けたその刹那、ばっと何かが海中から海面へ立ちのぼり、あたりに広く大きな影を落とす。

 それと同時に、豪雨のように海水が三人に降りかけられた。

 その大きな汐のうねりと高くまきあげられた波に、普通ならばこんなに小さなボートはすぐに呑まれて転覆してしまうだろう。

 けれども、ティアレイルがそっと。気付かれないように魔力の結界を紡ぎ、その被害を最小限に食い止めていた。

 すべて防ぐのは簡単だったけれど、それでは少年たちの夢を壊すような気がして、危なくない程度に抑えるにとどめたのだ。

 その為にティアレイル自身も海水の洗礼を受けなければならなかったけれど。

「わあっ! くじらだぁ」

 目の前を躍り上がり、そして再び海中に潜ってゆく大きな黒い影を、こぼれんばかりに開かれた目で見つめながら、少年たちは叫んだ。

 巡り合えた僥倖に、飛び上がって感謝したいくらいだった。

「……まったく。あいつにはやられたな」

 ティアレイルは心の中でそう呟きながら、どこか楽しげに苦笑した。

 今この海が見せる高波と汐のうねりは、先ほど自分が予知で見た、ボートを呑み込むはずのものと同じだった。

 きっと『彼』は、この少年たちの前に姿をあらわしたかったのだ。

 けれども、子供たちのボートが転覆するのを危惧し、出るに出られなかった。だから、たまたま近くに来ていたティアレイルに事故の予知として見せつけ、保険代わりにここに呼んだのだろう。自分は、あのくじらに利用されたのだ。

「でもまあ、悪い気はしないけどね」

 無邪気に喜ぶ少年たちを見て、不快に思うわけもない。

 くすりと、ティアレイルは姿の見えなくなったくじらに向かって笑んで見せる。

 それに応えるように、くじらはもう一度その雄姿を海上に伸び上がらせ、そして再び海の中へと消えていった。

「これで、お母さんの手術は大丈夫だよね!」

「くじらも見れたし、あんなに荒れた海でも沈まないくらいの強運があるんだもの」

 はしゃいだ声でそう叫ぶと、少年たちは自分たちが落ちないように、しっかりと支えてくれている青年に嬉しそうに抱きついた。

「ああ。そうだね。早く、このことをお母さんたちに教えてあげないとね」

 自分も全身びしょ濡れになりながら、ティアレイルは翡翠の瞳をゆるやかに細め、ふたりの少年の頭を軽く撫でる。

 彼らが強運を信じ、しっかりと自信を持ったことがとても嬉しかった。


「ありがとうね、おにーさん」

 岸に戻ると二人の兄弟は明るい笑みを浮かべ、一緒に母の回復を祈ってくれたティアレイルの瞳をじっと見上げた。

「おにーさんが分けてくれた幸運も、ちゃんとお母さんに伝えておくからね」

 その幼い眼差しいっぱいに溢れる感謝と好意の心に、ティアレイルは一瞬とまどい、そしてふうわりと、穏やかな笑みが翡翠の瞳に浮かぶ。

 こんなにも無邪気で、そして無条件な好意を受けるのは本当に久しぶりだと思った。

 いつも注がれる眼差しは、魔術派の象徴としての自分に対する期待と畏敬をこめた眼差しだけなのだから ―― 。

「がんばってくださいって。そう伝えて」

 ティアレイルは心からそう願う。

「うん。分かった。じゃーね。おにーさん」

 少年たちは嬉しそうに頷くと、何度も振り返り手を降りながら、家へと帰っていった。



「お帰りなさい。どうしたんです? びしょ濡れですねぇ」

 初老の家主は砂浜からこちらに戻ってくるティアレイルを見つけ、やんわりと笑って出迎えた。

 突然テラスからいなくなったので驚きはしたけれど、この青年ことだ。心配はしていなかった。

 しかし、波打ち際を歩いたであろう足許だけでなく、ざっくりと羽織った麻のシャツも、癖のある蒼銀の髪も、すべてが濡れている。

「波を、かぶってしまいました」

 楽しそうにティアレイルは海を振り返って笑った。

 その笑顔が、先程いなくなる前の笑顔とは何かが違うような気がして、家主は不思議そうに目を細めた。

 何かが吹っ切れたような。穏やかな優しい表情だと思う。先程までの、どこか寂しげな笑顔ではないと、そう思えた。

「何か、良いことがあったようですね」

 しっとりと優しい家主の笑みをティアレイルは振り返り、そして軽く空を見上げた。

「……そうですね。自分は自分なんだと、そう思えることが出来たから」

 魔術派の象徴と謳われるようになって一年。周囲が期待する自分というものの存在に迷い、そして息苦しさを覚えていた。

 プランディールに帰れば、自分を見る者たちの眼差しはティアレイル個人ではなく、魔術派の象徴であるへ向かう物ばかりになる。

 けれども、もう大丈夫だと。ティアレイルは思った。

 周囲がどうあろうと、自分は自分なのだ。魔術派の象徴とは知らなかったあの少年たちのように。それでも自分を認めてくれる存在だって多く居る。

 そのことを改めて知ることが出来たような気がして、ティアレイルはとても晴れやかな気分だった。

 それさえ忘れなければ、これから益々増大していくであろう人々の期待と畏敬の眼差しに、再び自分は『象徴』として応えていくことが出来るだろう。

 大導士である自分も、二十歳の青年である自分も。どんな自分でもティアレイル・ミューアという個人以外では有り得ないのだから ―― 。

「明日、プランディールに帰ります。仕事がたまっていると困るから。そろそろ聖雨を降らせる打ち合わせもしないといけないし」

「そうですか。あまり、ひとりで頑張りすぎてはだめですよ」

 真面目すぎる若い大導士を気遣うように、家主は軽くティアレイルの肩を叩く。

 象徴としての道を選んだ今日の選択が、せっかく明るく開かれた笑顔に、再び寂しさを同居させるような結果にならなければいいと。強くそう願った。

「大丈夫。私はたぶん、独りではないから」

 幼い頃からずっと一緒にいる幼馴染みや、自分を理解してくれる友人。彼らの顔を思い浮かべながら、ティアレイルは家主に笑んでみせた。


 そうして、彼はほんの短い晩夏の休暇に終止符をうつ。

 ゆうるりと優しく、すべての悩みをおしつつむように静かな時間と、少年たちとの出会いを与えてくれた、この海に別れを告げて。

 『象徴』の帰りを待ちわびる、多くの人々のもとへと戻るために ―― 。



****

番外編を読んでくださってありがとうございます。

これは本編が始まる1年くらい前のティアレイルのお話でした。

次は科学派メンバーのお話の予定です。

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