八月も半ばを過ぎて

古地行生

ねこみつめ

「猫……」

 少年は呟いた。テーブルの上で優雅にたたずむ小動物に見つめられると、少年は思わず椅子から腰を浮かせ、そのまま固まってしまった。猫の全身は黄みがかった茶色と黒色の被毛が織りなす縞模様で、開け放しの大きな窓から降りそそぐ外光に高貴さを引き立てられている。


「猫だ」

 老人が言った。彼はテーブルから少し離れた椅子に深々と座り、少年と猫の様子を眺めている。

 少年は緊張で動けなかった。この10歳の少年が人間以外の生き物と接するのは、昨夜びっくりさせられた蛾や甲虫をのぞけば初めてだし、あれらは哺乳類ではない。普段の少年の周囲には人間以外の動植物は全く存在しない。情報として教わってはいる。学校にあるデータ端末とVR端末の使用によって、少年と学友たちは人間以外の生き物の名前、姿や鳴き声、生態を既にかなり知っている。しかし教師の言葉を借りると端末の現実再現性は技術と資源の制約でいまだ完璧には程遠く、現実の質感の方が刺激的だ。


「触れてごらん」

 老人は少年に優しく促した。猫は首を左右に軽く振りながらゆっくりとまばたきをしている。琥珀色の瞳は少年がよく見る人型機械の義眼と似ている。それでも動けないでいると、猫が右の前足を伸ばして少年の腕に触れた。爪は出していない。少年は驚いたが、不思議と怖くはなかった。おずおずと両手を猫の顔に近づけ、人差し指でちょんちょんと触れてみる。猫は嫌がらない。徐々に手のひらを使ってなでていく。猫は目を閉じ、微笑んでいるように口角を上げた。


「しばらく遊んでやってもらえるかね。この部屋の遊び道具を使うといい」

 少年と猫のどちらになのか、老人はそう言うと椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。人が一人いなくなったのに室内は何も変わらない。外からセミという虫の鳴き声がずっと聞こえる。


 少年は猫の全身を順繰りになでてみた。すると猫がゴロゴロと低い響く音で鳴き始め、少年は授業で見た通りだと感動し、満足してくれてるとホッとした。仲の良い上級生が、猫という生き物は犬と比べると気難しいと知った風に言っていたのをなぜかよく覚えていて心配だったのだ。だから最初に生き物に会うなら猫よりは犬の方が良いと思っていた。でも実際は猫は穏やかで優しい生き物みたいだ。それにとても、なんというんだろう、とにかくなにかすごく良い。


 その内に猫は少年の手をすり抜けてテーブルから床に飛び降り、部屋のすみに転がっていた棒状の物をくわえて少年の足元まで持ってきた。猫がくわえている先端部分だけは球状のふわふわしたものがついている。少年はかがみこんで棒部分を手に取ってみた。棒はよくしなり、猫は先端の球をくわえたまま激しく動き出した。そういうこと! 少年は遊びの誘いだと直感した。昨日この家に着いたと思ったら今日は猫との遭遇。楽しい夏休みが送れそうで嬉しくなった。


 少年の学校では、10歳から15歳の生徒は毎年7月から8月に1回、惑星往来の長距離旅行をするように定められていた。この旅行は夏休みと呼ばれている。少年もたいていの生徒と同じの、片道五日間、滞在二十日間の日程だ。最寄り駅に到着し船から降りた途端、日差しのまぶしさと暑さが少年を圧倒した。エントランスに出ると老人は既に待っており、挨拶をして老人の車に乗り込んだ。


「今日から何日までだったかね。最近覚えているはずの事が口から出てこなくてね」

「予定では26日までの二十日間です」

「そうだったそうだった。すまないね、ありがとう。26日の朝はまたこの道を走って駅まで送るから、私が忘れていたら言ってくれ……ああすまない、君の名前を忘れてしまったよ。いかんな」


 少年はあらためて名乗り、続けて生徒番号を言おうとしたが、老人にさえぎられた。

「番号は言わなくていい。私はすぐ忘れるよ。私の事はおじいさんと呼ぶといい」

「わかりました、おじいさん」

 老人は少年の名前を何度も繰り返しながらうなずいた。


 ふと少年は気になってたずねた。

「おじいさん、がお名前なのですか?」

「そうだね。うん、私個人の名前というより夏の家にいる人間の名の一つだ。犬でいえばレトリーバーやスパニエル、か。もう習ったかね?」

「はい。全部は覚えてないけど」

「なに、わかれば充分だよ。全部を覚えるのは機械に任せておけばいい。私たちは自分の領域を疎かにしないのが大切なんだ」

 老人は最後の言葉を自身に言い聞かせるように呟いた。


 1時間の車移動で着いたのは、雑木林の中にある二階建ての一軒家だった。建材の大部分は木と石だそうだ。車も家も少年がデータでしか見た事のないデザインをしている。そういえば駅もそうだった。どれも意味がなさそうな装飾が多い。老人はこの家でもう一人の人間と長年一緒に暮らしていたという。

「あれがまだ居たら君におばあさんと呼んでもらってたな」


 もう一人と一緒だった頃を合わせると居住期間はざっと五十年。10歳の五倍。

「君にとって最も大切なのは、この家から一人で離れない事だ。君はこの夏休み前に端末や拡張装置を全て学校に預けた。だから既に危険の真っただ中なんだ」

 少年はこの忠告を受け入れ実行した。その甲斐あって彼の夏休みは命を失わずに終わった。


 25日の夜、少年と老人は庭に設置された木製ベンチに腰かけ話していた。少年と老人の間には猫が仰向けに転がり寝息を立てている。夜空は晴れわたり、相変わらずセミがよく鳴いている。少年はこの二十日間で生き物に少しなれた気がすると老人に話した。老人は満足そうにうなずき、最後に生き物についての昔話をさせてくれと語り出した。


「遠い昔、まだ人間が一つの星に暮らしていた頃、他の星はみんな今のようでなく、空にあいた穴だった。空のこちらと向こうを繋ぐトンネルだった。色んな穴の向こう側から旅人が人間の所にやってきた。私たちと似た姿のもいれば、全く違う姿のもいた。こうやってお互い話をできるのもいれば、そうでないのもいた」

「猫みたいなのも?」

「そうまさに。猫や他の生き物はみなこちらに居ついた旅人たちの子孫だという。気に入るものがあったのかも知れんね」

 少年には棒と球が思い浮かんだ。

「さてそうなると、トンネルの向こうへ行ってみたいと思う人間も出てきた。君だったらどうかね?」

「行ってみたい」

「私もだ。そこで人間たちは旅人たちから空の穴を行き来する方法を教えてもらった。そして旅立った」

 老人は言葉を切り、星空を見上げた。

「それで何が起きたのか。理由はわからないが空の穴は全て閉じられ、私たちが知っている星々、宇宙に浮かぶ物体になった。故郷と切り離された旅人と子孫たちは人間に対して一切話さなくなった」

 少年も星空を見上げた。今ここからは見えない故郷の星を思い出す。出立の際に舷窓から見たその姿は赤茶けて、地表の所々に輝く亀裂が見え、血がにじみ出ていた。そう見えるだけでそれは実際は血ではなく炎なのを少年は知っている。

「人間たちは激しく後悔した。何故だかそれからは星々に地球と同じように生命があふれるように力を注ぐのが人間たちの生きがいになった。長い年月が流れ、幾つかの星は願った状態に近づいた。この火星もその一つだ」


「でも、おじいさん」

 少年は思わず口を挟んだ。

「地球はここみたいじゃないですよ。地面はからからでひび割れててよく炎が吹き上がってるし、空はよく見えない。それに人間は火星から地球へ来たんだと習いました。先生はたしか、地球はフロンティアだと」

「うん、そうだろう。この昔話は君たちが知っているその話よりも更に昔の話だ」

 少年の顔には納得できないとありありと書いてある。おとぎ話や神話だとしてもつじつまが合わない。

「確かにおかしいところがある話だ。だが私はとても気に入っているんだ」

「どこがですか?」

「人間は何を後悔したのだろう。そしてなぜ星々に生命をめぐらそうとしたのだろう。想像して考えてみるのさ。そして……君の言う通り矛盾しているにせよ、地球にもまた生命がめぐりますようにと思うんだ」


 翌朝、老人が予定を忘れていなかったので出立はスムーズで、猫も車に乗り込んで駅に向かった。少年と猫はもう完全に友人だ。

「とても楽しかったです」

「そうかい、それは良かった。嬉しいよ」

 猫がニャア~ンと大口を開けて鳴いた。

 駅には二人のような人々が他にもいた。夏の家は同じ所を二回は選べない。どの家も一生に一度。多くに触れておく必要からだと教師たちは説明している。


 地球は大変動以降、他の星との往来が厳格に管理されている。地球の海は6割消失し、残りは汚染状態が続いている。大地もほとんどが汚染され、割れ目から吹き上げる炎と周期的な熱波によって陸上の動植物はほぼ絶滅したと推定されている。かつての地球の名残はこの火星の特別指定保全区にしか残っていない。現在の人類は学びの時代にあると定義され、かつて社会と言い表された共同体は学校と呼ばれている。地球は少年が教わった通り、人類のフロンティアだ。


 少年は帰りの船の座席につくと、右側にある舷窓に顔をくっつけた。離着陸場、駅、道路、その向こうには森林と山々の濃淡ある緑。あの向こう側は地球では見られない光景だ。船内アナウンスがまもなく離着する旨と注意事項を読み上げはじめた。

 少年は窓から顔を離して目をつむり、夏の家での日々を振り返った。ずっと猫と過ごせたらどんなに幸せだろうか。どうやったら地球でも生き物が暮らせるようになるだろう。自分に何ができるだろう。地球にもまた生命がめぐりますように。


 船は出た。

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八月も半ばを過ぎて 古地行生 @Yukio_Fulci

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