吸血鬼のプライド
桜居春香
足りぬ
日頃から非力な自覚はあったが、まさか自分より小柄な少女に組み敷かれる日が来るとは思わなかった。
「待て、落ち着け、話をしよう」
「…………」
話を聞いてくれる雰囲気ではない。これはどういう表情なのだろう。微笑んでいるようにも見えるが、それにしては雰囲気があまりにも冷たい。僕の両手を地面に抑えつけて馬乗りになったその少女は、無言で僕の顔を見下ろしながら、ゆっくりと口を開く。開かれた唇の隙間からは、異様に鋭い犬歯が顔を覗かせていた。
「いただきます」
なんて行儀の良い、とかなんとか言ってる場合ではない。少女の背から生えた一対の翼を見た時点で、彼女が人間でないことは分かっていた。このままでは本当にまずい。僕の予想が正しければ、この少女は吸血鬼だ。信じられないが、そうとしか思えない。血を吸われる、だけで済めばまだマシだ。血を吸い尽くされて死ぬか、眷属とやらにされて自由を奪われるのか、とにかく悪い想定はいくらでも出来る。どうにかしてこの拘束を抜け出さないといけない。
しかし、突然の襲撃を受けて地面に押し倒されてから今に至るまで、抵抗は絶えず続けているのだ。既に全力、今さらこれ以上の抵抗が出来るわけではない。僕の手首を掴んだ彼女の両手はびくともせず、ゆっくりと彼女の口が首元へ近づいてくるのを感じながら、ただ足をじたばたさせながら身をよじる以外に出来ることなど、今の僕には残されていなかった。
「やめろ、離してくれ、やめっ──」
直後、注射にも似た鋭い痛みが首筋に走る。彼女の鋭い犬歯──否、牙と呼ぶべきか。それが僕の首に刺さったのだ。痛い。しかし、下手に動けば傷が広がってしまうかもしれない。動けない。駄目だ、殺される。血を抜かれていくのが分かる。ああ、もう助からない。僕はここで死ぬんだ。コンクリートで擦りむいた手の甲にも痛みを感じつつ、僕は自分でもびっくりするくらいあっさりと抵抗を諦めた。
──はずだった。
「せめて大人のお姉さんに殺されたかった……」
「……なんて?」
死ぬ覚悟を決めたせいでぽろっと口に出た本音が、意図せず吸血鬼少女を止めた。僕の首から口を離した少女は、口元から血の雫を垂らしながら僕の顔を見下ろすと、不満げな表情を浮かべて問いかける。
「今、なんて言った?」
「え、あ、いや、どうせ殺されるならロリっ子じゃなくて大人のお姉さんが良かったなぁ、って」
「失礼な! よく見なさい、私のどこがロリっ子ですって!?」
「……体型」
無言の平手打ちが僕の頬を襲う。痛い、けど威力は人間の少女並だ。手加減されたのか、なんてことを考えながら改めて吸血鬼少女の顔を見ると、彼女は明らかに怒っている様子を見せながらも、どこか悔しさを滲ませた表情を浮かべていた。
「このまま血を吸い尽くして殺してしまっても構わないのだけれど、その『タイプじゃないけど妥協してやるか』みたいな態度で死なれるのは癪ね……」
「出来れば殺さないでいただきたいんですが」
「いいや殺す。本当は死なない程度に血をもらうつもりだったけどお前は殺す。でも今じゃないわ。待ってなさい、貴方が喜んで命を差し出すような姿になってもう一度殺しに来てあげるから」
そう言うと、吸血鬼少女は背中の翼を大きく広げ、夜の空へと飛び去った。ので、僕はすぐさま起き上がり、全力でその場から逃げ出した。
「冗談じゃない! 待ってろだって!? 殺すぞって予告されて待ってる馬鹿が居るかバーカ!」
少女がどこへ何をしに行ったのかは分からないが、どうやら彼女が追ってくる様子はない。聞きかじりの知識なので正確性には欠けるが、確か吸血鬼は招かれていない家に入れないとか、そういう弱点があったはずだ。このまま、家に帰りつくことさえ出来れば……朝までやりすごして、どこかに助けを求めることが叶うかもしれない。
高校生の頃にやったマラソン大会以来の全力疾走に息を切らした末、自宅アパートの前まで辿り着いた僕は、震える手で鍵を開けて家の中へと飛び込んだ。慌てて鍵を閉め直し、家中の照明を消したまま息を潜める。今はまだ追ってきていないと思うが、何か吸血鬼の能力的な何かで足取りを掴まれる可能性は十分にある。必死に気配を消して、僕は吸血鬼の来訪に備えた。生憎、十字架やにんにくのように吸血鬼の弱点を突ける代物は、我が家に一つも存在しない。僕に出来ることは、こうして惨めったらしく息を殺し、じっと朝を待つことだけだった。
「逃げるなって、私、言ったわよね」
無駄だった。窓を覆ったカーテンに、街頭の光を背に立つ人影が映る。あいつだ。まだそんなに時間は経っていないはずだが、あの少女は既に僕の家まで来ていた。
「仮にも貴方の希望を叶える為に用意をしてあげたというのにこの態度。とても失礼だと思うのだけれど、その点について貴方自身はどう思っているのかしら」
「し、失礼もなにもあるか! 殺されるっていうのに逃げない方がおかしいだろ!」
「むしろ光栄に思うべきだと思うわよ。理想通りの死に方が出来るのだから」
「どうせなら大人のお姉さんが良いって言っただけで、大人のお姉さんに殺されたいわけじゃねえんだよなぁ!?」
と、そんなやり取りをしている内に僕は気づく。こいつ、どうして窓をぶち破らないんだ? もしかして、招かれていない家には入れないって話、本当だったのか。
「へっ……なんだ、入ってこれないのか。じゃあ、このまま朝まで──」
「出てこないつもり?」
「ひいっ!」
ドン、と凄まじい音をたてて窓が殴りつけられる。吸血鬼の性質故か、窓が壊れることこそなかったが、その衝撃はさっきの平手打ちと比較にならない。もしあの勢いで殴られたら、僕の顔は三日月型に歪むだろう。
「そう。貴方、そういう人なのね。他人の容姿にケチをつけておいて、わざわざ希望通りに身だしなみを整えてきた相手を一目見ることすらせずに締め出すのね。そう、よく分かったわ。そんな性格なら、どうせ人間の女にもモテないんでしょうね。恋人が気合を入れてメイクをしても気の利いた台詞を言わないどころか変化の一つにすら微塵も気づかないタイプでしょ、貴方。あらごめんなさい、恋人が居るという前提で話をするのは失礼だったかしら。居るはずないものね、こんな失礼な男に、恋人が。あーぁ、貴方が大人の女性をお望みだって言うから無理して容姿を作り変えてきたのに、全く無駄骨だったわ。服を着替える時間がなかったせいで、胸が大きくなった分窮屈でしょうがない。でも見ないのよね、そうやってずっと出てこないつもりだものね。他人に手間をかけさせておいて、自分はリスクを恐れてその態度ですか。ええ、そう、良いんじゃないの。そうやって自分の都合ばっかり考えて知らず識らずのうちに他人へ迷惑をかけ続ける一生を精々無駄に長く続けるが良いわ。いつか孤独死の淵に貴方が立ったときは貴方の笑ったロリっ子の姿でそれはもう腹の底から大笑──」
「うるせぇなぁ!? 見りゃ良いのか、見りゃあ!」
あまりにも長々と吸血鬼少女が話し続けるので、苛立ってしまった僕は思わずカーテンを引っ剥がした。すると、窓ガラス越しに彼女の姿が──
「見えねぇ! 擦りガラスだから!」
「じゃあ窓も開ければ良いじゃない!」
「開けたら入ってくるだろお前!」
「入れれば良いじゃない!」
「良くねぇよ!」
ここまでやって強引に入ってこないのだから、招かれていない限り入れないというのは相当強い制約なのだろう。それはひとまず安心すべき点だが、しかし、この調子で朝まで粘らなければいけないのだろうか? いっそこの吸血鬼少女と激しく口論を続けていれば、周辺の住民が通報なりなんなりをしてくれて、こいつも逃げてくれるのでは……なんてことも考えたが、それで呼ばれてきた警察が殺されたりなんかする可能性もある。他人の援護には期待できそうになかった。
「なに貴方、そんなに私の姿が見たくないって言うの!? じゃあ何の為に私は通行人襲って血を補充してきたの!? 貴方が大人の女性を望んだせいで私に襲われたほかの人間たちに悪いことをしたとは思わないの?」
「そんなことしてたの!? その人たちには悪いことしたと思ってるよ! いややっぱ思わねぇよ、だってお前のせいだもん! お前が襲わなきゃ全員無事だったよ!」
「今度は責任転嫁? とことん失礼な男ね!」
「僕が悪いのかなぁ!?」
吸血鬼少女は窓に手をかけてガタガタと強引に開けようとしているが、やはり吸血鬼としての性質だからなのか、既に壊れていてもおかしくないはずの窓は依然としてがっちりと閉まったままだ。やはり、このまま閉じこもっているのが最善策らしい。
しかし、正直なところ僕にも申し訳ない気持ちはあった。いや、自分を殺そうとしている相手にどうしてこんな同情心みたいな感情を抱いているのか自分でもよく分からないのだが、なんというか、小さい子に軽い嘘をついたら信じ込んでしまって、あとから「嘘を教えたの!?」と糾弾されているような、そういう気分になっている。このまま、朝になるまでずっと無視し続けるというのも手段としては悪くないのだろうが、どうしてか僕は彼女の姿を一目見てやらねばいけないのではないか、という気分にさせられていたのだ。
そこで僕はふと思い出した。そういえば、擦りガラスにセロハンテープを貼ると、普通のガラスと同じように向こう側が見えるようになると聞いたことがある。確か、包装用に買った大きめのセロハンテープがまだ残っていたはずだ。この方法なら、窓を開けることなく吸血鬼少女の姿を見ることが出来るのではないだろうか。そう考えた僕は、まだ家の前で文句を言い続けている少女を無視して机の引き出しを開け、底の方に沈んでいたセロハンテープを取り出した。
「遂に返事までなくなったわね。もしかして、私を返り討ちにしようだなんて考えているのかしら。浅はかね、人間が武器を手にしたくらいで私に敵うわけが無いで……何してるの?」
「こうすれば窓を開けずともお前の姿が見えるからな。見ろと言われたから一目見てやるのさ、絶対に窓は開けないけどな」
窓の中に一回り小さい窓をもう一つ作るように、セロハンテープを貼り付けて擦りガラスを透けさせる。これで僕は、自分を「大人の女性」と言い張る吸血鬼少女の姿を安全に拝むことが出来るというわけだ。さて、それじゃあ彼女のお望み通り、この目でその姿を見てやるとするか。
──と、セロハンテープの小窓を覗き込んだ次の瞬間。僕は、目の前に佇む吸血鬼の姿に目を奪われた。
「なるほど、無視の次は覗き見ときたか。とことん失礼な男ね、貴方は」
そこに居たのは、さっき会った少女とはまるで雰囲気の違う美女。サイズの小さい黒のワンピースドレスから飛び出した手足は、闇夜に浮かび上がるほどに白く長い。彼女が身動きを取る度に、足元まで伸びた黒髪はふんわりと揺れる。そして、僕の方を見つめる赤い目。眼光は鋭く、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じる一方で、僕はその瞳から目を離せる気がしなかった。
「…………」
「あら、見惚れて声も出ないかしら。賛辞の一つでも述べるのなら、苦痛を感じないように殺すくらいの気遣いはしてあげても良いのだけど」
「……無理だ」
「なに?」
「僕の言葉じゃ、お前の……いや、貴方の美しさを、語れない」
「そう……良いわ、賛辞として受け止めてあげる」
殺されたくないと思っていた。しかし、どうしたものか。僕は今、この美しい吸血鬼になら殺されても良いのではないか、と本気で思い始めていた。死にたくはない、それは確かなはずなのに、彼女の殺意を受け入れることが相応しいのではないか、という考えが頭から離れない。
気づくと僕は、窓の鍵に手を伸ばしていた。
「そう、大人しく私を招き入れなさい」
あの目を見てからだ。抵抗する意味を見出だせない。どうして僕は彼女から逃げていたんだ? 彼女が殺してくれると言っているのに。
鍵は開いた。窓は開けられた。僕と彼女の間を隔てる物は何もない。思わず後ずさった僕を追い詰めるように、吸血鬼の少女──否、吸血鬼の美女は窓枠を乗り越えて家の中へと入り込む。もう逃げ場はない。逃げる必要性も感じられない。これから僕は、彼女に殺される。
「抵抗すると余計に苦しむわよ、大人しく受け入れなさい」
彼女は悠然と僕に歩み寄り、その白い細腕で僕の体を抱き寄せた。そして、彼女の口が、牙が、僕の首元へと迫る。今度こそ終わりだ。もう、今さら抵抗しても遅い。僕は目の前に迫った死を認識しながら、首筋に走る鋭い痛みに顔を歪めた。
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