新楽瑠璃
人智の及ばぬ遥かなる彼方の宇宙、世界の外側、原始の混沌。そこに
ナイアルラが
だが、ナイアルラは見誤った。いや、見落としたと言うべきか。そも、神に等しい存在であるナイアルラの化身が、人間などというちっぽけな生物の枠に収まると思う方がおかしな話だ。枠に押し込めば形にはなるだろう。しかし、枠の大きさには限界があった。
私は人間の肉体を持っている。人間の精神を持っている。人間の両親から生まれ、人間として育てられ、人間として生きている。だが、人間の枠に収まりきらなかった
小学校を卒業する頃までは、自分がナイアルラの化身であるという確信を除けば、私も普通の人間と変わりない存在だった。それが一変したのは、中学生になってから三ヶ月ほど経った時期。私の、人間としての肉体が成長するに従って、私の全身から奇妙な触手が生え始めたのである。幸いにもそれは、私の意思で不可視化させたり、物体を透過して触れないようにしたりすることで隠し通すことが出来た。だが、それはあまりにも「人間」という生物の常識から外れすぎている。自分自身を人間と認識し、人間として生きることを存在意義として課せられた私にとって、これは耐え難い苦痛だった。
その後も肉体の成長に伴って、私の中の
生きろ、満たせ、そして還れ。与えられたその使命に反することは出来なかった。それなのに、人間という枠からはみ出した
それから、私は他人との関わりを極端に避けるようになった。私が人間であり続ける為に、ナイアルラの力は一切使わないと決めている。それでも、もし万が一この力が誰かを傷つけるようなことが起きれば……それだけで私は、自分で自分を許せなくなってしまう。だから、私は他人と距離を置く必要があった。そして、それはナイアルラへのささやかな復讐でもある。あれが求めているのは、
──そんな私の人生において、彼女との出会いは大きな転機だったのだ。
「……全部、私のせいだ。私が悪いんだ。私が、全部」
先輩に別れを告げた後、私は屋上前の踊り場で頭を抱えていた。
悪夢。彼女からその話を初めて聞いた時点で、私はそれが何を意味するのか理解していた。分からないはずがない。だってあれは、私の夢なのだから。
「どうして上手くいかないんだ……どうして、思い通りにならないんだ。私はただ、あの人の近くに居るだけで十分なのに」
あれは私の夢だ。私の願望だ。醜くて、おぞましくて、穢らわしい、私の欲望だ。現実にしたいと願いながら、彼女に拒絶されることを恐れて抑え込んできたものだ。
今までこんなことはなかった。いや、あったかもしれない。私が知らないだけで、私は今までにも周囲の誰かに悪夢を見せてきたのかもしれない。しかし、私は知ってしまった。私が私の愛するものを苦しめている事実を知ってしまった。許せない。私は私が許せない。罰が必要だ。償いが必要だ。責任を負わなければいけない。私は、私が愛する人を救わなければならない。
先輩は、半年前から悪夢を見始めたと語っていた。その記憶が正確ならば、原因は明白だ。何故ならその時期は、私が彼女に好意を抱いた時期と一致するのだから。
「ふふ、あの人も運が悪い。よりによって私みたいな怪物に好かれてしまうなんて」
自嘲気味にそう呟いて、私はこれから私が成すべきことを考える。先輩の夢を侵食する私の願望は、私が意識的に抑えようとしたところで変化を見せなかった。むしろ私自身の願望が変化したことで、より惨たらしい光景を彼女に見せつける結果を招いている。このままではいけない。今日中に解決策を見つける必要がある。先輩を、今以上に苦しめることなど、あってはならない。
不意に、彼女と出会ったばかりの頃を思い出した。先輩との出会いは、私にとって想定外の、全く偶然の出来事だった。私は単に誰も居ない場所を、誰とも関わらずに時間を潰せる空間を探していて、そこで偶然あの人と出会ってしまった。今思えば、あのとき私は第二ミーティングルームから立ち去るべきだったのだ。それなのに過去の私は、彼女の言葉に甘え、その場に居座った。彼女は私に深く関わろうとしない、そういう楽観的観測がその理由だった。
実際、初対面から半月くらいはその通りだった。私と先輩の間にこれといって会話はなく、せいぜい顔を合わせたときに挨拶を交わす程度のコミュニケーション。それは非常に居心地の良い関係で、その上、楽しいやり取りだった。私とて、高校生活に憧れがないわけではない。他人との関わりを減らす為に部活動への所属は当然諦めたが、先輩後輩という関係に興味がなかったと言えば嘘になる。ほんの少し、二言三言のやり取りであっても、先輩との挨拶は私にとって、毎日の楽しみにもなり得るものだった。
だからだろう。本来ならば、先輩が顔見知りでしかない私との距離を縮めようとしても、私はそれに応えるべきではなかった。なのに私は、それが嬉しくて、つい彼女への拒絶を躊躇ってしまった。向こうにしてみれば単に、いつも顔を合わせる後輩と少しぐらい仲良くしておこう、くらいの感覚だっただろう。それでも、幸せに飢えた私にとっては大きな誘惑だった。飢えていれば良かったのだ。初めから、蜜の味など知らないまま生きていれば良かったのだ。僅かな楽しみを、他人と交流する喜びを、中途半端に覚えてしまった。だから私は、それ以上を望むようになってしまった。
「……全部、忘れるべきなんだ」
私の好意が、先輩への執着が、重い感情が、彼女の夢を侵し、穢し、踏みにじる。ならば答えは簡単だ。私が彼女への好意を捨てるだけで良い。幸い、ナイアルラの力を利用すれば人間の記憶を消すことなんて造作もない。たとえそれが自分自身の記憶であっても、一個人との関わりを忘れる程度ならば「満たせ」という使命に反するとは見なされないだろう。
ただ、それだけでは終われない。私が彼女のことを忘れるだけでは、解決しない。彼女が私のことを覚えていてはいけないのだ。私は、彼女の記憶も消す必要がある。
「嫌だなぁ、それは。名残惜しいなぁ……でも、やらなくちゃ」
忘れたくない。忘れられたくない。でも、このまま彼女を苦しめ続けるというわけにもいかない。これは償いだ。私への罰だ。ならば甘んじて受けねばならない。私は人間であり続けたい。自分の欲望で他人を傷つける、そんな怪物にはなりたくない。
──でも。
「また、先輩と下らない話がしたいなぁ……」
叶わない願いを口にしてから、それが先輩を苦しめているのだと自覚する。途端に涙が溢れてきて、自分の気持ちが抑えられなくなる。声を上げるわけにはいかない。まだ先輩は第二ミーティングルームに残っているはずだ。泣き声なんて聞かれたら、彼女はきっと様子を見に来てしまう。もしも今この場で事情を問いただされたりすれば、私は多分、この場で彼女の記憶を消すしかなくなってしまうだろう。冷静に対処出来るとは思えない。どうか私に、覚悟を決める時間を、別れを受け入れる為の時間を与えてほしい。
そう、思っていたのに。
「……新楽?」
私の名を呼ぶその声は、今一番聞きたくない声だった。踊り場に上りかけて、心配そうにこちらを覗き込む彼女の顔は、今一番見たくない顔だった。どうしてここに、そんな言葉は出てこない。
「先輩……」
ふと、悪い考えが脳裏をよぎる。どうせ、私も彼女も、お互いのことを忘れなくてはいけないのだ。だったら──今この場でだけ、私の夢を、願いを、欲望を、叶えてはいけないだろうか。
「あ」
そう考えてしまった、次の瞬間。私の全身から伸びた無数の触手が、その醜い姿を露わにした。
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