胸騒ぎ

 私が新楽にいら瑠璃るりと出会ったのは、新年度が始まってから二週間後のことである。

「おや、これはこれは。良い場所を見つけたと思ったのですが……なるほど、ここはもう先輩の城だったわけですか。道理でこの部屋だけ居心地が良いわけだ。大丈夫、私はすぐに出ていきますよ。先輩の邪魔をするつもりはありません、ご心配なく」

 放課後の第二ミーティングルームで、彼女はそう言って私を出迎えた。いや、引き留めたと言うべきか。先客の存在に気づいた私は、部屋の扉を引き開ける前にその場で止まり、踵を返して帰ろうとした。その背後で彼女は扉を開け放ち、やたらと芝居ぶった口調で私を呼び止めたのだ。

「別に、君を追い出してまでその部屋にこだわるつもりはないよ。真っ当な理由があって部屋を使いたいわけじゃないしね」

「そうですか? しかし、それは私も同じですからねぇ……先輩を追い返して勝手に部屋を専有するというのは、あまり気分が良くありません」

「そう。なら、別にどちらかが出ていく必要はないんじゃない。そもそもこの部屋は私が無許可で使っている空き部屋であって、私たちどちらのものでもない。共犯関係になるだけだ、お互いに気を遣う理由もない」

「……なるほど。では、お言葉に甘えて。私は部屋の隅っこで好きなようにしているので、先輩はどうぞ、部屋のどこででも好きなようにお過ごしください」

 それが、私と新楽瑠璃の初対面。それから毎日、私と彼女は放課後の第二ミーティングルームで顔を合わせるようになった。なにを話すわけでも、なにをするわけでもなく、お互いが勝手に来て、勝手に過ごして、勝手に帰っていく。友達と呼ぶほどに親しいわけではなく、単に同じ学校の先輩と後輩、というだけの関係。よく知らない他人と二人きりで同じ空間に居る、ということで多少は居心地の悪さも感じていたが、そんな日常が一週間も続いた頃には、私もすっかりこの環境に慣れていた。

 ──そして、今になって気づく。私は未だに、彼女の連絡先を一切知らないのだ。




 いつもと違う悪夢。その影響か、登校した後も私は、依然として気分が落ち着かなかった。所詮は夢と思いつつ、新楽の身に何か起きていないか、不安な気持ちが拭えない。かと言って、わざわざ彼女の居る一年生の教室まで様子を見に行く気にはなれなかった。君が死ぬ夢を見たから心配で、などという付き合いたてのカップルみたいな理由で下級生の教室まで行くのは、どうにも心理的な抵抗が大きい。そこまでする勇気は、流石の私も持ち合わせていなかった。

 どちらにせよ、彼女が無事ならば放課後には第二ミーティングルームで会うことになる。妙な胸騒ぎは一向に消えなかったが、私は自分を納得させると、放課後までは彼女のことを考えないことにした。

 そして、放課後。

「おや、先輩。どうしたんですか、そんなに急いで」

 新楽瑠璃は、普通に、いつも通りに、第二ミーティングルームでくつろいでいた。

「……なんでもない」

「いえいえ、なんでもなくはないでしょう。ほら、約束したじゃないですか。魔除けの効果はいかがでしたか?」

 例の如くにやにやと笑いながら、彼女は私に儀式の成果を問う。だが私の返すべき答えは、恐らく彼女の期待を裏切っているだろう。それでも、聞かれたからには答えざるを得ない。私は嘘偽りなく、昨日見た夢の話を彼女に話して聞かせた。

「ふむ、私が殺されている夢、ですか」

「殺されている、というか、厳密には瀕死かな。ずっと、誰に対して言ってるのか分からない謝罪の言葉を繰り返していたから」

「謝罪の言葉?」

「うん。ごめんなさいとか、許してくださいとか、あと、私が全部悪かった、とか」

「……なるほど、そこまで強かったとは」

 新楽は口元を抑え、小声で何かを呟いた。辛うじて聞き取れたが、強かった、とはどういうことだろう。私に悪夢を見せている存在が、魔除けの儀式で太刀打ちできる代物ではなかった、ということだろうか。

「すみません、先輩。昨日教えた儀式では力不足だったようです」

「まあ、そういうことになるのかな……というか、私の悪夢ってやっぱりそういう、怪異的な奴の仕業なのか?」

「そうでしょうね。ですが、ご安心ください。友人のよしみです、私がどうにかしてみせますよ。夢の中とはいえ、やられっぱなしというのも癪ですからね」

「どうにか出来るの?」

「ええ、まあ。方法は言えませんけどね。言っても分からないと思いますし」

 前々から不思議な雰囲気をまとった奴だとは思っていたが、いよいよ彼女が何者か分からなくなってきた。しかし、結果的に失敗したとはいえ、魔除けの儀式を行ったその日に悪夢の内容が変化したのだ。新楽に任せてみる価値はあるだろう。

「じゃあ……頼もうかな。それで、私はどうすれば良い?」

「いえ、何もしなくて結構です。こちらで全て終わらせます。先輩はいつも通り、安心してお休みください。きっと今夜の夢は、もう悪夢ではなくなっているはずですからね」

 そう言うと新楽は、荷物をまとめて拾い上げ、廊下へと出てからこちらを振り返った。

「では早速、私は準備をしなければいけないので。さようなら、先輩」

「ああ、また明日……じゃなかった、今日は金曜日か。じゃあ、また来週」

 部屋の扉を閉めて去っていく新楽を見送り、私は担いだままだった鞄を机に下ろす。しかしどうにも、作業に手をつけるという気分にはなれなかった。

 胸騒ぎが消えない。新楽は無事だった。あれは単なる夢だった。現実の彼女に危険があったわけじゃない。しかし、それでも何かが不安を残していた。魔除けの儀式が効かない悪夢の原因が、今夜こそ新楽に悪い影響を与えるのではないか。そんな心配もないわけではなかったが、不安の原因はそれじゃない。何か、もっと別の違和感。その正体を、私は掴めずにいた。

「……今日は、私も帰るか」

 誰に言うわけでもなくそう呟いて、私は置いたばかりの鞄を再び持ち上げた。二年生になってから初めてだ、私がこの部屋で最終下校時刻を迎えずに帰るのは。

 消灯した第二ミーティングルームを出て、階段へ向かう。旧校舎は本校舎に比べて照明が暗く、日当たりも悪い。一階の昇降口に続く階段は、この建物にほとんど人の出入りがないこともあり、埃っぽく、薄暗かった。

「ここ、こんなに不気味だったかなぁ」

 そんなことを思いながら、階段を一歩下ったとき。私は、確かに誰かのすすり泣く声を聞いた。

「そういえば、私たちが今居る旧校舎、どうやら幽霊が出るって噂があるらしいじゃないですか」

 昨日、新楽がふと言い放った言葉を思い出す。まさか、と一瞬考えてから、居るかどうかも分からない幽霊よりもよっぽど現実味のある可能性に私は気づいた。

「新楽?」

 根拠があったわけではない。たとえ彼女だったとしても、何故、今、ここで彼女が泣いているのかは分からない。そして、泣き声を漏らしたのが彼女だと思わせるような材料もない。ただ、自分自身を納得させられるだけの根拠がないにもかかわらず、私は、この声が彼女のものだと思わずにいられなかった。

 声は、上から聞こえてきた。ここは四階、旧校舎の最上階。階段を上がった先にあるのは、埃の被った踊り場と、施錠された屋上の扉だけである。

 行くべきか、私は迷い、足を止め、目を閉じる。閉じた瞼の裏に、昨日見た悪夢とよく似た光景が映し出される。嫌な予感がする。何故かは私自身にも分からないが、やたらと悲しい気分に襲われる。急に胸が苦しくなり、私はその場にしゃがみ込む。夢の中で触手に巻き付かれた時のような、ずるり、という感触が全身を走り抜ける。気分が悪い。

「……確かめる、だけだ」

 胸騒ぎは未だに消えない。この階段を上がれば、この胸騒ぎを消す何かが見つかるかもしれない。そんなことを考えながら、私は一段下りたばかりの階段を引き返し、屋上へ向かう階段を上り始めた。

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