「とてもすごくよく健康体」
桜居春香
第1話:無神論者のお嬢さん
誰でも良いから殴り飛ばしたい気分だった。駅から少し離れた商店街の外れに、観光客を狙ってカツアゲを行う連中が居ると聞いたことがある。だから私は、駅から商店街の方へと歩き出した見知らぬ外国人の後をつけたのだった。
獲物が餌にかかるのは早かった。一人で居る外国人の小柄な女なんて、不良連中にとってはカモでしかない。背後に私が隠れているとも知らず、奴らはすぐに女を路地裏へ引きずり込んだ。すかさず私は彼らに続いて路地裏へ飛び込み、不良の一人をビルの壁に叩きつける。ほかの男たちの驚く顔が傑作だった。
殴りかかってくる奴、驚いて動けない奴、逃げようとする奴。その全員を、しっかり気を失うまで叩きのめす。段々と怯えるさまが最高で、多少は陰鬱な気分が晴れるようだった。
そして、不良連中が一人残らず気絶して倒れ伏した後、最後に残った外国人の女を一瞥し、ただ一言「用心しろ」とだけ告げて私は去る。所詮これは八つ当たり、人助けのつもりなどない。餌として役に立ってくれたことにだけ感謝し、それだけで終わらせるつもりだった。
──その女が、意味深なことを口走るまでは。
「驚きました。宗教意識に乏しいこの国で、よもやこれほど強烈なバチカルを宿した人間と巡り会えるとは」
ついさっきまで不良連中に囲まれていたとは思えない能天気な声で、流暢な日本語を話す金髪緑眼の女。それは、この場を去ろうとしていた私の足を止めるには十分な違和感だった。
「いやはや、助かりましたよ。お陰で余計な仕事を増やさずに済みました。しかし、これもまた神の導きというやつでしょうかねぇ。なんて、無神論者の前で言うのは失礼でしたか」
「……アンタ、どうして私が無神論者だって?」
「見れば分かりますよ、それくらいの違いは。神を熱心に信じていない者が多いこの国でも、神の存在を強く否定する者はそう多くありませんからね」
奇妙な奴だ、と私は思った。何が、と聞かれれば何もかもが奇妙なのだが、何よりも目が奇妙だった。私を見ているようで、私を見ていない。まるで、何か遠くにあるものを見るような目を私の方へ向けている。それが、無性に気味悪く感じられた。さながら、蛇に見つめられた蛙のような、そんな気分である。
「とにかく、ありがとうございます。商売道具を撒き散らすことにならなくて良かった」
「商売道具って、そのアタッシュケース? なんか、よく見ると観光客って感じじゃないな、アンタ」
「ええ、ここに来たのは仕事の関係ですから。ああ、そうだ。折角ですし、お一ついかがです? もちろん、お代はいりませんよ。助けていただいたお礼ということで、ね」
そう言って金髪の女は、手に持っていたアタッシュケースを広げる。するとそこには、何かよく分からない玩具らしきものが大量に詰められていた。
「見たことのないゲーム機に……そっちは人形? アンタの仕事って一体……」
「私の名前はミストレス・シュピール。あえて名乗るとすれば、玩具職人でしょうか。さあ、好きな物を選んでください。どれでも一つ、お譲りしますよ。無神論者のお嬢さん」
絶対にこの女はただの玩具職人じゃない。そんなことは、これまでの言動でよく分かっていた。だが、今の私は疲れているのだ。余計なことを聞いて掘り下げるような気力は持っていなかった。
「……じゃあ、こいつで良いや」
「ふふ、お目が高いですね。それがこの中で一番新しい作品ですよ」
「ふぅん……」
「説明書は箱の中に入っているので、よく読んでから使ってくださいね。使い方を間違えた場合の損害に関しては、私も保証しかねるので」
「そんな危ないものには見えないけどね」
私が手に取ったのは、透明なプラスチック製の外箱に「とてもすごくよく健康体」という頭の悪そうな文章が記されたゲーム機だった。私はさほどゲームに詳しくないが、十五年前くらいに発売された別の携帯ゲーム機によく似ている気がする。だが、そちらについていたようなゲームソフトの取替口はないようだ。
「それでは、私はこれで。貴女も早めに退散した方が良いのでは? 彼らをボコボコにしたことがほかの人に知られてはまずいでしょう」
「……それもそうだ。じゃあ、こいつはありがたく頂いていくよ」
「ええ、どうぞ。……ああ、それと最後に一つだけ」
アタッシュケースを閉じて歩き出したミストレス・シュピールが、足を止めて振り返る。夕日を背に、逆光で照らされた影の中、緑色の瞳だけがやけに光って見えた。
「神は居ますよ。と言っても、貴女の否定しているそれとは違う存在ですがね」
次の瞬間、私が逆光に目を眩ませた一瞬の間に、ミストレスの姿はその場から消えていた。
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