細かい雨の降る土曜日の午後だった

シュート

第1話 わずかな光を透かして

細かい雨の降る土曜日の午後だった。

まっすぐ延びた道

整備された街路樹が雨粒で光っている

湿った空気のせいで緑の匂いが立ち込めている

未来への漠然とした不安で

何もかもが現実感がなかった


少し先に四つ角が見えた。

『もうすぐ着く』

 岡崎彩花がそう思った時、キーという音が聞こえ、角から黒色の車が猛スピードで飛び出してきた。やや遅れてパトカーが見えたから、何らかの理由で追われていることがわかった。

 あまりの突然の出来事に彩花と彼氏の大山斗真は驚いてはいたが、自分たちの横を通り過ぎるものと思い込み、目の前に広がる少し靄った歩道に視線を戻していた。

 しかし、スピードの出し過ぎと雨で濡れた道路にハンドルをとられた黒い車はコントロールを失い、車体を左右に振りながら、突然二人に向かって突進してきた。

『逃げて』

 自分と彼氏の斗真に向けて叫んだつもりだったが、実際は声は出ていなかった。次の瞬間、何かが軋むような音とともに、目の前に黒い塊りが迫っていて、逃げようにも逃げられなかった。一瞬の静寂の後、身体中の血液が逆流するような恐怖に魂が行き場を失い、奇妙な気持ち悪さに襲われる。

 もの凄い音を聞いたと思ったら、身体が宙を舞い、同時に意識が飛んでいた。


二 月曜日(5日前)

 窓から差し込む陽の光が時の流れとともに僅かずつ色を変えていた。

 季節はしなやかに移り変わって行くが、自分はそれい追いついていけない。

 なぜだかはわからないけれど、いつもは感じない硬質な悲しみと不安がうねりのように押し寄せてくるのは、月曜日の朝だからだろうか。

 それでも、ごく普通の、ありきたりで退屈なOLの1日がスタートしていた。

「7時になりました。モーニングトゥデイの時間です」

 リビングに置かれたテレビから女性アナウンサーの爽やかな声が聞こえてくる。

 短大を卒業後今の会社に入った彩花は、今年27歳になる。すでにOL歴7年のキャリアがあり、仕事にも日々の生活にも、そして、生きることにも慣れていた。

今朝は寝過ごしたので、朝食はフルーツとチーズで済ます。時間がある時は、パンを焼いたり、サラダを用意したり、バナナやヨーグルトも食べるけど…。

 本当に時間がない時は、会社の近くのコンビニでおにぎりとかサンドイッチを買って行って更衣室で食べることが多いが、栄養ドリンク1本で済ますこともある。

 さっさと食べ終えた彩花は、出勤の準備のためにキッチンを出て部屋に向かう。

「次は今日の星座占いのコーナーです」

 出勤着に着替えた彩花が再びテレビの前に戻ったタイミングで占いのコーナーが始まった。

 その日の運勢ランキングとその内容を確認してから出かけるのが彩花の日課になっている。彩花は以前はそれほど占いに興味がなかった。とはいえ、雑誌などに占いのページがあれば見てしまう程度には好きだったけれど。

 でも、このテレビ局のこの番組の占いを見るようになってから、すっかり虜になった。なぜならすごく当たるからだ。気になって占い師の名前を確認したら、小さな文字で千堂ほのかと書かれていた。本名とは思えないが、占い師の名前にしてはかわい過ぎると思った。

 自分の星座のランキングが上位の時は朝からハッピーな気持ちになれて嬉しいけれど、逆に下位の時は憂鬱な気持ちになったり落ち込んだりするだけでなく、その内容が一日気になったりしてしまう。

「今日最も悪い運勢なのは、ごめんなさい、蟹座の人です」

 女性アナウンサーがいかにも申し訳なさそうに告げる。

「ええー」

 画面に向かって思わず声をあげてしまった。

 そう、彩花は蟹座の人なのだ。

 それでなくとも憂鬱な月曜日の朝なのに、最下位の運勢と知らされてテンションはダダ下がりだ。

 女性アナウンサーの声が続く。

「不安から暴走してしまいそうな一日。自分がダメだと思ったら、親しい人に相談すると落ち着けそう」

『気にしなければいいのよ』

 そういう心理が働いたが、すぐに打ち消した。どうせこの占い師の言ったことは当たるのだ。なので、そういうことが起きると思って心の準備をしておく。これが彩花のスタンスだ。

 その日の午前中は特に何も起きなかった。しかし、午後になってやっぱりそれは起こった。

 社内でも部下に厳しいことで、というか厳しく当たることで有名な課長の大杉から明日の会議資料を今日中に作成するように命じられたのだ。大杉は仕事ができない部下には、たとえ女子社員でも怒鳴りつける。大杉は会議資料の作成はいつも彩花の1つ先輩の山口紗英に頼んでいたが、よりによって今日は紗英が休んでいた。

 部屋に入ってきた大杉は、ちらっと女性陣を見て、なぜか彩花を指名した。

『なんで私なのよー』

 人にも時代にも見捨てられたような気分になる。

「大事な資料だからちゃんとやってくれ」

 そう言って関連書類をドカっと彩花の机の上に置き、自分はさっさと別の会議に向かってしまった。なので、内容について質問すらできなかった。呆然と立ち尽くす彩花に、隣席の田中久美がよくわからない茶々を入れた。

「よっ、4番代打岡崎彩花」

 だが、彩花にはそんな揶揄いに反応する余裕すらなかった。

「ど、どうしよう」

 どう考えても自分には山口先輩のような完璧な仕事ができるはずもなかった。大杉に思い切り怒鳴られている自分の姿が頭に浮かび、彩花はおろおろしてしまう。それを見た久美がさらに追い討ちをかける。

「かわいそうに。最悪だね。変人と目が合ってしまったのが運の尽きっていうことよ」

 大杉のことを女性事務員たちは影で『変人』と呼んでいる。

 彩花がそんな『変人』の餌食になってしまったことを、他人事になって安心したのか久美はおもしろがっている。でもその通りなのだ。大杉が部長と一緒に部屋に戻って来た時、他の子たちはみんな下を向いていたのに、その物音に思わず顔をあげた彩花は大杉と目が合ってしまったのだ。

「もおー、そんなこと言わないで助けてよ」

「無理よ。どんなに頑張って作成したって変人のお眼鏡に叶うことなんてないんだから。山口さんは別だけどね」

「そうなんだけどさあ…」

 だが、ちょうどその時、何かの用事で近くに来ていた彩花の憧れの先輩の中丸真弓さんが声をかけてくれた。

「岡崎さん、どうしたの。顔が強張ってるわよ」

その瞬間、朝の占いの言葉を思い出した。

「あっ、中丸さん。教えてほしいんですけど」

 すがる思いで、大杉課長から会議資料の作成を頼まれたけど、どう手をつけたらいいのかわからないと素直に話した。

「ふふ。大杉課長に狙われちゃったわけだ。いいわよ。私が教えてあげる」

 中丸先輩はおかしそうにしながらも指導してくれるという。

「ありがとうございます」

「かわいい後輩のためだものね」

 中丸先輩の、こういう優しいところも憧れる。

 仕事ができる中丸さんのことは大杉課長も一目置いている。そんな中丸さんの協力を得て何とか会議資料の作成を終えることができた。大杉課長に渡す時は緊張したが、中丸さんに指示を仰いだとつけ加えたら何も言わずに受け取ってくれた。

 ほっとして自席に戻り、何気なく携帯を取り出してみると彼氏の斗真からラインが届いていた。今日、彩花の自宅に来たいという。すぐにOKである旨を返信する。

『ピンチの後にチャンスあり』

 占いが指摘していた悪いことはもう起きてしまったので、この後はいいことが待ち受けているに違いなかった。だとすると、彼からいい話でもあるか?

 斗真がやって来たのは午後8時過ぎだった。部屋に入ってきた斗真は少し疲れた様子を見せていたけれど、機嫌は良さそうだった。それだけで幸せな気分になれる。

「あのさあ」

 夕食後、ソファーに横並びに座りながらテレビを観ている時に斗真が彩花の方に向き直って言い出した。

「ん?」

「そろそろ俺たち別れないか」

 とたんに空気がざらついた。

 暗い渦に巻き込まれていくような感覚になった。

『もう悪い運勢は終わったんじゃないの?』

 彩花は心の中で占い師のほのかに問いかけていた。嫌なことは仕事中に起きていたので、今日はそれで終わりと決めつけていた。運勢は一日分だとはわかっていたけれど…。

 それにしても、そろそろ結婚しないかならわかるけど、まさかの別れ話だった。

「なんで?」

 心の中がぐらぐらと煮立っているが、自分のそんな思いとは裏腹に自分の声が自分のものとは思えないほど頼りない。

「なんでって、彩花だってわかってただろう。俺たちうまくいってないじゃないか」

 わかり切ったことに駄々をこねている彩花の方がおかしいとでも言うような斗真の言葉は無数の棘となって、彩花の心の一番柔らかな部分に傷をつけた。

「えっ、どういうこと? 多少の倦怠期感はあったけど、そんなの長く付き合っていればどんなカップルだってあることなんじゃないの」

 精一杯の抵抗を試みるが、湿り気を帯びた夜の大気が彩花を包み、内臓が空っぽになるような感覚を覚える。

「倦怠期感ねえ」

 斗真は、半笑いの呆れ顔を作りながら、まるで感情の籠らない冷めた声で突き放すように言った。なんかひどく馬鹿にされたようで、心の中が真っ黒になってしまう。

「何で笑うのよ」

 これまで二人で過ごした楽しい時間、楽しい思い出が急に曖昧になっていく。

「その程度に感じていたんだと思ったら笑えたよ」

 二人の置かれた状態がそれほど深刻だったとは思えない。少なくとも彩花の斗真に対する気持ちは変わらなかったし、斗真だって、そんな風には見えなかった。本当は斗真のほうは変わってしまっていたのに自分が気づけなかっただけだったと言うのか?

『自分が能天気だった?』

 でも、

『なんかおかしい』

 斗真の、どこか虚ろな顔は自分の本来の感情を読み取られないように作っていると思った。その瞬間、目の前の出来事を見なかったふりをすることにした。ほんとうは斗真に縋りついてでも「別れたくない」と言えばいいのかもしれないけれど…。

「私に直してほしいところがあったら言って。ちゃんと直すから」

 まっすぐ斗真の目を見て言った。

 だって、彩花は斗真のことが今でも好きだから。

 2つ年上の斗真と出会ったのは会社の創立記念パーティの席だった。取引先の上司に斗真を紹介された時、なぜだかわからないけれど、好きという気持ちより先に、この人は自分にとって運命の人だと思ってしまった。それは自分がちょうど結婚を意識し始めていた時だったからかもしれないのだけど…。当時の彩花は、遅くとも25までには結婚するつもりだったのだ。

 幸いなことに、その後斗真の方からアプローチしてくれて付き合いが始まった。

 付き合いが進めば進ほど斗真のことが好きになっていた。いつの間にか、斗真は自分にとってかけがえのない存在になっていた。だから、一生懸命に尽くした。もちろん、時には喧嘩もしたし、慣れのような感情が起きることもあったけど、そんなことで自分の気持ちは変わっていない。

 一瞬見つめ合う形になつたが、斗真はすぐに目を逸らせた。

「だから、もうそういう段階じゃないんだよ」

『おかしい』

 やっぱり

『おかしい』

「急にそんなことを言い出すなんてへんでしょう。女が出来たんじゃないの?」

 何の証拠もなく、あくまで疑念だったけど、口に出してみたらそうであるような気がした。

 斗真は平静を装うとしたのだろうが、眉毛がわずかにだけど動いた。自分に都合が悪いことを指摘されたような時に示す斗真の癖。今まで斗真にその癖を教えたことはないから本人も気づいてないはずだ。でも、これで疑念が確信に変わった。

 なぜだか鼻の奥がかすかに熱くなる。

「俺はそんなこと一言も言ってない」

 怒ったような顔で否定して見せるが、彩花からすれば認めたのも同然だった。

「でも、そうなんでしょう」

「違うよ。話を逸らすなよ」

 話を逸らそうとしているのは斗真のほうだ。

『でも、嫌だ』

『別れたくなんかない』

 どんな女かわからないけれど、見知らぬ女に斗真を渡すことなんてできない。

 それに、

 こんな一方的な別れ話なんて、あまりに理不尽だ。

 斗真も許せないけれど、相手の女も許せない。

「私、別れないからね」

 流れてきそうな涙をぐっと堪え、斗真から誕生日プレゼントにもらったブレスレットを指で強くつかみながら、精一杯ドスの効いた声で言ってやった。

 本当のところ、彩花の心は不安で風船のようにゆらゆらと揺れていたけれど…。

「そう…。だけどさあ…」

 そこまで言って斗真は口を噤んだ。今日はこれ以上話しても埒が明かないと思ったのだろう。

 風が窓を叩く音が聞こえる。

 都会の孤独が深まっていく中、息詰まるような不穏な空気が漂っている。

「帰って」

「ん?」

 聞こえたのに違いないのに聞こえないふりをした。そんな素振りが余計に彩花を苛立たせた。

「聞こえてたでしょう。帰ってよ。帰って」

 泣くつもりはなかったけれど、涙声になっていた。そんな彩花を見て諦めたのか、斗真は何も言わず帰り支度をして、静かに部屋を出て行った。

 彩花は今まで斗真がいた空間を睨めつけた。

 時を刻む時計の音だけがやけに大きく聞こえる中、

 沈黙がしばらくは蜘蛛の巣のようにそこにあった。

 一人になりたかったはずなのに、一人が怖かった。


三 火曜日(4日前)

 昨夜はずっと眠りと目覚めの境目にある海の中を漂っていた。

 未だに心の中が粟立っている。

 幸せなんて指の間からいとも簡単に零れ落ちてしまうものらしい。

 深呼吸をして滲んだ涙を抑え込んだ。

 昨日の占いは最後の最後に最悪の形で的中してしまった。まさかの別れ話は彩花の心の均衡を狂わせた。そんな運勢を怨んだし、お門違いかもしれないけれど、そんな運勢を的中させた千堂ほのかという占い師のことも怨んだ。

『あの人、ちょっと怖い』

 とはいえ、昨夜のこともそういう運勢だったと受け止めるしかないのかもしれない。でも、昨夜はそんな運勢に抗った。だって、あんな一方的な別れ話、納得できるはずもなかったし、認めたくなかった。

『絶体に別れてやらない』

 それに、運勢は日々変化する。だから、認めさえしなければ、今日以降に運勢が変わって、斗真の気持ちもまた自分に戻るかもしれないのだ。なにせ、昨日の自分の運勢は最下位だったのだ。これ以上下がることはなく、普通に考えて今日以降は上がるはずだ。そのことに期待することにした。

「今日の4位は蟹座の人です」

 なんと、昨日の最下位から一気に4位まで上がった。こうした極端な変化のある週は、これまでの経験からして運勢が乱高下する傾向があった。こういう週は、当然ながら気持ちも乱高下するわけで、正直しんどい。

 気になるのは斗真とのことだ。

 今後どうなるのだろう。

「一日を通して穏やかに過ごせるでしょう。周囲の信頼感も抜群ですが、マイペースになり過ぎないよう注意してください」

 昨日が昨日だったので、今日の占い内容を聞いて、少しだけ気持ちが和らぐ。ただ、同時に斗真のことは変化がないのだろうとも予測された。

「これおいしくない?」

 隣に座る松永里菜が彩花に向かって言った。

 昼食のために買ってきたお弁当を屋上のベンチで食べているところだ。

 コロナが蔓延するようになってからお店に行って食べることは極端に減った。結果、弁当を持参する子が増えたけど、たまにはプロの作ったものが食べたくなる。ということで、今日は近くの公園に来ているキッチンカーで唐揚げ弁当を買ってきて、部署は違うけど同期入社の中で一番仲の良い里菜と食べている。

「うん。おいしい」

 彩花も唐揚げを口に入れながら言う。溢れ出た肉汁が口の中いっぱいに広がり、小さな幸せが訪れる。

「でもさあ、いったいいつまでこんな状態が続くんだろうね」

 里菜が今誰もが感じている思いを吐露した。

 今東京には今年に入って4度目の緊急事態宣言が発令中である。

 若い二人にも精神的な疲れが出ている。

「ほんとよね。もういい加減うんざり」

 真面目に自粛生活を送っているからこそ、ストレスが溜まっている。

「ところで、訊きたいんだけど、彩花のとこ、濃厚接触者とうまくいってるの?」

 里菜の言う濃厚接触者とはもちろん彼氏のことだ。

「う~ん。まあまあかな」

 まあまあどころか、昨日別れ話を切り出されたばかりだ。だけど、そんな弱みは見せたくなくて、つかなくてもいい嘘をついてしまった。

「そうなんだ。うらやましい」

「えっ、里菜のとこはうまくいってないの?」

 里菜は彼氏と同棲中だ。これまで里菜からはラブラブな話しか聞いたことがなかったので、ちょっと意外だった。

「うん。実はそうなんだ」

「そう…。で、何が原因なの」

 原因を訊かれて里菜はちょっと躊躇していたが、すぐに続けた。

「彼、在宅勤務が増えたのよ。というかほとんど在宅勤務なわけ」

「うん。それで?」

「あっちは一日中家にいるわけよ」

 当然だ。それが在宅勤務というものだ。

「まあ、そうなるわよね。それで?」

 気が付けば、さっきから少し詰問口調になっている。

 早く先が聞きたい。

 興味があるのだ。

 他人のことだから。

「この間なんか、私が疲れて帰ってちょっとぼおっとしていたら、呆れた顔をしながら、すぐに夕食の用意をしろとか言うのよ」

「それはひどいね」

「でしょう。それに、彼、一日家にいるから部屋がちらかっているし汚なかったりするわけ」

 いつもなら気にならないことでも、環境が変わると気になったりするものだ。今までと違う生活スタイルで生まれたストレスなのだろう。でも、きっと彼は彼で別のストレスを抱えているのに違いないとも思う。

「そうかあ…」

「それで、最近喧嘩ばかり」

 里菜の凛々しく切れ長の目が、心なしか潤んでいる。

 コロナの影響はこんなところにも出ているのだ。

「なんか辛いね」

 そうは答えたけれど、かすかな酷薄さで内心はニヤリとしてしまう。自分が不幸になりかけている今、里菜も同じであってほしかった。他人の不幸は密の味ともいうし…。

 自分でも嫌な女だと思う。

「それでさあ、彩花どうしたらいいと思う?」

 里菜は気づいていないけど、つい今しがたしょうもない嘘をついた自分に、里菜は真剣な目を向けている。

『ごめん、里菜』

 心の中で詫びる。

 口の中に嫌な苦い味がする。

『だって、今まで里菜が自分に彼氏のことを相談してきたことなんてなかったじゃない』

 ここは罪滅ぼしに真摯に答えるしかない。

「う~ん。里菜んとこ同棲してそこそこ長いじゃない」

 里菜が黙って頷く。本当に悩んでいるのだとわかる。

「だから、お互い相手のことはわかっているつもりになっていたと思うの。でもさあ、所詮他人じゃない。他人のことなんて、そんな簡単に理解できるものじゃないんじゃない}

 言いながら自分自身に向けての言葉でもあると思った。

「うん」

「だから、里菜が怒る気持ちも十分わかるけど、彼は彼で今までと違うストレスを抱えていると思うの」

「そうかもね」

 里菜の清純で典雅な瞳に見つめられ、胸の奥が鈍くうずく。

 こんなにも簡単に他人の言葉を受け入れてしまう里菜の素直さが愛おしくなる。

 同い年なのに、ぎゅって抱きしめてあげたい。

「そんな中で生まれてしまった小さな心のズレのせいだと思うから心配ないよ。ちょっと冷静になってちゃんと話し合えばいいんじゃない」

 自分が言いたいこととは別のことを言っているという感覚が彩花にはあった

 嘘をついているわけではないのにすべてが嘘くさくもあった。

「そうか、そうだね。その通りだね。前々から彩花はうちの会社の中で一番信頼できる子だと思ってたけど、相談して良かった。ありがとう」

 ありきたりで陳腐なアドバイスだと自覚しているのに、里菜が予想以上の反応を示してくれたことが嬉しかった。それにも増して、里菜が自分のことを一番信頼していたと聞かされて感動してしまった。

「ううん。お互い頑張ろうね」

 梅雨明け間近の碧空がちぎれた色紙のように浮かんでいた。

 今日も占いは当たった。


四 水曜日(3日前)

 指先から安らかなぬくもりが伝わってくる。

 昨夜は久しぶりによく眠ることができたのだ。

 窓の外から聞こえる通りのざわめきが朝が始まったことを知らせていた。

 とかく陰鬱な気持ちになりがちな朝の気配を振り払い、出勤の準備を進める。

「第9位は蟹座の人です」

 女性アナウンサーの、若いが安定した声が伝える。

 昨日一度4位に上がったと思ったら、今日は9位。気持ちがついていけない。

「運勢そのものは停滞しがち。仕事運は悪くないですが、プライベートで苦労しそう」

『嫌な感じ』

 プライベートで苦労しそうって、斗真のこと以外で何があるって言うのよと、画面に向かって毒ずいてみるが、もちろん答えなど返ってこない。

 駅の階段で一段踏み外しそうになり、ようやく乗り込んだ満員電車の車内では痴漢にあった。すでに嫌なことだらけで、会社に着いた頃には疲れ切っていた。しかし、今朝の占いの通り仕事中はマイナスな出来事もなく普通に終業時間を迎えた。

 家に帰り、お風呂上りにビールを飲みながら食事をする。リビングでは、点け放しになっているテレビのバラエティ番組から芸人の笑い声が聞こえてくる。

 さっさと後片付けを済ませ、リビングに向かい、ソファーに座る。

 目はテレビ画面に向いているが、ただ眺めているだけだ。

 時間がねっとりと流れていた。

 身体がふわりとして頼りない。

 すでにいい具合に酔いが回っていて、意識が半分くらい怪しくなっている。

 コロナによって友達と会う機会も減ったせいでできたこんな時間が、まさに至福の時間であり、絶好の癒しになっていることに彩花は最近気づいてしまった。

『人間をダメにする時間』ほど人間は好きになるものらしい。

 眠気がさらに増しきて、このまま死んでしまうのではないかと思ったその時、テーブルの上に置いてあった携帯が振動した。慌てて取り上げて見ると、母からだった。

 時計を確認すると、すでに午後10時近かった。

 こんな時間までぼおっと過ごしていたことに驚く。

 だが、母の電話で一気に眠気は覚め、気分は最悪になる。

 母とはずっとうまくいっていない。

「何?」

 他に言いようがあるだろうと自分でも思うが、心の底に降り積もった負の感情がそうさせる。

「いきなり何って挨拶はないでしょう」

 母の声が携帯の中でぴしゃりと響く。

 その冷静な指摘に身体が少しひんやりとして重くなる。

「ごめん。で、何?」

 今反省したはずなのに、やはり同じ言葉しか出てこない。しかも、口調は強めになっていた。

 母の端正な顔立ちが歪んでいるのが想像できる。

「あのねえ、前から言おうと思ってたんだけど、その愛想のないところ直したほうがいいよ」

 女は可愛らしさが一番だというのが母親の価値観だ。

 自分に愛想がないことは自覚している。しかし、人には自覚していてもできないことがあるということを母はわかろうとしない。

 自分でもわかっていることを改めて母に指摘され、無性に腹立たしい。

 というより、彩花は母親からの電話ということだけですでに十分苛立っていた。

 母親との確執が、いつ、何がきっかけで始まったのかは覚えていない。けれど、一度起こってしまった確執はそう簡単に直るはずもなく今まで続いている。

 世間では、『友達親子』が多くなっていると言われ、現に、彩花のクラスメートの子の多くからそういう話を聞いてもいた。

 そのせいか、彩花と母親も、外に出た時は『友達親子』を演じてしまうのだった。そんなへんな見栄っ張りなところはお互い似ているのだ。

「何よ。ママこそいきなりそんなことを言い出して」

 鏡に映った自分の顔の眉根にはくっきりと皺が刻まれている。

 いつ入ったのか、小さな虫がシーリングライトの辺りを飛んでいるのが気になる。

 そんな虫に気を取られている彩花に、母は意外な反応をした。

「何かあった?」

 母がふいに感情に訴えるような柔らかい声で言ったので、彩花は一瞬動揺してしまった。

「別に何もないよ」

 動揺を悟られぬよう突っぱねた。

 本当は母に彼氏のことを相談できればいいのだろうけど、むろんできない。というか、母にだけはしたくない。

「あっ、そう」

 娘のそういう反応に慣れているのか、母は軽く無視して続けた。

「まあいいわ。それで用件なんだけど、今年の夏はどうするのか訊きたかったのよ。パパのこともあるし」

 彩花の父親は3年前に脳梗塞で倒れた。幸い、一命は取り留めたものの身体が不自由になり、仕事を辞めざるを得なかった。以来、母親が働いて家計を支えている。

「兄貴は?」

「コロナのこともあるから今年は来ないって」

 若くして結婚した兄のところには3人の子供がいて、5人家族になっている。日本では全体的に見れば、まだまだワクチン接種が十分行き渡っているとはいえない現状がある。なので、兄の判断は妥当だと思う。

「そうか…」

「でも、彩花まで来ないとなるとパパがね…。最近、精神的に弱くなっちゃったのよ、パパ」

 父親のことを出されると弱い。

 彩花の父は、いつも前向きで何事にも挫けないカッコいい背中を家族に見せていた。大病で倒れ仕事を失い、身体が不自由になってもリハビリに励み、自宅でできる仕事を見つけようと頑張っている。そんな父親を彩花は尊敬しているし、大好きだ。

 だから、本当のところ自分は田舎に帰って、誰かと見合い結婚でもしたほうがいいのだろうなと最近思い始めていた。父親がそう望んでいることもわかっていた。

 でも、斗真と結婚してこのまま東京に残りたいという思いも捨てきれていないのだった…。

 父親はもちろんだけど、母親も彩花に田舎に戻ってほしいと思っているに違いないが、今まで母親から切り出されたことは一度もない。

 母はそういう人だった。

「わかった。考えてみる。じゃあね」

 目をきつくつむってそう言った。

 母はまだ何か言いたそうな感じだったが、彩花のほうから早々に電話を切った。長く話していると余計な衝突が起きて碌なことはないと分かっていたから。

 喉を何か重くてべっとりとした塊りがふさいでいるようだった。

 いつの間にか、あの小さな虫はどこかへ消えていた。

 窓の外の闇は一段と深くなっていた。


五 木曜日(2日前)

 窓を開けると、空はよく晴れ渡り、白い雲がゆっくりと移動している。

 久しぶりの梅雨の晴れ間だ。

陽にさらされた静かな路地が見える。

 最初にこの地に部屋を見に来た時、すごくひらべったい住宅地という印象があった。

 なんだか、私のだめな断片まで露わにされるような感覚だった。

 言葉にできない曖昧な気持ちのまま時間だけは流れていく。

 なんとなく頭が重い。

 このところいろいろなことがあって眠れない日々が続いていたせいなのだろう。

「今日の8位は蟹座の人です」

 小柄であどけない表情の女性アナウンサーが、まつ毛の長い目を一瞬伏せて言った。

『8位かあ』

 彩花の心の声だ。

 昨日より1位だけ上がったけれど、8位は決していいとは言えない。

「一日の初めのうちはなんとなくじっとりした梅雨のような具合になりそう。普段とは違った行動が良い結果をもたらします」

『じっとりした梅雨のような具合って、何よ』

 思わずツッコんだ。

 とはいえ、千堂ほのかのことを信奉している彩花は占いを信じ、いつもと違う道を使って駅まで行くことにした。

 見慣れぬ風景の中を歩いていると、見知らぬ世界に迷い込んだ気分になる。

 洗濯物が翻っている小さなアパート。

 まだ誰もいない小学校の校庭。

 まるで置物のような滑り台のある公園。

 何もかもが目新しかった。

 そんな中に、おしゃれなイタリアンの店を発見した。たったそれだけのことだけど、何か得した気分になれた。

 会社では何が理由だかわからないけれど、お局様の赤倉まり恵さんのご機嫌が至極悪く、職場の雰囲気は最悪だった。彼女の周りだけゼリーのような分厚い膜に覆われている。みんな腫れ物に触れてしまうことのないよう、戦々恐々の思いで、超静かに仕事をしていた。

『これだ』

 千堂ほのかが『じっとりした梅雨のような具合』と言っていたのは。

 息の詰まる無言劇はしばらく続いたが、沈黙に耐えられない人間がいるものだ。

 同じ部署の町村由美がそっと彩花に近づいてきて小声で言った。

「始まっちゃったね」

「うん」

「あれの日なのか、それとも朝っぱらから旦那に冷たくされちゃったのかのどっちかよね、きっと」

 あまりに断定的に言われて、彩花は思わず首を傾げた。

「ん?」

「ああみえて、旦那にぞっこんらしくってさあ。家に帰ると人が変わったように猫なで声で旦那に甘えちゃうらしいのよね」

 由美がどこで仕入れたかわからないお局様の情報を話して聞かせる。

 別に聞きたくもないのに…。

「ふ~ん。でも、心配いらないわよ。台風は午前中に通り過ぎるから」

「何それ。あんた占い師みたいなこと言うわね」

 関西出身の由美は他人のことを『あんた』って言う。

 悪気はないのだろうけど、カチンとくる。

 でも、それが言えない彩花。

 『占い師みたなこと』じゃなくて、本物の占い師が言っていたのだ。

 しかも、その占いは見事的中した。

 午後になると、赤倉まり恵は得意先回りのために部長と出かけ、終業時間までには戻らなかった。

「あんたって占い師の素質あるんじゃね」

 帰宅のため更衣室で着替えをしていた彩花の背中に由美が声をかけてきた。

『だから、そのあんたってやめて』

 でも実際の彩花は二コリと笑って答えた。

「かもね」

 その日の夜斗真からメールが送られてきた。

ーこの間はごめん。嫌な思いをさせてしまったよね。あの後、僕は僕なりに考え直した。だから、もう一度ちゃんと話し合いたい。土曜日に時間を作ってほしいー

 澱のようになって沈んでいた斗真への疑念の糸がほどけかかっている、のか?

 身勝手な男だとは思ったけど、今のメールのニュアンスからすると良い方向に向かう可能性が感じられたので会うことにした。どのみち、このままでいいはずもないのだ。

 ただ、そうなると土曜日の自分の運勢が気になる。でも、今日の時点で土曜日の自分の運勢は彩花にはわからない。運気が上昇していることに賭けるしかないと諦める。もし、朝の占い内容が悪かったら、その日斗真と会うのをドタキャンすればいい。


六 金曜日(1日前)

 心のどこかがもやもやと黒ずむ。

 きゅっと心臓が小さくなる。

 目が覚めた。

 どんな夢だったか思い出せないけど、嫌な夢だったような気がする。


 食欲がぜんぜん湧かず、とりあえずバナナだけ食べる。

 コーヒーを飲みながらテレビ画面に目を移す。

 今朝の蟹座は6位だった。

『微妙な順位』

 ただ、徐々に上昇してきているのは救いだった。

「忍耐強く待っていてください。大きな動きはないけれど、安定感のある日です」

 なんだかほっとする。

 こういう日の占い内容は忘れてしまっても問題ない。

 これには理由がある。

 6位というのはこの占いのコーナーでのくくりでは、USUALの範疇に入っているからだ。

ーいつも通りー

ーいつもと変わらないー

 ということを意味する。

 だから、占いが指摘したことが現実に起きたとしても場当たり的に対処しても問題にはならない。これが彩花の認識だし、実際これまでも問題は起きていない。そういう意味でUSUALに属する占いの日は心安らかに過ごすことができる。

 だいたいにおいて金曜日は忙しい。なので、占いのことを気にしている余裕すらないということもある。結局、この日も記憶に残るようなことは何一つ起きず、あっという間に終業時間を迎えた。すぐに帰りたかったが、残業をしている人が多かったので、職場で浮かないことをモットーにしている彩花は一時間ほど付き合って帰宅の途についた。

 電車に揺られながら、彩花は自分のこれまでの人生の彩の無さについて考えていた。

 子供の頃から目立たない子だった。いや、できるだけ目立たないようにしていた。

 目立たないよう、目立たないよう、ひっそりと呼吸をしていた。

 向き合うくらいなら自分を閉じてしまうことのほうがずっと楽だと思っていた。

 つまり、悪い意味で大人びていた。

 成績もいつも真ん中くらいだったし、かといって運動神経に恵まれていたわけでもなかったし…。

 顔も母親に似れば良かったものの、父親に似てしまったため、決して美人とはいえず、かといってブスでもない。

 だから、男の子のほうからコクられることなんてまずなかった。もし好きな子ができた時はいつも自分のほうからアプローチしていた。

 結果、これまでできた彼氏は数人。

 斗真もそんな数少ない彼氏の一人。

 いや、やっぱり斗真は特別だ。

 それまでの彼氏とは長くて1年の付き合いだったが、斗真とは4年付き合っている。

 唯一結婚を考えた相手だ。

 自然と唇が笑いの形に歪む。

 

 マンションに着き、郵便受けを覗くと母から手紙が届いていた。

 身体にゆらりと空気の動きを感じた。

 水曜日に電話で話したばかりなのに何だろう。

 食事を済ませ、落ち着いたところで母から届いた手紙を開封する。

「この間電話で言おうと思ったけど言えなかったので手紙にしました。ママが彩花に辛い思いをさせてきたこと、心から謝ります。本当にごめんなさい。ママは長い間、自分の価値観を彩花に押し付けてきました。ママはそれが彩花のためだと思い込んでいました。本当は彩花が成長する過程で自分なりの価値観を持ち始めていたのもママはわかっていたと思います。それでも止められなかったのはママの愛情表現が間違っていたからです。彩花がそれに反抗しないでずっと耐えていたのもママは心の中ではわかっていました」

 母は自分よりずっと頭が良く、何事も完璧にこなす人だった。だから、母に反抗なんてできなかった。彩花は母を尊敬することはできたけれど、好きにはなれなかった。本当は好きになりたかったのに。

「ダメね。ママは。いい母親であろうとしたはずなのに、ただの自分本位だったのよね。ママは母親失格です。でも、わかってほしいのは、ママは彩花のことが大好き過ぎてそうなってしまったの。ただ、ママのそんな行動や態度が、彩花に自分はお兄ちゃんより愛されてないと誤解させることになっていたのよね。ママの間違った愛し方が彩花を苦しめていたのよね、きっと。ずっとずっとあなたに辛い思いをさせてしまって本当にごめんなさい」

 母から手書きの手紙をもらったのは初めてだった。

『何よ。いきなりこんな手紙送って寄越して』

 口の中の水分が瞬時に乾いていく。

 戸惑いが彩花を落ち着かなくさせていた。

 子供の頃の彩花にとっては、毎日夜遅くにしか帰って来ない父親より、母親がすべてだった。それだけ大きな存在であり、好きにはなれなかったけれど自分の人生に深く影響を与えていた。

『今さらこんな手紙を送ってくるなんて』

 父親のこともあって、母の気も弱くなってきているのだろうか。

 返事を書こうかとも思ったが、電話することにした。

 手紙だと綺麗ごとで解決した気になってしまう。電話でちゃんと向き合ってこそ解決の芽が見えるはずだ。

 足元に地面がないような頼りなさのまま携帯を手に取る。

「はい」

 母が出た。

「今手紙呼んだところ…」

 そこまでは言ったものの、その後に続く言葉が出てこない。

「そう…」

 母のほうも言葉に詰まり、空気が固まる。

『どうしよう』

 と思ったところに母が続けた。

「突然ごめんね。でも、ママどうしても謝っておきたかったの。今を除いたら一生謝れない気がして」

 なぜ今がそのタイミングだったのか訊きたかってけれど、訊けなかった。でも、母の心の中に何かあったことは想像つく。

「そうなんだ…。ママ、大丈夫?」

「大丈夫よ」

 強がりなところは変わっていなかった。こんな手紙を送っておきながらも娘に弱みは見せない。

「そんなことより、ずっとずっと彩花に辛い思いをさせてしまってごめんなさい。こんなママでも許してくれる」

 涙声で聞き取りにくい。

「謝るの止めて、ママ。ママのせいだけじゃないよ。ママの思いはずっと前からわかっていたのに意固地になっていた私も悪いの」

 自分の気持ちを内側に少し畳み込んで言った。

 自分もだいぶ成長した。

 自分を褒めてあげたい。

「ううん。彩花は一つも悪いところはないのよ。すべて私のせい」

 母親の頭の中には謝ることしかなかった。

 結局は自分の気持ちを押し付けようとしていて、昔と何も変わらない母。でも、もうそれで良かった。これが自分の母親なのだ。最近少しずつだけど、そんな母のことを好きになり始めていた。

「もういいよ、ママ。ママの気持ちは十分伝わったよ。だから、ママ。許してあげる」

 もっとたくさん伝えたいことがあった気がしたけれど、母が一番聞きたかったであろう答えだけを言った。電話の向こうで母が号泣している様子がわかった。ただ、それをずっと聞くのは耐えられず、そっと電話を切った。

 彩花の喉はくつくつと笑い声だか泣き声だかわからない音をたてていた。

 人生にありがちなひどい寄り道。

 母を受け入れたわけでもなく、かといって諦めたわけでもない。

 ただ、いつの間にか傷はへこみのようなものに変わっていた。

 全身を溶かすような虚脱感に包まれ、じんわりと疲労がせりあがってきた。

「忍耐強く待っていてください」という占いの言葉が頭に浮かぶ。

 何かちょっと違う気もするけれど、結局『これ』だったのか?

 冷蔵庫がウォーンとうなり声をあげて、ビールを取り出せと指示していた。


七 土曜日(当日)

 昨夜から降り始めた雨が、今も窓に張り付いている。

 まだ暗い天井をぼんやり見つめる。

 ふと海原に一人放り出されたような心細さを感じて手に力を入れる。

 今日という日が出口になるのか入り口になるのかわからないけれど、すでにその一日はスタートしていた。


 運命の土曜日の占い順位は3位だった。間違いなく運気は昇り調子だ。

 この分なら今日はきっとうまくいく。

「いつもより慎重な今日のあなた。落ち着いて相手の話に耳を傾ければ気持ちが通じ合います」

 落ち着いて相手の話に耳を傾ければ気持ちが通じ合うということは、斗真の話を早合点してはいけないという意味だと理解する。ただ、その前にある、いつもより慎重な今日のあなたという部分はよくわからない。

 もちろん、この占いは蟹座の人全員に対するもので、彩花のためだけに書かれたものではない。だから、時に漠然とした感じを受けるものになるのは致し方ないのだろうけど…。何か腑に落ちない。

 そこで、今日は斗真の運勢もチェックして見ることにした。斗真は4月28日生まれのおうし座で、今日は5位だった。

「判断力が上昇していて仕事でも恋愛でも結果を残すことができるでしょう。ただ、気をつけないと行き違いが起こるかもしれません。気を引き締めて行動してください」

 斗真にとってはいい内容だ。ただ、行き違いがあるという部分は気にはなるけど…。いずれにしろ、彩花には判断がつかない。というのは、斗真がどんな結果を望んでいるのかがわからないからだ。現時点で、自分とやり直したいと思っているのか、それとも、自分とは別れて新しい女との恋に突き進みたいと思っているのかは斗真本人にしかわからないのだ。

 斗真の占いを見て、彩花の気持ちは余計にモヤモヤとしてしまったが、今さら後戻りはできない。斗真からやり直そうという返事が聞けると信じて出かけることにした。

 駅前で待ち合わせをした二人はまっすぐ延びた並木道を並んでで歩き始めた。

 街は昨夜からの雨で衣を厚く変えていた。

 ショーウィンドーに映る自分たちの姿は、どこか他人行儀だ。

 たった4日間会わなかっただけだけど、もう斗真との距離感がわからなくなっている。あんなことがあったせいだろうか。

 それでも、彩花は心の中でずっと燻り続けていた小さな恋の残り火を再び燃え上がらせようとしていた。

「やっぱりコロナのせいで最近飲み会減ったよね」

 歩道沿いに植えられた街路樹が雨で鮮やさを増している。

 斗真は過不足のない笑顔を向けながら、無難なところから会話を始めた。

「そうね。私もこの数か月ほとんど友達と会ってないな」

 彼氏である斗真とさえなかなか会えてないんだからと続けようと思ったが止めた。

「そうなっちゃうよね。かといって路上飲みなんてできないし」

「当然よ」 

 路上飲みをしている人たちの映像がテレビで流れる度に彩花は腹立たしい気持ちになる。なんだかんだといって彩花は母親と似て至極道徳的な人間なのだ。

「うん。ところで、あの店に行くの久しぶりだね」

 初デートの時、斗真が連れて行ってくれたメキシコ料理の店だ。メキシコ料理と言われて彩花が思い浮かべるのはトルタィーヤくらいだけど、それだって名前を知っている程度で食べたことなどなかった。お店は横道に入ったところにひっそりとあり、おしゃれだけど落ち着いた雰囲気のあるとてもいい店だった。出された料理はどれもおいしかった。定番のトルティーヤやハラペーニョスだけでなく、トトポスにメキシカンビーンズ、アボカド、チーズをのせて軽く焼いたナチョスという料理や、白身魚をライムジュース、トマト、オリーブなどでマリネしたセビーチェなどといった知らない料理ばかりだったけど、その全部を彩花は気に入った。それ以来、何かあればよく行くお店になっていた。しかし、二人の住いから結構遠いこともあり、ここ最近は来ていなかった。

「ほんと。懐かしい」

 今回斗真がこの店を選んだことに何か意味があるのだろうか。彩花はそのことが気になっていた。ただ、今のところ、今朝の占いを予感するようなことは起きていない。

 でも、占いを信じている彩花は、

『きっと、いいことが起きる』

 そう期待していたが、いずれにしろ数時間後には結果がはっきりする。

「そうだね。だけど、あの店も一時休業したりで大変だったらしいよ。この間電話予約した時オーナーが言ってた」

「そう…」

 コロナはいろんなものを狂わせている。飲食店はその代表だと思うけど、自分たちのような多くの恋人同士の関係も狂わせている。

 彩花の中ではさっきからずっと期待と不安がくるくると渦巻いている。

 相変らずだらだらと降り続く雨。

 近づいてくるバスがゆらゆらと揺れて見える。

 傘をさした親子連れの幸せそうな声が二人の横を通り過ぎていく。

 次第に、自分がどこに向かおうとしているのかわからなくなる。


八 日曜日(1日後)

この世のあらゆる負の部分を吸い込んだような雨が窓に打ち続けている。

行き場を喪った感情の切れ端が、空中ぶらんこのように揺れている。

リズムを持った雨音が何かしら語りかけてきて、急に喉が狭まってくる。

圧倒的な喪失感で世界は俄かに色を無くした。


 昨夜はほとんど眠れなかった。このところ、ずっとこんな日が続いているような気がする。そのせいか、今も夢の中にいるような気さえする。

 昨日のことは何かの間違いで、自分はこれから斗真に会いに行くのでは?

 起き上がろうとして、自分の身体の重さが『現実』を突き付けた。

 

やはり、夢ではない…。

早鐘のような鼓動が起き、心がぬるりと湿った。

自分は大事な人を失ったのだ。

あんな形で…

別れの言葉すら交わせなかった。

ひたひたと悲しみの波が襲ってくる。

声にならない悲鳴で身体を震わせた。


 あの瞬間、彩花は無意識に身体を捻り、歩道に植えられた花壇に倒れ込んだ。ほぼ無傷で済んだのは奇跡に近いと警察の人から言われた。

 ほどなく、斗真が即死状態だったことを告げられたが、彩花の脳は言葉の意味すら理解できなかった。

 だから、その時は涙も出なかった。

 ただ、果てしのない絶望感が胸を締め付けていた。


 そんな彩花を冷静と勘違いしたか、警察の人は斗真の家族が到着するまで、その時の状況や斗真との関係、斗真自身のことについてあれこれと訊いてきた。

 しかし、大好きな恋人であり、自分にとってすべてであったはずの斗真について、自分はほとんど何も知らなかった。

 斗真が一番好きなアイスはバニラ味だったとか、トイレッとペーパーはダブルじゃないとダメだとか、嫌なことがあるとすぐ顔に出るといった、どうでもいいことはいっぱい知っていたのに…。というか、そんなことしか知らなかった。

 でもきっと斗真が彩花について知っていたこともそんな程度のことに違いない。

 先週の火曜日に自分が里菜に「お互い相手のことはわかっているつもりになっていたと思うの。でもさあ、所詮他人じゃない。他人のことなんて、そんな簡単に理解できるものじゃないんじゃない」と言ったことが頭に浮かぶ。

 手触りのあるものとして心に刻んできたはずの自分の本気愛もこの程度だったのか。

 心が寒くなり、うまく泣くことすらできない。

 空洞はいくら見続けても空洞でしかなかったけれど、今朝になってようやく気づいたことがあった。自分は斗真のことを愛していたつもりだったけど、ただ斗真を失いたくなかっただけなのかもしれないと。

 頭の中心が痺れている中、私は私を探していた。

 自分はこの先どうやって生きていけばいいのだろう。

 まるで金縛りにあったようにベッドの底に沈んだまま、彩花は見えない未来に怯えていた。

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