馴染み

 再会からまた半年経った。


 お糸の病状は秋のあいだは小康の綱渡りをなんとか保てたが、冬の寒さで一気に落ち、新年を迎え江戸が華やかに賑わう頃には客をとるのは到底できないところまで悪くなった。寝床からかわやに行くのも大変で、立つのがむつかしいのでっていく。板戸の開け閉めすら難儀するので、開け放しだ。そのせいで廊下から絶え間なく押し入ってくる寒さが彼女をさらに弱らせた。


「糸、夕飯いるかい。おい、返事しな」


 遣り手が廊下からぶっきらぼうに怒鳴った。


「……いらんです…………」


 すきっぱらなのだが体がうけつけない。近ごろは水のようにうすいかゆですらなかなか喉を通らない。激しい咳で吐いてしまう。入るものは減る一方なのに出るものは増えていた。喀血かっけつが日に日にひどくなっていたのである。


「嬢ちゃん、こんばんは」


 男は前と変わらず突然現れ、音を立てずに枕元にすわった。お糸のこたえは、ない。今の彼女は手足はやせほそりあしのごとくで、髪を結うのをやめた頭は不釣り合いに大きく見える。


 彼女は男が入ってきたのに気づかずに、仰向けになって焦点の定まらぬ瞳を天井へ向けていた。


「猪口礼湯もってきたよ。いつもの粉薬のと、こないだ言った丸薬のと、両方さ」


「……」


「南蛮さんがうまいこと丸薬をこさえてね。嬢ちゃんにあげてくれっていったのさ」


 あえて体調に触れずおだやかに話しかけているうちに、お糸は気づいて男の方に顔を向けた。なにかをいいたいのだろう、口をゆっくり動かしているが、そこから出るのは苦しげなヒュウヒュウという音だけだ。くちびるは日照りの田畑を想起させる荒れ具合で、一年前の面影は消えかけている。


「水、飲むかい。白湯さゆがいいかもしれないね」


 男は部屋の片隅に転がっている湯呑をとって、自分の着物の袖口そでぐちで丁寧にふきあげてから水を注ぎ、手妻で白湯を作った。


 お糸は起こした半身を支えられながら少し飲み、ようやく声が出た。

 

「おじさん……わたし、しにたない……」


 死相を浮かべ、おびえに満ちた目で助けを求める彼女に、男はやさしく語りかけた。


「大丈夫だよ、嬢ちゃん。あんたは大丈夫。猪口礼湯をお飲み。楽になる、元気になるよ。まずはいつもの薬湯の方を作ってあげよう」


 男は今までと変わらぬ様子で猪口礼湯を作り始めた。それをぼんやりと見ていたお糸に、突如稲妻のような衝撃が走った。そうか、そうだ、そうにちげえね……


 病身の少女にこのようなものがまだ残っているのは意外といえるはげしい怒りが、猪口礼湯を作ろうと湯呑に目を落としている男に対して湧き上がった。


「どうしたい、嬢ちゃん」


 男は湯呑を見たままたずねた。


「おじさん、あんた、あんた……人殺しだろう」


「どうしたんだい。あたしは盗っ人でも人殺しでもないよ」


「うそつけ……あんたはじめっからわたしを殺す気だったんだ。だましたんだ。ちょこれいとうはやっぱり毒だったんだ。わかったんだよ」


「嬢ちゃん、なにを言いなさる。これは毒じゃあないよ」


「うそつけ……うそつけ、うそつけ、うそつけえええ!」


 お糸は力を振り絞って男にとびかかった。そんなことをしたとて萎え切った病身の娘、どうなるものでもないが、死にたくないという生き物の感情と更に、それすら上回る憤怒ふんぬと悲しみが彼女の体を駆り立てた。


 湯呑は落ちて割れ、猪口礼湯の茶色がそこらに野放図に広がっていく。



 だまされていた!


 しんじてたのに!


 たとい盗っ人でも悪い人じゃないと思っていたのに!


 ちょこれいとうはあまくておいしいくすりなんだとうれしかったのに!



「うぞづきぃぃぃぃ、ゔゔぞずきぃいっ!」


 涙も枯れ果てたように思われたお糸は、滂沱ぼうだの涙を目と鼻から流し、口からは真っ赤な血を吐きながら男の首をしめようともがいた。



 こいつが人殺しなら頼んだのはだれだ


 遣り手のおばさんか


 店の旦那さん夫婦か


 お客さんか


 一緒に頑張ったねえさんたちか


 女衒のおじさんか


 おっとうか


 おっかあか

 

 みんなでわたしをだましてたんか



 鬼の形相でつかみかかってきたお糸を、男は悲しそうに申し訳なさそうに見つめながらされるがままだった。彼の着ているものはみるみるうちにお糸の吐いた血で染まったが、そんなことはどうでもいいようである。



 おっとうおっかあが泣いてたのはうそか


 お客さんがほめてくれたのはうそか


 ねえさんが頑張ればここから出れるって言ったのはうそか


 みんなみんなうそか


 わたしだまされてたんだ


 この世にほんとのことなんてなかったんだ


 ほんとはみんなでわたしを殺そうとしてたんだ


 こんならいっそうまれてこなければよかったんだ


 そうだ、うまれてこなければよかったんさ



 お糸の想いは激情の中で、袋小路に突き当たってしまった。




 生まれてこなければ良かった。




 途端、彼女の全身から力が抜け、眼の前が真っ暗になった。目を閉じてはいないのに、何も見えなくなった。それでも耳は聞こえた。まるで遠くからの呼びかけみたいに、でもしっかりと。


「……ちゃん……嬢ちゃ……嬢ちゃん……」


 ああ、おじさんだ。まちげえね。耳が遠くなったんだろか。


 男にからだをしっかりと抱きかかえられているのは見えずとも感触でわかり、お糸は我に返った。


「ごめんね……おじさん。おじさんが人殺しなわけないよ」


「いいんだ、いいんだ」


「こわいよ。しぬのがこわい。いきるのもこわい。くるしい」


「うん、うん……」


「おじさん」


「なんだい」


「いままでありがとう、さいごにね」


「最期なもんかい」


「ちょこれいと、のみたいな。たべたい、な……」


 お糸は微笑んで、こと切れた。


「ごめんよ嬢ちゃん、ごめんよ……」


 男はそっとお糸を布団に寝かせ着物を整えて、最後に目を閉じてやった。


「あたしゃ駄目だね。自分じゃ昔よりも少しは人情がわかるようになった気でいたけども、自惚うぬぼれだった。嬢ちゃんを怖がらせて余計苦しませてしまった。ごめんよ……」


 ドタドタと廊下から人の走る音がし、遣り手が部屋の中にヌッと首だけを伸ばしてきた。


 男は逃げず隠れずお糸の枕元にいるが、遣り手には彼の姿は見えていないようである。


「糸、おい、糸や」 


 しばらく呼びかけても返事なく、ぴくりともしないお糸をじっくりと見て遣り手は、安堵の溜め息をついた。男はそれを聞くや、両手でお糸の耳をどっちもしっかりとおおった。


「ああやっと死にやがった。気の利かない娘だったが正月過ぎてから死んでくれるとはね。さいごにゃちっとは真っ当になってくれたね」


 遣り手はなおも悪罵をやめない。まるでお糸が諸悪の権化という勢いである。


「まったく自業自得だよ。寝て無駄飯くらっても体が良くならないのは怠けてるせいだ。世の中ねえ、こんな奴らはどんどん死んだ方がよくなるんだ。たいしてゼニを稼げないくせに飯ばっかり一丁前にくうのばっかりじゃうちらみたいな真人間が割食うばかりだ」


 男は遣り手の方は一切見ず無表情であったが、遣り手の息が切れたところで顔に微笑みをつくってお糸にささやいた。


「嬢ちゃん、遣り手さんは良い人だね。いままでよく頑張ってくれたって言ってるよ」


 散々ののしって気が晴れたか、遣り手は首を引っ込め、廊下で大声を飛ばしながら去っていった。


「おい、誰かきて糸の亡骸を片づけな。怠けと貧乏があたしらに染みついちまうよ」


 遣り手の声が遠ざかってから、男は両手をお糸の耳から離し、ひたいをなでた。


「嬢ちゃん、行こうか」


 と、横になっているお糸のからだからもう一人のお糸が分身の術のように分かれて起き上がった。魂である。


 魂の方のお糸は不思議そうな顔で男と向かい合ってすわり、口をパクパクと開いて閉じて、池の鯉。生者にとってはなんの声もせぬ。が、男には聞こえているようで、


「大丈夫、大丈夫、もう」


 といつもの調子で答えた。


「…………」


「怖がらせちゃいけないと思ってねえ」


「…………」


「うん、そうそう、そうだよ。盗っ人じゃなかったろう」


「…………」


「え、命を盗んだんじゃないかって? あたしにはそんな力はないよ。ただの案内人さ。迷わないようにね、こうしてくるのさ」


「…………」


「それはあたしの仕事仲間たちからも言われてるんだ。どうにもね、なぜだかわからないけれども、お節介が過ぎるようになっちまってね。南蛮さんにも言われてるなあ」


「…………」


「うん、うん……もう大丈夫だ。らくになっただろう。さあ旅にいこうじゃないか。どこにいきたいかね」


「…………」


「ははは、そいつぁ安心しておくれな。ちゃんと事情を話しておいたんだ。なに、閻魔さまも鬼さんたちも人でなしより人情があるからね。気のすむまで寄り道してもいいって言ってくれたのさ」


「…………」


「そうかい、じゃあまずは嬢ちゃんのふるさとに行こうか。下総だったね。それから先に何処へ行くかは道すがら考えればいいさ」


「…………」


「うんうん、さっさと出てしまおう。そしてどこかで一休みして猪口礼湯を食べようよ」


「…………」


「なに謝ることはないさ。丸薬の方がまるまる残ってるよ。これはね、人利麩とりふってんだ。食べた人みんな幸せになって欲しいと願いを込めて作ったんだとさ。そうそう、南蛮さんに嬢ちゃんが食べてどう言ったか伝えないといけないね」


「…………」


 お糸はにっこりと笑った。


 男と一緒に店の外へ出た彼女はすっかり軽くなったからだで、近くて遠かった門前町の中をこころゆくまで走り回った。そうして思った。苦界をでることができたのだと、ほんとのこともあるんだと。



 お糸は、うれしかった。

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