第638話 罪な男
昼食までにはまだ時間がある。そこで、これからはもっとカカオの実が必要になると思った俺たちは調合室へと向かった。もちろん作るのは植物栄養剤である。一瞬でカカオ農園を作って見せようではないか。
「今日もお疲れ様です。何か問題は起きてないですか?」
「お疲れ様です、ユリウス先生。頼まれていたドンドンノビール二号がすべて完成しましたよ」
「助かりました。これでまた一歩、”聖なるしずく”に近づきましたよ」
午後からは植物栄養剤と一緒にドンドンノビール二号もまくことにしよう。これでホーリークローバーを育てる準備はオッケーだ。あとはどのくらい待てば出現するかだな。
ありがたいことに、今のハイネ辺境伯家には緑の精霊様の加護がある。それがいい感じに働いてくれれば、それなりにホーリークローバーを採取できるのではないかとひそかに期待している。
「ユリウス先生、なんだかうれしそうですね。調合室に入って来たときからそうでしたが、何かあったのですか?」
「あはは……ちょっと先ほどチョコレートという名前の甘味を食べたものですから」
「チョコレート。聞いたことがない甘味ですね」
そこからはチョコレートのことを話しながら植物栄養剤を作った。みんなも興味を持ってくれたようである。もちろんみんなにも食べさせることを約束した。
ドンドンノビール二号を作ってもらったし、いつも商会の仕事を手伝ってもらっているからね。
ハイネ辺境伯家から給料が出ているとはいえ、俺の都合でみんなを動かしている部分もあるのだ。そのお礼はしなくちゃいけないからね。
植物栄養剤を作り終えるころ、昼食の時間になった。まずはデザートの様子見だな。足早に調理場へと向かう。
「忙しいところすまないね。料理長、どんな感じ?」
「こんな感じです」
「キュ! キュ!」
「ミラ、ダメだからね!」
飛び出そうとするミラをガッチリとホールドする。逃がさないぞ。でも気持ちは分かる。
そこには俺が注文していた通りのチョコレート色をしたザッハトルテがあったからだ。美しい。そして料理長の腕前、半端ねえな。あの説明でここまで再現するとは。
「おいしそうですわね」
「ファビエンヌ、ヨダレが……」
「あっ」
真っ赤になったファビエンヌの口元をハンカチで拭いてあげる。チョコレートの素晴らしさを知ってしまったらみんなそうなるよ。しょうがないね。
これはみんなの反応も期待できそうだぞ。アレックスお兄様とダニエラお義姉様もこちらで食べることになっているといいんだけど。
昼食を食べるべく、ダイニングルームへ向かうと、そこにはアレックスお兄様とダニエラお義姉様の姿があった。よかった。どうやら今日はこちらで昼食を食べるようだ。
「ユリウス、何かあったのかい?」
「分かります?」
「それはもちろん。顔がニヤけているよ、四人とも」
これからものすごくアレックスお兄様とダニエラお義姉様のお世話になると判断した俺は、迷わずチョコレートの話をした。
だがしかし、俺たちの話では想像がつかなかったのか、イマイチの反応だった。
「四人がそんなに必死になるほどおいしいのかい?」
「それほどのものでしたら、すでに広まっていそうですけどね」
二人とも首をかしげているが、それも今のうちだぞ。きっと二人も気に入ってくれると思う。
そうこうしているうちに家族全員がそろい、昼食の時間が始まった。
一日の始まりは”緑の精霊様、襲来”という、大イベントからだったが、そこからは穏やかな日常に戻ったようである。お父様もお母様もいつもの表情に戻っている。
「本日は、ユリウス様から作り方を教わったチョコレートという甘味を使ったデザートを用意しております。きっと気に入っていただけると思います」
珍しく料理長がこの場に出てきたなと思ったら、そう言ってから一礼して戻って行った。
……あれはザッハトルテを先に試食したな? そしてそのおいしさに、黙っていられなくなったのだろう。ザッハトルテ、キミは罪な男だよ。
「ユリウス、またとんでもない物を料理長に教えたみたいだな」
「あの感じだと、ドライフルーツ以上の物が出来上がっているのではないかしら?」
「チョコレートを使ったデザート、楽しみです!」
「キュ!」
あきれた様子の両親に対して、無邪気に喜ぶロザリアとミラ。ミラはさっき一緒に見たよね? ほんと、ミラは無邪気だな。聖竜としての威厳は、今のところまるでない。それでいいのか。
そうして昼食も終盤となり、デザートのザッハトルテが運ばれてきた。ホールのままである。どうやらこの場で切って、みんなに配るようである。
普段のケーキよりも一回り小さいそれに視線が集まった。
「これはチョコレートを使った、ザッハトルテという名前のケーキです。ふんだんにチョコレートを使っておりますので、その味を堪能していただけると思います」
そう言いながら料理人が切り分けてくれた。その小ささに不満そうな顔をするロザリアとミラだったが、食べ過ぎはよくないからね。このサイズでいいと思っている。
みんなの前にケーキが運ばれてきた。まずはミラに食べさせないといけないな。そうでないと、手づかみか、そのままかぶりつくことになるだろう。
「ミラ、どうぞ」
「キュ、キュー!」
一口で歓喜の声をあげたミラ。そんなミラを横目に、ロザリアもケーキを口へと運ぶ。もちろんみんなも食べ始めた。あ、ロザリアの目が見開いているな。そしてケーキを食べるその手が緩慢になった。
どうやら急いで食べるとすぐになくなってしまうことに気がついたようである。そんなことまで考えられるようになっていたか。ロザリアの淑女レベルはちゃんと上がっているようである。
「おいしいですわ、ユリウスお兄様! 私、これ、好きです!」
「ふむ、これはおいしいな。なめらかな口溶けだ。こんな甘味は初めてだぞ」
「本当だわ。上品な甘みに、とってもいい香りがするわね」
どうやらロザリアも両親も気に入ってくれたようである。まだ反応のないアレックスお兄様とダニエラお義姉様が気になるな。
うん、今にも飛び出しそうな目でザッハトルテを見ている。しかもその手が完全に止まっていた。どうやら衝撃を隠しきれなかったようである。
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