雨の降る街
時雨飴
第一雨
しとしと、しとしと。
梅雨の重たい雨の中、私は、彼の全てを助けたらしい。
----❖----
いつも私がした仕事に何のかんのとケチを付け、作業効率を見事に下げて下さるとっても素敵な上司に、乗っかって自らのミスを私に押し付けてくる本当に素晴らしい同僚。まわりは敵だらけなので、もちろんかばってくれる人なんていなくって。残業は当たり前、終電でも帰れるかどうかなんて日ばかりが積み重なってゆく。おかげで5徹までは余裕になってしまった。
そんな私が、珍しく。本当に珍しく定時で帰宅しようとしていた日。
それが、梅雨のとある金曜日。
私の生が、再び彩られ始めた日だ。
----❖----
「帰ってなにしよう.........まずは帰る前に買い出しだよね、家にある食料は大体消費してしまっているし.........」
なんて、電車に乗りながらぶつぶつ独り言を呟いていた私は、相当に気味が悪かったらしい。隣に座る人がころころと変わり、十人を数えた。乗車していたのはたった二駅だけなのにね。
まあ無理もない。目の下に濃い隈があり、髪はぼさぼさ、スーツもシワだらけで、ぶつぶつとなにかを呟いている。そんな人間の隣に好き好んで座りたい人がいるはずがない。私だってご遠慮願いたいから、妥当な判断だと思う。
.........でも、人に避けられるというのは。
どうしても、昔からどうも苦手で。
心に木枯らしが吹き込んだような、そんな気がしてしまう。
----❖----
電車を降りるまでは降っていなかった雨が、買い出しを済ませた頃に降り始めた。
重たくなった両腕に傘を持たせ、どうにかこうにか歩いてゆく。
幸いなことに食料品店から家までは五分もかからないのが救いだろうか。これでは鍵を開けるのにも難儀しそうだ。あまり地べたに置くのもよろしくないし、どうしよ........え?
私は目を疑った。
小さな店の軒先の、まだ雨の中にいた方が濡れずに済みそうなほどささやかな屋根の下。
1人の男が、倒れていた。
「えぇっと、見なかったことにしよう。うん。そうしよう.........」
帰りついた我が家、1LDKのマンションの一室で身体を拭っていれば、ふと男のことを思い出してしまった。一度思い出してしまえば、そのことで頭が一杯になる。どうして倒れていたのだろうか、なぜあそこなのだろうか、男は何者なのだろうか、今頃どうしているだろうか、凍えてはいないだろうか、等々。
あぁ、本当に。
私は私の、こういうところが嫌いなんだ。
独り言ちて、雨合羽をひっつかんで羽織り、私は勢い良く外へと飛び出した。
重い雨は、降り続いている。
----❖----
「ねぇ、ねぇってば。起きてますか? もし起きているなら返事をしてくれませんか⁇」
馬鹿な私は結局男のところまで戻り、傘を差し掛けている。
先程から声をかけ続けているのだが、一向に返事が無い。
意識が無いのか、ただ寝ているのか判断できなくて、男の、長い前髪を搔き揚げてみた。
「うわ、綺麗な顔してる.........」
そう、男はとても端正な顔をしていた。完璧な造形をしているパーツが、完璧な配置で収まっている。人間だと言われるより、西洋の天才と謳われる彫刻家が心血を注ぎ、最期に遺した作品だと言われた方がしっくりくる程の美しさ。マッシュの髪は射干玉の黒で、吸い込まれそうな深みを持っている。女っぽいのかと言えばそうでもなくて、喉仏や太めの首、関節の太い手に、男らしさが感じられる。
あまりに美しいのでじろじろと眺めてしまっていたところ、視線を感じたのか、繊細な睫毛を震わせながら男は目を覚ました。
流石、天才の作品は違う。というか神が持てる美を全て与えたのではなかろうか。
黒く艶々とした縁取りをされた切れ長の目の中に抱かれていた、冷めて澄みきった深い蒼の瞳に、私は柄にもなくそんなことを思った。
「っあんた........誰........」
「ただの通りすがりの人間ですね」
「俺、は........」
「うん、土砂降りの雨の中ぶっ倒れてました。
というか現在進行形で寝転がってますから、君」
やっと目を覚ました男はぼんやりとして、現状がわかっていなさそうだった。軽く己の今の状態を教えてやると、目元を右手で隠し、ため息を吐く。
「酔っ払ってぶっ倒れて人に助けられるとか........阿呆か........」
「まぁ君がなんと恥じても良いんですけど、大丈夫ですか? 家帰れます?」
「あー、まぁ一応家帰るとこだったんで........」
「どこですか、送って行きます」
「え?! や、そこまで迷惑をかける訳には」
先程までぶっ倒れていた癖に、1人で帰れるとか言ってわたわたと手を動かし、固辞する男。ついでに立ち上がろうとして転けかけた。........ここでそのまま帰したらだめな気がする。女の勘ってやつだ。知らないけど。
「こんな雨の中ぶっ倒れるような人放っとける訳無いじゃないですか、ほらどこなんです?」
昔から1人でなんでもやるしかなくてついてしまった筋力に物を言わせ、とりあえず支える。というか住所を吐くまで解放する気は無い。
本気で送ろうとしている熱意が伝わったのか、男は観念したように住所を告げた。
........お隣さんってマジですか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます