第2接種「チィ・ウォ!チィ・ウォ!」

しばらくして注射した方の腕が痛み出したが、そんなことは気に留めず、俺は走った。するとどんどん気分が高揚してきた。ランナーズハイってやつなのかもしれない。

 風と一体化するような感覚。自分の存在が大気に溶けゆく感覚。


――そして、何かとぶつかるような感覚?


「!?!?」


 数時間走っていただろうか。突然俺の身体が何かに衝突し、宙を舞った。目の前には生い茂る木々しかなかったはずなのに。


「ひ……ヒト!」


 この体になって初めて出会った人類。


――それは年端のいかない幼女だった!


こんなところでお母さんとはぐれたとも思えない。不気味な邂逅に猜疑心さいぎしんを抱くよりも、自分以外の他者に巡り合うことの出来た奇跡に雀躍じゃくやくしていた。


 この世界に生きる人間が俺以外にもいたのだという感動で、俺は泣いた。涙が止めようとしても溢れ出てくる。

 俺、こんなに涙もろい性格じゃなかったはずなんだけど。


「うわああああああああん!」


 泣きべそをかいている少年破鬱(28)を尻目に、目の前の人間は両手を天高くかざした。


「チィ・ウォナンジュ!チィ・ウォ!チィ・ウォ!」


 わけのわからない言葉を繰り返す幼女。彼女もまた、この世界で俺という人間に出会うことができたことを喜んでいるようだった。


「そうか、そうか。お前も寂しかったよな……」


「チィ・ウォ!チィ・ウォ!」


 その幼女を俺はチオと名付けた。チオはこの霧に覆われた世界でただ一人存在していた。チオはにっこりと笑った。ほっぺたをつんつんしても、笑っている。言葉は理解しているようだが、言葉が出ない。


「なあ、ここは一体どこなんだ……」


 チオに問いかけたところで自分の欲しい答えが返ってこないことは分かっていたが、半ば独り言のように俺は呟いた。


「チィ・ウォ!チィ・ウォ!」


 先ほどとは異なり、前の方を明確に指さしたチオ。そうか、この先に何かがあるのだ。そうに違いない。


「チオ、あっちに行けば、いいんだな?」


「チィ・ウォ!」



 俺とチオは二人でこの世界からの脱出を試みた。




 幾日か走り続けた俺たち。相変わらずチオは自分の名前(だと思われる言葉)しか口にしない。俺はといえば毎日ずっと走り続けてもまったく疲れがみえない。きっと死後の世界で体は朽ちて、精神だけがこうして彷徨い続けているのだろう。それとも【身体能力強化】の効力が発揮されているのかもしれない。

 だが、それならば幼女チオが元気なことに説明がつかない。


「ま、細かいことはいっか」


 俺はそこで考えるのをやめた。こうしてチオと出会えたことで、自分の他にも生命体が存在していることが分かった。それだけで十分だろう。


「あれは……」


 霧が次第に晴れていくのが分かった。まるで、今までの霧の世界が嘘だと言わんばかりに、一気に明瞭な世界が現れた。

 見た目は中世ヨーロッパ風の建物が立ち並ぶ。遠目でも人が何人もそこに居住していることが分かる。人の声、人の気配、そこに人類がいるという安心感。


――俺は、ようやく、街に辿り着いたというわけだ。


「俺の第二の人生はこの場所を中心にして始まるってことか」


 死後の世界か、異世界か、並行正解か、なんであれ俺はあの世界では命を失ってしまったのだ。だから、今いるこの世界で楽しくやるしかない。今までのように、あっさりと単純に明快に、受け入れよう。


「……噓でしょ。こんなことって」


 青ざめた様子の少女が俺の前に現れた。見てはいけないものを見てしまったような、気味の悪い幽霊に向けるような視線が伝わってくる。知らない言語のはずなのにどうやら、言葉は脳内でうまく変換されて理解できるようだ。


「驚いているところ申し訳ないけど、ここはどこ?」


 相手に恐怖を与えないように、細心の注意を払った。自分は何も危害を加えるつもりはないことを必死に訴えるような表情で、物腰柔らかく伝えた。


「ここは、【ワーク・ティン・セシュ・カイジョー】よ。みんなは短く【ワークカイジョー】と呼ぶわ」


 どうやら俺の言葉も通じているようだ。にしても俺の耳にはここがワクチン接種会場だと聞こえたのだが、気のせいだろうか。


「それで、あなた、一体何者……? 死の森【アナフィラキ】から生きて帰ってこれるはずないのに……」


 依然として訝しげな眼差しで見つめる少女。俺がこの森を抜けてきたことがよっぽど信じられないようだった。


「俺は、破鬱無大!別の世界からやってきた!」


 彼女が俺のことを異端者だと見抜いていたこともあり、大声で堂々と主張してしまった。


「やっぱり、星幽者アストラルだわ! 急いで報告しなくちゃ!」


 走り去っていく少女の背中を黙って見送る俺だったが、ここであることに気が付いた。


「あ、これなんかやばいやつじゃん」


 街の人たち全員敵に回すパターンのやつじゃん。俺、怪物的な扱い受けて迫害されるやつじゃん。


「ちょっと待った!」


 【身体能力強化】により、少女にあっという間に追いついた俺は、彼女の行く手を塞ぐように仁王立ちする。


「きゃあああああああああああ!!!!」


 いや、これ、逆効果じゃん。少女は両手を頬に当て、ガクガクと震えてその場にから動けなくなってしまった。


「どうした、どうした」


 悲鳴を聞きつけた街の住人たちが集まってくる。


「この人……星幽者アストラルなの! 私が急いでみんなに伝えようと思ったら、あっと今に追いついてきて……」


 俺の脳内には二つの未来が朧げに浮かんできた。


 一つはこのまま処刑されてゲームオーバーする未来だ。異端者としてこの街の住人から攻撃されて、命を呆気なく奪われるパターンだ。せっかく生きてたのにまた死ぬなんてそりゃないよな。


 だから、俺はもう一つの未来を実行した。きっと、これなら大丈夫。


 躊躇い無く、試すことも無く、深く考えることも無く、軽薄けいはくに実行した。


――ファイア!


 【魔法無詠唱状態】ってやつを試した。


 それだけのつもりだった。


「きゃああああああああああああ!悪魔よ!悪魔!」


 目の前の大きな火柱は、大気炎を上げながら街の人たちを恐怖のどん底へと陥れた。勢いが増す火柱から人々は必死に逃げる。その途中で躓いて転ぶ者もいた。泣き喚く声は断末魔のようにも聞こえた。


 地獄絵図が広がっている。魔王が街を襲撃しに来たかの如く、人々は狼狽ろうばいする。慌てふためく人々、俺は呆然と立ち尽くした。


「あれ、こんなはずじゃなかったんだけど……?」


 横の幼女チオは、相変わらず「チィ・ウォ!」と言いながら目の前の炎を見て笑っていた。


「チィ・ウォナンジュ!チィ・ウォ!チィ・ウォ!」


 俺も何が何だか分からずに、チオの真似をして両手を高くつき上げながら笑った。

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