あるいはそれをしなければ出られない部屋(もしも村上○樹が例の部屋を描写したら)

鯵坂もっちょ

あるいはそれをしなければ出られない部屋

 その真っ白な部屋には何もなかった。いや、正確には、部屋の広さから比べれば不釣り合いなほどに小さなダブル・ベッドが中央に置かれていて、自分こそがこの部屋の主であると静かに──あるいは声高に──主張していた。

 それ以外には時計や洗面台の一つもなく、何もない部屋、という形容を受け入れるに相応しいだけの虚無が横たえられていた。ダブル・ベッドの存在こそが、この部屋を唯一無二のものにしているように見えた。それはまるで、多くを語らないまま年老いた退役軍人の首元の傷のようだった。

 拝田はいだ悦夫よしおがここでその意識を取り戻してから、まだ五分も経っていないはずだった。昨日の記憶はおぼろげだ。仕事は早めに終わらせていた。恋人と待ち合わせて、彼女の知っている小さなビストロで食事をとった。そこで何かの魚料理とモエ・エ・シャンドンを飲んだ気がするが、あるいはそうではなかったかもしれない。拝田の記憶は車窓の景色ほどに遠くにあって、具体的な姿かたちを今にも失おうとしていた。

 そうだ。思い出した。僕は今まさに彼女とセックスをしようとしていたところだったのではないか。昨日食べた料理も満足に覚えていないのに、そのことだけは拝田の記憶に強い心残りとなって刻まれていた。股間に残っている緊張は、拝田が目覚めたばかりであることだけが原因ではなさそうだった。

 その部屋にはもう一つだけ、異彩を放つ存在があった。それは調度品や飾り付けの類ではなく──あるいはそうなのかもしれないが──そこには女が一人いた。知らない女だった。

 二十代の半ばは超えていそうだった。引き締まった端正な顔立ちで、拝田の好みではなかったが、自信に溢れている表情は好ましかった。身長こそ低そうだったが、すらりとした、モデルのような体型をしている。髪は長く、美しくライトを反射している。そしてその豊満な乳房は、拝田の興味を十分に惹きつけた。

 彼女がミントグリーンの手術着のようなものを着ていることに気づいて、ようやく拝田自身もそのような機能性の塊に身を包ませられていることを自覚した。

「たぶん」彼女が口を開いた。拝田の方は向いていなかった。

「たぶん、私たちはここを出たほうがいいと思う」

「どうやらそうみたいだね」

 拝田は同意したが、彼女は意に介さず続けた。

「あなたが無責任にも気を失っている間に調べてみたの。どうやら、ここから力づくで脱出することに比べたら水をワインに変えることのほうが簡単みたい」

「この部屋から出る方法はないということ?」

「その答えはイエスでもあり、ノーでもある。たぶん、通常の方法ではできない」

「通常の方法って?」

「それに答える必要性を感じないな。あなたはそのことに気づいているんじゃない?」

 拝田は再び部屋を見回して確かに気がついた。人間というものは、存在には気づきやすいが、不在には気づきにくい。自分の部屋に陶器の皿が一枚増えていたら誰でも気づくだろうが、それが失われたとしても、すぐには気づかないものだ。そしてその部屋には、出入り口が存在しなかった。この部屋は完全に外と隔絶されていた。拝田にはもはや、外でのことが幼い頃の出来事のように遠い記憶になろうとしていた。なにか人智を超えた力が働いていると思わざるをえなかった。

「確かにきみのいうとおりみたいだ。ずいぶん聡明なんだね」

「この状況に聡明さが役に立つのかは疑問ね」

「少し、失礼に聞こえるかもしれないんだけど」

「なんでも」

「きみはすでにこの部屋から出る方法を知っているように見えるね」

 彼女は意味深に微笑んだ。

「もしそうだとしたら?」と彼女は言った。

「ぜひ、僕にもその方法を教えてほしい。きみのような美女と閉鎖空間で過ごすのも悪くないが、僕には仕事もあるし恋人もいる。こんなところで時間を無駄にしている場合じゃない。一刻も早くこの部屋を出たいと思っている」

「私は無駄な時間とは思わないけれど」

「いや、無駄な時間というのは失言だった。許してほしい」

 彼女はそれまでの品定めするような目つきをやめ、受験者に合格を言い渡す面接官のような表情をした。

「いいわ。教えてあげる。ここから出る唯一の方法は、今ここにいる二人がこと」

 予想外の返答に、拝田の思考は空転した。

「ええと。すまない。僕の男の部分が下品な幻聴を聞かせているのでないとすれば、きみはいま体の関係、と言った」

「そうね」

「それってつまり……」

「おっと、それは言ってはだめ。見ている人のことも考えて。さっきあなたが昨日のことを想像したとき、びっくりしちゃった。その単語をそのまま言うだなんて、品がないわ」

「ちょっと待ってくれ。いまぼくは混乱している。わからないことだらけなんだ。まず、見ている人というのはどういうことだ」

「『キューブ』でも『ソウ』でもいいわ。つまりはそういうこと。私は『キャビン』も結構好きだけど」

 拝田は映画をほとんど見なかったが、今彼女が挙げたうちのいくつかには聞き覚えがあった。

「つまりここは誰かに監視されている?」

「監視という言葉は、あるいは適切ではないかもしれない。少なくとも、監視されているだけならまだましだったとは言えるでしょうね。私たちは、監視され、盗聴され、そのすべてを公開させられているわ」

「その相手は誰、という問いは意味を持つ?」

「あなたにとっては無意味。私にとっては……そうね、私にとっても無意味かも」

 拝田は現実感のない会話にいささかショックを受けていた。これは夢なのではないだろうか、と思って古典的な方法を試したが、彼の頬の痛覚は十全に機能していた。むしろここに来る前の記憶のほうが、みるみるその色を失って夢のような手ざわりを持ち始めている。

 部屋は四方を色のない白壁に囲まれていた。壁は感情を持たない。だが壁を見るものは感情を持つ。その壁からは拒絶、拒否、排除、排斥といった感情を受け取ることができた。拝田たちが意図的に何者かに閉じ込められている、という事実は疑いないようだった。

「私は」彼女が囁いた。その声色は多分に親愛の情を含んでもいた。

「私はあなたと体の関係を持ってもいいと思っている」

「いや、それは、僕だって君のような美女と、その、体の関係を持つのはまったくやぶさかでない。でも僕には恋人がいる。彼女を裏切ることはできない」

「体の関係を持つだけのことが裏切ることだなんて、本当に思っているの?」

「そこは関係がない。そもそも、それでこの部屋を脱出できるだなんてことが、どうしてわかるんだい」

 拝田は自分でも恥ずかしくなるほどに焦り、混乱していたが、彼女にとってそれはどうでもいいことのようだった。

 彼女は、やはり調度品や飾り付けとして、この部屋に意図的に置かれたのかもしれない。そう思わせるほどに、彼女からは人間性を感じない。その白い肌は、今となっては大理石の彫刻のように見えておぞましかった。

「私は外が見える」

「外?」

「外。この部屋の外。さまざまな人が、さまざまな場所で、こちらに顔を向けているの」

「それは理由になっていない」

「インターネット・ミームよ。あるいはそれをしなければ出られない部屋。聞いたことはない?」

「この部屋が、そうだって言うのか」

「確かめてみれば分かるんじゃない?」

 拝田は地獄の門の前に立っていた。本当に、この女と関係を持てば救われるのだろうか。彼の倫理観は彼が崖から落ちるのをぎりぎりのところでとどめ続けていた。

「あなたは、ここを出て知る必要があるわ。ここを出て、それを見れば、どうあがいても私たちは体の関係を持たざるを得ないのだと、あなたは知ることになる」

「ここを出るだって? それができないからこうやって益体のない議論に時間を費やしているんじゃないか」

「ちがうの。出るべきなのは部屋じゃない。よ」

「何を言って……」

「ああ、ちょっと待って。ノルマがまだみたい。あなたは流されやすいみたいだから、『付和雷同』はオーケーよね。あとは、そうね、ここにずっといるのも不健康だし、『気分転換』に私と関係を持ってみるというのはどう?」

「いよいよ意味がわからないな」

 もはや彼女との会話すら成り立たなくなっていた。「」とは。「ノルマ」とは。彼女には何が見えているのか。

「いまから出してあげる。ほら」

 そうして拝田はを脱出し、の文体を見た。そしてこの文体で描写された男女の関係性の行き着く先が一つしかないことを悟ると、大人しく部屋に戻されていった。


(了)

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あるいはそれをしなければ出られない部屋(もしも村上○樹が例の部屋を描写したら) 鯵坂もっちょ @motcho

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