グレープフルーツジュース

Jack Torrance

第1話 グレープフルーツジュース

寝苦しい夜だった。部屋のエアコンは故障中で室温は深夜1時を周り30度を示していた。バリー マクドナルドはナイトテーブルの上の携帯を手に取りある男に電話をした。相手の男はバリーの大学時代からの親友でスコット レヴィンだった。スコットは製薬会社の薬品開発部門の科学者でその部門を統括している責任者だった。彼が開発した育毛剤はその臨床効果は抜群に発揮され、その安全性も立証されるとFDA(アメリカ食品医薬品局)に認証され発売開始直後から予約が殺到し店頭でも入荷するや否や即完売。品切れ必至の人気商品となった。それに伴いスコットの製薬会社の株価はここ数年に渡り一株当たり1万1000ドル前後で推移していたのが3000ドルも高騰した。開発担当責任者だったスコットは幹部にまで昇進し臨時ボーナスとして千株が贈呈され発行株式全体の1,5%まで買い進められるストックオプションまで手に入れた。「もしもし、スコット、俺だ、久しぶりだな。こんな深夜に済まん」バリーは何か思い詰めたような口調で覇気無く言った。いつもの陽気なバリーとは一線を画し鬱病で今にも自殺しそうな男の声だった。レヴィンはその受話口から放たれた生気の無い声音を察知した。「そこにアンナはいるのか?」「別の部屋にいる。今は彼女とは寝室を共にしてないんだ。今すぐうちに来れないか?話しがあるんだ」スコットは考えを思い巡らせた。この声のトーンは切羽詰まった男の口調だ。借金の申し入れか何かか。バリーは真面目な男だが人間、誰にでも道を踏み外す事はある。バリーだって例外ではない。それにしても、何故こんな深夜に俺を呼び出すのか?スコットが思案し暫しの沈黙が続く。バリーが懇願するように催促する。「俺達は親友だろ?来てくれるんだろ、スコット」スコットは考える。借金で首が回らなくなっての金の無心か?それとも何かのトラブルに巻き込まれたのか?確かに俺は一開発者から成り上がり富と権力、そして名誉も手に入れた。バリーは俺を呼んで何を話し何を望んでいるのか?金の融通なら幾らかは力になれる。でも、そうじゃなかったら?スコットにはバリーの家に行きたくない理由があった。「スコット、頼むよ。お前に聞いてもらわなきゃならない事があるんだ。来てくれ、それとも俺と会いたくない事情でもあるのか?」詰問するバリーに急き立てられスコットは「解った、今からすぐそっちに向かうよ」と渋々了承した。30分後、バリーの家の前にセダンのビュイック センチュリーが停まった。寝室の出窓のブラインド。視線の位置のスラットを人差し指で下げてヘッドライトを確認するバリー。スコットが運転席から降りてドアをバタンと閉めて玄関に向かって歩いていく。イエロームーンの金色(こんじき)の光が足元を優しく照らす。門扉から玄関まで敷き詰められた砂利を踏み締める足音が夜の静寂(しじま)に溶けていく。玄関前でスコットは呼び鈴を鳴らすべきかと迷ったが中から扉が開いた。「よく来てくれたな、スコット。上がってくれ」受話口から聞こえた声にも生気が無かったがその表情も疲れ切った男の顔で10ばかし老けて見えた。バリーがスコットを家内に請じ入れた。バリーがスコットを先導し己の寝室に招き入れると言った。「エアコンが壊れててな。リヴィングにお前を招き入れたいんだが、あの部屋だとアンナに気付かれて起こしてしまうからな。済まんがこの部屋で勘弁してくれ。飲み物を持って来る。ちょっと待っててくれ」バリーのベッドの枕元の横にナイトテーブルが配置され、そのナイトテーブルを挟むように背もたれの付いた椅子が一脚置かれていた。多分、キッチンから持ってきたんだろうとスコットは思った。すぐにバリーはマグに飲み物を入れて戻って来た。スコットは既に椅子に掛けて待っていた。「済まんな、ビールを切らしててな。アンナがグレープフルーツジュースを買っていたようだからそれを失敬してきた」バリーはそう言うとナイトテーブルのスコットの側にマグを置きベッドに掛けた。スコットはすぐにはマグに口を付けなかった。バリーは神妙な面持ちで切り出してきた。「スコット、俺とお前は大学時代からの無二の親友だろ。包み隠さずに正直に答えて欲しいんだ」スコットは黙って聞いていた。スコットは嫌な予感がした。遂に発覚したか。アンナとの情事が…スコットとアンナは2年前から男女の関係になっていた。バリーは医薬品のセールスマンを大学卒業後、勤続22年勤め上げ営業成績は振るわずに万年平社員。一方、親友のスコットは製薬会社の開発部門を任されるまで出世し育毛剤の爆発的セールスで今ではその中枢を担う大物にまで成り上がっている。二人を比較し、その力量は歴然だった。それに、スコットは44歳になった今でも若々しさを保っており二枚目で独身貴族を謳歌していた。それに比べてバリーは…とアンナは思っていた。黙って苦渋の決断でもしているかのようなスコットの表情を不信な表情で覗き込むバリー。互いに気不味い不穏な空気が寝室内に垂れ込める。「おい、どうしたんだ、スコット、黙り込んじまって。グレープフルーツジュースを飲めよ。温くなっちまうだろ。さあ、ググッと一気に飲み干せよ」スコットは毒が混入していると思った。バリーは俺を毒殺するつもりだ。俺とアンナの不貞を知って逆上しているんだ。そして、俺を殺した後に自殺するつもりなんだ。それで、こんなに深刻そうな思い詰めた男の顔になってしまっているんだ。「おい、バリー、お前、玉のような汗が額から噴き出してるぜ。お前が飲んだ方がいいんじゃないのか」スコットは冷淡な口調で言い放ちマグをバリーの側に押しやった。「いいや、俺は要らない。この部屋は暑いから冷たい内にお前が飲めよ」そう言ってバリーはマグをスコットの側に押しやった。「いや、お前の汗は尋常じゃないぜ。お前の方が水分を摂った方がいいぜ」スコットは、またもマグをバリーの側に押しやった。「喉は渇いてない。いいから、お前が飲んでくれ」バリーは頑なに拒絶してマグをスコットの側に押しやった。スコットはこれで完全にグレープフルーツジュースは毒入りだと確信した。スコットは立ち上がり声を荒げて言った。「バリー、お前、そのグレープフルーツジュースに毒でも入れてるんだろ。グレープフルーツジュースの苦みで毒の味を消して俺に飲ませるつもりなんだろ」バリーは一体、此奴は何を言い出すんだといった表情で目を丸くしてきょとんとした。その時だった。部屋の扉の前で聞き耳を立てていたアンナがドアノブを回し勢い良く乱入して来た。「そうよ、バリー、あたしとスコットは寝てんのよ。あんたの小さいフニャチンよりもスコットのでかチンの方があたしはいいの。あたしはファックに飢えてるのよ。それに、甲斐性の無いあんたと違ってスコットは全てを手にしているのよ。もう、あたしと別れてちょうだい。あたしはスコットと一緒になりたいのよ」バリーは寒空の下で親鳥に見放された震えるコマドリの雛のように身を震わせて言った。「お、俺はスコットの製薬会社の育毛剤をスコットの特権で優先的に10本ばかし融通してもらえないだろうかと思って来てもらっただけなんだ。俺はもう一度フサフサの髪の毛になってアンナとセックスしたかっただけなんだ。セックスレスを解消して、また若かった頃の俺とアンナの関係に戻りたかっただけなんだ。それにな、スコット、俺はグレープフルーツアレルギーでグレープフルーツジュースが飲めないんだよ」バリーは、そう言うと怒りに震える手で髪の毛を引っ張った。それはウィックだった。バリーの頭頂部は幾本かの雑草が侘しく生えている宅地だった。いや、それは宅地と言うには上等過ぎる形容だった。荒野、いや、寧ろ原野と言った方が正しいのかも知れない。しかし、その生き残った雑草は他人が他人を陥れ家族関係ですら希薄になり行く荒ぶ昨今の哀しい世の中において、、健気に逞しく大地に根を下ろしていた。スコットはそれを聞いてハッとした。失敗(しま)った、早とちりしてしまった。アンナも同様だった。怒りと悲しみを抑制し理性を保とうと必死になって自制するバリーが沈んだ声で言った。「少し一人になりたい。出ていってくれ」スコットとアンナはバリーの寝室を退室しリヴィングに行った。5分後、スミス&ウェッソンのリボルバーを手に握り締めたバリーが無表情でリヴィングに入って来た。25分後、隣家のエルバート オティア邸にパトカーが来た。主のエルバートが巡査に言う。「どっかの馬か垂が癇癪玉か何かを鳴らせて行きやがったんだ。まあ、もしもの事がと思って通報したんだがな。隣のマクドナルドさんちの方から聞こえてきたんだけどな」巡査のタイニー ロッコと相棒のマリシア コブはバリーの家に向かった。玄関の呼び鈴を鳴らすが応答が無い。不審に思ったロッコとコブはホルダーから銃を抜き玄関のドアノブを捻った。ドアはすんなりと開いた。撃鉄を起こし銃を胸の前に構えてそろりそろりと慎重に一室ずつ確かめて行く。リビングのドアを開きロッコとコブは息を呑む。そこにはスコットとアンナの胸を撃ち抜かれた遺体が転がっていた。ロッコとコブの全身に緊張が走った。残りの部屋を調べて賊の有無を確認していく。バリーの寝室の前に来た時だった。男の啜り泣く声が聞こえた。ロッコとコブは銃を構えて互いの顔を見合わせるとこくりと頷いた。そして、ロッコが部屋のドアを蹴破ってうつ伏せになって銃口の狙いを定めた。コブは壁に隠れて援護に回った。そこには空になったマグを持ったバリーがベッドに掛けていた。ロッコが尋ねた。「お前が殺ったのか?」バリーはこくりと頷いた。バリーの横にはスミス&ウェッソンが置かれていた。その横にはウィックが無造作に放置されていた。それを見たロッコとコブはごくりと唾を呑んだ。バリーは咽び泣きながら言った。「拳銃で脳味噌を吹っ飛ばして死ぬなんて惨めな死に方だろ。だから、俺はグレープフルーツジュースでアナキラフィシーで死のうと思ったんだ」バリーは咽頭に軽い違和感を感じていたが…生命に危険を及ぼす程のアナキラフィシーではなかった…

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