和田紗愛 編 8

 イサムたちがダンジョンに向かってから一週間が経過した頃、丘の上にそびえるヴァンシュノヴァイン城の城下町であるここ……イザードパレスの人たちはとある噂話で持ち切りとなっていた。その話題の中心となっているのは探検家である一人の女性。この町ではそこそこ有名で名前も知れ渡っていて、数多くのダンジョンを攻略したことで王家からもその存在を認知されているほどだった。


 その女性の名前はルータ・ヲーブ。回復魔法……この世界では治癒魔法と呼ばれるらしい怪我を癒す魔法が得意で、水を操り戦うこともできる、それはそれは優秀な人物だったらしい。でも、彼女の全ては過去形で語られることになる。何故ならば、彼女の命は既に絶たれているからだ。そう……死んだんだ。イサムたちに同行し、おそらくは護衛という立場だった彼女はダンジョン内にて命を引き取ったらしい。


 これは噂話であったが、俺がそれを事実だと知ったのは更に二週間が過ぎた頃だった。王家のダンジョン、その一つ目を攻略したイサムたちがこの島へと戻り、数日の後に俺が教会へと赴いた際に美菜ミーナと共に説明に訪れていたイサムの口から直接聞いたことだ。



『あの噂は本当なのか?』

『……はい』

『王家のダンジョンはルータが命を落とすほど難易度が高かったのか?』

『………………』

『どうした?』

『いえ。それが……はい。確かに僕たちにとっては難易度はかなり高かったです。しかし、それはダンジョンなんて初めてで勝手も分かってなくて、やっぱり愛訝アイガさんの言っていた通りゲーム感覚が抜けきってなくて危ない場面はいくつもありました。視界に入った宝箱に飛び付きそうになった武忠タケタダが危うく罠部屋に閉じ込められるところだったり、魔物の群れに対して僕も自分の身を守るので精一杯だったり……ルータさんがいなければ早々に全滅していたのは確実でした』

『……つまり、彼女は君たちを庇って死んだのか?』

『いいえ』

『ん?』

『あの人は……突然人が変わったように宝箱のある部屋へと単身で入って行ったんです。誰にも宝は渡さない。全て自分のものだと言ってその部屋に立て籠ったんです。でもそこは罠部屋でした。本当は立て籠ったんじゃなくて閉じ込められていただけなんです。何とか外から開けようと頑張ったんですが、僕たちにはその罠を解除する方法も何も分からなかったんです』

『…………彼女の仲間は?』

『驚きを隠せない様子でした。ルータさんは仲間だけではなく、全ての探検家に親しまれていました。その慈愛の精神によって救われた人も多いといいます。僕たちもあの人が代価もなしに怪我人を治しているのを見ましたよね。あの人はそういう人だった……はずなんです』

『そうだな。自分の持つ力を私利私欲ではなく他者の為に使う。そういうのは理解はしててもなかなか真似できることじゃない。それなのに、彼女はダンジョンの宝だけは独占しようとした』

『はい……』


 この話を聞いた時は確かに妙だと思った。俺はルータのことをほとんど知らない。あの日、港で話したのが初めてだったし探検家についても詳しくはない。そういえば……以前には金に困っている探検家が恋人の金目当てに殺したっていう首吊り事件なんていうのもあったな。探検家はそんなにも稼ぎが悪いのか? そんなはずはない。この国の観光資源になっているダンジョンに挑む者たちだぞ?


 俺も防具屋の店主に言われた。俺が探検家にならないのは魔法が使えず武器を持つ勇気もないからだと。その理由はもちろん違うわけだけど、町の人の中では若者は探検家になるものだという決めつけのような意識があるということだ。その仕事の稼ぎが悪いなんていうのはあり得ないだろ。もちろん、宝を手にできなければただ魔物と戦うだけの労働者だ。実力主義でありギャンブル要素もある。そういう世界ではあるが。


『直前のルータの様子はどうだった?』

『はい。それは美菜ミーナが』

『……わたしは、ルータさんから治癒魔法のことを学びたくてずっと近くにいました。魔物との戦いでは攻撃魔法に補助魔法、治癒魔法と使い分けていて臨機応変に動いていました。最後尾から仲間の人たちの指揮やわたしたちへの指示も行っていて、これが探検家なんだと、そのお手本になっている方なんだと思いました。そんな人なのに親しみやすく、ダンジョンを進む際にもよく話をしてくれました。その話題は豊富でしたが、特に熱心に聞かれたのは……愛訝アイガさんのことでした』

『俺の話?』

『はい。ルータさんは愛訝アイガさんのことを……』

『いや、待て待て。俺とルータはあの日に初めて話したんだぞ? それに俺には紗愛サナがいることもちゃんと伝えたんだ。それは美菜ミーナの勘違いだろ』

『いいえ。わたしには分かるんです……。ルータさんは愛訝アイガさんのことを本当に好きになっていたと思います』

『…………分かった。でも、それはいい。他に変わった様子は? 金に困ってるとか、ダンジョンの宝に関して特別な思いがあったりだとか』

『いえ。そういうことは全くなかったと思います。だからこそ不思議だったんです。ルータさんがあんな行動に出るなんて……』

『………………』

『本当はもっと早くダンジョンを攻略できるはずでした。でも、攻守の要で治癒魔法も使えたルータさんの抜けた穴は誰にも埋めることはできませんでした。僕は一度撤退をと進言しました。その時はみんなでダンジョンを出てキャンプ地へと戻ったのですが、王家の人の指示で攻略するまでこの島へ戻ることは許可できないと船は出してもらえませんでした。仕方なく、僕たちは残ったメンバーで先へと進むことになったんです』

『それで三週間もかかったということか』

『はい。幸いなことに食糧は十分に用意されていたことと、倒した魔物たちもすぐに沸き出してくることもなかったのでダンジョンとキャンプを何度も往復しては少しずつ攻略できたんです』

『そうか』


 ルータの死の真相は誰にも分からなさそうだな。ただ、王家の人間はあまりにも準備がよく、初陣だった勇の者の退路を断つような真似までしたようだ。これには納得がいかない。ルータが異常な行動に出たことと何か関係があるのか? これは俺が考えるような問題じゃないのかもしれない。だけどどうにも腑に落ちない。やっぱりアイヴイザード王家のことは少し調べるべきなのかもしれないな。


『それで、ダンジョンの宝は見つかったのか? 魔物が消えたって噂は流れてないってことは当然、魔王はいなかったんだろ?』

『はい。そもそもあのダンジョンには魔王がいないことを王家の人たちは知っていたみたいです。最初に選んだのは僕たちにダンジョン攻略の練習になると思ったからだと説明を受けました』

『しかし死者が出てしまった。それについて何か言ってなかったのか?』

『僕たちの不備や不手際によるものではなかったと』

『それだけか?』

『そうですね。最深部に安置されていた宝箱はありましたが、既に中身はなく回収済みだったんだと思います』

『……そうか』

『苦労してボスっぽい魔物も倒したんですけどね。練習とはいえ、達成感のようなものがなかったせいか不満は残りました』

武忠タケタダなんかは荒れてただろ?』

『はははは……。でも、何の成果もなかったわけではないんですよ』

『ん?』

マイは小さいながらも炎を球体状にして放つことができるようになりましたし、武忠タケタダも条件はまだ分かりませんが爆発的に力を増大して打撃に上乗せすることができました。それに、美菜ミーナも……』

『うん。わたしも治癒魔法が使えるようになりました』

『できたのか?』

『はい。愛訝アイガさんの言った通りでした。怪我をしたイサムくんを目の当たりにしてようやく……。でも、まだ光が弱々しくて小さな怪我くらいしか癒せませんし、それにも随分と時間がかかってしまって』

『それでも立派な魔法だよ。僕は美菜ミーナのおかげで戦意を失わずに済んだんだから』

破魔救済ダーティリリーフ……だったな。美菜ミーナの力はただの治癒魔法とは違うと俺は思ってるんだが』

『そうなんですか?』

『はっきりとは言えないけどな。たぶん本人の方が分かるんじゃないか? 感覚みたいなもので』

『……まだ、分かりません』

『そうか。それで?』

『はい?』

イサムの力は? 強化系だとは聞いてるが』

『あ……詳しいですね。でも、僕の力はまだ発現しなくて…………』

『俺と同じだな。ま、お互い慌てずに待つとしよう。これだけ焦らすんだから余程の力なんじゃないか?』

『そうだといいですね』


 異世界召喚の特典として神様とやらが俺たちに特別な力を授けてくれたらしいが、それが長所を伸ばすものか短所を埋めるものかは人によって違う。この世界で生まれた人たちは魔法適性の有無に関わらずマナと呼ばれる魔法を操る力を誰もが保有しているらしく、それを感知する方法はいくつかあるらしいが俺たちのような魔法とは違う特殊能力とでもいえる力を調べる方法はないらしい。


 つまりは発現するまでどんな力を持っているのかは自分でも分からないし、発現させる為に条件が必要だった場合でもそれも自力で発見するしかないという。なんとも不親切な神様だよな。力を与えられても使えないなら意味はない。持ってないのと同じことなんだよな。ま、紗愛サナのように力の本質が分からないのにその一部だけが垣間見えるっていうのも困りものだが。


 その日の報告会はそれで終わりとなった。イサム美菜ミーナにはとにかく今はダンジョン攻略に集中するようにと伝えた。アイヴイザード王家の情報を得ようにもまだそんなには知らないとのことだし、何かを探るには近すぎるからな。それでも怪しくない程度には動いてみるとイサムは言っていたが。自分たちの命に関わることだし気持ちは分かるが、使命感に駆られて先走って失敗しなければいいけどな。



 ――それから更に数週間ほどが過ぎた。その後の進展はない。俺は始めたばかりの仕事に慣れるのに必死でなかなか行動を起こせずにいたし、イサムたちも慎重になっているのか、二つ目のダンジョンに挑んだという噂はまだ聞こえてはこない。何事もないただただ平和な日常が続いている。


「それじゃあ、俺はこれで」

「はいぃ、お疲れ様でしたぁ」

「ちゃんと戸締まりして、不必要な外出は控えるようにね」

「分かってますよぉ! 子どもじゃないんですからぁ!」


 店主代理に挨拶をしてから今日は早めに帰路へと着く。知る人ぞ知る我らがサッサネロ道具店の看板娘である彼女は、おっとりとした性格で少し頼りないが明るく元気で親しみやすい女性だ。客の中には彼女目当てで来店する人も多く、従来ならば父親である店主がそれを追い払うとのことだが、今は島の外での商売が主になっている為に留守にすることが多いという。それでも一人で店を切り盛りする彼女は立派で尊敬に値すると思う。


 そう、この店は彼女一人で成り立つ。それなのに俺を雇ったのは用心棒も兼ねてってことらしい。確かにこの辺りは治安も悪そうだしな。女の子が一人で生きていくには何かと不便だ。常連客が通ってくれている間は安全とも言えるが、彼女目当てで集まってくる相手なんていつ変質者になるか分からないという不安もある。それでも営業を続けたいと言うのなら誰かが守ってやらないとな。


「ま、俺が守ってやれるのは営業時間内だけだけどな」


 これも仕事だ。商品のことなんかはまだまだ勉強中で接客の役には立たないだろうけど、たちの悪い客を追い払うことくらいはできる。営業時間外のことは知らないけどな。四六時中ずっと守ってやることなんてできない。それこそ恋人でもいれば……なんて思うけど、そうなったら俺が用心棒をする必要もなくなってしまうから薦めることなんてできないし。まぁこれまでもなんとかなってきたんだし、俺は給金が貰えるなら何だっていいさ。



 ――今日は宿へ戻る前に寄る場所がある。しかし、そこへ行くにはまだ時間が早すぎる。ということで俺は一人で町の南にある丘の麓へと来ていた。ここは観光客が多く、それに合わせて出店の数も多くなっている。俺はここへ他店舗の敵情視察をしにきたわけではない。目的はそこらにいる観光客と同じだ。丘の上にそびえる巨大な城を見に来たんだ。


「これがヴァンシュノヴァイン城か……」


 石造りだが堅牢そうな城だ。丘の上という立地、城を囲む城壁。四方八方にやぐらがあって兵士たちが見張りに就いている。こういう大きな建造物のサイズは向こうの世界ではドーム何個分なんていう数え方をしていたな。しかし、俺はドームの面積も知らないし測ったこともない。ただ想像よりも大きいんだなとは思った。


 丘を登っていくこともできるようだが、観光客は足を踏み入れないようにしているのか麓から見上げるだけで帰る人がほとんどだ。どこまで許されているのか俺には分からない。港でのやり取りでこの国の兵士たちは横暴な態度なのも覚えている。下手に近づいて刺激したくもないからな。しかし、折角ここまで来たんなら情報の一つくらいは掴んで帰りたいものだが。


 辺りを見渡し、俺は一組の老夫婦が休んでいるベンチの方へと向かった。あの人たちも観光客か? いや、それにしてはのんびりし過ぎている。まるで散歩に来たかのように手荷物すら持ってはいない。城を眺めるでもなく、ただただそこに座って城を含めたこの風景を二人で楽しんでいるかのようだ。きっとこの老夫婦ならば……。


「おー。これがこの国の城かー。立派だなー。さぞかし住んでる人も凄いお方なんだろうなー。なんて言ったかな? この国の王家の名は……。んーと」

「…………アイヴイザードじゃよ」

「え?」

「アイヴイザード。現国王の名はケルヴィンじゃ」

「ケルヴィン王……そうだ。そうでしたねー。思い出しました、ありがとうございます」

「お主、観光客かの?」

「はい」

「どこから来なすった」

「えっと、東にある小さな島国…………ですかね」

「何?」

「ん?」

「東に島国などありはせんじゃろ。あるのは大陸一つ……お主、あの工業都市の出身かの?」

「ま、まぁそういうことになりますかね。でも、ずっと田舎の方ですけど」

「ふん! どの国よりも十数年も先を行く発展都市から見たらこの国の方がよほどの田舎じゃろうて」

「いや……そんなことは…………」


 失敗したか。東の小さな島国というのはこういう時のテンプレ回答かと思っていたがどうやら墓穴を掘ったようだ。この世界の東の国とやらは工業都市でこの国よりも発展しているらしい。確かにこの国は石造りの住宅が多く、旧時代の西洋風っていうのか? 映画とかでよく見るような環境だ。


 それに比べて工業都市ということは物造りが進んでいるんだろう。武器や防具、道具なんかは量産化体制に入っていたり、もしかしたらこの国にはない機械工業にまで発展しているのかもしれない。そんな国から来たら確かにこの国は田舎に感じてしまうかもしれないけど、実際の俺はその工業都市よりも更に進んだ、未来とも言えるほどに発展した世界から来たんだけどな。


「すみませんねえ。この人はこの国を愛しております故に」

「いえ、勉強になります。できればもう少しお話を聞きたいんですけど宜しいですか?」

「なんじゃ。ここで学ぶことなどないじゃろ」

「まぁまぁ、そんなこと仰らず話を聞いてあげてもよいではありませんか」

「うーん、そうか? 言ってみい」

「……王家のことを。アイヴイザードのことを教えて頂けませんか?」

「なんじゃと?」

「俺はこの国のことをあまり知りません。知らないでここまで連れて来られたんです。この国の観光資源がダンジョンにあるということは存じ上げているんですが、それ以外のことはほとんど知らなくて。イザードパレスの人たちは温かくて優しい人が多かった。でも先日、港で見たこの国の兵士たちの態度は大きく国民を大切にしているのかが疑問になりました。ケルヴィン王は何故それを善しとしているのか、これだけ立派な城を築いた人がどうして他人の力を借りてまでダンジョン攻略なんて始めようと思ったのか……」

「………………」


 最初こそわざとらしかったが、今は特に演技をしているっていう気持ちはない。真剣な眼差しでの問いかけに、渋々だったお爺さんの表情も変わっていく。この人は愛国心の強い人だとお婆さんは言った。何か思うことはあるはずだ。目の前にいるのは余所者だ。愚痴の一つを溢したところでそれが兵士の耳に入ることはないと理解してくれさえすれば……。


「あの城を築いたのはケルヴィンではない。先代のゾアル王じゃ。かの方は小競り合いの続いていた近隣の島々との争いを一代の内に終結させ、マスノティ諸島として統合した。そしてこの地に城を築いて眼下にイザードパレスという町を作ったんじゃ。この国の者がアイヴイザードに頭が上がらんのは、ゾアル王がこの国をまとめ他国の侵攻を未然に防いだことと、かの大戦中も国民の為に兵を動かし、自らも化け物共と剣を交えておられた姿を見ておるからじゃ」

「化け物? それに他国の侵攻って……この国は戦争の危機にあるんですか?」

「他国とは言っても積極的に侵略行為に及んでおるのは西の大国だけらしいがの。お主たちの国も幾度となく衝突しておるじゃろ」

「あ、あぁ……そうですね」

「西の大国といえば、王の養子となった娘がミアメイル様にどこか似ているという噂もありましたねえ」

「ふん! 全然似とらんわ!」

「ミアメイル様?」

「ケルヴィン王の娘、アイヴイザードの姫君じゃよ。まだまだ若いが良くできた姫での、ケルヴィンとは大違いじゃ」

「へぇ」

「本当に何も知らないんじゃな」

「すみません、勉強不足で」

「いや、それが他国の人間から見たこの国の現状そのものなんじゃろうな。ゾアル王亡き今、この国はいつ他国の侵略を受けるか分からん状態にあるからの」

「ゾアル王はもう?」

「ダンジョンに現れた魔物によってな」

「そうですか……」

「ケルヴィンが王に即位してからこの国は変わった。王が権力に溺ると兵士たちはそれに習って乱暴に振る舞う輩が増えたんじゃ。国民には貧富の差が広がり、観光資源として利用していたダンジョンにこの国の者も頼らざる得なくなっていった」

「ケルヴィン王もそのダンジョンを攻略するつもりらしいですね」

「教会の入れ知恵じゃよ」

「教会……アメムガリミス教会ですか?」

「そうじゃ。キヤス神父は知っておるかの?」

「……はい」

「神父は他国出身での。元々は神への信仰などなかったこの国にそれを伝えたのが彼じゃ。押し付けがましいことはせず、親身になって話を聞いてくれる彼に皆心を開いていった。しかし、どこから嗅ぎ付けてきおったのか、教会の司祭を名乗る者が城を訪れケルヴィン王に助言を与えたそうなんじゃ。戦を知らぬケルヴィン王は他国の侵攻に怯え、ゾアル王がダンジョンに残したという王家の財宝を手にすることを決意したのじゃ。しかし、魔物が巣食ってしまったダンジョンに手を焼かされておるようじゃの。今では探検家たちの手まで借りておる始末じゃよ」


 思いがけず深い話まで聞けてしまった。正直、ここまでだとは思ってもみなかった。収穫もあったし、そろそろ引き上げるとしようか。この後に寄らなければならない場所もあるしな。


「…………この話、国に持ち帰るつもりかの?」

「え? いや、そんなことはしませんよ。俺は軍人ではありませんし、この国を貶めるようなことはしません。ただ、ここで生活をする以上は国を治めている王のことくらいは知っておきたいと思っただけですから」

「そうか。長々と話をして悪かったの」

「いえ、為になるお話でした。余所者の俺にここまで話してくれてありがとうございました」

「ふん! ただの愚痴じゃ! わしはゾアル王の治める国が好きじゃった……。ケルヴィンは好かん! 今はミアメイル姫の成長を見届けるのが唯一の楽しみなんじゃ。この国の未来は姫にかかっておると言ってもいいじゃろうからな」

「だったら俺も期待させてもらいます。せめて国に帰るまでの間に戦争が起こらないようにと」

「そうじゃな」

「……では、俺はこれで」

「またいらしてくださいね。この人も話し相手ができて喜んでおりますもので」

「うるさいわい!」

「はは! ではまた!」


 こうして俺はその場を離れた。丘を離れながら一度城の方を振り返る。この国はいつ戦争になるのか分からないほどの危険な状態にあった。それを国民も分かってはいるはずなのに怯えている様子はない。それはきっと先代のゾアル王の働きによるものだろう。しかし、その王はもういない。継いだのは戦を知らないケルヴィン王。国民たちの多くはまだ気付いてすらいないんだ。戦争になったら最後、この国は滅ぶ運命にあることを。


 権力に溺れ、兵たちの暴走を止めることもできない王がどうやってその危機を逃れようというのか。それは予測ではあるが見当は付いた。だとしても俺たちには関係ない。巻き込まれてたまるものか。俺は再び歩き出す。今はとにかくイサムたちに頑張ってもらうしかない。この話はいずれ伝えなければならないだろうけど、今の段階ではまだ時期尚早だろうからな。


「遅くなったな、少し急ぐか」



 ――すっかり日も暮れて町は外灯が照らす夜の町へと変わっていた。折角、早く帰らせてもらったのに待ち合わせの時間には間に合わなかった。それでも別に相手が帰ったりはしない。逃げたりもしない。何事もなかったかのようにそこで待っているのだろう。


 正直、俺はあまり行きたくはない。だから寄り道までして時間を潰していた。でも、行くしかないことも理解している。そうしなければ俺は先へは進めない。心に残る引っ掛かりを取り除かなければ、いつまで経っても俺は紗愛サナに助けられる存在にしかなれないんだ。


「ふぅ……」


 大きな通りに面した一際明るい店の前。千鳥足で歩く中年やダンジョン帰りの探検家などが闊歩している。中には座り込んで吐き気を催したりしている人の姿もある。そう、ここはこの町でも有数の人気を誇る大きな酒場。俺が逃げ出した宿屋の主人に紹介された最初の仕事先。紗愛サナが働くその酒場の扉をゆっくりと開く。


 店内はあの頃と同じ熱気に包まれている。その重苦しい重圧感には気が滅入る。立ち眩みのように目の前が真っ暗になる。聞こえてくるのは酔っ払いたちの騒ぐ声、店員たちの元気な返事、そしてマスターの威圧的な話し声だ。足がすくむ。呼吸の仕方を忘れたように俺の体内からは酸素がすぐに枯渇した。ダメだ。倒れてしまいそうだと……そう思った時。


「いらっしゃい、愛訝アイガ。待ってたわよ」


 優しい声が俺を出迎えてくれた。そっと目を開くとヒラヒラと揺れるフリルの付いた給仕服姿の紗愛サナがそこに立っていた。彼女の姿を見たら少し緊張が解れたのか肺に酸素が供給され始めた。それが脳にも伝わり冷静さを取り戻していく。大丈夫だ。今日は客として招かれたんだ。逃げた俺を責め立てる為の会合ではない。


「ごめん、遅れた」

「ううん、いいの。こっちに来て、特等席に案内してあげる」

「……あ、ああ」


 そう言って連れていかれるのは特等席なんかではなく、店内において一番気まずい席だ。それは中央にある円状になったカウンター席。そこでまさしくエンカウントすることになる。そこでは年老いた男性が主に常連客を相手に酒を作って提供している。そうだ。その人こそが……。


「おう、アイガ! 来たな?」

「……どうも」

「まぁ座れや!」

「はい……」


 マスターに言われるがまま席に着いた。俺はこの人の威圧的な話し方が苦手だ。どうにも萎縮してしまう。弱い自分をさらけ出してしまう。高校生たちや年上の神父にも強気な態度で接してきた俺だが、元雇い主であり、ここを逃げ出した原因ともいえる存在を前にすると心臓を鷲掴みにされたような気持ちに陥ってしまうんだ。


「どうだ?」

「え?」

「仕事にはもう慣れたかって聞いてんだ!」

「あぁ……まぁそれなりには」

「そうか。客相手って意味じゃこことそう変わらねぇだろ!」

「いえ……。まぁ、はい」

「サッサネロの旦那とは長い付き合いでな。しばらく留守にするってんでもしかしたらなんて思ったわけよ! あのお嬢ちゃんは父親の血を引いて商人としての才はあるがどうにも頼りねぇ。一人で店を続けさせるのは心配だからな!」

「マスターが紹介してくれたと紗愛サナから聞きました。この度は本当にありがとうございました。俺はここを逃げ出した人間なのに……」

「いつまでも気にしてんじゃねぇ! お前なんかいなくても問題ねぇってんだよ!」

「はい……」

「ちょっとマスター! そんな言い方はないでしょ!」

「あぁん!?」


 俺とマスターの会話に割り込んできたのは紗愛サナだ。注文もしていないのに、運んできた料理を俺の前に並べながらマスターと言い争いをしている。他の店員じゃこのマスターに言い返すなんてことは絶対にしないのに、紗愛サナは持ち前の強気な性格でズケズケと言いたいことを言う。


「いい大人なんだから、どう言えば人が傷つくのか知ってください!」

「うるせえ! もうずっとこうやって生きてきたんだ! 今さら易々と変えられるか!」

「別に変わらなくてもいいわよ! だけど、他人の気持ちも理解できない人が、他人の為に美味しいお酒を作れるはずなんてないでしょ!」

「なんだとこの!」

「なによ!」


 おいおい。今日は面倒なのは勘弁してくれよ。この二人の言い争いの仲裁に入らなくてはならないのは俺なんだろ? どっちも止められる気がしない。なんとも頭痛がする展開だ。そんな風に思って頭を抱えていた俺の傍らで笑い声がした。それも一つや二つじゃない。もっと大勢の笑い声だ。


「始まったぞ!」

「いいぞ! サナちゃん、そのまま言い負かしちまえ!」

「そうだそうだ! いつまでも偉そうにしてんじゃねぇよクソジジイ!」

「うぉい! 今言ったのはどいつだ! 前に出ろ!」

「ちょっと、あたしを無視しないでよ!」

「がははは! これが見たかったんじゃ!」

「サナちゃんが来てから酒が上手くなったよな!」

「おい、どういう意味だ! これまでは不味かったってか!?」


 すごい盛り上がりだ。喧嘩しているようにしか見えなかったのに、客たちはそれを待ち望んでいたかのように酒の入ったグラスを片手に歓声を浴びせだした。それが店内中に広がって一体化していく。まるでショーを見ているかのような錯覚に見舞われる。なんで楽しそうなんだ? 客だけじゃない。他の店員や紗愛サナ自身も笑っている。そして、あのマスターですら楽しそうに暴言を吐いている。


 異様な空間に紛れ込んだ気分だ。こういうのは好きじゃない。ノリが合わないってやつだ。俺は一人蚊帳の外で冷めていく料理に手を出すこともできないでいた。宿に帰りたい。早くベッドで横になって疲れた精神を穏やかに静めたい。そんな風に思う俺を……俺自身が鼻で笑う。


 ここの人たちはなんて人間らしいんだろうか。他人の前で自分を作ろうとしない。ありのままの自分をさらけ出している。客も店主も店員でも関係ない。ここではみんなが平等に言いたいことを言い合えている。萎縮していたのは俺だけだ。俺だけが雰囲気や声の威圧感に気圧されて弱い自分を繕おっていた。それがなんだか馬鹿らしく思えたんだ。


「ははは……はははは!」


 気が付けば俺も一緒になって笑っていた。あの時と同じだ。満員電車の中で俺は他人に笑われるのが怖かった。だけど、彼らは俺の社会的ステータスを笑っていたわけではない。他愛もないカップルのじゃれあいを微笑ましく見ていただけだった。それは異世界に来ても変わらない。俺は確かにこの職場を逃げ出した。だけど、合う合わないはきっと誰にでもあって……俺は自分にできる仕事を見つけることができたんだ。だから自信を持っていいんだ。


「マスター」

「あぁん!?」

「突然来なくなって……その、すみませんでした」

「…………けっ! 今さらもういいっての! 心配した気持ちももう失せちまったわ!」

「毎日のように愛訝アイガのことを聞いてきてましたもんね?」

「うるせえな!」

「あはは! ほら、言った通りだったでしょ? 愛訝アイガが思ってるようなことはないって」

「……そうだな」

「ったく、おいアイガ!」

「はい?」

「道具屋の手伝いだろうが仕事は仕事、まぁ頑張れや」

「マスター……」

「お前みたいなもんでも必要としてくれるもんはおる。それを忘れんな」

「…………はい」

「惚れた女に心配させんじゃねぇぞ!」

「あははは! 愛訝アイガ、冷めちゃう前に食べよ? マスター、今日はもう上がりでいいですよね?」

「ああ、たらふく食って帰れよ!」


 その日に食べた夕食はこれまで食べたどんな料理よりも旨かった。味付けで分かるほど食べ慣れた紗愛サナの手料理だ。異世界で食べたからこんなに旨いのか? いや、きっとそうじゃないんだろうな。完璧な味付けなのに何故か少ししょっぱいその料理をがむしゃらに口へと運んで喉に通していく。店内を照らす照明の光が滲んで見えるほど、必死に汗をかきながら。

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