恋人消失【ヒロインズロスト】
井藤司郷
プロローグ
「ぐぅぅぅ……。ぐぅぅぅ……。むにゃむにゃ……。すぅぅぅ…………」
平日。昼。駅近のマンション。寝室にあるダブルベッド。男は大の字になって寝ている。部屋の分厚い壁は防音仕様であり、彼の眠りを妨げるものは何人たりとも存在しない……はずなのだが。
カツン……カツン……。聞こえないはずのヒール音が近付いてくる。ガチャガチャガチャ…………キキィ……バタン! どうやら部屋に侵入されたようだ。ガサガサ……ゴソゴソ……。何かを探っているのか? それとも、何かを仕掛けているのか?
「
女の声だ。しかし、男はまだ眠っている。侵入者にまんまと押し入られ、それでも気付かずに眠り続けているのだ。なんとマヌケな……いや、豪胆と言ってもいいかもしれない。よし、そうしよう。
「ちょっと、
遂に寝室にまで侵入を許してしまった。女が近付いてくる。まずい……殺られる!
「起きなさい! 今日は出掛けるって約束したでしょ! ねぇってば!」
女は男の体をものすごい勢いで左右へと揺さ振る。何がなんでも目覚めさせたいみたいだ。しかし、男は起きない。何故ならば、既にもう起きているからだ。そう……俺は寝たフリをしているだけだ。どうすれば諦めてくれるのか、それをずっと考えていた。
「あと五分だけ……」
「はぁぁ……。いいの? 追い出すわよ?」
囁かれるようにそう告げられた俺はそっと目を開いた。その瞳に映ったのは肩まで伸びた赤みのある茶髪と、鋭い眼光が目立つ整った小顔を傾け、手を当てた腰からスラッと伸びる美脚をパンツスタイルでコーデされた驚くほど容姿端麗な美女の姿だった。
「起きた? おはよう」
「おはよう、
「顔を洗って、早く準備して?」
「はいよ……」
重たい体を持ち上げて俺はベッドから下り、目一杯に背筋を伸ばす。本当はまだ起きたくなんてなかった。でも、俺は彼女に逆らうことはできない。それもそのはずで、このマンションの部屋……その主は俺ではなく彼女だからだ。
彼女の名前は和田
洗面所へ行き、バシャバシャと顔を洗う。歯を磨いて髭を剃ったら鏡でチェックする。セットしなくてもキマッてる無造作ヘアという名の寝癖ヘア。髪は染めてなくて黒一色。片目二重まぶたに片えくぼは共に左側へ集中している。イケメンなのかと問われたら、そうだといいなと答えるしかない。他人からの評価は悪くないと思ってるけど。あんなにも美人な彼女が選んでくれた顔なんだからな。そんなことを考えていると、
「まだー?」
「なぁ、俺って……イケメンかな?」
「何言ってんの? 早くして!」
「お、おう」
ちょっと機嫌が悪くなってた。いや、俺が悪くさせてしまったんだろう。急いで準備を進める。クローゼットを開いて適当に服をチョイスする。ファッションには特にこだわりはないけど、これまで
「着替えた? 行くわよ」
「はいよー」
気だるい返事をして言われるがままに付いていく。朝食は仕方ないけど、昼食すらも食べる時間を与えられない。玄関を出て鍵を閉める。その鍵を彼女に渡しはしない。これを失ったら最悪、俺は路頭へ迷ってしまうことになりかねないからだ。背筋が曲がらないようしゃんと立ち、堂々とした態度でマンションを出る。
「で? どこ行くの?」
「遊園地デートって言ったじゃん!」
「あーそういえば言ってたような。でも、朝から行かないと回りきれないんじゃね?」
「仕方ないじゃん、午前中はどうしても出ないと行けない講義があったんだもん」
「それは……仕方ないな。でも、だったらまた今度でも良かったんじゃないか?」
「ダメ。今日じゃないとダメなの!」
「なんで?」
「なんでもよ!!」
強気な性格の
そんな俺、重杉
彼女たち……そう、俺がこういう生活をしているのは
人のせいにするわけじゃないけど、それから俺はまともに人生を歩むことが出来なくなっていった。それまでの貯金を全て使い果たし、慌てて始めたコンビニバイトも客とトラブって長続きしなかった。そんな俺を拾ってくれたのが大学の後輩でもあった
「ねぇ、あれ見て……綺麗な人」
透き通るような水色の髪がどこか幻想的でとても言葉では言い表せない雰囲気の女性とその娘。母親はめちゃくちゃ若く見えるけど三十半ばくらいのはずだ。娘はそろそろ中学生になったのかな? 見つめていると魅了されてしまいそうな
「どうしたの? 目なんて逸らしちゃって……知り合い?」
「まぁ、知り合いっちゃ知り合いかも。実家の近所の人」
「そっか、
「二つ隣の駅」
「……一応、会ったら気まずいって気持ちはあるんだ?」
「まぁ、一応な」
「ふーん。でも、本当に綺麗だったなー。あたしも青くしてみようかしら」
「やめとけって。
「…………そう」
実家にはもう何年も帰ってはいない。こんな生活をしてて帰れるはずもない。
そっと後ろを振り返る。すると、タイミング良く娘の方もこっちを振り返った。俺は慌てて正面を向き直す。気付かれた? そんなはずない。あの子と最後に会ったのなんて何年前だよ。六年……くらいか? まだ小学生で低学年だったはずだ。こっちはあの子の名前すら覚えてないっていうのに。
最寄りの駅に着き、電車が来るまでの間、
差出人の名前は千持
『愛兄ちゃん、今どこにいるの? ちゃんと生きてる? たまには返事くらいしてよ。じゃないとわたし……勉強も手に付かないんだからね!』
愛兄ちゃんとは小さい頃からの俺への愛称だ。もう俺は二十三だぞ……いつまでもそんな呼び方はやめてほしいものだ。
……ただ、俺のせいで
『愛兄ちゃんはやめろ。ちゃんと生きてるから心配すんな。勉強、頑張れよ!』
これでいい。
スマホを片付けていると売店の列が進み順番が回ってきた。俺は十秒でおにぎり一個分のエネルギーをチャージできるっていうあの有名なゼリー飲料を買った。その場で飲み干してゴミ箱へ投下し、電車がホームに入って来たから慌てて
「遅い! ギリギリじゃない……って何も買わなかったの?」
「いや、もう食べてきた」
「……早食いなんかして喉に詰めないでよ?」
「大丈夫だって」
喉に詰まるものでもなかったしな。そんなにモリモリ食べられるほど俺の財布は重くないんだ。もう慣れたけどな。空腹にも貧乏生活にも。
電車に乗り込んで終着駅を目指す。ガタンゴトン……と揺られながら、
「また?」
「ん? あーそうみたい」
「はぁぁ……。
「ごめんごめん。見られてると気になっちゃってさ」
「折角のデートなのに……やんなっちゃう!」
俺は何故か昔から女性に好かれやすいみたいで、いつも周囲には男子じゃなくて女子が集まってくるような学生生活を送ってきた。当然そういった相手にも困らず、男子たちからは羨ましがられるどころか恨まれてるような気さえもしていた。そんな俺が男友達なんて作れるはずもなく、ある意味では寂しい学生生活だったとも言える。
それでも、いじめとかは受けなかった。俺は実家の近くにある剣術道場で剣技を習っていたことがあって、その噂が広まっていたから誰も喧嘩を売ってきたりとかはしてこなかったからだ。今となっては何の役にも立たないけど、当時はいろんなことに対しての抑止力にはなっていたように思う。
目的の駅に到着し、俺たちは電車を降りて改札口へと向かう。遊園地は駅を出てすぐの所にあって、アクセスしやすく宿泊施設も併設されているから大人気のデートスポットになっているそうだ。
「
「…………」
「悪かったって。謝るからさ?」
「
「まぁそうなんだけどさ」
「何のためにこんなにボサボサの髪とダッサイ服の彼氏を連れて来てると思ってんのよ!」
「お、おう……」
オシャレな彼氏じゃなくて本当にすまないと思う。どうしても女性の視線を集めてしまう俺の見た目だけでもみすぼらしくしておこうってことなんだろうけど、あんまり効果はないみたいだ。それどころか、あんな恰好でこんな場所に連れて来られてて可哀想……なんて目で見られてる気もするんだよな。
「俺は確かに、今まで女に困ったことはないしこういうのも慣れちゃってるけどさ、複数の女を相手にできるほど器用でもないし恋人には一途でいたいって気持ちもある。そんで、今の俺の恋人は
「…………うん」
嘘はついていない。これが俺の本心なのは間違いない。
二人揃って遊園地へと入る。動物の耳の被り物をさせられ、食べ歩きもしながら適当にアトラクションの列に並んで待つ。俺一人だったら耐えられないような待ち時間も
そんな楽しい時間もあっという間に過ぎ去り、そろそろお土産でも買って帰ろうかということになった。
俺は特に何も買うものもない……いや、何かを買えるだけの余裕もない。頭に被らされたこの動物の耳だけが俺の思い出の品だ。チケット代も、この耳も、食べ歩きしたものだって全て
「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
「はいよー」
『やぁ、元気にしているかい? もうすぐ仕事が落ち着きそうでね、近いうちに帰国しようと思う。可愛い弟にも会いたいからね。もちろん、
一見すると男から送られてきた文章のようなメール。だけど、これは紛れもなく女性からのメールだ。俺にはすぐに分かってしまう。その文章にはまだ続きがあった。
『君の体質はまだ改善していないのかい? あまり
そう締め括られた文章を他人が見たら勘違いされるだろうけど、この人は俺の浮気相手ではない。浮気相手では、ない。
「おまたせー」
「おう、おかえり」
「ん? メール? 誰から?」
「ああ……えっと……」
「…………
「まぁ……うん」
「そ。で、なんて?」
「また今度、三人で食事でもどうかって」
「ふーん。いいんじゃない?
「相談?
「はぁぁ……。そんなの、
「え、俺?」
素で驚いてしまった。でも、考えてみたらそうだよな。
「
「…………」
「あたしたちが付き合い始めてから一年の記念日。やっぱり覚えてなかったんだ」
「……ごめん」
「んーん、別にいい。
「…………」
「
「社会勉強……とか?」
「…………違うよ。あたしがアルバイトしてたのは今日ここへ来る為」
「え? でも、
「自分が働いたお金で
「…………」
「親から仕送りも貰ってるし、マンションの家賃だって払って貰ってる。でも、今日のこのデート代だけは自分で出したかったの……」
「何で?」
「
何が言いたいのかっていうのはさすがにもう気付いている。この一年、
「そっか……。まぁ、仕方ないよな」
「何が? 何が仕方ないの?」
「だから……最後に遊園地デートして、そんで……」
「最後……? 何でそんなこと言うの?
「そんなわけないだろ。
「うん。恋愛体質……でしょ?」
「……俺は常に誰かを愛していないとダメなんだ。誰でもいいわけじゃない。俺を愛してくれる人じゃないと。
「…………理解してる。理解してるけど、あたしだってこの一年ずっと怖かったんだよ?
そうだ。俺を散々甘やかしてダメにして、卒業と同時に別れた元カノ……それが
「ねぇ
「ん?」
「仕方ないとか、最後とか……そうやって言い訳して逃げるのはもうやめてよ。あたしが言いたいこと、本気で分かってないわけじゃないでしょ?」
「…………俺、頑張ったじゃん。
「そんなことない。一度出来たんだもん、また出来るよ」
「どうせまたトラブってすぐ辞めるだけ。それに、もうろくな仕事にも就けないって」
「そうやって選んじゃうから動けなくなっちゃうんじゃないの?」
「……しょうがないだろ? 彼女はお嬢様で、彼氏はコンビニでアルバイトしてますなんて……本当は
「全然だけど?」
「…………」
「コンビニバイトでもいいじゃん! ちゃんと働いてるんだもん。あたしはただ、
今日の遊園地デート……俺は楽しいと思ってた。本気で幸せな時間だと思えてた。でも、
俺にとっては遊園地だろうがどこだろうが、場所なんて問題じゃなかったのかもしれない。ただ俺は、
「こんな所でする話じゃなかったね…………帰ろっか」
駅に着くと、いつも以上に周囲からの視線を感じるようになった。女性からだけじゃない……男たちからの視線もある。ホームに立つと対面のホームに立つ人たちからは笑われてる気もした。遊園地の出口で喧嘩してたのを見られてたのかなって思い、何だか
電車が到着し、乗り込んでみるとそこそこ混み合っていてまだ窮屈は続くのかよって感じだった。前に立った
「
「…………うん」
そう返事をした
「ねぇ、
「ん?」
「それ……いつまで付けてんの?」
「どれ?」
「頭の上」
頭の上? あ……。そこでようやく俺は周囲の視線と笑われていた理由が分かった。俺の頭の上には、まだ遊園地で被らされていた動物の耳が生えたままだ。気付いた俺に周囲の人たちがクスクスと笑い出す。めちゃくちゃ恥ずかしくて今すぐにでも外したいんだけど……両手は荷物で塞がってて、満員だから床に下ろすこともできない。
「
「…………やだ」
「え?」
「帰るまで付けてて」
「いやいや、嘘だろ? 頼むって」
「ダーメ!」
これ何かの罰ゲームか? 目の前にはクスクスと笑う美人な彼女がいて、その子にからかわれてる俺を周囲の人たちもクスクスと笑って見てる。その二つの笑いを俺は全くの別物だと思っていた。
でも今日は何故か……少しだけ違って見えた気がした。俺は頭の耳を笑われてるんじゃなくて、俺自身を笑われてるとどこかでそう変換していた気がする。俺の劣等感がそうさせているんだと、俺は今になって気付くことができた。この人たちは俺が無職だから笑ってるんじゃない……カップルのじゃれ合いをただ微笑ましく見ているだけだ。
俺がデートを本気で楽しめてなかったのは、どこかで周囲の視線を勝手に蔑みの目だと決めつけていたからだ。
「
「なに?」
「俺……頑張ってみようと思う」
「え?」
「いきなりは難しいから、少しずつになるかもしれないけど……またやってみるよ」
「ほんと?」
「うん。応援……してくれるかな?」
返事はしてくれなかった。でも、俺の胸に飛び込んできた
「
もう周囲の視線は気にならなくなっていた。俺には誇れるものが何もない。それをもう卑下することもしない。俺を愛してくれる人がいる。その人を愛していられるなら何だって出来る気がする。俺は今日……変われたんだと思う。
平日。夕方。遊園地デートの帰り。満員電車の中。これが、俺たちの日常だった。この日常が、もっともっと楽しくなっていくんだと思っていた。この時の俺たちにはまだ、これからどうなるかなんて……俺と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます