恋人消失【ヒロインズロスト】

井藤司郷

プロローグ

「ぐぅぅぅ……。ぐぅぅぅ……。むにゃむにゃ……。すぅぅぅ…………」


 平日。昼。駅近のマンション。寝室にあるダブルベッド。男は大の字になって寝ている。部屋の分厚い壁は防音仕様であり、彼の眠りを妨げるものは何人たりとも存在しない……はずなのだが。


 カツン……カツン……。聞こえないはずのヒール音が近付いてくる。ガチャガチャガチャ…………キキィ……バタン! どうやら部屋に侵入されたようだ。ガサガサ……ゴソゴソ……。何かを探っているのか? それとも、何かを仕掛けているのか?


愛訝アイガー? まだ寝てるの?」


 女の声だ。しかし、男はまだ眠っている。侵入者にまんまと押し入られ、それでも気付かずに眠り続けているのだ。なんとマヌケな……いや、豪胆と言ってもいいかもしれない。よし、そうしよう。


「ちょっと、愛訝アイガ!!」


 遂に寝室にまで侵入を許してしまった。女が近付いてくる。まずい……殺られる!


「起きなさい! 今日は出掛けるって約束したでしょ! ねぇってば!」


 女は男の体をものすごい勢いで左右へと揺さ振る。何がなんでも目覚めさせたいみたいだ。しかし、男は起きない。何故ならば、既にもう起きているからだ。そう……俺は寝たフリをしているだけだ。どうすれば諦めてくれるのか、それをずっと考えていた。


「あと五分だけ……」

「はぁぁ……。いいの? 追い出すわよ?」


 囁かれるようにそう告げられた俺はそっと目を開いた。その瞳に映ったのは肩まで伸びた赤みのある茶髪と、鋭い眼光が目立つ整った小顔を傾け、手を当てた腰からスラッと伸びる美脚をパンツスタイルでコーデされた驚くほど容姿端麗な美女の姿だった。


「起きた? おはよう」

「おはよう、紗愛サナ

「顔を洗って、早く準備して?」

「はいよ……」


 重たい体を持ち上げて俺はベッドから下り、目一杯に背筋を伸ばす。本当はまだ起きたくなんてなかった。でも、俺は彼女に逆らうことはできない。それもそのはずで、このマンションの部屋……その主は俺ではなく彼女だからだ。


 彼女の名前は和田紗愛サナ。俺の自慢の恋人で現役女子大生だ。頭が良くて人柄も良く、世渡り上手な上に親はそこそこ小金持ちらしい。そんなお嬢様の暮らすそこそこ高級なマンションに上がり込んでいる俺は……現在無職だ。ずっとじゃない。少し前まではアルバイトだってしてた……コンビニバイトだけど。


 洗面所へ行き、バシャバシャと顔を洗う。歯を磨いて髭を剃ったら鏡でチェックする。セットしなくてもキマッてる無造作ヘアという名の寝癖ヘア。髪は染めてなくて黒一色。片目二重まぶたに片えくぼは共に左側へ集中している。イケメンなのかと問われたら、そうだといいなと答えるしかない。他人からの評価は悪くないと思ってるけど。あんなにも美人な彼女が選んでくれた顔なんだからな。そんなことを考えていると、紗愛サナが待ちきれない様子で洗面所を覗き込んできた。


「まだー?」

「なぁ、俺って……イケメンかな?」

「何言ってんの? 早くして!」

「お、おう」


 ちょっと機嫌が悪くなってた。いや、俺が悪くさせてしまったんだろう。急いで準備を進める。クローゼットを開いて適当に服をチョイスする。ファッションには特にこだわりはないけど、これまで紗愛サナにダメ出しされたこともない。俺のセンスが良いのか、紗愛サナが彼氏の衣装に興味がないのか、どっちだろうな?


「着替えた? 行くわよ」

「はいよー」


 気だるい返事をして言われるがままに付いていく。朝食は仕方ないけど、昼食すらも食べる時間を与えられない。玄関を出て鍵を閉める。その鍵を彼女に渡しはしない。これを失ったら最悪、俺は路頭へ迷ってしまうことになりかねないからだ。背筋が曲がらないようしゃんと立ち、堂々とした態度でマンションを出る。



「で? どこ行くの?」

「遊園地デートって言ったじゃん!」

「あーそういえば言ってたような。でも、朝から行かないと回りきれないんじゃね?」

「仕方ないじゃん、午前中はどうしても出ないと行けない講義があったんだもん」

「それは……仕方ないな。でも、だったらまた今度でも良かったんじゃないか?」

「ダメ。今日じゃないとダメなの!」

「なんで?」

「なんでもよ!!」


 強気な性格の紗愛サナ。歳は確か二十一。俺より二つも年下だ。大学に通いながら居酒屋でアルバイトもしてる。金には困ってないだろうに、社会勉強とかいうやつか? しっかりしてると思う。俺なんかの恋人でいいのかよって感じるくらいには。


 そんな俺、重杉愛訝アイガは彼女のヒモ男……ということになる。我ながら情けない男だと思ってはいるが、長いことこういう生活をしているとなかなか抜け出せなくなってしまうんだよな。甘えてしまうんだ。彼女たちに。


 彼女たち……そう、俺がこういう生活をしているのは紗愛サナと付き合い始めてからではない。以前に恋人の関係だった大学の同期生だった女性にも俺は甘えさせてもらっていた。甘えさせられていたと言ってもいいかもしれない。紗愛サナ以上にできた女だったその人は俺を散々甘やかしてダメにして、卒業と同時に別れを告げてエリート街道へと進んでいった。


 人のせいにするわけじゃないけど、それから俺はまともに人生を歩むことが出来なくなっていった。それまでの貯金を全て使い果たし、慌てて始めたコンビニバイトも客とトラブって長続きしなかった。そんな俺を拾ってくれたのが大学の後輩でもあった紗愛サナだった。


「ねぇ、あれ見て……綺麗な人」


 紗愛サナはあまり他の女性を褒めたりはしない。自分が大好きってことではないみたいだけど、どんなに美人な女優でも、どんなに素敵なモデルでも、俺の前では「普通」と言ってしまう。そんな彼女が綺麗だと言った人はいったいどんな人なのか。俺は反対側の歩道を歩くその親子に視線を向けた。


 透き通るような水色の髪がどこか幻想的でとても言葉では言い表せない雰囲気の女性とその娘。母親はめちゃくちゃ若く見えるけど三十半ばくらいのはずだ。娘はそろそろ中学生になったのかな? 見つめていると魅了されてしまいそうな母娘おやこの姿を俺が見ていられたのはものの数秒間だけだった。


「どうしたの? 目なんて逸らしちゃって……知り合い?」

「まぁ、知り合いっちゃ知り合いかも。実家の近所の人」

「そっか、愛訝アイガの実家ってこの近くだっけ?」

「二つ隣の駅」

「……一応、会ったら気まずいって気持ちはあるんだ?」

「まぁ、一応な」

「ふーん。でも、本当に綺麗だったなー。あたしも青くしてみようかしら」

「やめとけって。紗愛サナは今のままが一番似合ってるから」

「…………そう」


 実家にはもう何年も帰ってはいない。こんな生活をしてて帰れるはずもない。紗愛サナのマンションが実家の近くだと知った時は知り合いに会わないかってどぎまぎしたもんだけど、今となっては誰も俺のことなんて覚えてないだろうって開き直ったりもしてる。咄嗟に顔は逸らしちゃうけど。さっきの母娘だって全く気付いてなかったみたいだし。


 そっと後ろを振り返る。すると、タイミング良く娘の方もこっちを振り返った。俺は慌てて正面を向き直す。気付かれた? そんなはずない。あの子と最後に会ったのなんて何年前だよ。六年……くらいか? まだ小学生で低学年だったはずだ。こっちはあの子の名前すら覚えてないっていうのに。



 最寄りの駅に着き、電車が来るまでの間、紗愛サナに待っててもらって俺は駅構内の売店で何か買って食べようと思い、駆け足で売店の列に並んだ。そこでようやくスマホを取り出し、メールチェックをする。紗愛サナの前ではできない理由がそこには表示されている。


 差出人の名前は千持華恋カレン。俺の幼馴染みで現役女子高生だ。よくもまあこの歳になっても懐かれてるなと思う。華恋カレンだって今年は受験生で俺の相手なんてしている場合じゃないのにな。手早くメールを開き内容を確認する。


『愛兄ちゃん、今どこにいるの? ちゃんと生きてる? たまには返事くらいしてよ。じゃないとわたし……勉強も手に付かないんだからね!』


 愛兄ちゃんとは小さい頃からの俺への愛称だ。もう俺は二十三だぞ……いつまでもそんな呼び方はやめてほしいものだ。華恋カレンに返事をしないのは、そこから必ず俺の両親に伝わってしまうからだ。わざわざ避けてるっていうのに、居場所を突き止められたら面倒なことになるだけだろ。


 ……ただ、俺のせいで華恋カレンが受験に失敗するのは可哀想だよな。居場所は伝えないようにだけ気を付けて返事を送ることにした。


『愛兄ちゃんはやめろ。ちゃんと生きてるから心配すんな。勉強、頑張れよ!』


 これでいい。華恋カレンもいい加減、いつまでも俺に構ってないで高校生らしく同年代の彼氏でも作れば幼馴染み離れができると思うんだけどな。まぁ、それはそれで寂しいとも俺は感じてしまっているわけなんだけど。


 スマホを片付けていると売店の列が進み順番が回ってきた。俺は十秒でおにぎり一個分のエネルギーをチャージできるっていうあの有名なゼリー飲料を買った。その場で飲み干してゴミ箱へ投下し、電車がホームに入って来たから慌てて紗愛サナの元へと駆け寄った。


「遅い! ギリギリじゃない……って何も買わなかったの?」

「いや、もう食べてきた」

「……早食いなんかして喉に詰めないでよ?」

「大丈夫だって」


 喉に詰まるものでもなかったしな。そんなにモリモリ食べられるほど俺の財布は重くないんだ。もう慣れたけどな。空腹にも貧乏生活にも。紗愛サナに言えば食わしてもらえるだろうけど、この後のことを考えるとこれくらいの出費はまぁ仕方ないよな。


 電車に乗り込んで終着駅を目指す。ガタンゴトン……と揺られながら、紗愛サナと他愛もない話をして時間を潰す。すると、どこからか視線を感じて俺は辺りをキョロキョロと見回した。一つ後ろの扉の前に立っている女性と目が合った。知らない人だ。でも、こういうことは俺にとってはよくあることで。


「また?」

「ん? あーそうみたい」

「はぁぁ……。愛訝アイガもいちいち探さないでよ」

「ごめんごめん。見られてると気になっちゃってさ」

「折角のデートなのに……やんなっちゃう!」


 紗愛サナは拗ねたように背を向けて外の景色を眺め始めた。俺も一緒になって視線を外へと向ける。恋人と一緒にいて他の女性に目移りしてたら彼女だって良い気持ちにはならないよな。分かってはいる。分かってはいるんだけど……。


 俺は何故か昔から女性に好かれやすいみたいで、いつも周囲には男子じゃなくて女子が集まってくるような学生生活を送ってきた。当然そういった相手にも困らず、男子たちからは羨ましがられるどころか恨まれてるような気さえもしていた。そんな俺が男友達なんて作れるはずもなく、ある意味では寂しい学生生活だったとも言える。


 それでも、いじめとかは受けなかった。俺は実家の近くにある剣術道場で剣技を習っていたことがあって、その噂が広まっていたから誰も喧嘩を売ってきたりとかはしてこなかったからだ。今となっては何の役にも立たないけど、当時はいろんなことに対しての抑止力にはなっていたように思う。



 目的の駅に到着し、俺たちは電車を降りて改札口へと向かう。遊園地は駅を出てすぐの所にあって、アクセスしやすく宿泊施設も併設されているから大人気のデートスポットになっているそうだ。紗愛サナもずっと来たいって言ってたから、今日は楽しみにしてたんだろう。


紗愛サナ、まだ怒ってんのか?」

「…………」

「悪かったって。謝るからさ?」

愛訝アイガが謝ってもどうにもならないことでしょ? 放っておいても向こうから一方的に好意を向けて来るんだから!」

「まぁそうなんだけどさ」

「何のためにこんなにボサボサの髪とダッサイ服の彼氏を連れて来てると思ってんのよ!」

「お、おう……」


 オシャレな彼氏じゃなくて本当にすまないと思う。どうしても女性の視線を集めてしまう俺の見た目だけでもみすぼらしくしておこうってことなんだろうけど、あんまり効果はないみたいだ。それどころか、あんな恰好でこんな場所に連れて来られてて可哀想……なんて目で見られてる気もするんだよな。


 紗愛サナはこう見えてかなり束縛するヤキモチ焼きだし、こんな良い女がなんで俺なんかをって思ったりもするけど、他の女性と同じで紗愛サナだって以前は一方的に好意を向けてくる側の女の子だったんだ。だから、どうしようもないことだっていうのは分かってるはずなんだけどな。


「俺は確かに、今まで女に困ったことはないしこういうのも慣れちゃってるけどさ、複数の女を相手にできるほど器用でもないし恋人には一途でいたいって気持ちもある。そんで、今の俺の恋人は紗愛サナだろ? 他の女がどんなに好意を向けてきたとしても、俺が好きなのは紗愛サナだけだから」

「…………うん」


 嘘はついていない。これが俺の本心なのは間違いない。紗愛サナには金銭面でも世話になってるし、手放したくないって気持ちもないわけじゃないけど、それ以上に俺は本気で彼女のことを愛している。愛してしまうのが俺なんだ。


 二人揃って遊園地へと入る。動物の耳の被り物をさせられ、食べ歩きもしながら適当にアトラクションの列に並んで待つ。俺一人だったら耐えられないような待ち時間も紗愛サナと一緒なら楽しかった。彼女と一緒にいられるだけでも幸せなのに、こんなに美人な彼女だから、周りの人にジロジロ見られるのも俺にとっては自慢で心地良かった。


 そんな楽しい時間もあっという間に過ぎ去り、そろそろお土産でも買って帰ろうかということになった。紗愛サナの後ろを付いて回る俺は彼氏というよりも荷物持ちって気がしないでもないけど、彼女が笑顔でいられるならそれでもいいかなって思えた。


 俺は特に何も買うものもない……いや、何かを買えるだけの余裕もない。頭に被らされたこの動物の耳だけが俺の思い出の品だ。チケット代も、この耳も、食べ歩きしたものだって全て紗愛サナが金を出してくれた。当然なんて言い方をしたら怒られるだろうけど、俺の財布はやっぱりそんなに重たくないんだ。悲しいほどに。



「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくるわ」

「はいよー」


 紗愛サナを待っている間、散々歩き回ったからか足を休めたくて、俺は遊園地の出口付近に備え付けられていた人通りの少ない隅のベンチに腰掛けて待つことにした。ふぅぅ……と一息吐いて何気なくスマホを取り出した。メールが一件だけ届いていた。華恋カレンからの返事だと思い、差出人を見ずに開いてしまった。


『やぁ、元気にしているかい? もうすぐ仕事が落ち着きそうでね、近いうちに帰国しようと思う。可愛い弟にも会いたいからね。もちろん、愛訝アイガとも。また食事にでも行かないかい? 紗愛サナちゃんも誘っておいてくれよ』


 一見すると男から送られてきた文章のようなメール。だけど、これは紛れもなく女性からのメールだ。俺にはすぐに分かってしまう。その文章にはまだ続きがあった。


『君の体質はまだ改善していないのかい? あまり紗愛サナちゃんを悲しませないようにな。私に協力できることがあれば何でも言ってくれたまえよ? ではまたな、愛訝アイガ。愛しているよ』


 そう締め括られた文章を他人が見たら勘違いされるだろうけど、この人は俺の浮気相手ではない。浮気相手では、ない。


「おまたせー」

「おう、おかえり」


 紗愛サナが戻ってきた。俺は慌ててスマホを片付け……たりはしない。平然としたまま差出人に返事を書いて『楽しみにしてる』と、その一言だけを送った。


「ん? メール? 誰から?」

「ああ……えっと……」

「…………ユウさん?」

「まぁ……うん」

「そ。で、なんて?」

「また今度、三人で食事でもどうかって」

「ふーん。いいんじゃない? ユウさんとはあたしも会いたかったし、相談したいこともあるし」

「相談? 紗愛サナ、何か悩んでんの?」

「はぁぁ……。そんなの、愛訝アイガのことに決まってんじゃん!」

「え、俺?」


 素で驚いてしまった。でも、考えてみたらそうだよな。紗愛サナは容姿端麗で頭も良く、人柄も良くて金に困らないほどのお嬢様でもある。そんな完璧な彼女が悩みを持っているとしたら、彼女自身ではない身近な何か……恋人である俺に不満があってもなんら不思議なことではない。


愛訝アイガ……今日が何の日か知ってる?」

「…………」

「あたしたちが付き合い始めてから一年の記念日。やっぱり覚えてなかったんだ」

「……ごめん」

「んーん、別にいい。愛訝アイガはそういうのにこだわりがない人だって知ってるし。でも、あたしは二人でお祝いがしたかったの。だから今日は絶対にここへ来るんだって……それだけを楽しみにしてた」

「…………」

愛訝アイガはさ、あたしが何でアルバイトしてたのかも分かんないよね?」

「社会勉強……とか?」

「…………違うよ。あたしがアルバイトしてたのは今日ここへ来る為」

「え? でも、紗愛サナは別に」

「自分が働いたお金で愛訝アイガとデートしたかったの!!」

「…………」

「親から仕送りも貰ってるし、マンションの家賃だって払って貰ってる。でも、今日のこのデート代だけは自分で出したかったの……」

「何で?」

愛訝アイガに分かってほしかった。他人に援助してもらったお金よりも、自分で稼いだお金の方が価値があって、何に使ったとしても楽しいのも嬉しいのも全然比べものにならないんだってこと!」


 何が言いたいのかっていうのはさすがにもう気付いている。この一年、紗愛サナは待っていてくれたし応援もしてくれていた。でも、俺はその期待には応えられなかったみたいだ。今日はその最後の思い出作りってとこだろう。


「そっか……。まぁ、仕方ないよな」

「何が? 何が仕方ないの?」

「だから……最後に遊園地デートして、そんで……」

「最後……? 何でそんなこと言うの? 愛訝アイガ、もしかしてあたしと別れたいって思ってる?」

「そんなわけないだろ。紗愛サナは俺の恋人なんだ。嫌いになんてなれるわけがない。知ってるだろ? 俺の体質……」

「うん。恋愛体質……でしょ?」

「……俺は常に誰かを愛していないとダメなんだ。誰でもいいわけじゃない。俺を愛してくれる人じゃないと。紗愛サナは俺を愛してくれた。だから恋人になれた。この体質のことも知ってくれてるし、ユウのことも知ってる。ここまで理解してくれてる紗愛サナと別れたいなんて俺が思うはずないだろ?」

「…………理解してる。理解してるけど、あたしだってこの一年ずっと怖かったんだよ? 愛訝アイガの恋愛体質がいつ他の人に向くか分かんないし、ユウさんとのことだって本当は心配……だってそうでしょ? ユウさんは愛訝アイガの元カノなんだから!」


 そうだ。俺を散々甘やかしてダメにして、卒業と同時に別れた元カノ……それがユウだ。同い年なのにどこか大人っぽくて、裕福な家庭でもないのに俺に尽くしてくれて、甘えた俺が悪いのは誰に聞いても答えは同じで……それなのに彼女は自分の責任だと言って俺から離れていった。


「ねぇ愛訝アイガ……」

「ん?」

「仕方ないとか、最後とか……そうやって言い訳して逃げるのはもうやめてよ。あたしが言いたいこと、本気で分かってないわけじゃないでしょ?」

「…………俺、頑張ったじゃん。紗愛サナだって褒めてくれてた。でもさ、もう一回は……難しいって」

「そんなことない。一度出来たんだもん、また出来るよ」

「どうせまたトラブってすぐ辞めるだけ。それに、もうろくな仕事にも就けないって」

「そうやって選んじゃうから動けなくなっちゃうんじゃないの?」

「……しょうがないだろ? 彼女はお嬢様で、彼氏はコンビニでアルバイトしてますなんて……本当は紗愛サナだって恥ずかしかったんじゃないのか?」

「全然だけど?」

「…………」

「コンビニバイトでもいいじゃん! ちゃんと働いてるんだもん。あたしはただ、愛訝アイガにも一緒にデートを楽しめるようになってほしいだけ。髪がボサボサでも服がイケてなくてもいい。大好きな愛訝アイガと笑ってデートしたいだけだもん!」


 今日の遊園地デート……俺は楽しいと思ってた。本気で幸せな時間だと思えてた。でも、紗愛サナから見た俺は全然楽しそうじゃなかったってことか? でも……そうだな。俺はどのアトラクションに乗っても楽しいとは思わなかった。俺が楽しかったのは待ち時間に紗愛サナと話してる時だけだった。


 俺にとっては遊園地だろうがどこだろうが、場所なんて問題じゃなかったのかもしれない。ただ俺は、紗愛サナと一緒にいられればいいと思ってた。だけど、それは間違いなんだろうな。こんな風にデートを終えてしまうことになってる時点で満足なんて出来てはいない。紗愛サナだけが、俺だけが楽しいのはダメなんだ。デートって二人で楽しむものなんだもんな。


「こんな所でする話じゃなかったね…………帰ろっか」


 紗愛サナが出口へ向かって歩いて行く。何か声をかけた方が良かったのかもしれないけど、今の俺は何を言っても逆効果になりそうだしやめておこう。急いで立ち上がり、荷物を持って紗愛サナを追いかけた。



 駅に着くと、いつも以上に周囲からの視線を感じるようになった。女性からだけじゃない……男たちからの視線もある。ホームに立つと対面のホームに立つ人たちからは笑われてる気もした。遊園地の出口で喧嘩してたのを見られてたのかなって思い、何だか紗愛サナとも話しづらくて窮屈に感じた。


 電車が到着し、乗り込んでみるとそこそこ混み合っていてまだ窮屈は続くのかよって感じだった。前に立った紗愛サナの顔が俺を見上げていた。位置的に吊革に掴まれないからちゃんと支えてねってことだろう。両手は荷物でいっぱいだったけど、何とかしてやりたい。


紗愛サナ、俺に掴まってろ」

「…………うん」


 そう返事をした紗愛サナは俺の袖を掴んだけど、視線はまだ俺の顔に向けられている。見つめられるのは嫌じゃないけど、その目が周囲の人たちと同じ目をしてたからちょっと戸惑ってしまう。俺の顔に何か付いてんのかな?


「ねぇ、愛訝アイガ?」

「ん?」

「それ……いつまで付けてんの?」

「どれ?」

「頭の上」


 頭の上? あ……。そこでようやく俺は周囲の視線と笑われていた理由が分かった。俺の頭の上には、まだ遊園地で被らされていた動物の耳が生えたままだ。気付いた俺に周囲の人たちがクスクスと笑い出す。めちゃくちゃ恥ずかしくて今すぐにでも外したいんだけど……両手は荷物で塞がってて、満員だから床に下ろすこともできない。


紗愛サナ……外してくれない?」

「…………やだ」

「え?」

「帰るまで付けてて」

「いやいや、嘘だろ? 頼むって」

「ダーメ!」


 これ何かの罰ゲームか? 目の前にはクスクスと笑う美人な彼女がいて、その子にからかわれてる俺を周囲の人たちもクスクスと笑って見てる。その二つの笑いを俺は全くの別物だと思っていた。紗愛サナのは本当に楽しんでる笑いだけど、周囲のそれは馬鹿にした笑いなんじゃないかと。


 でも今日は何故か……少しだけ違って見えた気がした。俺は頭の耳を笑われてるんじゃなくて、俺自身を笑われてるとどこかでそう変換していた気がする。俺の劣等感がそうさせているんだと、俺は今になって気付くことができた。この人たちは俺が無職だから笑ってるんじゃない……カップルのじゃれ合いをただ微笑ましく見ているだけだ。


 俺がデートを本気で楽しめてなかったのは、どこかで周囲の視線を勝手に蔑みの目だと決めつけていたからだ。紗愛サナが言いたかったのはこのことなのかもしれない。中身なんて問題じゃない。働いてさえいれば俺の劣等感は消えると……紗愛サナはそう思ってくれているんだろう。そうだよな。楽しめないのはアトラクションのせいじゃない。楽しもうと思えば、どんな場所だってアトラクションになるんだよな。


紗愛サナ…………」

「なに?」

「俺……頑張ってみようと思う」

「え?」

「いきなりは難しいから、少しずつになるかもしれないけど……またやってみるよ」

「ほんと?」

「うん。応援……してくれるかな?」


 返事はしてくれなかった。でも、俺の胸に飛び込んできた紗愛サナが喜んでくれていることだけは分かった。本当は俺も今すぐ紗愛サナを抱きしめたいんだけど……両手の荷物に邪魔をされてる。


愛訝アイガ……大好きよ」


 もう周囲の視線は気にならなくなっていた。俺には誇れるものが何もない。それをもう卑下することもしない。俺を愛してくれる人がいる。その人を愛していられるなら何だって出来る気がする。俺は今日……変われたんだと思う。紗愛サナと一緒に、心から笑える男に。



 平日。夕方。遊園地デートの帰り。満員電車の中。これが、俺たちの日常だった。この日常が、もっともっと楽しくなっていくんだと思っていた。この時の俺たちにはまだ、これからどうなるかなんて……俺と紗愛サナの運命が大きな渦に飲み込まれていくことになるなんて、想像すらもしていなかったんだ。

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