第2話 夢野ましろ 〈序2〉



 ——20XX年 8月1日 午後1時28分

 凪波大学 研究棟 303号室。


 薄暗闇の中、鮮烈な光を発するデスクトップモニターをじっと眺めながら、彼女は「ふぅ」と軽く息を吐いた。



「みんな~、コメントありがと~」



 まるで掴みどころのない雲のような浮遊感のある間延びした声が向けられる先には、武骨なライフル銃を掲げ、可愛らしい恐竜の着ぐるみを纏った少女型アバターの姿と、仰々しく表示された『You are the champion!!』の文字。


 そんな彼女の言葉に応えるように、画面左端に設けられたチャット欄では、瞬く間に膨大な数のコメントが投稿されていた。


 《チャット欄》

【Haru】:ってか、キル数やばすぎw

【ちゃる子】:さすがです!

【Surz 】: エイムどうなってんの?

【めめめ@】:monoさんマジ神‼

【銃神ヴァルザルド】:一人で40キルって何? もはや化け物だろw

【Red-X】:実はAIなのでは……?

【朱っち】:神でも化け物でもAIでもいいからチーム組んで潜ってみたい

【たる吉】:それ

【CK】:わかる

【レイちぇる】:マジそれな


 リアルタイムで絶えず更新を続けるそれらのコメントを、流れ作業のように読み進める彼女は、目の前にあるマイクを通して彼らに言葉を返す。



「いや~、我ながら絶好調だったよね~。でもさぁ~、もう少しで最多キル数更新できたんだよ~。やっぱり、なかなか思い通りにはいってくれないもんだよね~」



 《チャット欄》

【HARUTO】:十分凄いわ(笑)

【Ken】:そのうち一人で50キルくらいしそう

【陰気ガール】:mono様キャリーしてー!

【猫の子@アイ】:今度、視聴者参加型の枠とか作ってくれないかな~


 一度に何十と寄せられるコメントの数々。

 視聴者から〈mono〉と呼ばれた彼女は、それらのコメントの一つに目を留め、今しがた唐突に閃いたかのように声を上げた。



「……あー、視聴者参加型かぁ~。それ、いいね~」



 《チャット欄》

【Haru】:お?

【銃神ヴァルザルド】:お?

【さよ丸】お?

【テラ美】:なになに? やる感じ?



「そだね~。明日も夜からBoFやるつもりだし、みんなと一緒にやろ~かな~」



 《チャット欄》

【Ken】:まじ⁉

【しゃけ弁DX】:マジかよw

【てつお】:これはテンション上がる‼

【LLL】:あのmonoさんとプレイできるってマジ⁉

【桜エビ男】:早速トレンド入りしてて草

【林】:明日は定時で帰ります!


 視聴者たちの何気ないコメントと、それに対する彼女の返答。

 ただそれだけのことで、約3万人の視聴者が大いに騒めき、歓喜の声をその場に残していく。


 そんな慌てふためく視聴者たちの反応を、薄暗い研究室の一角からニマニマと面白おかしく眺めていた彼女は「まぁ~、そういうわけで~」と、緩やかに盛り上がりの締めへと入った。



「今日はこんな感じでお開きにしようと思いま~す。……まぁ~、詳しい内容はあとでSNSの方に載せておくので~。それじゃあ、今日も見てくれてありがと~。ではでは~」

 


 《チャット欄》

 【めめめ@】:おつでーす!

 【さよ丸】:おつ

 【ふぃる】:おつ

 【Surz】:おつ~

 【NANAKO】:お疲れ様でした~!



 ***


 モニターの配信画面が停止されたのを確認すると、彼女は装着していたヘッドホンを外し、猫のように大きく伸びしながら、オフィスチェアの背もたれにどっと身体を預けた。



「ふあぁ~……疲れた~」



 深夜1時から約12時間。ぶっ続けでオンラインゲームの配信を行っていた〈mono〉こと、夢野ましろは、真夏の暑さによるものとはまた違った気だるさを感じつつも、どこか満足げな表情を浮かべながらそう呟いた。


 一切、日に焼けていない病的なまでに白い肌。

 どこか虚ろな瞳と、その下の青黒い隈。

 そして、真夏に取り残された雪の如き白髪のショートボブ。

 それらがモニターから発せられる微かな明かりに照らされる様子は、あるものが見れば幽鬼的に、またある者が見れば幻想的に映るに違いない。



「ん~、さすがにちょっと眠いかも~……」



 彼女は並べられたエナジードリンクの空き缶をなぎ倒しながら、無理やりデスクの上に頭を乗せると、そのまま深い眠りに落ちようと重たい瞼を静かに閉ざしかけた。


 瞬間、彼女の背後から、まるで腐敗して浜に打ち上げられたクジラの死骸でも見たかのような鈍い声が響いた。



「うわぁ……」



 ましろが一度閉じかけた瞼を開き、声のした方向に目を向けると、ちょうど研究室の入り口扉に、寝癖のついた長い黒髪を揺らす白衣姿の女性が立っていた。



「あ~、せんぱ~い。お疲れ様で~す」


「お疲れ様じゃないわよ……。あんた、ひょっとしてあれからずっと配信続けてたの?」



 ましろが「先輩」と呼ぶ白衣姿の女性は、両手に抱えていた数冊のファイルを近くのデスクに置くと、じっとりと奇異の目を向けながら、モニター前に居座るましろに問いかけた。



「え~? まぁ~、そうですけど。……って、どうしたんですか~? そんな頭なんか抱えちゃって~。もしかして、研究疲れですか~? ちゃんと休まないとダメですよ~」



 能天気なましろの言葉を聞き、あからさまに呆れた様子を見せる白衣の女性。

 それから彼女はおもむろに深い溜息を吐き、閉め切られたカーテンの傍までやって来ると、そのまま勢いよく閉ざされたカーテンを引き、薄暗闇の室内に燦々と降り注ぐ八月の陽光を招き入れた。



「……ちょっとぉ~、沙雪せんぱ~い! 何てことしてくれるんですかぁ~。アタシの大事な大事な目が焼かれたら、一体どう責任取るつもりなんですかぁ~!」


「それはこっちのセリフよ! あんたがいつまでも配信やめないせいで、昨日は全然作業進まなかったんだからね! ……まったく、あんたもそればっかりしてないで、研究テーマくらい早く決めなさいよ。じゃないと、加世田みたいにあとあと地獄を見る羽目になるわよ」


「……あ~、それはちょっと嫌ですね~」



 そう言って、「あはは~」と呑気そうに笑うましろを見て、沙雪は再び重たい息を吐き出した。


 ***


 季節は夏。

 近隣の小中学校では、一週間ほど前から夏休みが始まり、世間一般の高校でも同様に長い夏季休暇がスタートしていた。


 それは彼女達が通うこの大学でも同じで、七月の中旬頃からこの無駄に長い夏の休みへ突入している者もいれば、沙雪のように先の見えぬ卒業研究に追われ、連日眠れぬ夜を送る者も一定数存在している。


 そんな屍同然の生活を送る研究生の中で、一人悠然とゲーム配信に勤しむましろの存在は、暑さより鬱陶しい弊害となっていた。


 陽光差し込む窓の外からは、部活で汗を流す者たちの掛け声や、サークル活動に参加している者たちの賑やかな笑い声が微かに聞こえてくる。

 沙雪は、四年間の大学生活において『勝ち組』とも呼べるそんな彼らの姿を真上からじっと見下ろし、「……そうやって一生バカ騒ぎしてろリア充め」と呪いの言葉を小さく紡ぐと、ふと思い出したかのようにましろに問いかけた。



「そういえばあんた、そろそろでしょ?」



 沙雪から発せられたその言葉を耳にし、ましろは一瞬何かを思い出すように虚空を見つめると、そっとディスプレイモニターの右下に表示されたデジタルカレンダーに目を向けた。

 それから、

「……あ~、もうそんな時期ですかぁ。……まったく、時間が過ぎるのは早いもんですよね~。ほんとに~」

 と、あからさまに惚けた態度を見せると、ましろは沙雪の視線から外れるように顔を背けた。



「今年はちゃんと帰りなさいよ」



 彼女の〝事情〟を知る数少ない人物である沙雪は、触れればすぐ融けてしまうであろう純白の雪へと囁くように、彼女を優しく諭す。

 そんな沙雪の意図を汲み取った上で、彼女は変わらず道化を演じた。



「……ん~、どうしましょうかね~。課題もたくさん出されちゃいましたし~」


「分かってるなら配信ばっかしてないで、少しはちゃんとやりなさいよ……」


「はいは~い、分かりましたよ~。……なんか先輩って、時々お母さんみたいなこと言ってきますよね~」


「ちょっと! 私まだ、お母さんって歳じゃないんだけど!」


「あは~、あんまり起こるとシワとか出来ちゃいますよ~」



 それは見る人が見れば、仲の良い姉妹にも、歳の近い友人同士にも、それこそ本当の親子にも捉えられるような掛け合いだった。



「……まったくもう」



 そう言って沙雪は三度目となる溜息を吐きながら、先ほどデスク上に置いた数冊のファイルの中から一冊を取り出し、扉の方へと足を向けた。



「あれ~? もう帰っちゃうんですか~?」


「えぇ。もともと、あんたの様子見に来ただけだから」


「……前から思ってたんですけど~、先輩って絶対アタシのこと好きですよね~」


「それ以上バカなこと言い出す前に、さっさと課題片付けなさいよね」


「ふふふ~。は~い、わかりましたよ~」



 沙雪は「本当に分かっているのか、こいつ……」と、不安げな表情を浮かべながら、ドアノブに手を置く。



「夜にもう一度来るから、それまで大人しく寝てなさいよ」


「先輩も研究ばっかしてないで~、彼氏さんとデートでもしてきてくださいね~」


「そもそもいねぇわ‼」



 怒号とともに研究室を後にした沙雪を、ひらひらと満面の笑顔で手を振りながら見送ったましろは、再び無人となった室内で一人、ぽつりと声を零した。



「……わかってますよ~」



 それが果たして何に対する返答なのか、彼女自身あまり理解していなかった。

 それからましろは、おもむろにモニターに表示されたデジタルカレンダーをクリックすると、フラグマークの付けられた日付を見て微かに顔を曇らせた。


 《8月13日 家族命日》


 ジィージィーと絶えず鳴り響く蝉の声。

 最大出力に設定された冷房機の稼働音。

 遠くから微かに聞こえてくる賑やかな笑い声。


 それらに溶け込むように、彼女の口から小さく声が漏れる。



「……どうして——」



 いくら忘れようと努力しても、決して消えることのない過去の記憶。

 思い出すたびに五感が麻痺し、脳の奥が鋭く痛む。

 彼女の目に映る夏の風景はどれも、絶望と、恐怖と、後悔の色で塗りつぶされている。

 唯一、そんな過去の呪縛から解放されるのは、モニターを通じて別の世界を縦横無尽に駆け回っている間だけ。


 それが彼女、プロゲーマー〈mono〉こと、夢野ましろが心から幸せを感じられる刹那の瞬間だった。


 ましろは表示されたカレンダーを閉じ、再び仮想の戦場に逃避しようとカーソルをゲームアイコンへと載せる。

 しかし、自分の意志とは無関係にやってくる睡魔には抗えず、腕を枕代わりにしてデスク上に顔を伏せた。



「……ちょっとだけ~」



 それを最後に、ましろは深い深い夢の世界へと堕ちていった。


 それが、終わりのない陽炎の夢だとも知らずに——。


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