冬の朝陽
遠くの方から自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。吾涼さん、吾涼さん、と。 哀願するような切なさを帯びたその声は、やがて強さを増して行く。
吾涼がその切長の瞳をうっすらと開くと、ぼやけた視界が徐々に晴れ渡った。最初に目の前いっぱいに見えたのは、細い眉を寄せて、心配そうにこちらをのぞく薔子の姿であった。
彼女の白い首すじに、汗の粒がこまかく浮き上がっている。その湿り気を帯びた姿が、はっきりと彼の眸にうつし出される。
くちびるをうっすらと開けた吾涼は、無意識の内に腕を伸ばし、彼女の頬に触れていた。
薔子は突然に触れた熱い吾涼のてのひらの感覚に動揺し、大きな瞳を震わせる。
「薔子……」
気付けば吾涼自身も、額や鎖骨のあたりにじっとりとした汗をかいていた。季節は冬だというのに、初夏のような汗だ。
吾涼は上半身を起こした。
いつの間にか、着物が着せられている。
薔子もゆったりとだが、着物を着直していたので、彼女が着せてくれたのだろうと判断する。
自分のことを呆然と見つめる薔子を、吾涼もじっと見つめ返す。気のせいだろうか。視界がゆらゆらとふるえている。
薔子がふたたび、吾涼さん、と問い返す前に、両腕を大きく広げ、彼女を抱きしめた。
あまりにも強い力で抱きしめたため、薔子は一瞬くっ、とうめいたが、吾涼は気にせず、彼女の肩に顔をうずめる。
薔子の肩は、驚くほどやわらかく、仄かに薔薇の香りがする。心地よいその刺激に、ふたたび眠りへと誘われそうになってしまったが、眉を寄せ、さらに彼女を強く抱きしめることで、それに耐えた。
薔子はいきなりの吾涼の熱い抱擁に、目が
薔子に抱きしめられた箇所から、温かいものが、吾涼に伝わってくる。やがてそれは、彼の心の奥深く、氷山の中に眠るマグマを鎮めていった。それは彼だけにしかわからない。かすかな変化であった。
小窓から風が吹く。
冬のそよ風は、どこまでも優しかった。
帰ろう、どちらから言い出したのでもなく、そのことは決定事項となった。
立ち上がるときに、ゆるく足がもつれてしまった薔子を見かねて、吾涼は彼女の腕を掴むと、そのまますべらせ、彼女の手をそっと握った。
あどけない顔でこちらを見る薔子を無視して、小屋の外へと歩き出す。
雨はもう上がり、太陽の光をはらんだ灰色の雲が、薄くうすく、消えようとしていく。
黄色と白を重ねた中に潜んだ黒が、薄れていく。
吾涼は額に手をかざし、瞳を眇めて移ろいゆく空を見上げていた。
そして、もう片方の手に、つめたいがほんのりとした優しい温度のする薔子の手の感触を感じながら、足を進める。
雨上がりの道は、ぬかるんでいたが、行きよりも歩きやすかった。
履いている足袋につく新しい泥は、そこまで黒さもねばつきもない。
吾涼は足取りかろやかに道を進んでいたが、途中から片手に繋いでいた薔子の手が重く沈む感覚がし、ゆっくりと立ち止まると、彼女の方を向いた。
吾涼に握られていない方の片手を、膝につき、瞳を閉じて荒く息をついている薔子を見て、吾涼は、「はよう歩きすぎたか」と反省し、眉をひそめた。薔子の傍へ寄ると、彼女の目の前で腰を屈める。
「えっ?」
薔子は驚いて片手をくちもとにそっと置いたが、吾涼はかまわずに「乗れ」と両手を己の腰のあたりで上向きに広げ、ゆびさきをかるく動かす。
薔子はかすかに頬を染め、くちびるを噛むと彼の腰に両手を回した。
(熱い……)
衣越しに伝わる吾涼の肌の熱さ。それで昨夜の情事を思い出してしまい、薔子はさらに朱を頬に重ねる。眸を揺らし、ほんのり涙の膜を張った。そして、腰から手を離し、彼の首に両腕を回す。長い着物の袖が、からまってしまいそうになったので、急いではんなりと折った。
赤い顔を、吾涼の広い肩へ隠すように埋める。額には汗が浮く。
吾涼は立ち上がり、薔子の位置を直すように、一度かるく揺さぶると、まっすぐ前を向いて山を降っていった。
いつの間にか、薔子は幸せそうな顔でくちびるに笑みを刻み、彼の背中のあたたかさを、その頬に感じていた。
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