13 慰めを託す
父親を喪ったクラム・ハープはあの晩、朝日を浴びるまで泣き続けた。充血した目は腫れており、誰もがクラム・ハープの悲しみを察した。
しかし、人前では気丈に振る舞うのでその傷に触れる人は現れず。皆がイシアの復興のために忙しなく働いた。
「調子はどう?」
「年が年だし、栄養状態も最悪。かなり厳しいな」
「そうでしょうね」
「デブリは終えたし、萩野が調達した軟膏も塗布した。あとは長期戦だな」
「アミィの腕にかかってるね」
「なんでわたしなの……ホロ爺のためだし、嫌なわけじゃないよ。ただ、もっと頼りになる大人がいるんじゃないかなって……」
「治癒魔術を学ぶためには必要な知識です。なんて言ったツナグに解剖生理から叩き込まれていたでしょう」
「そうだけど! 結局一番教えてほしかった魔術までは教えてもらえなかったんだよう……」
「そもそもあいつが扱うのは魔法だからな。魔術を学びたいなら留学も視野にいれるべきだ」
「できるかなあ。でも、魔法と魔術の違いをいまいち理解していない萩野お姉さんより素質があると思うんだ」
「私は比較対象にならないよ」
翌朝、クライ・ハープはイシアの慣例に従って土葬された。
クラム・ハープの希望通り、ハープ家の墓に入れた彼は今頃愛する妻に叱られていることだろう。同じ場所に行けたらの話だが。
その後、ハープ家の屋敷は一般開放された。
長いこと東西は隔てられていたのだ。口にしないだけで壁も溝もある。クライ・ハープの悪行に注目させることで内紛は回避できたとはいえ、まだ安心できる状態ではない。何気ない一言で怒りを暴発させる人が現れてもおかしくはない。だから、ハープ家の屋敷内は療養の場として、庭は交流の場として提供された。東西どちらからも慕われているクラム・ハープの前で余計な一言を口走ったり、怒りに身を任せたりする人はそういないだろう。
療養の場ができて真っ先に運び込んだのはホロ爺だった。これは子どもたちの願いでもあり、子どもたちが言わなくても私はそうするつもりだった。
彼はこれから先、現場に立って力を発揮することはできないだろう。本人もそれを踏まえて、自分のことは後回しで良いと話した。けれど、長年西地区を支え、現状の不満を東地区に向けて爆発させないようにしてきた功績を考えればそれはできない話。功績を称えてではない。今はまだ、精神的支柱を失うわけにはいかないのだ。
こうして屋敷の一室を療養の場として与えられたホロ爺は早々にイオンの処置を受けることになった。本当はツナグの魔法で治せたら良かったのだけれど、ツナグは珍しく難しい顔をして首を横に振った。
曰く、自分の魔力を体内に取り込まない方がいいとのこと。理由までは語られなかったけれど、あツナグがそう言うのであればそうなのだろう。
「こちらにいましたか」
「新領主様がどうしたの?」
「……その呼び方、やめてください」
「というか、そろそろ休んだら? この二日、ろくに休んでないでしょう」
正確にはクライ・ハープとの対話前日から眠れていないのだから四日か。クラム・ハープは新領主としての責任感からか、それとも父親を喪った悲しみを紛らわせるためか、誰よりも忙しなく働いていた。
この四日間ですっかり濃くなってしまった隈に艶を失った髪と肌。疲労を蓄えた身体から悲鳴が聞こえてくる。
「今からその調子だと後が大変よ」
「イックスさんたちにもそう叱られてしまいました。なので萩野さん、私の休憩に付き合ってください」
「私? 話し相手ならアミィの方が癒されると思うよ」
「それはそうなのですが……お渡ししたいものがあるので」
「報酬のソフトクリーム?」
「それしか頭にないんですか」
それしかないと言ったら嘘になるけれど、それがモチベーションだったところがある。
まだまだ続きそうなお預けに肩を落としながら、イオンとアミィに後のことを任せて席を立つ。花羊のミルクの味を知ってしまったからますます食べたくなったのよね。
「明日の晩、花氷祭を開催することになりました。といっても、あの日捕らえた花羊の肉でご馳走を振る舞い、皆で騒ぐだけのとても簡易的なものですが」
「いいんじゃない? 娯楽を体験することも大切よ」
「皆さんもそう仰っていました。それから角の方は装飾品として輸出、羊毛の方は毛布にでもして寒さを凌げるようになったらと思ったのですが……」
「加工する方法を知っていても技術も機械もなければできないでしょう。イオンに頼むといいわ。傷病者を診る片手間で作ってくれる」
「有難いのですが……イオンさんこそ働きすぎなのでは? 昨日の時点で住宅地の設計図を書き上げ、夜間も寝ずに西地区の建築をされているとか」
「イオンは
窓の外から賑やかな声が聞こえてくる。お昼時なので人が集まってきたのだろう。
まだしばらくの間は東地区の住民から食料提供をしてもらい、西地区の住民は身体を癒すことになるだろう。東地区の食料に余裕があるわけではないが、幸いなことに青果店に大量に入荷した林檎をがあるので飢えは凌げるだろう。東西に不平等が生まれないようにしなければならないから課題が山積みだ。
クラム・ハープの後ろを歩きながら、食料問題について頭を悩ましていたせいで注意散漫になっていた。彼女が足を止めたことに気付かず、背中に鼻先をぶつけることになった。
「こちらです」
「……ここでないといけないの?」
「はい」
案内されたのは例の書斎室。私は別にいいけれど、クラム・ハープにとってはしばらく辛い場所のはず。
躊躇いなく扉を開けて中へ入ったクラム・ハープは絨毯に飛び散り、拭い切れなかった血痕に視線を落とす。数十秒ほど立ち止まる。
こればかりは本人の問題なので私が口を挟むわけにはいかない。壁にもたれて、クラム・ハープが本題に入るのを待つ。
「魔獣に寄生し、花開く植物。華やかとは縁遠い色合いに反して豊かな香りと甘い蜜が特徴です」
「イシアについて語ったあの本にはイシアの土地であればどこにでも咲いていると書いてあったのに一輪も見なかったわね」
「かつてはそうでした。なのであの花の蜜を利用したお菓子を誰もが作っていました。ちなみに食用は砂花の方で、墨花は魔術による加工で燃料になります」
「そこまで知っていて活用できなかったということは」
「例の流行り病の際、二種の花は一輪も残さず枯れました」
血痕から視線を外したクラム・ハープは本棚から数冊本を抜き取り、その隙間に腕を差し込む。何をしているのか観察していると、錠が開く音がする。直後、本棚は自動で左右に移動する。
本棚が移動したことで露わになった扉に目を丸める。驚いた私にクラム・ハープは小さな笑い声を上げる。
「我が家にもこういうものがあるんですよ」
「ここでその花の研究でもしていたの?」
「その通りです。母も、その前の領主たちも。魔獣に寄生して花を咲かすが、不毛な地に種を撒いても育つ不思議な植物について調べていました。まあ、父はここの部屋の存在を知らないので、母が亡くなってからしばらくは使われていないのてすが」
「それで?」
「ハープ家の研究結果よりあの花は魔力に反応して育っているということが判明しています。そして、流行り病が広がった場所から、感染者の特徴から、そしてあの花が枯れたことから。母はとある仮説を立てました。それを検証し終える前に母も患ってしまい、この屋敷を出ていったので明らかにすることができませんでしたが……」
「その感染者の特徴というのは」
「皆、魔法もしくは魔術が使えました。そして、魔法を使える人の方が症状は重たかったです」
隠し扉の先にある階段を下る。足元が暗いので、踏み外さないように壁に手をついて一段一段確実に足を下ろす。ここで踏み外したりしたら私は一番下まで転がり落ちるに違いない。近ならばそれを見越して先頭に立ち、私が転んでも受け止めるのだろうけれど……それをクラム・ハープに求めるのは酷というもの。
クラム・ハープは聞きなれない言語を歌うように口ずさむ。すると、彼女の手の平に淡い光が灯る。どうやら私の足取りを見て危険を察知してくれたらしい。
「無から有を生み出す魔法は使えないって言ってなかった?」
「加えて、この規模の魔法にも呪文を唱えないと使えません」
「無から有を生み出してるじゃない」
「えっ。光はどこにでもあるものですよ」
「その台詞だけ切り抜くと青春漫画の主人公みたいな発言ね」
「そういう意味ではなく……萩野さん、まさかそのレベルで」
「魔術もだけれど、魔法についての説明を受けると靄がかかったように理解できないのよね。二つの違いをかろうじて、肌感覚で察したくらい」
「まるで、魔法や魔術を理解できないように呪いがかけられているみたいですね」
階段を下る足が止める。
失言をして私が怒ったと勘違いしたクラム・ハープは慌てて謝罪を口にする。
「罪に対する罰は呪い、ね」
「え?」
「なんでもない。あながち間違いではないと思っただけ」
なるほど。そういう考えをしたことはなかったけれど、言われてみればそうなのかもしれない。心当たりもある。その影響で魔力耐性もマイナス値だと言われてしまえば理不尽だと怒りたくはなるが、納得もできる。
首を傾げるクラム・ハープだが、私の返答を聞いてこの話は完結したと捉えたのか、それとも掘り下げようとしてもはぐらかされると思ったのか。それとも地下室にあるものを早く私に見せたいのか。彼女はそれよりも中に早く入りましょうと急かすように階段を下り、下り終えてすぐの扉を開けて私を待つ。
「埃っぽい」
「母しか使っていなかったので」
「立派な研究室なのにもったいない。それにしても随分と花の香りが残っている、の……ね」
部屋に入れば埃っぽい空気の中に花の香りが混ざっている。
棚だけでなく床の上にまで薄く積もる埃から、この部屋が長らく使われていないであろうことが分かる。それでもなお、花の香りが残っているのだからあの花を香料に加工するのも良いかもしれない。
そのようなことを考えながら部屋を見渡していると、机の上に置かれたある物が目に留まる。
「……」
言葉が喉元で渋滞して、息が詰まる。
引き寄せられるように足が動く。思うように力が入らなくて、机の角に足がぶつかる。
手を伸ばす。指先に触れた感触は記憶のものより随分とごわついている。
手の平で撫でる。砂が絡んでいて毛束ができている。
「イシアの今後を見越して地図を作るというのは嘘ではないと思っています。でも、本当はこれを探していたのではないですか?」
「……意識しているつもりはなかった。そんなに分かりやすかった?」
「いいえ。ただ、知易さんのお話をしていたときの様子からもしかしてと」
「そう」
机の上に横たわる梟が私の声に反応して目を開けることはない。
頭を数度撫でて、腕の中に収めるように抱える。梟は想像していたよりもずっと軽くて、硬かった。
何故だか、目の奥が熱くて、鼻がつんとした。
「これ、私が作ったんだ」
「初めて見たとき、本物の梟かと思いました」
「でしょう。飛んでいる姿までこだわったからね」
ごわつく体毛が包む機械仕掛けの体。破損部分を確かめるように
機械仕掛けの梟を抱き直して、クラム・ハープと向かい合う。彼女の柔らかい表情は例の肖像画に描かれたアムル・ハープによく似ている。
「見捨てたつもりはなかった。少なくとも、彼は力になろうとしていた」
見つかると思っていなかった物が見つかったからか。それともアムル・ハープが生きていた痕跡を目にしたからか。気付けば話していた。
それにしても、だ。私にも感傷に浸る心があるなんて、自分のことなのに初めて知った。
「周囲がそれを許さなかった。笑える話よね。壱檻の判断に誤りなし、故に壱檻の言葉は絶対だ。なんて言っておきながら、それで全てを委ねておきながら、国外に目を向けることは許さない」
「……」
「傀儡人形を神のように扱う姿は滑稽よ」
思い出す。
本物の生きた梟にそっくりだとこの機械仕掛けの梟を見てはしゃぐ姿を。
思い出す。
皆に内緒だと悪戯っぽく笑って一文だけ認めた手紙を添えて機械仕掛けの梟を星が煌めく空へ放つ姿を。
思い出す。
返事が書かれた手紙を持って戻ってきた機械仕掛けの梟を見て喜ぶ姿を。
「現地に赴くことが駄目ならせめて物資の援助だけでもしよう。イシアを失ってはいけない。どれだけ訴えても聞き入れてもらえなかった。知易がどれだけイシアの有用性を証明しようと、過去の壱檻が得るものはないと判断したのだからの一点張り」
思い出す。
イシアの領主が、密かに行っていた文通相手の訃報を聞いたときの悲痛な叫びを。
「未知は恐怖。当時、あの感染症について明らかになっているものは何一つなく、だから近寄りたがらなかった。なら、明らかにしてしまえばいいだけの話。そう思って、翠仙に頼んだの。治療方法までは見つけられなくても、原因や感染経路だけでも解明したいから手伝ってって」
「流行り病の原因はテクノロリアが科学の発展に伴い排出した汚染物質によるものではない。また、病原性の微生物は存在しない。それを見つけたのは鳥籠だとお聞きしております。でも、え……え?」
「鳥籠が唯一抱えている魔術師は優秀なの。秘密裏に検体を手に入れて、あらゆる可能性を視野にいれて研究を進めて」
「そこじゃない。私が気になったのはそこじゃないです」
クラム・ハープにより話を遮られる。
これでも分かりやすい言葉を選んで語ってみたつもりだけれど、何か分からないことでもあっただろうか。自分の発言を思い返しながら困惑の表情を浮かべるクラム・ハープに問えば首を横に振る。
「それではまるで貴女が解明したかのような」
「私だけの功績じゃないわ」
「話の流れからするとお母様が患ってからすぐということになります。でも、それって簡単に計算しても」
「八歳」
「はちさい」
頭から爪先まで観察するように視線を上下させ、容姿から推定される年齢を十で引く。とても簡単な引き算だけれど、クラム・ハープは混乱していた。
当時の私であれば何をそこまで驚くのかと冷めた目でもしていただろうけれど、今の私なら彼女の混乱する理由も理解できる。
「壱檻を継ぐのはそういう人材なの」
「で、でも八歳ってさすがに! あ、私をからかうために話を盛って」
「この流れでそんなことすると思う?」
「……思えません」
八歳。
教育機関が整っている国であれば初等教育を受けている年頃。生きる力を育成する場であり、そのための知識や技術を習得することを目的としている。つまり、未知の感染症の解明なんてできる年ではない。
自分で言うのもあれだけれど、私はそれができるくらいの知識と技術が既にあった。加えるならそれを発揮できる環境もあった。ただそれだけのこと。それだけのことなのだけれど、それは鳥籠の中での常識であって外では異質なこと。
クラム・ハープの反応が正しいのでしょうね。
「一瞥すれば回答は出せるが、回答を出す過程を言語化できない」
「説明なしで話を進めていく貴女みたいですね」
「そ。壱檻ってそういう傾向にあるのよ」
「でもそれって、そういう人が壱檻を継いでいるというよりも……」
言いかけた言葉を呑み込む。そして悩ましい表情を浮かべる。その続きを他国の者が口にすることは躊躇ったのだろう。口を開いては閉じるを何度も繰り返し、結局首を横に振る。本人が言うべきではないと判断したのであれば、無理に聞き出す必要はない。
片腕に収まる機械仕掛けの梟に顔を埋める。ごわついた体毛が肌に沈んで少しだけ痛い。ほんのりと香るのはこの研究室の埃っぽい空気に混ざる花の匂い。
「そんな事情は当事者からしたら関係ないよね」
「それは、その、あの」
「……ありがとう」
「え」
「見れば分かる。研究室はほとんど使っていないのにこの子のことは定期的に手入れされている」
使われていない研究室に放置されていたとしたら埃が積っているはず。けれど、この機械仕掛けの梟の体毛はごわつくけれど、埃臭さはない。見慣れない機械を壊さないように注意しながら手入れをしていたことが分かる。
鳥籠がイシアにしたこと……否、何もしなかったことを考えればこの機械仕掛けの梟を放置どころか壊されていてもおかしくはなかった。だから、本当によかった。
「これで、まだ望みはある」
脚につけられたアルミ製の筒を撫でる。それから、他にも話したいことがあれば今のうちにどうぞと口を閉ざすクラム・ハープに促す。
今であれば、気分も良い。時間潰しがてらお喋りをしよう。それまでの間なら何を答えよう。そう付け加えれば、クラム・ハープは数十秒考えこむ。そして、意を決したような顔をする。
「あの!」
クラム・ハープが何かを言いかけた、その時だった。地下にあるこの部屋まで響いてくるけたたましいサイレンが鳴ったのは。
聞き覚えのないサイレンにクラム・ハープは飛び跳ねて顔を上げる。イシアで生まれ育った彼女が聞き覚えないということは、この国のものではないのだろう。
なんて。そんなことを考えなくても私はこのサイレンの正体が何であるか知っている。
「残念。潰す時間はなかったみたい」
そのサイレンはクラム・ハープには聞き覚えがなくても、私にとっては聞き覚えのある音だった。
サイレンの正体を確認するために私たちは研究室を出て玄関へ向かう。道中の窓から外に目を向ければ厳つい車が何台も門前に停められていることが確認できた。その全てに金の梟が刻印されている。
イシアの狭くて荒れた道をよく通れたこと。そんなことを思いながら胸元に転がるペンダントを指先でつつく。
「……萩野」
「賑やかな来客ね」
「近が対応してる」
「それは愉快な話ね。変わってくる」
「おい」
私たちの進行を阻むようにイオンが玄関にもたれている。険しい顔をして何を言うかと思えば、私のいないところで近が来客対応をしているなんて面白い話をしてくれる。これは見に行かねばと外に出ようとすれば、イオンに腕を掴まれる。
眉間にはイオンらしくない深い皺が刻まれている。珍しいものを見たと凝視すれば、これまた珍しいことに声を強張らせる。
「近が対応してるから」
「それは今聞いた。でも、近はそういうの不得手じゃない。顔面の美しさで押し切れない相手なら尚更」
「だからって萩野が行く必要ない。クラムさん、この屋敷にも裏口はあるよな」
「え、あ、はい」
「なら萩野はそっちから外に出て西地区の方に行ってろ。あとで迎えに行くから」
そもそも、この屋敷に来客があったのだからクラム・ハープが対応すべきだ。なんて発言が無かった時点でイオンが冷静さを欠いていることが分かる。
さて、冷静さを欠いたイオンをどうやって宥めようか。腕を掴む力の加減すらできていないイオンを手を眺めながら言葉を選ぶ。そうこうしていると外から打音が聞こえてくる。遅れて笑流の近の名前を呼ぶ悲鳴が聞こえる。そうなれば当然、優白は吠える。
「あいつら、やりやがったな」
「おい! 萩野、お前は行くな!」
「これは私の問題だよ」
イオンは怯む。その隙に手を振り解いて外に出る。
人様の屋敷の庭に図々しく駐車された厳つい車。いったい誰が門を開いたのやら。場合によっては国際問題に取り上げてやる。
その車を一瞥してからレッグホルスターから銃を取り出す。そして、躊躇うことなく二発発砲する。
「識様!」
「射線は見えている、問題ない」
「射線が見えているのに馬鹿正直に撃つわけないでしょう」
発砲された弾丸は真っ直ぐ進む。動体視力は人並みもしくは人並み以下なので自分の目で追うことはできないけれど、射線上にいる男が一歩後ろに下がったのでそうなのだろう。そして、次の瞬間。
男の名前を叫んだ背の高い女が倒れる。
「四獄、生きてるか」
「っ、実弾ではないようなので……問題ありません」
こめかみから伝う血を煩わしそうに腕で拭う。それから被弾時に解けた髪紐を拾い、アッシュグレージュの長い髪を結い直す。
イシアの気候では暑いことこの上ないであろうブラックスーツで血を拭うなんて……洗濯に出す前にちゃんと報告しないと洗濯係が可哀想なことになるでしょうね。なんて思いながら一連の動作を眺めていると、鋭く睨まれる。相変わらずの眼力ね。怖い怖い。肩を竦めれば今にも噛みつきかねない勢いで威嚇される。飛び出してこないのは心を寄せている飼い主に制止されているからだろう。相変わらず立派な忠犬なこと。
その飼い主はというと片手で制しながら膝をつき、忠犬のこめかみを弾いた物の正体を確認する。
「ゴム弾か。なるほど、どうりで躊躇いなく発砲するわけだ」
「四獄なら死ぬことはないでしょう。それでも、寸分の狂いなくこめかみに当てたのよ。気を失うくらいしてもいいんじゃない?」
「貴様ッ! 隠れて出てこないと思いきや、いきなり識様を撃つとはどういうつもりだ!」
「隠れていたつもりはないし、狙ったのはきみだよ」
「場合によっては脱獄だけでなく謀反の罪も背負うことになるぞ!」
「私が誰に背き、そして誰が裁くのか教えてくれる?」
「っ、それは!」
「少なくとも、私を壱檻として迎えに来ているのであれば二人には不可能。それに、私には背く相手がいないわ」
アッシュグレージュの長い髪がよく似合っている透明感のある容姿から想像できないほど、血の気が多い背の高い女。
神の手によって作り上げられた彫刻のように美しい顔は頬が赤く腫れることで背徳感が加わり、得も言われぬ美しさとなっている。
「はぎの、はぎのぉ」
「よしよし、怖かったね。もう大丈夫だから」
「ちかが、ちかが……っ」
「綺麗な顔を容赦なく殴られたのね。貴重な経験じゃない?」
「……問題ない。それより萩野、あいつらはお前を」
親しい人を襲う突然の暴力は恐ろしいものだっただろう。笑流は柔らかな白みを帯びた青い目から大粒の涙を次から次へと溢れさせていた。それでも、きっと近を守ろうとしていた。近と四獄の間に壁を作るように華奢な身体を挟み込んでいた。……実際に壁となっていたのは牙を剥き出しにして唸る優白ね。
膝を折って目線を合わせ、頭を撫れば首に腕が回される。肩が小さく震えている。笑流がここまで怯えているから、優白は笑流の傍を離れることができず、原因である四獄に飛びかからなかったのだろう。こちらも立派な忠犬だ。
「壱檻萩野様。ご同行願おう」
「会話に割り込むなんて礼儀がなっていないね」
「流浪者との話なんて無益なものに興味はない」
「旅人と言って」
「…………」
「ちなみに、同行を断ったらどうなる?」
中のシャツまで真っ黒で、見ているこちらの方が暑くなるブラックスーツ。それを涼しい顔で着こなした男はシルバーフレームの眼鏡のブリッジを中指で上げる。その仕草が様になることなんの。主に高圧的な態度に拍車をかけるという意味で。
だから、少しだけ抵抗する姿勢を見せてみた。そんなつもり毛頭ないけれど、素直に応じて言いなりになるのは癪だったから。
「お友達がスクラップになるところは見たくないだろう」
ほんの僅かに視線が動く。その先にいるのは私を屋敷の中に連れ戻したいが、出るに出れずにいるイオン。視線がかち合ったのだろう。イオンは目を見開き、私の名前を叫ぶ。
「応じるからそれはやめて」
「ならば良い」
可能であれば両手を挙げて降参のポーズを取りたいくらい嫌なところを突いてくる。今は機械仕掛けの梟を抱えているからポーズを取ることはできないし、肩を竦めるだけにする。
指通りの良い綺麗なあお色の髪から手を離すのは惜しいけれど、潮時なのは分かっていたから仕方がない。最後にひと撫でしてから手を離し、立ち上がる。
ところで、ここまで姿を見せていないツナグはいったいどこへ行ったのか。そんなことを考えながら不安に揺れた声で私の名前を呼ぶ近と笑流を無視して一歩前に出る。
「行くな」
一歩前に出ると同時に肩を掴まれる。目が痛くなるような原色の赤い髪が視界の端にちらつき、肩を掴む手の持ち主が誰かなんて考えるまでもない。
「これは予想外。まさか表に出てきてまで止めにくるなんて」
「あんな脅迫に応じなくていい」
「意味分かって言ってる?」
「分かってるから止めにきたんだよ」
「それはありがとう。でも大丈夫だよ」
「萩野!」
怒鳴り声が響く。
もし、ツナグを叱るときもこの勢いだったとしたら。あそこまで落ち込んでいたのも納得がいく。小言を言われることはあれど、怒鳴られることは少ないからね。トレーラーに魔法をかけて修理に数日を要することになったときですら怒鳴られることはない。……なんだかんだでイオンも身内に甘いよね。
こうなったイオンを説き伏せるのは至難の業。話を逸らすことを試みても乗ることはせず。聞く耳持たずで会話が成立せず、一方的になろうと言いたいことを言う。正に言葉のドッジボール。言い方を変えると、話すだけ無駄だ。
「大丈夫。三縛は高圧的だけれど約束は守る人だよ。イオンに迷惑はかけない」
「そういうことじゃなくて! ツナグはこうなることまでは分かっていなかったんだ」
「でしょうね。察せたとしてもテクノロリアの国に生まれたイオンだけだって分かって行動していたからね」
「やっぱり最初から!」
「だから、皆を慰めてあげて」
であれば。話を逸らすことなく、全てを聞き入れることなく、こちらも言いたいことを一方的に言ってやるのが一番良い。
辺りを見渡す。私の見える範囲にツナグはいない。皆に振る舞う昼食を作っていたシーナたちの手が止まっている。車に刻まれた金の梟を視認してなんとなく状況を把握したクラム・ハープはずっと狼狽えている。
「帰る代わりに条件を出すわ」
「貴様、立場を弁えろ!」
「弁えての発言よ。それとも命令の方がいい?」
「命令であれば聞き入れよう。しかし、それは本国に戻ってから」
「職務怠慢の三縛識に今、この場で命じる」
三縛に話しかけると合いの手のように噛み付いてくる四獄をなんとかしてほしい。犬の無駄吠えは飼い主が躾なっていない証拠。なんて、以前から思っていることを口にすれば本当に噛みつかれかねないので別の機会にしよう。
イオンの拘束が肩に手を置く程度であるうちに距離を置く目的で数歩前に出る。外に出てくるまではできたが、可能な限り三縛たちと距離を置いた状態でいたいようで追いかけてくることはしない。
視界の端に太陽を連想させる赤い髪をちらつかせながら、シルバーフレームの眼鏡越しにあるダークブルーの目を見つめる。眉間に深い皺を刻んでいるせいで本来以上に鋭くなっている目に冷めた視線を返す。
「外交は三縛の管轄よ。先代壱檻の声を無視し続けて、イシアを枯らしかけた。もしここが枯れていたら鳥籠にとって大きな損失であるにも関わらずね」
「それは先代壱檻の肩を持ちたいがための発言であると捉えよう」
「そう言ってこの国の価値を見誤っているところが職務怠慢なのよ」
矢継ぎ早に責める。意識して話さないと早口になってしまうのは三縛の指摘が図星だから。けれど、私の指摘に思うところがあるようで三縛の発言にいつもより威圧感がない。
しばらくの間続く睨み合い。三縛の眼力に怯まず睨み返せる人は数少ないと聞く。まあ、分からなくもない。視線で人を射殺すことができるのであれば、三縛は一日で複数人を仕留めていると思う。
このまま双方の益にもならない話を引き延ばして高圧的な態度で私を黙らせようとしてくる男の神経を逆撫でしてやってもいいのだけれど、私たちのやりとりを固唾を呑んで見守っている周囲の者たちが可哀想なのでやめておこう。特に三縛たちに連れられてきた鳥籠の憲兵たちが哀れでならない。
「私が無抵抗で鳥籠に帰る条件はただ一つ。イシア復興の支援を行うことよ」
「えっ」
私が提示した条件に声を上げて驚いたのは他でもない。クラム・ハープだった。彼女のように声を上げてはいないけれど、シーナたちからも動揺が見て取れる。
問題解決については直接的な手を出さない代わりに、解決した後のことには手を貸すって言ったのだからそこまで驚くことではないと思うのだけれど……彼女たちにとっては想定外のことだったらしい。
なるほど。クラム・ハープは壱檻の存在について認識はしていても理解はしていなかったのね。
それぞれの反応を見てから再度三縛に目を向ける。彼は頬を引き攣らせていた。その反応に気を良くした私は返答をどうぞと提示した条件についての回答を促す。
「……断ったらどうなる?」
「私は四獄みたいに強靭な身体をしていないからね。例えゴム弾であろうと至近距離で頭部に被弾すれば死ねる。死ねずとも、何かしらの障害は残るでしょうね」
「応じるからそれはやめろ」
「なら良いよ」
言葉を遮る勢いで止められる。三縛だけではない。四獄はふざけるなと怒鳴り、憲兵たちの合間には緊張が走る。
大袈裟じゃない? 鼻で笑えば、三縛は眉間を揉みながら深い溜め息を吐く。対して私はというと、予定通りに話はまとまった上、三縛から会話の主導権を奪い取れた更に気を良くした。この場に人がいなければ調子に乗って鼻歌を歌いながらスキップをしていただろう。残念ながらスキップが下手な私は不恰好な跳躍姿を晒して終えることになるのだけれど。そして、誰もいないことを確認して行ったはずなのに近に目撃されて馬鹿にされるまでがセット。
振り返り、地面に縫い付けられたかのように動けずにいる三人の顔を見る。それぞれ、何かを言いたげに口を開いては、言葉が選べず口を閉じる。そんな姿をしばらく眺めてから、もう一度辺りを見渡す。ツナグの姿は視界の端にも捉えられない。きっと、この場にいないのだろう。
「ということだから、クラム・ハープ。近々鳥籠から使者が送られるから、必要なものがあれば資源だろうと人材だろうと遠慮なく言いなさい」
「え、あ、待ってください。展開が急過ぎてついていけません」
「当たり前よ。急展開にしなければ上手に妨害されてたもの」
「ええー、えー」
「ソフトクリームも花氷祭もお預けなんて残念」
「ソフトクリームを惜しんでる場合じゃないですよね! というか、私よりも」
「次、私が来るまでに用意しておいてね」
常々考えていたことがある。
「三年四ヶ月。私の人生で一番濃い時間だった」
この旅を長く続けることはできない。皆がどういう事情を抱えているか知らないけれど、私が最初に離脱することだけは分かっていた。
だって私は個性的な肩書きもなければ特徴的な容姿もない平々凡々な女。四人と異なるのは唯一セーラー服を身に纏って義務教育を受けてきたこと。その義務教育も中途半端に、卒業を目前にして放棄して国から脱獄したのだけれど。
そう、私の国は義務教育を全国民に提供できるくらい整っている。つまり、全国民に教育を施す余裕が国にある。そんな国が総力を上げて何年も私を探し追い続けていれば捕まるのも時間の問題。
「
だから、考え続けていた。
この旅を楽しいと思うようになってきた頃から。この人たちとの会話で声を上げて笑うようになってきた頃から。
別れ際にどういう表情を浮かべて、何を言おうか。ずっと悩んでいた。
これという決め台詞と決め顔があれば、綺麗に締めくくれると思っていた。でも、これがなかなか難しいものね。結局今日まで思いつかなかった。
「願わくは、きみたちの旅路に自由を」
笑顔を作るのは不得意な私が最後に浮かべたものは、酷く不格好なものに見えただろう。
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