盁月のプロセルピア:Re

美紅李 涼花

第1話 春雷、響く

平気、まだ大丈夫。

そう言い聞かせて階段を上る。

高校生活も2年目の春になった。窓からのぞく桜の木に目を止めることなく、去年より遠くなった教室へと足を押し進めていく。

大丈夫、今日は平気。

何もない、何も起こらない。

貧血のせいか、息切れを感じる体に無理を強いてでも、私は進まねばならない。

階段を上りきり、廊下を曲がる。

文系の教室は廊下の突き当り。一番遠い場所だが、心の準備をするには足りない。

大丈夫、だいじょうぶ、だいじょう・・・・・・

「あっ、咲耶さん来ちゃったじゃん!」

「早くどけよなぁ。」

その声に、呼吸さえも出来なくなるが、我慢して静かに視線だけ彼らへと向ける。

嫌な笑みを浮かべて私の椅子に座る人物は、それさえも都合の良い様に捉えて様で素直に椅子から離れた。

「ごめんね―咲耶さん!椅子あっためといたからさ!」

「うん・・・ありが、とう?」

なんとか声を絞り出す。彼らと極力目を合わさない様に、私に向けられた濁った色を知覚しないように。戸惑いさえも、彼らにとっては蜜に過ぎない。だから何も極力彼らに与えない様に、俯いて教室からいなくなるのを待った。

「・・・っ、はぁ、っは、はっ、あっ」

息が、吸えない。あの目が、私を見つめる、黒い、汚れた双眸が、私の全てを壊していく。無理だ、やっぱり。ここじゃ、息さえままならない。

(トイレ・・・この時間なら一階の昇降口横がまだ空いているはず・・・)

時計は8時前を示す鐘がなった。ホームルームまであと10分、トイレに行っても差支えはないし、変にも思われないだろう。私は荷物が邪魔にならない様、机の横のフックにかけ、スマホだけを抱きしめて足早にトイレへと向かった。


(助かった・・・)

一番奥の数少ない洋式トイレの個室は、私の唯一の居場所だ。その場にへたり込むように、トイレの床へ腰を下ろす。しばらくその場に座っていると、不安定に波打っていた呼吸も心音も穏やかになってきた。これで大丈夫だろう。

(だけど・・・)

彼らは今頃教室に戻っているだろうし、戻っていないとしても、味方のいない教室に一人で佇む度胸も私にはない。どっちみち10分のチャイムまで此処にいるしかない様だ。その結論にひどく安堵した。もう少しだけ、もう少しだけ此処にいよう。


いつからだろう、男の子ほど恐ろしいものはいないと思う様になったのは。

いつからだろう、誰かからの視線がこれほど痛くなったのは。

いつから、だったのだろう。

『咲耶の足はカメの足だよな』

『何笑ってんの?意味わかんないんだけど。』

『霧嶋さんってイイよなぁ。』

やめて、やめてよぅ、私、わたしを、見ないで おねがい、お願いだから

「ヒュッ」

どうしよう、息、なんで、

上がって、とまらな

その時だった。

「大丈夫⁉ 息ゆっくり吸って‼」

扉の向こうから天使の声が聞こえた。


「落ち着いた?」

「すいません、保健室まで運んでいただいて・・・」

私は深々と頭を下げ、美しくなびく髪の持ち主を見上げた。

「いいの、いいの。過呼吸ってなかなか自分ひとりじゃ対処できないからさ・・・辛かったよね。」

「・・・はい。」

保健室の先生が持ってきてくれたマグカップを静かに傾ける。優しい暖かさに、涙腺が緩みかけた。

「あっ、そうだ名前教えとくね。確か此処に・・・あった!はい、これがアタシの名刺。」

青地のかっこいい名刺入れからでてきた名刺には、英語で「Aoi Makiya」と記されていた。電話番号やメールアドレスも載せられたそれは、社会人としてしっかりとしている印象を私に抱かせた。

「まきや・・・あおいさん・・・で合ってます?」

「うん、槙谷 葵衣。28歳の社会人、よろしくね霧嶋 咲耶ちゃん。」

差し出された手に、自然と手が伸びてしまった。どうして名前を当てられたのだろう。保健室に入った時に、先生が口にしたのだろうか。

「実はね、今日この学校に来てたのは此れをサクヤちゃんに渡すためだったんだ。」

はい、と手渡された茶封筒には「特務機関 プロセルピア」と書かれている。恐る恐る封筒を開けると、厚紙に「召命」とあるのが見えた。

「おめでとう!

 貴女は厳正なる審査の結果、”特務機関プロセルピア”の執行人として

 召集されました!」

ぱんぱかぱーん、というアオイさんの言葉とともに降り注いだ花弁は、私のベッドじゅうを祝福する様に埋め尽くした。

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