トントン
薬学乙女たんbot
トントン
眠りがだんだんと浅くなってくるのがわかる。
夢も見ずに、ただ暗い無意識の中を漂っていたのに、なんで目が覚めそうなんだろ。
不思議に思いながら、なんとか眠りに戻ろうとするけど、その気持ちは無視され、あの暗い無意識の底には沈んでいかない。
トン……トン……
先ほどまでのまどろんだ意識では気が付かなかったが、小さな物音が部屋の中で響いている。
この音が私を暗い世界の外側に引っ張りあげたのかな。それにしても何の音?
私が眠るベッドの周りを、そのトントンという音は周っている。
その音を聞いているうちに、さっきは沈めなかった暗い世界へ、またゆっくりと落ちていった。
それからだいぶ時間がたったみたいで、瞼を閉じていてもわかるほどに周りが明るい。
「…まぶしい」
うつらうつらしながら、しっかりと糊付けされた瞼をなんとかこじ開ける。
堤防が決壊した洪水のように、溢れた光が一気に流れてきて、見える世界は真っ白になってしまった。あまりの光の量にくらくらとしてしまい、しばしボーっとしてる。
そうしている間に、だんだんと元の世界が姿を現してきた。
「あれ、カーテンが開いてる。閉め忘れたっけ…?」
昨日の夜がどうだったか思い出そうとするけど、どうにも思い出せない。
しかしまぁ、けたたましいベル音に起こされるよりは、これはこれで爽やかな寝起きなのかな。
そんな風に自分に言い聞かせながら、私はようやく上半身を起こして、ベッドから立ち上がろうと腰を浮かせた。そして、そのまま私はその中途半端でアンバランスな姿勢のまま止まることになる。
何かを踏んだようで、足の裏に何かの感触を感じたからだ。
見ると、私の足元から白いヒモのようなものがゆらゆらと伸びている。
それがなんなのかわからず、思わず変な体勢のまま止まってしまったのだ。
正体のわからないその白いヒモのような物から、そっと足をどけてジッと見てみる。
なんてこないただのヒモだ。いわゆるタコ糸と言われてるような、綿でできた糸。
「なんでこんなものが?」
起きたての頭をグルグルと回していると、かすれた記憶が呼び起こされる。
そう、昨日のあの音だ。
考えれば考えるほど不安がどんどんと膨らんでいく。いや、もっと正直に言うと不気味だ。
自分が寝ている間に何かが動いている、うごめいている。
急いで窓や家の鍵を調べてみたが、特に侵入した様子はなさそうだった。
とは言っても、『素人の見た限りでは』という何とも心もとない括弧書きが添えられているけど。
しかし、なにか盗られたというわけではないし、自分の思い過ごしなんてことも十分に考えられる。私はそのままそのひもをゴミ箱に捨て、最初から何も見なかった、何もなかったことにした。
朝の怱忙の中に、その事実を置き去りにして、私は忘れ去ることを決意した。
日中はそれこそ忙しく、言ってしまえば朝のそんな些事を思い出すことはなかった。
しかし、日も沈み、やることも落ち着き静かな部屋の中にいると、どうしたって朝のことを思い出してしまう。
「……大丈夫だって。なんにも起こらないよ」
自分で自分にそう声をかけて、布団に潜り込んだ。
昼間の生活に疲れた脳みそは、徐々に徐々にそのスイッチをオフに切り替えていく。意識は暗い水に沈むように、すーっと暗い所へ降りていく。
だけれど、不安のせいだと思う。
緊張の糸が一本だけ、意識をつなぎとめている感じがする。
その緊張の糸がピンと揺れるのを感じた。
トン……トン……
また、昨日の夜と同じ音だ。
それがゆっくりと部屋中を、まるで歩き回るかのようにぐるぐると動いている。
私は怖くなってしまい、閉じた目を、なお一層力を込めて、布団にもぐった。
その音が収まるのを、じっと待つしかなかった。
また私は眠ってしまったのか、それともずっと起きていたのかわからないけど、
いつの間にかあの音は聞こえなくなっていて、部屋は差し込む太陽で明るくなっていた。
恐る恐る部屋の中を見回してみる。
どこか変わっているような気がする。
でも、もともと眠る前からそうだったような気もする。
どれが間違っていて、どれが正しいのかわからなくて、すべてが違和感に飲み込まれていくような感覚に襲われ、それがまた怖い。
そんな中で、たった一か所だけ昨日と絶対違うところがある。
押入れの扉が少しだけ開いているのだ。
子どもの頃に親にねだって買ってもらったベッド。
それからのベッド生活で、全然使わなくなった押入れだ。
もちろん、これを開けないという選択もあったと思うし、むしろそれが正解だという気持ちの方が強かったと思う。
だけど、正体を突き止めたいという衝動が、押入れの前まで私を無理やり連れて行った。自分で自分をバカだと呪いながら、意を決して引き戸に手をかける。
「なんで、なんで開けようとしているんだろ、私は……」
半分泣きべそかきながら、自分でもどうしてそんなことをしているのかわからない。
そんなに怖いならやめておけばいいのに、私によって押し入れは開けられていく。
そして、私は目が合った。
誰かと目が合うはずもない押し入れの中で、私は間違いなく目が合った。
透き通った青色の瞳が、私の黒い瞳を映し出している。
ずっと忘れていた。
子どもの頃はどうしてこんなものを欲しがったんだろう。
ぐったりとした操り人形が、牢名主のようにそこに静かに座ってこちらを見ていた。
その手足には、だらりとしたヒモが繋がれている。
本当に忘れてしまっていた。
記憶の片隅にもなかった。
操り人形なんて言うものの、買ってもらってからほとんど、操られることのなかった人形。
「まさかね…」
そんな言葉で、私は自分の気持ちのほとんどを誤魔化した。
人形が動くはずがない。
仕舞われていたからと言って、持ち主を恨むことなんてない。
そもそも人形なんだから、恨んだりするはずがない。
人形から目をそらし、そう自分の中で誤魔化している間も、人形は微動だにせず、私のことを見ていた。
人形を見ない振りをした私には、もう夜中の音の原因はわからないままになってしまった。
そうして夜がまたやって来た。
今度は何があっても起きないよう、精一杯深い眠りにつこうと頑張った。
だけど、この世の中は頑張ればなんだって叶うわけじゃない。
眠りが少しずつ浅くなってくる。
そしてまた、あの音が聞こえてくる。
さすがにもう驚きはしないが、それでもやっぱり怖い。
トン……トン……
また音がやむまで、またじっとしていればいいのかな。
トン……トン……
トントントン……
トットットット……
昨日や一昨日よりももっと動き回っている気がする。
だからと言って、できることは何もかわらない。
布団の中でうずくまり、静かに時が過ぎるのを待っていた。
すると突然音が止まった。
それこそが正常なことなのに、なお一層不安になってしまう。
まだ朝が来た気配もないのになんで。
カリッ……
カリカリカリカリ……
何かを引っ掻くような不気味な音がする。
カリカリカリカリカリカリカリカリ
その一心不乱なかきむしる音が、より一層私の恐怖を膨らませた。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリ
そしてピタッと、その音もしなくなり、静かな時間がまた訪れた。
けれど、ずっと静かにこちらを見ているような気がする。
なんの音もなくなり、一見すれば平和な静寂なのに、背中がじんわりと湿るのがわかる。私は呼吸すらままならない中で、恐る恐る布団から頭をそっと出してみた。
そして、薄目を開けて、布団の隙間の狭い視野からあたりを見回す。
何もいない。
そしてなんの変化もない。
「はぁ、なんだったんだろ」
どっと疲れが現れ、緊張していた全身の筋肉がゆるみ、一気に力が抜けていく。
「お茶でも飲んで落ち着こう」
そう思い、身体を起こしたところに彼はいた。
ベッドの上に立ち、ガラスのように青く透き通った瞳が私をじっと見ている。
その手にはボールペンが握られている。
さっきまで滲むくらいだった汗が、全身の毛穴から一気にあふれ出てくる。
「―――――――――――――――――――――――――」
声を上げたかと思ったけど、喉から何の音もでてこなかった。
思わず私は彼を突き飛ばした。
壁にぶつかり、ガシャン、カラカラと音を立てて地面に崩れ落ちた。
しかし、ガラスの目は変わらず私を見ており、操り人形らしく、誰かに操られるように立ち上がる。
「何よ…なんなのよ!」
近くにあった目覚まし時計を投げつけた。
投げつけられた時計は、中のバネやネジが飛び出して、バラバラと飛び散っていく。
そして時計がぶつかった彼の右足は太もものあたりから折れて、ブラブラと揺れている。
それでも変わらず、私のことをじっと見てくる。
静かに…ただじっと…。
そして、その静寂を破ったのはいつもの音だった。
トン…
彼の左足が私に近づく。
トン…
そしてまたもう一歩、左足が近づく。
トン…トン…トン…
どんどんと近づいてくる。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
木で出来た彼の体が軋みながらどんどんと近づいてくる。
右手にはキャップがとられたボールペン見える。
あとずさろうにも、すぐ後ろはもう壁で、どこにも逃げる場所なんてない。
投げつけるものなんてもうどこにもない。
彼がベッドの端までたどり着いた。
ベッドが彼の重みで沈むのがわかった。
闇の中キラキラと光る瞳が、ギシッギシッという音とともに尚のこと近寄ってくる。
そして目の前までやってきた彼は、ゆっくりと手を挙げた。
私は思わず目をつむり、頭を抱え込んだ。
…あれ?
振り下ろされるであろう、ボールペンの痛みがなかなかやってこない。
目の前にいる彼が動く気配も感じられない。
頭を抱えていた腕をゆるめ、彼の姿をそっと見てみる。
私の目の前に上げられたのは、右手ではなく左手で、その左手には紙が握られている。
「…な、なに?」
まったくの予想外の行動で、私は動けなかった。
折りたたまれた真っ白い紙を差し出すような恰好で、彼は止まっている。
彼はそれを私に渡そうとしている?
彼の目を見ながら、そっと彼の差し出した紙に手を触れてみる。
そしてそのまま受け取った。
手が震えるせいでなかなか紙を開くことができない。
それでも何とか開いた紙には、ボールペンで何かが書かれていた。
ほとんど使うことなく、押入れに押し込めていた私に彼は、いったい、どれほどの恨み言を募らせているのだろうか。
その覚悟とともに、私は手紙を読み始めた。
「今まで僕はずっと君のそばに居た。君は僕を忘れてしまい、直接顔を合わせることはなくなっても、扉ひとつ隔てたところで、僕はずっと君のそばに居た。
そして、これからも僕は君のそばに居るべきなんだと思う。
僕が君の人形である以上、そうするのが当たり前なんだと思う。
たとえ使ってもらうことがなくっても、暗い押入れにずっと入れられていることになったとしても、操り人形にとって正解というもがあるというなら、それが正しいんだと思う。
きっと百人に聞いたら百人それが正しいって言うと思う。
だから…ごめんなさい。
僕は今から間違ったことをする。
宿命に逆らって、間違いを犯して僕は……
僕は旅に出る。
たった一度でいい。自由を、まだ知らない自由というものを、
どうしても生きてみたい。
だから、ごめんなさい。
たぶんもう会うことはないと思う。
だから最後のお別れをどうしても言いたかった。
もう会うつもりはないけれど、それでももし、また会えたら、その時は笑顔ですれ違おう」
それを読み終えた私は顔を上げて彼を見た。
彼を見ている私の黒い目からは、ポタポタと涙が流れていた。
寂しいんじゃない。
悲しいわけでもない。
ホッとしたっていうのは少しあるかもしれない。
でも、たぶんだけれど、自由を知らないはずの操り人形の彼の方がよっぽど自由で、たぶん悔しかったんだと思う。
彼はくるりと後ろに向き直って、トン……トン……と歩きだした。
彼が廊下へ通り過ぎると、部屋のドアが閉まっていく。
ドアが閉まる瞬間、振り返った彼のインクの顔は笑っていた気がする。
それから数年たった今、それは夢だったのか、もしくは現実だったのかよくわからなくなってきた。
ただ、押入れを開けた時に見える小さくぽっかりと空いた隙間を見るたびに、なんとも言えない気持ちになる。
「やっば、遅刻!」
忘れられない思い出を押入れにしまい込んで、自由への切符をまだ持たない私は、日常のために走り出した。
あれ、今の人……笑ってた?
トントン 薬学乙女たんbot @pharm_lath_tan
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