夏の思い出と小さな足跡

神凪柑奈

小さな思い出の中に

「お父さん、今日カレー……」

「悪いな、凪。ちょっと疲れてるんだ」

「あ……うん。おやすみなさい」

「ごめんな。凪のカレーも好きだから、後で食べるな」


 何度目だろう。こうしてお父さんに蔑ろに扱われるのは。その次の休みも、いつやってくるのやら。

 後で食べるなんて言っているけど、どうせカレーだって食べない。

 必要なものは与えてくれた。別に虐待を受けているというわけではない。むしろ、十分すぎるくらいのものはある。けれど、お父さんはわたしを見ていない。

 わかっている。疲れているのはわかっているのだ。お母さんはどこかへ行ってしまっている。前にお父さんが楽しそうに電話をしているのを知っているから不仲というわけではないのだろうけど、そのせいでお父さんは一人でわたしを育てないといけない。


「カレー、ちゃんと作れるようになったのにな……」


 お父さんが好きな食べ物だと、親戚の顔が怖いおじさんに聞いた。お母さんの得意料理だったとも。

 だから、一生懸命練習した。ようやくちゃんとしたカレーを作れるようになった。それでも結局、お父さんが食べることはなかったけれど。


「はぁ……」


 本当はわかっている。お父さんはわたしに興味がないんだ。どうだっていいんだ。そうわかっていても、どこか希望を見出そうとしてしまう。

 それだけならまだマシだった。わたしは今、こんな家に生まれたくなかったなんて思ってしまっている。最低だ。


「ねよう……」


 考えるのが嫌になって、お父さんから貰った、お母さんが大事にしていた帽子を抱えて布団に包まった。






 目が覚めると、風が頬を撫ぜた。


「おい、大丈夫か?」

「……んぇ……?」

「こんなとこで寝てると風邪ひくぞ。あと、もうすぐ着くから起きてろ。親は?」

「……おと……さん……?」

「違うけど」


 船の上。揺れと潮風が心地よい。

 しかし、ここは一体どこだろう。服は私服、手にあるものは大事な帽子だけ。

 なるほど夢だ、という結論に至るまでは早かった。


「頭、冴えてきたか? とりあえず父ちゃんか母ちゃん探しに行くぞ。歩けるか?」

「あ……いや……いないです。親」


 いるかもしれないけど、まあいいだろう。夢だから許してほしい。今くらいは、せめて夢の中ではお父さんのことを考えなくてもいいだろう。

 それにしても、一体ここはどこだろう。見覚えなんてないし、聞いたことがある場所でもない。夢だとはいえ、全く無秩序に生み出されたわけではない気がする。正確なものではなくとも、なにか法則のようなものがあるかもしれない。

 とりあえずわたしの夢なら何をしてもいいだろうから、彷徨いてみようと思って立ち上がる。


「あ、おい。どこ行くんだ」

「……?」

「きょとんとした顔してないで、大人しくしてろ。揺れるから。それで、家出か?」

「家出……」


 別に、そういうわけではない。だって、ただの夢だから。

 けれど、この状況を説明するのは難しい。果たして夢だと言ってこの人は信じてくれるのだろうか。もしかしたら信じてくれるかも、と少し思いはしたけれど、ここは話を合わせるべきな気がした。


「そうです、かね。家出です」

「そうか」


 会話が途切れる。随分と無愛想な人だ。どこか、うちのお父さんに似ている。


「まあ、家出なら口出しはしない。けど、行くとこあんのか?」

「えと、ない……です。多分」

「多分って。いやまあ、そういうもんか」


 わからない。本当は家出でもないし、ただの夢だろうから。

 けれど、夢にしてはいろいろと正確で、それに思考もしっかりしている。言葉も喋れるのだ。

 起こしてくれた男の人が、ポケットから何かを取り出した。わたしもつい先日お父さんが使っていたものの古いものをもらった、スマートフォンだ。なんでも、五年以上も使っていたらしく仕事などでは使い物にならなくなったらしい。わたしが友達と電話をするくらいなら問題なく使える。


「あー、すいません。家出少女と出会ってしまったんですけど……」

「け、警察ですか……?」


 首を横に振りながら話を続けている。


「……はい。そうですね。お節介なのはわかっています」


 通話を終えて、スマホをポケットに直した男の人は、またわたしの方を見て言った。


白川蓮しらかわれん

「……えっ?」

「俺の名前。家出終わるまで一緒にいるから」

「しらかわ……れん……」

「そんなに変じゃないだろ」


 変じゃない。そうだ、別に変わった名前じゃない。

 だから、この世に同じ名前の人が二人いても問題はない。ありえない事ではないのだから。


「えっと、白川凪しらかわなぎです」

「一緒だな、苗字」

「そうですね。よろしくおねがいします、蓮さん」

「よろしく、凪」


 船が島に近づいていた。

 第一印象は、島だ。本当にそうとしか言えない。ただ緑に覆われていて、なにか特別なものがあるようには見えない。はっきり言ってしまえばただの田舎にしか見えない。

 この蓮という人は、おそらく別のところから来たのだろう。どうにもあの島には似合わない格好だったから、なんとなくそう思った。

 船が港に着いたらしく、大きく船が揺れた。ふらつくわたしを、蓮さんはそっと支えてくれた。


「降りるぞ」

「はい」

「あー、そんなに他人行儀じゃなくてもいいぞ?」

「他人行儀?」

「敬語とか、そういうの。凪、いくつだ?」

「えっと、小学一年生です」

「じゃあ、そんなこと気にしてもなんも変わんないから。年上には甘えてればいいんだ」

「変わると思いますけど……」


 変わった人だ。それに、そんなことを言われてもわたしはこの口調以外で人と話すことには慣れていないから、結局のところ変わらない。

 蓮さんに連れられて船を降りる。降りる人は少ない。

 気温としては暑いはずなのだが、それが嫌な暑さというわけでもない。どちらかというとその暑さが少しだけ心地よい。

 でもやっぱり暑いから、お母さんの帽子を被っておくことにした。


「暑いよな。ジュース飲むか?」

「あ……えっと……」

「そんなに緊張しなくてもいいんだけどなぁ……」

「じゃあ、その。お願いします」

「ん。りんごジュースでいいか?」

「はい」


 ペットボトルのりんごジュース。特別な味ではないけれど、美味しいから好きだ。

 飲み物を飲みながら、わたしは蓮さんの一歩後ろを歩く。背が高くて、脚が長い。人よりも一歩が大きい。

 だから、蓮さんはゆっくり歩いてくれた。

 たどり着いたのは古い民家。というか、この島はどれもそういう家ばかりで、いつか崩れてしまいそうな気がしてならない。

 玄関の扉を軽く叩くと、低い声が返ってきた。咄嗟にわたしは蓮さんの後ろに隠れる。


「ああ、蓮か。暑かっただろ。で、そっちのが……」

「凪。さっき話した子です」

「そうか。悪いな、凪。こんなおっさんしかここにはいねぇが、まあ文句は言わないでくれ」


 古い家から出てきたのは、とても顔が怖いおじさんだった。わたしは、この人を知っている。

 親戚のおじさんだ、恭弥おじさん。お父さんとお母さんのことを知っていて、お父さんがカレーが好きだということもこの人から教えてもらった。なるほど、確かに印象深い人だ。それこそ、夢に出てきてもおかしくはないくらいに。


「部屋は、蓮の隣でいいか?」

「あ……はい。大丈夫です」

「もっと部屋があればよかったんだがな。まあ、蓮は面倒見てやってくれ」

「大丈夫です。元々俺が連れてきたんで、面倒は見るつもりですから」


 優しい人だと思う。だからこそ、この人のことを信用しきれていない自分が嫌になる。


「服とかあるのか?」

「あ……ほんとだ」

「今まで忘れてたのか。まあ、明日にでも買いに行くか。この島に服売ってないし」

「売ってないんですか……」

「一応売ってないこともないが、恭弥さん……あ、さっきのおじさんな。あの人が言うにはおしゃれは服はないんだってさ。作業着とからしい」

「へぇ……」


 なるほど、それは辛い。別に服にこだわりがあるわけではないけど、作業着は嫌だ。

 蓮さんの荷解きを手伝ってから、とりあえずこの島を見て回ろうかと思って外に出る。一度涼しい部屋に入ってしまったからか、先程までの心地よいという暑さには感じなくなった。

 状況はいまいちわからないが、とりあえず夢だから深く考えた方が負けだろうと思い、海沿いの道路を歩く。

 なぜかここだけアスファルトで、とんでもなく暑い。空には雲がなく、お日様の光がそのまま降り注ぐ。帽子を持っていなかったら倒れていたかもしれない。それでも暑いけれど。


「君!」

「……えっ、わたしですか?」

「そうそう。迷子かな?」

「いえ、そういうわけでは」

「そっか。でも、この島の夏はどこで倒れるかもわからないから、一人でいるのは危ないよ。あたしはこの島に住んでるから大丈夫だけど」

「あ……確かに。ありがとうございます」

「いいよいいよ!」


 優しい女の人。歳は、多分蓮さんと同じくらい。そして、わたしと同じ帽子を被っていた。デザインがいいので、この人も気に入っているのだろう。

 けれど、なぜか怪訝そうな表情だ。


「君の帽子、どこで?」

「えっ? お母さんのらしいですけど……」

「へぇ……そっか!」

「えっと……おそろい、ですね」

「そだね! あ、せっかくならあたしが一緒にいよっか? どっか行きたいところあった?」

「いえ、別にそういうわけでは」

「ふむふむ。観光中か。ここ、観光するとこもないけど」

「あ、あはは……」


 確かに、見渡す限りの自然だ。本当に、驚く程に自然しかない。

 でも、住んでいる人がそれを指摘してもいいものなのか。わたしはここが嫌いではないし、むしろ元々住んでいた場所よりずっと生きやすい。そんな気がしている。


「でもさ、多分君も感じてると思うんだけど、ここの風って他とは違うんだ」

「風とな……?」

「そ、風。あたしはこの風が好き」


 風を感じてみようと頑張るけれど、風はそもそも吹いてない。比喩なのはわかっているけど、違うのは風というより、この場の空気な気がする。

 でも、なんとなくわかる。風が好きという気持ちは、多分わたしも一緒なのだろう。

 不思議な人だった。初対面なはずなのに、なんとなくわたしに似ている気がしたから。同じ気がしたから。


「あ、自己紹介まだだね。夏木燈なつきともり、燈でいいよ」

「白川凪です」

「白川……っていうと、恭弥さんのところに来た子?」

「あ……えっと……わたしはただの家出で……」

「家出かぁ……じゃあ、気分転換みたいな感じでここにいるんだ」

「ええと、まあ」


 別にここに来る予定があったわけではないし、そもそもここがどこなのかすらわからないけれど。でも、その言葉を否定することができるわけでもなかった。

 結局ここは、わたしの現実逃避で生み出されただけの場所なんだ。


「じゃあ、行こっか。凪ちゃんはどういうとこが好きなのかなー」


 燈さんはわたしの手を握って、ゆっくり歩いてくれた。

 なんでもない、ただ海が綺麗に見える場所。虫の声が心地よい山の道。昔ながらの食堂や、帰ってくる船がよく見える場所にも連れて行ってくれた。

 なんとも充実した時間だったように思う。ずっとこの夢の中にいられたらいいのに、とも思う。

 そうして燈さんと歩いていると、いつの間にか日が沈んでいた。夕日も綺麗だ。


「なぎー! どこだー!」


 蓮さんの声。どうやら探しに来てくれたらしい。


「誰?」

「えっと……いい人、です」

「なるほどわからん。でも、凪ちゃんが言うならいい人だね」


 説明が難しい。

 でも、考えてみれば恭弥おじさんのところに来た人がいる、ということは知っているのだから、それを伝えればよかったかもしれない。


「ああ、いた……どこに行ったのかと思った。その人は?」

「わたしに島を案内してくれた、燈さんです」

「なるほど……すいません、凪がお世話になりました」

「い、いえいえ! あたしも暇だったので、全然!」


 自分もついさっき出会ったばかりなのに、こうして自分の事のように謝ってくれるのが、少しだけ嬉しかった。


「帰るぞ。恭弥さんが飯どうするかって悩んでた」

「あ、はい。ごめんなさい」

「俺には謝らなくていいけど。遊んでくれたお姉ちゃんに挨拶、いいのか?」

「えっと、そうですよね。燈さん、今日はありがとうございました」

「うん。またね、凪ちゃん」


 またね。

 ただそれだけの言葉だけどなぜかとても嬉しくて、顔がにやけてしまう。


「楽しかったか?」

「あ……はい! とっても!」

「そっか。明日も会えるといいな」

「明日……」


 不確定だ。だけど、たった数時間の出来事だったとしても、この場所が大好きになった。この人たちが好きになった。

 だから、明日もここにいたい。目が覚めたとき、ここにいられたらいいな、と。そう思った。


「眠そうだな」

「は……い……」

「おぶるから、寝てろ」


 素直に甘えることにした。それから、わたしはすぐに眠ってしまった。






 目が覚めた場所は、いつもと違う場所。けれど見覚えはある。昨日、蓮さんの荷物を整理したから。


「よかった……」


 咄嗟にそんな声を漏らしてしまった。また自分が嫌になる。


「ん、起きたか。おはよう」

「おとうさ……えっ?」


 なんでお父さんと呼びかけたのか。

 ここは夢の世界で、わたしに都合のいい場所。いつかは帰らなくては行けない場所だとしても、ここにはわたしが会いたくない人なんていないはずなのだ。

 だから、わたしのことを大切に想ってくれない人なんて、そんな人がこの世界にいるはずがない。


「別に、無理に蓮って呼ばなくてもいい。お父さんでもなんでもいいぞ。それで凪が楽ならな」

「えと……でも、蓮さん」

「ん」


 無愛想だけど、優しい人だ。普通に考えて、高校生がお父さんと呼ばれるのは嫌だろう。そのはずなのに、この人はわたしが呼びやすいように呼ばせてくれる。

 なんでわたしがお父さんと呼びたくなったのかはわからないけど、この人がお父さんだったらよかったのに。


「ああ、起きてたのか。朝飯食っとけ。この時期は特にな」

「ありがとうございます」

「あ、ありがとうございます!」


 少々ぎこちなくなってはしまったが、ちゃんとお礼は言わなければいけない。

 今に用意されていたのは、サンドイッチだった。大きな皿に二人分のサンドイッチが置かれている。


「いただきます」


 きゅうりとレタス、卵やハムが挟まれている普通のサンドイッチだけど、とても美味しい。ずっと食べられる。めちゃくちゃ美味しい。

 夢中で食べてると、向かいに座る蓮さんが全然食べていないことに気づく。テーブルに並べられたサンドイッチは残り少しだけ。


「あ……」

「気にすんな。食べたいだけ食べればいい」

「えぇ……」


 でも、やっぱりここの夏は暑い。ちゃんと食べておかないと、昨日燈さんが言っていたみたいに倒れてしまうかもしれない。


「食べてください」

「いいのか?」

「はい。暑いので、食べないと駄目だと思います」

「……そっか」


 そこでようやく蓮さんはサンドイッチに手をつけてくれた。

 朝食を食べ終えて、食器を洗ってから今日はどうしようかと考える。そんなときだった。


「なぎちゃーん!」

「……燈さん?」

「行ってこい。遊んでくれるんだろ」

「でも、蓮さんは……」

「別に俺はどうとでもするから気にしなくていい。まあ、遊び疲れたら帰ってこい。子どもはそんな感じでいいんだ」


 多分この人は、わたしが帰ってくるまで家にいる。いてくれる。帰ってきたときにわたしが寂しくないように。

 単にやることがないのかもしれない。それでも、そうして待っていてくれることが嬉しかった。


「あ、凪ちゃん。おはよ」

「おはようございます、燈さん。どうしてここが?」

「恭弥さんのとこに居候してる人だよね、昨日の人」

「ああ、なるほど」


 それでわかったのか。ちゃんと伝えてはいなかったけど、そんなに大きな島ではないからすぐにわかったらしい。


「あの人は来ないのかな」

「気にしなくていいって。家にいてくれるそうです」

「ふむ……」


 考えるような仕草をとって、それからすぐに言った。


「呼んできてくれないかな?」

「蓮さんを、ですか?」

「うん。だって、せっかく遊びに来てるのに一人ってちょっと寂しくない?」

「それは……確かに」


 それに、わたしのわがままだけど、せっかくなら蓮さんと一緒に過ごしていたかった。

 そうと決まれば、話は早い。家の中へと走って戻る。古い家だからみしみし音を立てていたけど、そのときは気がつかなかった。


「蓮さん!」

「ん? 忘れ物か?」

「あ……えっと、その。蓮さんも、一緒に行きませんか?」


 自分が人見知りであることをここまで悔やんだのは初めてだ。言葉足らずだろうし、うまく伝えられなかったし、どうしたらいいのかわからない。

 それでも、蓮さんは笑って頷いてくれた。


「ん。ありがとな」

「えっ?」

「俺が寂しいかもって戻ってきてくれたんだろ? だから、ありがとう」

「あ……はい。はい!」


 嬉しい。他人からお礼を言われるのが、すごく嬉しい。


「あ、来てくれたんだ。よろしくね、蓮」

「いきなり呼び捨てか」

「だって、同い歳らしいし?」

「……そうかい。じゃあ、よろしく、燈」


 身長差がある。

 燈さんがわたしの右側を歩いて、その隣を蓮さんが歩いて。こうしていると、本当にお父さんとお母さんみたいで、ずっとこうしていられたらどれだけよかったか。


「そういえば、凪の服も見に行かないとな」

「服?」

「なんも持ってきてないんだ。その帽子だけは大事そうにしてるけど」

「あ……はい。お母さんにもらって」


 厳密に言えば、お母さんが使っていたものをお父さんにもらったのだけど、その辺は別に重要じゃない。


「でも、服はいいです。恭弥おじさんが貸してくれたものがありますから」

「そうか? まあ、凪がそういうならいいんだけど」

「わたしは、もっとこの島で思い出を作りたい……なんて。駄目……ですかね」


 せめて、この二人と一緒にいたことを覚えていられるような思い出を。


「駄目なわけないじゃん!」

「だな。凪のしたいこと、全部しよう」


 温かくて優しくて。

 その日はいろんな場所に行った。昨日行った場所も、時間が違えばまた違う良さがあって、それを燈さんは楽しそうに教えてくれた。

 わたしが見たい景色を見せてくれて、わたしが行きたい場所に連れて行ってくれた。なんでもない場所が思い出の場所になって、それがとても嬉しくて。

 時間が経つのが早くて、気がつけば日は頭の真上にあった。


「あー、こんな時間か。ね、お昼ご飯うちで食べない? 昨日作ったカレーが残ってて」

「カレー……」

「あ、嫌い? ならいいんだけどさ」

「いえ、好きです」

「蓮はー?」

「食う」

「了解! 一日置いたから多分おいしい!」


 カレー。ああ、やっぱりここはそうなんだ。

 ここはきっと、の思い出。そんな夢だ。

 なら、この優しかったお父さんは一体どこで変わってしまったんだろう。お母さんはどこにいるのだろう。

 この夢は、この記憶は、どこに還るのだろう。

 時は止まらない。夢の中でも、なにもかもが思い通りになることなんてない。

 そうして、わたしたちは燈さんの……お母さんの家にやってきた。


「誰もいないのか?」

「……うん。忙しいらしくて、帰ってきてない。年末は帰ってきてくれるけどね」

「そっか」


 それは、きっとすごく寂しくて、辛いんだろう。


「じゃあ、俺と凪が一緒にいる。帰るまでの間になるけど、それまではずっと。またここに来たときも一緒だ」

「えっ?」

「一緒なら、寂しくないだろ」

「……うん! ありがと!」

「わ、わたしも! 一緒にいます!」

「うん。凪ちゃんもありがと」


 三人なら、きっと寂しくなんてない。

 カレーは温かくて美味しくて、優しかった。





 その数日後、わたしは風邪をひいた。大したことのないものだけど、それでも恭弥おじさんに安静にしているように言われたので、わたしは従っておくことにした。

 蓮さんはここにはいない。どこかへ行ってしまったらしい。その代わりなのか、恭弥おじさんが傍にいてくれた。


「ったく、あいつはどこ行ったんだ……」

「あの、すみません」

「気にすんな。俺もお前のことは気に入ってんだ」

「えっと、ありがとうございます」

「……あいつがここに来た理由、知ってるか?」

「いえ、知らないです」


 そういえば、知らない。恭弥おじさんに会いに来たにしては、家にいる時間が少ない。ずっとわたしや燈さんといた。


「あいつはな、お前と一緒なんだ」

「わたしと?」

「そうだ。あいつも、嫌なことがあってここに逃げてきた。親と喧嘩したんだとよ」

「そうだったんですか……」

「ああ。だから、ここに来るように俺が言った」

「おじさんがですか?」

「そうだ」


 それだと少し変だ。どうして恭弥おじさんが親子の喧嘩のことを知っているのだ。


「あいつの親から連絡があったんだよ。出て行ったから、しばらく面倒を見てあげてほしいってな」

「喧嘩したのに、ですか?」

「そうだ。喧嘩したのに、だ」


 きっと、それは蓮さんの知らないことだ。知らないままここにいる。気持ちが落ち着くまで、整理ができるまでここにいるつもりなのだろう。

 だけど、そもそもここにいることそのものが、ご両親が用意してくれたことなのだ。喧嘩したはずの親でも、結局は蓮さんのことを心配している。


「……あの、どうしてその話をわたしに?」

「お前さんは、随分真っ直ぐに育ってる。それだけいい子に育った子が、親に大切にされていないなんてことはねぇ」

「えっと……」


 それはつまり、わたしが悪いということだろうか。こうして家出、ではないけれど現実逃避がしたくなるのは、わたしが悪い。そういうことだろうか。


「ああ、悪い。お前さんがどうとかいう話じゃない。ただ、凪みたいないい子を育てた親だ、きっと心配してくれてる。気持ちを今すぐ切り替えろなんてことは言わねぇ。でも、思い出してみろ。お前さんの親が、なにをしてくれたか」

「なにを……」


 ああ、なるほど。お父さんがわたしに何をしてくれたのか、そんなことを考えたこともなかった気がする。わたしはわたしが思うままに、ただわたしのことしか考えていなかった。

 お父さんは、なにをしてくれただろう。


「……えっ?」


 頬を、涙が伝った。どうしてだろう。


『凪のカレーも好きだから、後で食べるな』


 そうだ。どうせ食べないなんて、そんなこと思っていた。けれど、違った。本当はそんなこと無かったんだ。

 お父さんはちゃんと食べてくれてたんだ。お母さんのカレーではなくても、ちゃんと食べてくれていた。


「夏木燈さんって、どんな人か知ってますか?」

「燈が……ああ。そうか。そういえば最近よく外で一緒にいるな。燈がどうした?」

「いえ……ちょっと気になっただけです。よくしてくれたので」


 お母さんがどんな人か。ただそれが気になっただけだ。


「そうか。まあ、燈が今外に出て遊べてるのは、奇跡みたいなもんだ。あいつは身体が弱くてな、いつも家に籠ってた。それが、この夏は元気に過ごしている。あいつは優しい子だが、遊んだりできなかった。だからな、お前さんらが遊んでくれてるのが嬉しいんだ」

「そう、なんですか……」


 お母さんが、わたしの隣にいない理由。お父さんがいつも帰るのが遅い理由。

 そんなことを考えたとき、家の扉が開いた。


「あ、凪。起きてたのか」

「凪ちゃん、大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です」

「ならよかった。今日は一緒にいるから、ゆっくり休んでていいよ。恭弥さんもありがとう」

「ああ、気にすんな。ちゃんといてやれよ」

「うん」


 恭弥おじさんがどこかへ行ってしまった。わたしのことは二人に任せるということだろう。


「あの、お二人がもし、もしも結婚するとして」

「……えっ、あたしと蓮が?」

「よくわからないことを言っているのは、わかっています。でも、聞きたいんです」


 きょとんとしながらも、二人は聞いてくれた。

 大したことではない。でも、聞きたかった。この二人がどんな言葉をくれるのか。


「二人は、自分たちの娘の帰りを待っていてくれますか?」


 一瞬だけ、二人の目が合った。いや、きっとアイコンタクトだったのだろう。

 その一瞬。瞬きにも満たない時間がとても長く感じた。


「当たり前だ」

「絶対に、そうだよ」

「そう、ですか……」


 もう、ここにいてはいけない。

 心配をかけてしまう。帰らないといけない。お父さんが家で待っている。お母さんも、きっとどこかで私を待っている。


「もう、帰るんだな」

「家出はおしまいか。よかった」

「お二人とも、本当にありがとうございました!」

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