婚約者の心の声が聞こえてくるのですが、私はどうしたらいいのでしょう
雨野六月
前編
「あの方のお嬢様に対する態度はいかがなものかと思います」
侍女の率直な物言いに、私は思わず苦笑いを浮かべた。「あの方」とは、私の婚約者であるエルンスト・サザーランド様のことである。またの名を「氷の騎士」といい、女嫌いの堅物として有名だ。
エルンスト様は婚約者である私にも素っ気ない態度を貫いており、週に一度のお茶会でも、笑顔もないし返事もおざなり。いつもお茶会に同行している侍女はそれが気にくわないのだろう。
「確かに見た目は大変ご立派ですし、仕事もお出来になるかもしれません。しかしだからといって、婚約者に対してあの態度はないでしょう。今日だってお嬢様が色々と話題を振っておられるのに、あの方ときたら生返事ばかりで……あんな無礼者はお嬢様にふさわしくありません」
「だけどお父様のお決めになったことだもの」
「お嬢様が受けている仕打ちをお聞きになれば、旦那様だってきっと考えを改めてくださいます。僭越ながら私も一緒に説得いたします。私の大切なお嬢様が、あんな冷血漢に嫁ぐなんて耐えられません!」
侍女が私を思う気持ちは嘘偽りのないもので、それは大変ありがたいことだとは思う。とはいえ実際のところ、彼女の評価は間違っている。エルンスト様はけして冷血漢などではなく、とても情熱的な方なのだ。
(まあ、だからこそ困ってしまうのだけれども)
私は先日のお茶会でのやり取りを思い返した。
「こんにちはエルンスト様」
「ああ」
『ああ、ソフィアは今日もなんて可愛らしいんだろう! まるで天使、いや妖精のようじゃないか。私は金髪碧眼の派手な美人なんかより、ソフィアのような茶色の髪で、つつましい愛らしさを持つ女性の方がずっといい』
「このお茶は東方から取り寄せたのですが、お口にあいましたか?」
「ああ」
『愛するソフィアが傍にいるのに、茶の味などわかるはずがない。彼女と一緒なら、きっと泥水でもおいしく感じることだろう』
「先日の魔獣討伐は大変だったとうかがいましたが、お怪我などなさいませんでしたか?」
「別に大丈夫だ」
『確かに大変だったが、魔獣を街に入れるわけにはいかないからな。愛するソフィアを危険に晒さないためなら、命なんて惜しくはないさ』
――と、まあずっとこんな調子である。
そう、私は目の前にいる人の心が読めるのだ。母の実家は古い神官の家系なので、一種の先祖返りなのだろう。
今まで私の周囲にいたのは、あまり裏表のない人間ばかりだったので、私はさほど後ろめたさを感じることなく、始終聞こえてくる心の声を聞き流していた。
しかしこうなってくると、話はまるで異なってくる。
(一体どうしたものかしら)
このまま素知らぬ振りをしてエルンスト様に嫁いでしまっていいのだろうか。それはエルンスト様にお会いした当初から、私にとって悩みの種になっていた。
エルンスト様と私の婚約は、あくまで家同士の利害の一致によるものだ。しかし実を言えば、私は以前からひそかにエルンスト様をお慕いしていた。少々はしたないことではあるが、剣の試合で目にした颯爽とした戦いぶりに、一目ぼれしてしまったのである。加えて魔獣討伐での活躍や、騎士団でのストイックな勤務態度などを耳にするにつけても、彼に対する想いは募る一方だった。
だからエルンスト様との婚約が決まったときは天にも昇る心地だったし、たとえ彼から愛されなくても、自分は精いっぱい彼に尽くそうと決めていた。
(だけどまさか、氷の騎士と呼ばれるエルンスト様が、あんな方だとは思わなかったわ……!)
彼の『ああソフィア! 私の天使!』などという言葉を聞きながら、平然とした表情でお茶を飲むのは、いくら淑女教育を受けた身といえど、なかなかに辛いものがある。
「一体どうしたものかしら」
私がぽろりとつぶやくと、侍女が「だから旦那様に婚約解消をお願いしましょう!」と勢い込んだ。
「え、それは駄目よ」
「なぜですか?」
「だって……お父様にご迷惑をおかけしたくないもの」
「旦那様はお嬢様を愛しておられますから、きっと許してくださいます」
「それに傷物になってしまったら、次のお相手が見つからないかもしれないし!」
「何をおっしゃいますか。お嬢様ならあんな人の心を持たない冷血漢より、もっと良い殿方が見つかります」
人の心を持たない、とはまた随分な言いぐさだが、エルンスト様の心の声を聞いていなければ、そう思ってしまうのも無理はない。
何も知らない侍女に対し、私はただ首を横に振って見せた。
婚約者同士のお茶会は、その後も途切れることなく続けられた。週に一度エルンスト様に会って、情熱的な愛の言葉を浴びるように聞かされ、その後に侍女から「冷血漢」エルンスト様への酷評を聞かされる日々。
結婚まで続くかと思われたこの奇妙な状況は、ある日唐突に終わりを迎えた。
そのきっかけになったのは、私がエルンスト様にプレゼントした刺繍入りのハンカチーフである。彼の所属する騎士団では、妻や婚約者が刺繍したハンカチーフを身に着けるのが流行りだと聞いて、私なりに頑張った力作だ。
「どうぞ。私が刺繍しましたの。お使いいただけると嬉しいですわ」
「そうか」
私が差し出したハンカチーフを、エルンスト様はいつものように無表情で受け取った。しかしその心からは、ほとばしるように賞賛の声があふれ出した。
『ほう、これは見事だな』
『この辺りなど、とても素人技とは思えない』
『そういえば、ソフィアは刺繍が得意だと聞いたことがある』
『これはきっと愛しいソフィアが私のために、一刺し一刺し丹精込めて仕上げてくれたに違いない』
『この刺繍の美しさ、繊細さ、ソフィアの温かな人柄が表れているようだ』
『ああソフィア! 私の天使! これはもう家宝だな。もう死ぬまで肌身離さず持っていよう』
とめどなくあふれ続ける心の声を聞きながら、私はただ平静を保つのが精いっぱいだった。本当にエルンスト様ときたら、何ということをいうのだろう。
そして私はようやく心を決めた。
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