消灯の追従

 それは仕事上がりの夜、道端でそれを見かけたことから始まった。

 私の仕事の都合上、帰路につくのはいつも夜十一時以降なのだが、その日は特に遅くなり、深夜一時を回ってしまった。

 ビルの立ち並ぶオフィス街を抜け、静まり返った住宅街の一画にある自宅アパートへ帰る途中、あと一つ角を曲がればアパートが見えてくるという場所に、それはいた。

 丁度道の曲がり角の電柱に付けられた明滅する街灯、その下で丸く蹲った人のような物体。薄い水色の大きなシャツ──ワンピースのようなものだけを身に着け、影になって見えづらいが足元は何も履いていないようだった。街灯の明かりの明滅の度に、それら一つ一つを認識していく。

 一度明かりが消え、次に点いた長い点灯の時、その人物の頭がぐいっとこちらを向いた。影になっていてどんな顔なのかは認識出来なかったが、首が動いたと同時に髪がなびいたのを認め、女性だと分かる。目があった気がした。

 時間にして数秒だろうが、私には長い時間に感じられた。蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、その時の私はまさにそれを体現しているかのような状態になった。

 奇妙な感覚だった。ただ他人に見られているという事がこんなにも身体を硬直させるものなのだろうか。

 いや、それだけではない。言葉で説明し難い、とても厭な感覚のようなものを同時に感じていた。

 街の喧騒は既に彼方に消え去り、静寂と暗闇に包まれた住宅街の一画、街灯の下に蹲る奇妙な人物、普段なら滅多に遭遇しないこの状況を頭の中で反芻する。周りから音が消えていき、視線は女に釘付けになる。

 そして、その感覚を覚えた原因が分かった時、私は戦慄した。

 この女、笑っている。

 全身が粟立つと同時に、街灯が消えた。明るい場所にいる女を凝視していたせいか、視界が一瞬真っ暗になった。

 次に街灯が明滅した時、もう既に女はそこに居なかった。


 翌日の帰り道、その一画に女は居なかった。それどころか、昨夜は明滅していた街灯が嘘のようにしっかり点灯している。

 昨夜のあれは何かの見間違いだったのだろうか、それか昼間のうちに工事でも入ったのか、どちらにせよあまり深くは考えなかった。そんな事よりも気になることがあったからだ。

 人気のある場所から離れ、気づくと周りに人はおらず、世界に自分しか居ないような感覚になる時、街灯の明かりが消える事に気づいた。

 私が通ってきた後ろの方で必ず、一つずつ消えていく。私が足を止めて振り返ると、後ろの街灯は消えている。進む前方にある街灯は全く何の異常も無いように見える。だが私が進み出し、その街灯を追い越すと消えてしまう。

 昨夜のことも手伝って、私は段々恐ろしくなってきた。案の定、昨夜女を見かけた場所の街灯も私が追い越すと消えてしまった。それを確認した時、堪らず私はアパートまで脱兎の如く駆けた。

 音を激しく立ててドアを施錠する、そんな事に意味があるのかは分からないが、本能がそうしろと言った。

 部屋の明かりは何事もなく点く。私が部屋の中を行ったり来たりしても明滅はしない。何かの偶然だったのだろう。明るい自室に来たことで私は安堵し、着替えを始める。

 嫌な汗をかいていたようで、直ぐに浴室へ向かった。温かいシャワーが身体を伝わり、嫌な気分とともに汗を流してくれるのを感じると、思わず大きなため息が出た。

 ここ最近、激務が続いており精神的にも参っているのだ。たまには体も心もしっかり休めなければいけない。そんな事を思いながら目を瞑り、シャンプーで髪を洗い流していく。

 洗い終えた後に目を開けても、まだ暗闇のままだった。幾らか瞬きをしてみても変わらない。給湯パネルのぼんやりとした明かりだけが視界の端で暗闇に浮いていた。

 照明が消えたのだ。浴室の入り口からも明かりはない。いつもならすりガラス越しに居室の明かりが漏れてくるのに。向こうの照明も消えているようだった。

 温められた身体から熱が逃げていく。脳裏にはあの女の姿が過った。

 ──来ている。

 不意にすりガラスの向こうで何かが揺れた。止まらない鳥肌の波、吐息が乱れ始め、いよいよ自分が震えだしているのが分かった。

 向こう側から、何かが聞こえてきた。何かを囁いているのか、男性が無理やり出した裏声のような、甲高く不快な声が羽音のように小さく聞こえてくる。

 すりガラスの奥で揺れていたそれは、声と共に近づいてきていた。昨夜見た、あの座り込んで俯いている体制を横から見たシルエットが見える。

 不意にぐるっと首が起き、こちらを向いたように思えた。思わず身を捩るように驚いてしまい、情けない事に少し悲鳴も漏れてしまった。

 女は首をすりガラスに近づける。暗いはずなのに、ピントが合うように表情が分かってしまった。

 満面の笑み。欲しいおもちゃを買ってもらった直後の子供のような、曇りなき眼の、満面の笑みだった。


 それから次の日の朝まで記憶がない。しっかり目の前で見たはずの女の顔も、表情が笑顔だったということ以外何も覚えていない。目の形がどうとか、鼻の形がどうとか、誰に似てる似ていない、何も覚えていなかった。

 ただ、目が覚めた時、居室と浴室の明かりは点いたままだった。

 次の日は休日で、友人が家に遊びに来る約束があった。昨日のことなど忘れて楽しく過ごしたのだが、友人は夜になるとシャワーを借りた。

 元来より陽気でお茶目な性格だったのだが、浴室から出てきた時には初めて見せるような暗い表情をしていた。

 そして様子がおかしいまま泊まっていき、翌日朝になるとすぐに帰っていってしまった。

 その次の日から、私の周りで街灯が消えることは無くなった。

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