蜘蛛
私が中学生ぐらいの頃の話。
その頃住んでいた実家の向かいの家には、近所付き合いの悪い家族が住んでいた。
母子家庭のようで、たまに母親らしい女性が派手な身なりで夜に帰宅するのを見かけることがある。髪の毛も金髪に染め、いかにも水商売風の女性だった。
その家には兄弟らしき子供が二人いて、上の子は高校生ぐらいの歳で、平日の朝にはヨレた制服姿で通学している。だがその通学以外で外に出ているのを見たことはない。
時折夜中に少しだけ言い争いのような声も漏れてくるのだが、警察沙汰になったりということは無かった。
問題は下の子で、まだ幼稚園ぐらいの歳だろうが、朝から晩までその家の庭で一人きりでずっと遊んでいるのだ。
あまり他所様の家のことを詮索してはいけないとは思っていたが、おそらくは良い家庭環境で育っていないことは分かる。
私はその子が不憫に思えて仕方なく、時間があるときは少しだけ遊び相手をしていた。
その子は無口で、いつもは私が一方的に話しかけているばかりだった。
地面に木の枝で絵を書いたり、そのへんにいる虫を捕まえてみたりしているその子を脇目に見ながら、今日あった楽しかった事や、好きな食べ物の話など、当たり障りのない会話をいつもしていた。
無口ながらも面白い話題にはニッコリ笑ってみせたり、私が悲しかったことなどを話していると、頭を撫でてくれたり。なんてことはない、普通の男の子だった。
私が通い続けているうちに親しくもなり、お姉ちゃんと呼んで慕ってくれていた。
ただ、その子にはとある"癖"が一つだけあった。
蜘蛛を執拗に追いかけ回し、叩き潰してしまうのだ。
例え話の途中でも、縁側に出た蜘蛛を追いかけていってそれきり帰ってこなくなったりする。
私自身もあまり虫は得意ではないが、無益な殺生をするほどではない。その子のことは好きなのだが、その行為だけは嫌で仕方がなかった。
ある時、その子に何故蜘蛛を殺すのか問い詰めたことがある。
蜘蛛も生き物なのだから、殺してしまっては可哀想だと諭した。
その子は怯えた表情で、すぐに答えた。
「天井を這う大きな蜘蛛が怖い」と。
話を聞くと、家の中にひときわ大きな蜘蛛がいるのだという。
お腹がとても大きいという特徴からして、恐らく女郎蜘蛛だろう。夜に寝ていると突然天井に現れたりして、とても怖いのだ、と。
私も小さい頃は家に出る昆虫の類には恐怖したもので、なんだそんな事かと思い、蜘蛛さんだって生きてるんだから、無闇に殺してはいけないよ、と教えた。
だが、その子の表情は終始怯えたままだった。
そんなある日のことだ。学校から帰り、回覧板を届けに向かいの家の玄関に向かった。
陽はとっくに暮れ、辺りは暗くなっていた。
どうせこの時間、この家の母親はまだ帰ってきていないと分かりきっていたので、玄関を開けて、土間の先に続いた上り框に回覧板を置く。
帰ろうとして、ふと、奥の方から何やら物音が聞こえた気がする。
そのまま耳を澄ましていると、木造の床が軋む音とともに、ゆっくりと衣擦れのような音が聞こえてくる。誰かいるのだろうか。
ならば回覧板は手渡そうと思い声をかけようとするが、出かかった言葉が喉に詰まる。
廊下の奥で襖がゆっくりと開き、狭い隙間からあの子が部屋から這いずって出てくる。
部屋の方を一点に見据え、怯えた表情で後ずさっている。
その直後、襖が勢いよく開けられた。その子はビクンと体を震わせて、固まってしまう。
襖から次に現れたのは、丸い塊。続いて、その塊から垂れ下がる長い、布のようなもの。
間髪入れずにドス黒く変色した細い腕のようなものが、激しく音を立てて襖を抑える。
そこで初めて、アレは布ではなく長い髪の毛なのだと理解した。
襖を抑える腕がもう一本増える。母親が帰ってきていたのだろうか? だとしたら、あの子は今叱られているのだろうか。
何か嫌な予感が胸をよぎり、その子のもとへ駆け寄ろうとした時、ドス黒い腕が、さらにもう一本現れた。
あっけにとられている内、さらにもう一本襖を抑え、その後には脚が現れた。
そしてもう三本の脚が現れる頃、その子は逃げ場を失った。
全貌を現したモノは、まさに"蜘蛛"だった。八本のドス黒く、長細い手足。大きく、醜く膨れたお腹。首だけは人間のそれのようだった。
その首がゆっくりとこちらを向いてきた頃、私は既に玄関から飛び出していた。
尋常じゃない速さで自室に戻り、頭から布団をかぶり、怯えながら夜を明かした。
あの子の事が心残りだったが、それよりも恐怖心が勝ってしまった。
次の日、その家の長男が警察に捕まった。同じ学校に通う四人もの女生徒を殺し、バラバラにしていたらしい。
あとから聞いた話によると、それぞれ手足が一本づつ見つからなかったとか。
あの夜以降、その子と会うことは無くなった。
母親までもが失踪し、親戚の人が引き取りに来ていたからだ。
窓越しに引取の様子を観ていたが、その子は見えなくなる最後まで、玄関を怯えた表情で見つめていた。
私が見たものは一体何だったのか、今でも女郎蜘蛛を見ると思い出す。
あの時、私の方を向いた頭の髪の毛は、女郎蜘蛛の糸と同じ色をしていた。
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