残夏を濡らす
猫パンチ三世
残夏を濡らす
「私ね、雨が好きなの」
そう言って少女は笑う、自分は雨が嫌いだという事を少年はまた言いそびれてしまう。
少年は、雨のどこが好きなのか分からない。外に出れば体は濡れる、部屋に干した洗濯物も乾かない、出かけた先での雨は最悪だ。家を出る時は晴れていた空が、途中で顔色を変え雨を降らす様はどこか裏切りのようにも感じられる。
そしてそういった時に限って、カバンの中から折り畳み傘は姿を消し家で愚かな主人をあざ笑っているのだ。
だから少年は晴れの方が好きだと言いたかった、何度も何度も言おうとした。
だが雨が好きな少女の太陽のような、そんな月並みな言葉でしか言い表せないような笑顔は、少年の口を強く強く塞いでしまう。
だが少年はそれで良かった、良かったのだ。
少年は、ひどく平凡な人間だった。
昔からこれといって得意な事も無く、夢や目標も無い。
悪人では無いが、手放しで称えられるような善人でもなかった。
小学校の頃は活発だったが、中学校では騒がしい一団の端にいるような人間になっていた。
高校では愛想笑いを覚えたおかげで仲間から外される事は無かったが、遊びに行く予定が経ったときはいつも候補の最後にいた。
彼はいつも楽な方へ楽な方へと歩いた。
六割くらいの少し頑張るくらいで生きていた。
十何年も生きていれば、自分が優秀な人間では無いという事に嫌でも気付く。
運動、勉強、芸術、あるいはその他の上手く生きていけるような技術に秀でていない事は彼自身が一番よく知っていた。
だから無理な努力をする同級生や、根性論を振りかざすような教師は馬鹿だと決めつけていた。
自分の身の丈に合った生き方はいくらでもあるのに、上を無理に目指したせいで苦しい思いをする奴はどこかおかしいんじゃないかとすら思っていた。
彼はそれを表立って周囲に言うような事はしなかった、頑張っている人間というのを人間が好きだというのを知っていたし、それを否定するような事を言えばひんしゅくを買うのは目に見えていたからだ。
だから彼はそれを自分の内にうまく隠して生き続けていた。
大学は無理せず入れる所へ入った、いまだに彼は将来に対してこれといって明確なビジョンを持っておらず、それどころか曖昧な未来さえ想像できていなかった。
サークルは大学内で四~五番目くらいの中規模の所へ入った、人数が多すぎる所は面倒くさそうだったし、逆に少なすぎても周囲から奇異の目で見られるような気がしたからだ。
彼はそんな矮小で、この上なく惨めな妄想によって作られた周囲の目を気にして生きていた。どうせ自分は大した人間じゃないと知ったような口をきいていても、心のどこかでは自分がもっとできる人間だと思いたかった。
だがそうやって自分を知っている、自分は弁えているという子供が恰好をつけて煙草を吸うような、何とも無様で可愛らしい背伸びをやめられなかった。
そんなある日、彼は大学内の掲示板で興味深いポスターを見つけた。
それは七月初め、じりじりと皮膚を焼くような日差しの日だった。
いつもなら視界にすら入らないだろうボランティアのポスター、それからなぜか彼は目を離せなかった。
背中に背負った太陽が頭を焦がす、滲んだ汗がシャツを濡らす。
気分の悪くなるような、日陰に逃げ込みたくなるような昼下がりだったが、彼はそのポスターの前から動けなかった。
そして気付いた時には、ポケットのスマートフォンを使ってポスターの電話番号に電話をかけていた。
彼はボランティアが嫌いだった。
無償で誰かのためになんていうのも気に入らないし、それをして良い人になった気になっているような連中も嫌いだった。
彼の中にはそういう世の中が善とする事を、歪曲して解釈し悪い方へと悪だとしてしまう節があった。
だというのに彼はボランティアへ参加する事にした、一体これはどういう事なのか。
あれほど嫌っていたボランティア活動へどうして彼が参加するのか、それは彼の最近の出来事に起因していた。
彼には四つ年の離れた兄がいた。
兄は優秀だった、つまらないほど優秀だった。
勉強もできた、運動もできた。
本当につまらないほど優秀だった。
両親はそんなつまらない兄が好きだった。
けれどそれが仕方の無い事だというのは幼心に理解できたし、別に構わないと少年は考えていた。
自分がこれといって自慢になるような息子ではない事は知っていたし、そうなる気もなれる気もしなかった。
意外かもしれないが兄弟仲はそこまで悪くなかった、兄は少年に優しかったし少年も兄の事を上記の理由から素直にすごいと思っていた。
両親の期待をしっかりと裏切り続ける少年にとって、期待に応え続ける兄はシンプルな尊敬を向ける事のできる相手だった。
だがやはり彼の心には、ちっぽけな自尊心があった。
目を背け続けていても、それはやがて無視できなくなるほど大きく育っていく。
そして彼が大学に入学し、ポスターに足を止める一月前に兄は自殺した。
なぜ兄が死んだのか、それは誰にも分からなかった。
ただ一つ分かる事は、あれだけ優秀だった兄が薄暗い六畳一間のアパートで首を吊ったという事だけだ。
生活感の無い部屋で、ゆらゆらと揺れていたという事だけだ。
兄の死を知った両親の取り乱し方は尋常では無かった、もはや発狂していたと言ってもいい。
彼は大学入学と同時に家を出ていたが、二度と帰らないとかそういうものではなく、連休などにはちょくちょく帰っていた。
だが兄が死に葬儀のため実家に戻った時、少年は初めてもう二度とこの家には帰ってこれないなと思ってしまった。
母はひたすらに泣き続け目元を赤く腫らしており、父は葬儀に訪れた親戚や知り合いに無念そうな表情を見せていた。
二人の放つ悲しみの感情は、少年に嫌な眩暈を引き起こした。
彼にとってそれは耐えられるものでは無かった、吐き気すら覚える黒く冷たい感情の渦に飲み込まれた家で、彼は居場所を昔よりも失くしてしまっていた。
兄は写真の中ではにこやかに笑っていたが、燃やされる寸前の顔がどうだったかは分からない。
梅雨時期、死後三日、首つり、これらの要素は棺に付いている窓を開けられない理由としてこの上なく上等なものだったのだ。
火葬が終わり、灰にまみれた骨を拾う。
参列者はみな泣いていたり、悲しそうな顔をしていた。
彼もそれにならって悲しそうな顔をしながら、骨を拾う。
優秀で優しかった兄は、そこらに転がっていても分からないような骨になってしまった。
箸でつまみ上げた時の寒気がするような骨の軽さは、今でも少年の手に残る。
それからはあっと言う間だった、葬儀はあっと言う間に終わり参列者や親戚たちはわずかばかりの悲しみと同情を胸にそれぞれの生活へと戻っていく。
そして少年もまた築十年の安アパートへ戻ったのだった。
兄が死んだというのに、少年はなぜか悲しくなかった。
いや、悲しいといえば悲しいのだが両親のように取り乱すほどの悲しみは湧いてこなかった。
自分は頭でもおかしいのだろうかとも考えた、だがよくよく考えてみれば兄が大学に進学してからはめったに連絡も取っていなかったし、たまに正月や大型連休で帰って来る以外は交流が無かったのだ。
少年は、それが今の自分の心境に影響しているのだろうと結論付けた。
こうして兄の死を乗り越えた少年だったが、周りはそう見てくれなかった。
一体どこから漏れたのか知らないが、自殺した兄を持つ人間という認識はそれこそあっと言う間に広がった。
大学内で彼は気の毒な人、というような一種の蔑みに似た視線を向けられるようになった。
そういう他人の視線を気にしないように、言わせたい奴には言わせておけばいいというスタンスを取りながらも、実際は他人の目が気になる彼の精神は少しずつ摩耗していき、大して仲良くなかった目ざとくデリカシーの無い昔のクラスメイトから兄の事についての質問がSNSで送られてきた時などは頭が痛くなる始末。
それこそ死んだ兄を疎ましく思ってしまうほど、彼は自分のいる状況が不幸だと感じていた。
だからボランティアに参加したのだ。
ボランティアの内容は、大学近くの病院での入院患者との交流だった。
病院にいる人間は少なくとも自分よりも幸福な人間はいない、だから彼らと交流する事で、自分よりも身体的に下の人間と交流する事で安心したかった。
自分が不幸では無いと、自分よりも下の人間がいると。
全くもって自分勝手で、醜く、ゴミのような考えだった。
もはや悪といっても差し支えの無い行動理由だったが、それだけ彼も追い込まれていたのだ。
だからといって彼の考えを肯定する人間は、恐らく一人もいないのだろうが。
電話から三日後、少年はポスターに書かれていた担当の女性と大学の会議室で面接を行った。
担当の中年女性は恰幅がよく笑顔を絶やさない、いかにも良い人というような印象を少年に抱かせた。
エアコンのついていない、蒸し暑い会議室はサウナに近く女性は何度も汗をハンカチで拭いている。
少年の方も額にじわりと滲んだ汗を、腕で拭きながら面接を続けた。
「どうしてボランティアに参加しようと思ったの?」
少年は前もって用意していた、誰かの助けになりたいからというテンプレートな答えを女性に伝える。
いかにも清廉で、高潔な意思を持って応募しましたと言わんばかりの声の調子で、恥ずかしげもなく、堂々と嘘を言い放った。
女性は何百回と同じ理由を聞いたような顔をして頷いた、本当にそういう顔をしてたかは曖昧だが少なくとも彼にはそう見えた。
「じゃあ最後に、もし今回ダメだったとしても別のボランティア活動に参加してみようとは思う?」
彼は当たり前のように、当然だと答えた。
だがもちろんこれも嘘だった。
「お疲れ様、合否は後日連絡します」
十五分ほどの面談が終わり、二人は部屋を出た。
去っていく女性に頭を下げ、少年は彼女とは反対方向へ歩き出した。
少年は何となく受からないだろうなという思いがあった、というよりもそれは少し願望に似ていた。
面談の途中、彼は女性の質問に上手く答えられない場面があったのだが、その辺りから彼は何だかもう面倒くさくなってしまっていた。
彼が歩いていると、前からサークル仲間が数人歩いて来た。彼らが少年の顔に気付く前に、彼はわずかに口元を歪ませた。
前方から歩いてくる彼らは、知り合いだが友人ではない。それどころかどちらかといえば嫌いなタイプの人間だった、
明るく友人も多い、勉強はあまり得意ではないようだがそれを補って余りある長所を持つような連中だ。
様々なサークルにも顔がきき、休みの日はフットサルなんかをやるような連中だ。
少年はフットサルを趣味にしているような奴は、飲み会が好きで軽薄で女性を食い物にし経験人数でマウントを取るような薄っぺらい連中だという、偏見と呼ぶに相応しい偏見を持っていた。
彼らは例の如く少年に明るく声を掛けてきた、彼らと毒にも薬にもならないような下らない話をするのは、少年にとってこの上ない重労働だった。
興味の無い話を聞いてにこにこと笑顔を作るのもだるいし、相槌もだるければ、妙に高いテンションに合わせるのも疲れる。
終始明るかった彼らは、今度一緒に飲みに行こうと少年を誘ってその場を去って行った。
また一人で歩き出した少年は、気だるげな調子で講義へ向かう。
歩きながら終わったはずの彼らとのやり取りを思い出し、もっと上手い返しがあったなと後悔しながら。
それから三日が経った頃、彼の思惑に反してあの中年女性から合格の連絡が来た。
彼はその頃にはほとんどボランティアの事など忘れていたため、彼女からの電話は寝耳に水だった。
電話を受けた次の日には今回の活動内容および注意する点が説明され、その次の日には病院に呼ばれ担当患者と会う事になった。
向かう先の病院は、少年の住む街はもちろん県で見てもかなり大きな病院だった。
ベットの数や入っている科も多い、彼は割と体は丈夫な方だったためあまり馴染みは無かったのだが、近くを通るたびにその大きさに圧倒されたものだ。
広い待合室は人でごったがえしており、病院特有の消毒液だか他の薬品だか分からない臭いと、それぞれが放つ体臭が混じり合った独特の臭いに包まれていた。
「これからあなたの担当患者さんに会ってもらいます、昨日伝えた注意点を忘れないように」
昨日の説明会で少年が伝えられた注意点は、細かいものを含めると十を優に超える。その中でも特に注意されたのが、担当患者に必要以上に入れ込まないようにというものだった。
ボランティアの中でも、特に若い人間がそうなりやすいらしい。
だが、自分はそうならないだろうと少年は考えていた。
それはきっと自分よりも真面目で、心の清らかな聖人がなるのだろう。
世間一般で言う、良い人がなるのだろうと。
少年は自分がそうではない事を知っている、ここへ来たのは自分のためであって誰かの為ではないのだから。
少年は女性に連れられ、三階の一番奥の部屋へと案内された。
よくあるスライド式の扉を開いて中へ入る、部屋は贅沢にも個室だった。
「おはよう、
女性のその声で、窓の外を見ていた少女は二人の方を見た。
少年は思わずあっと声が出そうになる、これは決して誇張ではない。事実だ。
桜庭と呼ばれた少女、彼女は少年の十数年の人生の中で出会った異性の中で一番だった。
一番、少年の心を揺らした異性だった。
肩くらいまである黒髪はそれなりの距離でもさらさらしているのが分かる、目は大きくはっきりとしていて優し気だし、肌は白く美しいのが経験の無い少年にもよく分かった。
彼女は二人を見ると、すぐに人懐っこい可愛らしい笑顔を見せる。
それが余計に少年の心をかき乱した。
彼の心に先ほどまであったほどよく付き合って行こうというような、なあなあな思いは立ちどころに消えてしまった。
それと同時に彼女に嫌われたくない、力になりたい、仲良くなりたい、あわよくば好かれたいというような欲がふつふつと湧き上がる。
普段の彼は女性となるべく関わろうとはしない。
高校生の時、ちょっとした勘違いから仲が良いと思っていた女友達に告白してこっぴどく振られた時から、彼は女性との関わりを極力減らして生きてきた。
男というのは単純な生き物で、少し仲の良い女性を神格化し自分に好意があるのだと考えてしまう節がある。
当然そうではない男性もいるのだろうが、少年は残念ながらそうではなかったというわけだ。
だから彼は必要以上に異性と関わらずに生きてきた。
傷つくのが怖い、という臆病な自分を隠しながら。
そんな彼だったが、この桜庭という少女に対しては消極的になりたくなかった。
少しでも好かれたいと、親密になりたいと、そう考えてしまった。
後から思い出せばこれが一目惚れというやつに違いなかったが、その時の少年はそんな簡単な言葉すら出てこないほど少女に惹かれていた。
「おはようございます、あれ……もしかして?」
「そう、彼がこのあいだ話したボランティアの……」
桜庭と女性の視線が少年に向かう、彼は自分の名前を告げ、よろしくお願いしますと丁寧に頭を下げた。
「私は
そう言って桜庭は笑う。
彼女の声はとても心地良かった、朝日に照らされた朝露のような声だ。
その後、女性は桜庭と少し話をしてから他の所の様子を見に行くと言って病室を出て行った。
二人だけになった病室は、少し静かすぎるような気がした。
少年はどう動けばいいのか分からなかった。
頭の中のもう少し器用な自分は、明るく少女に話しかけているはずなのだが、現実の彼は好かれたい、仲良くなりたいという感情と共に下手に話しかけて嫌われたくないという相反する思いがぶつかり合って、結果的に無言の空間を作り出し、彼の身体を石に変えてしまっていた。
「座れば? そんなとこにいないでさ」
桜庭はベットの近くにあった丸イスに座るよう少年に声をかける、彼はそれに力無く返事をし、ぎこちなく歩いて椅子へ向かう。
座った椅子は思いのほか古いのか、それとも作りがあれなのかは分からないが、やたらギイギイと鳴く。
「さて……と、とりあえず自己紹介の続きでもしようか?」
その言葉に少年は頷き、二人は名前だけで終わっていた自己紹介の続きを始めた。
桜庭の年齢は少年と同じ十九歳、彼女は元々この辺りの人間ではなく他県から来ている事や、年の離れた妹がいる事、好きな食べ物がカレーだという事などが分かった。
話によれば彼女は元々体が丈夫な方ではなく、入退院を繰り返していたが最近はどうも以前に増して体調が悪く、設備の整ったこの病院へ来たという事らしい。
「心臓がね、悪いの。だから私いままで思いっきり走った事とか無いんだ」
そう言って彼女は自分の胸を指差した、細くてすらりとした針のような、一種の凶器じみた美しさがある指で。
「ねえ、君の事も教えてよ。私ばっかり喋っちゃってるじゃない」
少年は別にそれでも構わなかったが、そう言われてしまえば話さないわけにもいかない。
彼も彼女の話した内容にそって話をした、家族の事や大学の事といった取るに足らない大して面白くも無い話を。
基本的にはありのままを話していたが、彼は兄の死については何も言わなかった。
はっきり言って兄弟の死、というあまりにも相手の興味を良い意味でも悪い意味でも引いてしまう話題を胸の内にしまっておくのは少しもったいないような気がするが、だからといってそれを軽々しく口にするのは不謹慎が過ぎるしそもそも人間性を疑われかねない。
だから少年は兄の死というカードを、まだ伏せておくことにした。
「あ、もうこんな時間。そろそろ帰った方がいいかも」
桜庭の言葉に少年が時計を見ると面会時間の終わり際だった、窓の外の景色もうっすらと憂いを帯び始めている。
彼はあまりの時の速さに、静かに驚いていた。
「じゃあ、またね」
そう言って笑う彼女に手を振り、少年は病室を出た。
それから外に出るまでの間、彼は消毒液の臭いもやけに足音が響く廊下も気にならなかった。
彼の中にあるのはただただ桜庭陽子の事だけだ、それ以外の全ては取るに足らない事でしかなく、彼の気持ちを動かすにはあまりにも力不足だった。
病院を出たとほとんど同時に、あの女性から電話がかかってきた。
彼女は様子を見に戻れなかった事に対する謝罪を述べた後、今日の事を聞いてきた。
少年が問題無かった、これからもやっていけそうだと伝えると女性はほっとしたように一つ息を吐くと、これからもよろしくと言って電話を切った。
電話を終えた少年は、アパートへ向かって歩き出す。
夏の夕方、まだ昼間の熱を残した空気の中を彼は歩く。蝉の声、行き交う人々、そのどれもが輝いているよう思える。
空はいつもより澄んでいて、風はいつもより優しい。
耳に入る音、目に入る景色の全てが眩しい、何物にも代えがたい輝きを放っている。
道端に転がっている空き缶ですら愛おしく思えるほど、彼の胸の中には熱情がごうごうと音を立てて燃え盛っていた。
何度人生を繰り返したとしても、たどり着けない場所に彼はいる。
理屈ではなく、本能で彼はそこにいる。
彼は確かに恋をしていた。
それから少年は桜庭の元を何度も訪れた。
三回目くらいの訪問で手に入れた彼女の連絡先を使って、事前に行く時間などを決めていた。
何度も訪れていたとはいえ、二人は特別な事など何一つしなかった。
ただ少年が病室に行き、少女と話をしてテレビを見て本を読んだ。たまに映画などを見たりして、本やテレビと同じように感想を言い合ったりしていた。
桜庭は本当に良い奴だった。
少年の大して面白くもないような話もうんうんと聞いてくれるし、それに対するリアクションも彼が期待していたようなものばかりだった。
だから彼女との時間は少年にとってこの上なく楽しく、そしてかけがえのないものとなっていた。
「そういえばさ……」
言葉を言いかけた彼女の枕の脇に置かれたスマートフォンが震える、彼女は送られて来たメッセージを見て、少し困ったような顔をしてから少年の方を見た。
彼女がどこへ行きたいのか、何をして欲しいのか、少年はもう知っていた。
「うん……うん……えー? 本当に?」
桜庭には妹がいた。
両親の元におりほとんど会えないため、時折こうして彼女に電話をかけてきていた。
話によれば年齢は十も離れているらしく、一緒に遊んだ時間よりも離れている時間の方が長いらしい。
電話で話す桜庭は、少年と話す時よりも幾分か大人びて見えた。
それは彼女が妹に対して、良き姉であろうとしているからなのだろう。
まだ友達と喧嘩をしたとか、給食に嫌いなものが出たとかそういう可愛らしい悩みしか彼女の妹は持っていなかったが、それでも彼女はそれら一つ一つに丁寧に優しく答えていた。
「うん……じゃあ、またね。二人にもよろしく」
三十分ほどの電話が終わり、桜庭はソファーに座っていた少年の隣に腰を下ろした。
病院ある薄ピンク色の安そうなソファー、それに座って二人は外を眺めていた。
「ごめんね待たせて」
少年は気にしなくていいと答えた、彼女に待たせられるのは苦痛では無かった。
自分の価値の無い時間を、彼女を待つために使えるのならそれはきっと有意義な事だと少年は考えていた。
「……やっぱりいいな、雨って」
桜庭は窓の外を見て、静かに呟いた。
この日は雨だった、朝から黒い陰鬱な雲が空を覆い九時を過ぎたくらいには雨が降り出した。
彼女が雨を好きだというのは、かなり早い段階で教えられていた。
その理由までは知らない、だが少年はその理由に気付いていた。
桜庭の妹が電話を寄こすのは、決まって雨の日だったからだ。
こうして桜庭との出会いのおかげで、彼の人生は少しばかりの輝きを得た。
だが、やはりそこを除いた彼の人生は以前と変わらず冴えないものだった。
バイトや授業はいつも通り、交友関係は変化なくまた家族との関係も良くなってはいなかった。
兄の死から母親はすっかり塞ぎこんでしまったらしく、家の中でもほとんど笑わなくなった。という事を少年は父親から聞いていた、だが彼は特別何かしてあげようというような気にはならなかったのだ。
情が無い、というわけではない。
何をすればいいのかが分からなかった、優秀な兄を失った悲しみを自分のような不出来な息子が癒せるわけがないと彼は考えていた。
父親は顔を見せに帰ってきてくれと言っていたが、何かと理由をつけて彼は帰らなかった。
もし自分が家に帰り母親にあった時、生きている自分よりも死んだ兄に焦がれていると気付いてしまったら、今度こそ本当に母を愛せなくなってしまう自分がいる事に、彼は無意識のうちに気付いていたからだ。
「よっ」
彼が暗い気持ちを抱えて校内を歩いていると、またあのサークル仲間が声をかけてきた。
少年は彼の相変わらずの陽気さに嫌気がした、この男は複数人でいようが一人でいようが構わず声をかけてくる。
「そういやさ、今ボランティアに参加してるんだろ? どんなの?」
話の途中で彼はどこから聞き付けたのか、少年のボランティア活動について質問してきた。
正直なところ、ボランティアの話などしたくなかったが少年は手短に自分の話をした。
この時、少年は気づいていなかったが彼は知らず知らずのうちに優越感に浸りながらその話をサークル仲間にしていた。
遊び呆けているお前らとは違う、自分はボランティアに参加し世のため人の為に動いているのだという、自分の事を棚に上げた気色悪い優越感に浸っていた。
「そっか……すごいな!」
意味が分からなかった。
サークル仲間から出た言葉は、心からの賛辞だった。
「いや……ああいうのってけっこうポスターとかで見かけるけどさ……実際やってみるのってけっこう勇気いるだろ? だからお前すげえよ」
彼はニコニコと屈託の無い笑顔を見せる、その言葉を皮切りに彼はひとしきり少年の事を褒めると、自分もそういった活動に興味があった事、興味はあったが行動に移せなかった事を少年に話した。
そして最後に、少年がそういった活動に実際に参加しているのを見て自分もやってみようと決心がついた事を伝えてきた。
そして少年に礼を言って、講義の時間だからと言って走り去っていった。
少年は、ぼんやりとそこに立ち尽くしてしまった。
自分に礼を言った時のサークル仲間の顔に浮かんでいた笑顔は、まったくもう文句のつけようのない笑顔だった。
ねじくれた偏見を持った少年から見ても付け入る隙のない、曇りなくまた変な裏も無い良い笑顔だった。
少年はその笑顔がいつまでも視界に焼き付いたまま、そこに立ち尽くしていた。
そして自分がどうしようもなく惨めで、卑怯で、情の無い、矮小な存在であると強く感じてしまった。
小さくなった彼はゆっくりと歩き出す、道の隅をなるべく人の邪魔にならないように。
桜庭との出会いから一月と少しが経った、この年の夏は記録的な猛暑で季節はまだまだ粘りつくような暑さを持っている。
少年と桜庭の関係は未だに続いていたが、特にこれといって進展はない。
すでに少年は桜庭に対して自分の中の情報を、ほとんど渡し切っていた。
だが唯一兄の死についてはまだ伏せている、言うタイミングが無かったのだ。
それ以外の事柄についてはすでに伝えていた、家族や自分の中の考え方やサークル仲間の事などである。だがそれらは全てとまではいかないが、かなり脚色されて桜庭に話していた。
一応少年の言葉通りなら、彼は平凡な大学生であり、友人の数は人並み、しっかりと自分の考えを持ち、物事を客観的に見る事のできる人間……という事らしい。
この日はまた雨、いつものように彼女の妹は電話をかけてきた。
雨のせいか薄暗い待合室、二人の他には誰もいない。
少年はいつものように安っぽいソファーに座って少女を待つ、楽しそうな会話が彼の耳を刺す。
ふと、少年は兄の事を思い出した。
あの優しかったつまらない兄の事を、ふと思い出していた。
なぜ兄は死んだのか、自分とは違い周囲から必要とされていたはずなのにどうして死を選んだのか。
少年の兄は利口で、人並みの良心はあったが感情よりも理屈で動くタイプの人間だった。だから少年は、兄が死んだのは突発的なものではなくなにか別の長い目で見た理由がある、という考えをずっと持っていた。
気にはなっていた、だがそれが分かった所でいったい何の意味があるのか。
もう兄はいない、今更そんな事を明らかにしてもしょうがないのではないか。
達観している事が大人だと考えている彼は、そうやって疑問に蓋をしていた。はずなのだが、妹に真摯に向き合っている桜庭の姿を見てある思いが浮かんだ。
そして彼はそれを、胸の内に秘めておくことができなかった。
「えっ……お兄さんが?」
電話を終え、ソファーに座った彼女に少年は初めて兄の死を告げた。
はじめはひどく驚いている様子だったが、突然その話を切り出したという事は何か理由があるのだという事に彼女は気づいたらしく、話を聞く姿勢を彼に見せた。
少年は兄の事を話し出した。
優秀だった事、優しかった事、両親から期待され必要とされていた事、それがどういうわけだか突然死んでしまった事。
そしてその理由が自分には皆目見当がつかない事、それらを全て桜庭に話した。
何も言わず静かに要所要所で相槌を打ちながら、彼女は黙って少年の話を聞いていた。
そして彼が全ての話を終えると、何かを考えるように表情を曇らせていた。
少年は桜庭になら兄が死んだ理由が分かるような気がした、彼女なら、兄と同じ立場の彼女なら分かるのではないか、そんな期待が彼にはあった。
何か思い詰めたような顔をしている彼女に、少年は兄の事を聞いた。
「……ごめん、何でお兄さんが死んだのか私には……分からない」
「でも、きっとお兄さんはすごく優しい人だったんだと思う。優しかったから……だから何も言わずにいなくなったんじゃないかな?」
少年は少し残念に思った、だがそれと同時に少し安心した。
兄の死んだ理由が分からないのは決して自分だけではない、そう思えたからだ。
だがそもそも少年の兄を彼から言葉でしか聞いたことが無く、実際に見た事もない桜庭が、兄がなぜ死んだのかなどという家族ですら分からない事を分かるはずがない。
だが愚かな少年は、それに気付かず馬鹿みたいに喜んでしまっていた。
だから彼は、少女の表情の僅かな変化を見落とした。
兄の事も打ち明け、隠す事が無くなった少年は彼女と次のステップへ進むことにした。
つまりは付き合おうと考えたわけである。
彼には、OKを貰える謎の自身があった。
彼女なら自分を認めてくれる、自分の居場所になってくれる、そう考えたのだ。
恐らくは、いやほぼ間違いなく彼女も自分の事を好きだろうと彼は思う。
話している間はずっと笑顔だし、時々体にも触れてくれる、自分の意見を否定もしないし、悪口も言わない。
間違いない、そうだ間違いない。
彼はひとり枕に顔をうずめて、どうやってその話を切り出そうか。そればかりを考えていた。
そしてその日がやってきた。
その日は生憎の雨、だが彼にとっては恵みの雨となる。
いつものように病室へ入る、桜庭はこれまたいつものように笑顔で挨拶をしてくれた。
今までと同じように彼は話をはじめたのだが、これがどうも上手くいかない。
喉はやたらと乾くし、言葉も上手く出てこない。
手にはじんわりと汗が滲み、体が落ち着かない。
「どうしたの? なんかそわそわしてない?」
たまらず声をかけた彼女の言葉をきっかけに、少年はついに胸の内に秘めていた思いを彼女にぶつけた。
くどくなく、できるだけシンプルな言葉で彼は好きだとそう伝えた。
何度もつっかかりそうになりながら、文字通り顔から火が出るような思いをしながらどうにか言葉にした二文字。
彼は全てを言い終えた後、桜庭がどんな顔をしているのか見れなかった。
自身はあった、だがそれでもやはり怖かった。
だがそれではいけないと、少年はゆっくりと彼女の方を見た。
彼女は、掛布団に顔をうずめて肩を震わせていた。それが笑っているのだと気付くのにそう時間はかからなかった。
肩の震えが止まり、少女は顔を上げた。
そして少年の方を見て、小さく笑う。
「そっか……」
そう呟いた少女を少年は見る。
彼は答えを待っていた。
「実はね……私も……」
その言葉に少年の心は湧きたった。
自分が、自分の思いが、行動が、恋が、報われる瞬間がもう少しで訪れる。
少年の口元が僅かにゆるむ、少女はそれを見て笑った。
「なんて、言うとでも思った?」
そう言った少女の顔に浮かんだ笑みは、今まで見たどれよりも冷たく、残酷で、そして綺麗だった。
雨は勢いを増していた。
ガラスに叩きつけられる雨粒の量は増え、空は先ほどよりも黒さを増した雲に覆われていた。
少年と桜庭のいる教室はそのせいで薄暗く、沈んだ空気に包まれている。
雨が降っているせいか湿度が高い、ジメジメとした不快感が少年の身体を包む。
彼の背中を一筋、嫌な汗が流れた。
「はぁーあ、もう少しいけるかと思ったけどやっぱ無理。限界だわ」
うんざりと、ああ心底うんざりしたという様子で桜庭は深くため息を吐いた。
少年には信じられなかった。
いま自分の前にいる少女、自分を軽蔑し見ているだけで胸やけがするとでも言いたそうな少女が、昨日までの桜庭陽子だとは到底思えなかった。
彼はあっけにとられたまま、ぼんやりと彼女を見つめていた。
「なに? その顔、まさか私があんたの事を好きだって本気で思ってたわけ? だとしたら残念ね、私はあんたの事なんて少しも好きじゃない。はっきり言って嫌いなの」
少年は冷水を浴びせられたような気持ちのまま、震える唇を動かした。
彼の口から漏れた、どうしてという疑問の言葉に彼女は冷笑と共に答える。
「どうしてかって? あんたむしろ自分が好かれるような人間だとでも思ってたの?」
少年の口からは否定の言葉も肯定の言葉も出なかった、ただ何も言えずその場に立ち尽くしていた。
「好かれるための努力もしないくせに、誰かに好きになってもらえるわけないでしょ」
少年は自分の呼吸が、心臓の鼓動が早まるのが嫌というほど分かった。
「第一あんた性格悪いでしょ。周りの人間の粗捜しばっかしてる、あんたが時々話に出すサークルの人、普通に良い奴でしょ。あんたが悪く思いたいだけでしょ?」
脳裏には、あのサークル仲間の顔が浮かぶ。
少年は分かっていた、彼が善人であると。
明るく活発で、相手の立場に立って話ができる人間だった。
差別なく周りに接し、誘われれば経験がなくともチャレンジしてみるような人間だった。
少年は一度だけ、彼がフットサルをしている所を見かけた事がある。
彼はフットサルが上手いわけでは無かった、むしろその場にいたメンバーの中では下手な方だった。
だが彼は周囲からのアドバイスを真摯に受け止め、少しでも上手くなろうとしていた。
そして周囲の人間も、上手くなろうとする彼を応援していた。
少年は何とも言えない黒々とした泥のような感情と共に、その場から立ち去った。
いつからだろう、努力する人間を疎ましく感じ始めたのは。
いつからだろう、必死に前へ進もうとする人間をダサいと思ってしまうようになったのは。
初めから諦め自分には向いていないとすぐに投げ出し、それを潔いと勘違いしだしたのは一体いつからだったろう。
彼は善人だ、飲みの誘いもボランティアの礼も全て本心だった。
分かっていながら、それから目を背けていた。
もしそれを認めてしまえば、自分がどれだけ底意地の悪い人間か認める事になってしまうから。
「親の事だってそう、あんた怖いだけでしょ。自分が兄貴の穴を埋める事ができないってはっきりするのがさ」
その通りだった。
少年は実の所、父の頼みに応えて家に帰ろうとした事が何度かある。
だがその度に怖くなった。
兄の抜けた穴を埋める事のできない事が明らかになってしまう事が、怖くて怖くて仕方なかった。
死んだ兄にすら負けてしまう自分に、果たして生きている価値があるのかどうか。それを知るのが怖かった。
だから彼は家に帰らなかった、帰ることができなかった。
「劣等感まみれのくせにプライドだけはいっちょ前、他人の善意を悪くしか取れない。そんな奴の事を誰が好きになるってのよ、今回のボランティアだってどうせろくな理由で来てないんでしょ」
見透かされているようだった。
まったくもってその通りだった。
少年の視界がじわりと滲む、泣いているわけではないが視界が滲むのだ。
「それからあんたの兄貴が死んだ理由、今日までのあんたを見ててなんとなく分かった気がする」
すでに少年の心はズタズタだった、だが桜庭は言葉を止めない。
「あんたの兄貴が死んだの、多分だけどあんたのせいなんじゃない? 親の期待に応え続けるために、良い兄貴でいるためにずーっと無理して来たんじゃないの。あんたが持てるはずだった荷物まで背負い込んで、ダラダラ生きてるあんたの分まで無理してたんじゃない?」
少年の景色が滲むだけでは飽き足らず、ついには歪みだした。
「辛いのよ、誰かの望むように生きるってのはさ。だからもしかしたら本当にくだらない、あんたとかからすれば何でそんな事で? って思うような事で限界を超えたのかもね」
桜庭の言葉は憶測の域を出ない、それどころか少年を傷つけたいがための言葉だと思われても仕方の無いような言葉だった。
だが少年は彼女の言葉を否定できなかった。
なぜなら彼女の言葉が、正しいのではとそう思えて仕方が無かったのだ。
努力する事、頑張る事、無理する事、それを早々に投げ出し兄に押し付けたのは他でもない少年自身なのだから。
兄の死の理由、それは今となっては分からない。
だが少なくとも五割、いや六割は自分に原因があるのではと少年は思ってしまった。
自分がもっと兄を支えられていれば、ほんの少しでも兄の荷を持つ事ができたならこんな事にはならなかったのでは。
そんな考えが少年の頭の中にこびりついた。
「そういう事だから、私の事は諦めて」
桜庭は窓の外に顔を向け、何も言わなくなった。
ズタズタの心を抱えて立ち尽くす彼の中に、一つの疑問が浮かぶ。
なぜ彼女は今の今まで何も言わなかったのか? というものだ。
桜庭は自分の事を嫌いだと言った、ならばなぜすぐに彼を自分の担当から外さなかったのか。
事前の説明では、患者本人から苦情が出た場合はすぐに担当を変更もしくは活動から外されるという説明があった。
そしてそれはもちろん彼女自身も知っている、にもかかわらずなぜ今日まで気の良い少女を演じていたのか。
少年はポツポツと言葉を繋げ、彼女にその理由を聞いた。
「別に……大した理由じゃない」
彼女は言葉を濁し、詳しく答えようとはしなかった。
だが少年は引かない、どうしても理由が聞きたかった。
どうしてかと、彼女の座るベットに詰め寄る。
桜庭は黙っていたがしつこい少年にうんざりしもうどうでもいいといった様子で、大きくため息を吐き少年を睨みつけた。
「私、もう死ぬの」
淡々とした、けれどもどこか怒りをと虚しさを含んだ声で確かに彼女はそう言った。
だがそんな訳ないと少年は反論する、事前説明では余命幾ばくの患者は担当しないと聞いていた。
「……そうね、一応はまだ大丈夫だって医者は言うわ。でも自分の体の事だから、自分が一番よく分かるのよ。私はもう長くないってさ」
彼女は悲しそうにニヤリと笑う。
「ねえ、私が雨が好きだって話、覚えてる?」
覚えている、少年はそう答えた。
「なんでか分かる?」
少年は、妹からの電話が来るからだと答えた。決まって雨の日に電話をかけてくる妹ととの時間が好きだからだろう、と。
「違う、私が雨が好きなのはさ、他の連中が不幸になるからなんだよ」
その言葉の意味を少年が理解する前に、桜庭は言葉を続ける。
「昔っから体が弱くて、運動会とかそういう行事とかさ家族で旅行とかもしたこと無かった。周りの子たちはみんな楽しそうなのになんで私だけって、ずーっと思ってた。だからさ、雨とか降って行事が中止になったり予定が滅茶苦茶になるのが嬉しいのよ。自分だけが不幸じゃないって、そう思えるから。だから私は雨が好きなの、今日なんて最高ね、ニュースでは晴れって言ってたのにいい気味だわ」
くっくっと声を出して彼女は笑う。
それを見ていた少年は、彼女が何を言おうとしているのかまだ分からない。
「つまりさ、私ってけっこう性格悪いって事。だからまともに友達もいないし、看護師とかからも好かれてない、両親だってまともに会いに来やしないわ。まあ、自業自得なんだけどね、みんな私が辛く当たっちゃったから」
思えば少年が彼女の元へ通って一月あまりになるが、両親の姿を一度も見た事が無かった。連絡すら寄こしている様子もない、
「でも、いよいよ死ぬかもって思ったらちょっと寂しくなってきたんだよね。自分が死んだときに誰か一人にくらいは泣いてほしいじゃん? だからボランティアで来たあんたの前でくらいは良い人でいてみようって思ったの、そしたら私が死んだ時に良い奴だったなーって泣いてくれると思ったの」
その目論見はほとんど達成されていたようなものだった、少年は桜庭が死んだら間違いなく泣いただろう。良い奴だったと泣いただろう。
「だから今日まで頑張ってきたわけ、でもさすがに付き合うってのはねーちょっと無理かなって。まあ勘違いさせたのは私も悪かったかな」
彼女も少年と同じで、自分の中の願望を叶えるために人をりようしていたに過ぎなかったのだ。
彼女は胸の内を全て吐き出し、すっきりしたのか晴れ晴れとした表情で少年を見た。
「そういう事だから、あんたを好きになる事なんて絶対にない。死んでもね」
少年はその言葉だけを受け取ると、ふらふらと病室を出た。
雑踏が、人の声がやたらと大きく聞こえる。
それらは混ざり合い渦となって、少年の心と頭の中へズケズケと入って来た。
彼の頭の中では、心の中では彼女の言葉とその大きな渦がうねっている。
病院を出た彼は、ぼんやりとしたまま傘も差さずに雨に打たれながら歩く。
濡れる体も、周囲の奇異の目も何一つ気にならなかった。
彼は、力無く帰路についたのだった。
次の日、少年は再び桜庭陽子の病室を訪れていた。
扉を開けて入って来た少年の顔を見た時の彼女の顔は、笑えてしまうような驚き顔だった。
「……マジ? もう二度と来ないと思ったのに」
少年自身も驚いている、二度と来たくないと確かにそう思ったはずだった。
だがどうしてもこの病室に、もう一度来て桜庭に言わなければならない言葉があった。
「で? 何しに来たわけ?」
「昨日の……お礼を言いに」
「お礼? 何あんたもしかしてMなの?」
「違うよ」
「なら一体何だってのよ」
「自分でもよく分からないんだ、けど……どうしても君にお礼を言いたかった。ありがとうって、言わなきゃいけない気がしたんだ」
「……あんた、どっかおかしいんじゃない」
「かもしれないね」
そう言って少年は小さく笑うと、頭を下げて病室から出ようとした。
もうここへ戻ってくることはない、そう思いながら。
「ねぇ」
桜庭は彼を呼び止めた、足を止めて振り返った少年が見たのは悪戯っぽく笑う桜庭の顔だった。
「前に話してた映画、今日やるんだけどそれだけ見てったら?」
「どうして?」
「あの映画の話ができるの、あんたくらいしかいないのよ」
「そう……だね、じゃあそれだけ……」
少年は溢れそうな涙をぐっとこらえ、いつもの丸イスに座った。
彼は結局この後も、この病室を何度も訪れる事になる。
二週間後、八月の末に桜庭陽子が亡くなるまで。
桜庭陽子の死から二月が経った。
季節は移り、冬の気配がする頃となった。
少年は今日も今までと変わらず、大学生活を送っている。
桜庭の死はあまりに急だった、彼女は確かにもうすぐ死ぬなんて事を言っていたが、彼女は医療関係に関しては素人どころから医療のいの字も知らないような人間だ。
だから少年はもっともっと、彼女が生きていると思っていた。
だがある日突然、彼女は死んだ。
ちゃんとした死因があるのだろうが、少年にはそれが分からなかった。
いつものように病室に行くと、すでにそこには誰もいなかったのだ。
片づけをしていた看護師から、彼女の死を他人事のように告げられただけだ。
少年は途方もない喪失感に襲われたが、不思議と涙は出なかった。
悲しくなかったわけではない、悲しみが深すぎて涙すら出なかったのだ。
少年は一週間ほど何もする気がおきず、アパートでぼんやりと天井を眺めて過ごした。
下手をすれば二週間目もそんな調子で過ごす勢いだったが、あのサークル仲間からの連絡を機に大学へまた通いだしたのである。
映画やドラマ、漫画の主人公は死の経験を生かして人生を変えていくが、彼自身が大きく変わるような事は無かった。
だが何も変わらなかったわけでもない。
少年はようやく家へ帰る事ができるようになった、父親は喜んでくれていた。そして母親も、思いのほか彼の帰省を歓迎してくれた、
そして三人で料理を食べ、近況報告を終えると兄の話をした。
好きだった食べ物、小さい頃の喧嘩、そんな思い出話をして、そして三人で泣いた。
帰り際、仏壇に手を合わせた時に少年は久しぶりに兄の顔を見た気がした。
ああ、そういえばこんな顔だったなと懐かしく思っていると、また少し泣きそうになった。
大学生活もあまり変わらない、一つ変わった点を上げるなら友人ができたという事だろうか。
彼はサークル仲間と、あの一件から少しずつ親交を持つようになった。
つるむようになって分かったが、やはり彼は善人だった。
遊びに行ったとき、飲みに行ったとき、ふとした行動の一つ一つが彼を善人だと教えてくれた。
まったく、悔しくなるような気持ちの良い奴だった。
まだ飲みには行けていない、来週の金曜日に行く予定は立っているが。
少年はふと、大学内のベンチに腰掛けて桜庭陽子という少女の事を思い出してみた。
彼女が思いのたけを吐き出した後の二週間、そこに桜庭陽子という少女の全て……とまではいかないが本質が詰まっていたような気がした。
彼女は性格が悪く、面倒くさがりで、少年の駄目なところなんかをズバズバ言うような人間だった。
そのくせ一般的な常識は抑えているような、悪人とまでは言わないが間違っても良い奴ではなかった。
彼女はどうやら本当に少年の事を好きではないらしく、どこが一番嫌いかと聞いて顔と言われた時はさすがに彼も凹んだ。
落ち込んだ彼を見て、ゲラゲラと笑うようなそんな少女だった。
だがなぜだろうか、少年は最初の綺麗な桜庭よりも後半のきつい桜庭の方が好きだった。彼にMっ気があるわけではない、後半の素を出した彼女の方が親しみやすかったのだ。
きつい物言いも多くあったが、それでも良かった。
少年は桜庭陽子という少女を好きになった事を、後悔していない。
彼はあの日、なぜ自分が彼女に礼を言いに行ったのか最近になってようやく気付いた。
彼は誰かに自分を思い切り否定して欲しかったのだ。
小さなプライドと大きすぎる虚栄心、十何年かかって造ってしまった自分を肯定するための歪な檻。
造った本人ですら手に負えないその檻を、誰かに壊して欲しかった。
今までの自分と、卑屈で汚くてねじ曲がった自分と無理矢理にでも向き合わせて欲しかった。
彼女はそれをしてくれたのだ、今までの自分を真正面から否定しその上で最期まで一緒にいてくれた。
それが彼にとっては、この上なく重要な人生のターニングポイントとなった。
彼女は通り雨のような人間だったのだろうと、少年は一人考える。
短く、激しく振る通り雨のような人だったと。
恋人にはなれなかった、友人と呼ぶにも怪しい、よくて知り合いというレベルの関係だった。
だがそれで良かった、彼女と過ごした夏は少年の心に今も熱を持って残っている。
彼はきっと、生涯桜庭陽子という少女を忘れる事はない。
そして雨を見るたびに思い出すのだ。
自分の中に残った夏を濡らす、雨が好きだった彼女の事を。
残夏を濡らす 猫パンチ三世 @nekopan0510
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