┗熱-後編

 ハワード家の屋敷のキッチンで、イメルダは立ち尽くしていた。


 先程、イメルダが氷枕を作れたのは屋敷のメイドにあらかじめ作り方を尋ねて、道具を準備してもらったからだ。


 イメルダは料理ならば、メラン先生の料理教室に通っているからメイドに聞かずともできると考えていた。

 しかしそれは甘かった。


 パン粥を作ると言ったはいいが、キッチンのかまどに火がついていない。

 どうやらかまどの火というのは一日中燃えているものでは無いらしいと、イメルダは呆然とした。


 それどころか鍋の場所も、パンや牛乳の在処さえイメルダは知らない。

 何かロイクに食べさせるものがないかと、イメルダはキッチンを見回しながら歩いた。


 食材は作業台も兼ねているテーブルの上に並んでいる物だと思っていた。

 しかし、テーブルは綺麗に片付いている。


 メラン先生とのお料理教室では、かまどの火はずっとついていたし、食材も目の前に揃っていた。


 それはメラン先生が全部用意してくれていたのだと、イメルダは気がつく。


「……知らなかったわ」


 自分の無知さにイメルダは落ち込み、ぼやいた。

 イメルダは着ている赤いドレスのポケットから手紙を取り出す。


 今朝メラン先生から、イメルダ宛へ届いた手紙だ。12月のお料理教室でロイクの好物のシュトレンを作ろうという内容だった。


 メラン先生はロイクに内緒にしたいイメルダの気持ちを汲んで、わざわざ手紙で送ってくれたのだ。


その手紙を握りしめて、イメルダは祈る様に呟く。


「先生、わたくし……もっとお料理が上手くなりたいです」


 そして他の事も出来る様になりたい。家の事などすべて使用人任せで良い貴族としては、変な願いではある。


 しかし、イメルダはロイクに褒められたかった。平民である彼に認められたい、心から慕ってほしい。

 今日だって、風邪を引いたロイクを優しく看病してあげたいのに。


 ガチャリとキッチンのドアノブが回る音がしたので、イメルダは慌てて振り向く。

 そこには、ロイクが赤い顔をしながらドアから顔を覗かせていた。


「お、お嬢様……よかった。火を点けようとしているのではないかと思って」


「ロイク!? 貴方、寝ていなさい! パン粥は、わたくしには無理でした。外に行ってスープを買ってきますから、待っていて」


 あっさりと諦めた自分が、悔しくてイメルダは顔をロイクから背ける。

 ロイクはイメルダの言葉を無視して、寝間着姿のままキッチンに入ってくる。


「お嬢様を外にお一人では行かせられません。お供しますよ」


「結構よ! 病人は寝ていなさいったら」


 イメルダはロイクを廊下に押しやり、ロイクをベッドに連れて行こうとした時、玄関のベルが鳴った。


 今日は屋敷全体が留守とはいえ、外の門には屋敷の警備が数人いる。その為怪しい人では無いだろうと、イメルダは自分が玄関に出ようとした。


 しかしイメルダの足が動くより前に、ロイクがふらつきながら玄関へ行ってしまった。

 イメルダは慌ててその後を追いかける。


 イメルダとロイクが玄関を開けると、三角頭巾を頭に被り、薄紫のエプロンをつけた女性が鍋を持って立っていた。


「ご注文のチキンスープとバゲット2人前でございます。マリア様より、代金は先に頂いております」


 そう言ってイメルダに鍋を渡すと、女性は一礼して去っていった。



 キッチンの机でロイクが鍋からスープをすくい、皿に盛り付けている。


 イメルダはロイクの代わりに盛り付けをやろうとしたが、怪我をするとロイクに止められてしまったのだ。


 仕方なくイメルダは机の椅子に座り、ロイクを静かに見ている事にした。


 この目の前の食事は、イメルダの母マリアが家に残った自分達の為に、手配してくれていたものだ。


 イメルダは母に密かに感謝した。自分はロイクに迷惑をかけてばかり。何も出来ないから。


 ロイクはスープの盛り付けが終わると、今度はバゲットをパン切り包丁で切り分けて平な皿に盛る。


「わたくしの所為で、ロイクに今日も仕事をさせてしまいましたね」


 落ち込みながらイメルダは呟く。

 ロイクはそれに返事をせずに、イメルダの前にスープとパンが盛られた皿を置いた。


「用意できましたよ、お召し上がりください」


 ロイクはイメルダにそう言うと少し歩き、近くの壁に持たれて天井を仰ぐ。

 こんな時でも執事らしく立って待とうとするなんて、逆に嫌味だわ。そうイメルダは心が痛くなる。


「一緒に食べましょう。今日くらいいいじゃない二人きりだもの」


「……分かりました」


 イメルダの提案にロイクは従い、イメルダの隣の椅子に座る。

 素直に返事をしたロイクが愛おしくて、イメルダは思わず笑みをこぼした。


 ロイクの隣で食事をする事に気分が良くなり、早速イメルダはスープをすくって口にする。


 チキンの旨味が効いた、野菜スープだ。

 味が濃い。いや、これは普通の味付けだろうか?


 イメルダは、いつもスープはお湯を足して食べている為よく分からなかった。


 太る事に異常な恐れを抱くイメルダは、スープを一口だけ飲み込むと、食事を辞めてしまう。


 その代わりに、美味しそうにチキンを頬張るロイクの姿を眺めた。


 雇用主と執事という関係から、二人で並んで食事なんて滅多にない。


 ロイクが屋敷に初めて来て、シュトレンを食べた時以来だ……そうだ、思い出した。シュトレンを早く作りたい。


 とびきり美味しいシュトレンを食べさせて、ロイクを喜ばせてあげたい。


 12月の料理教室が待ち遠しい。……12月が?


 イメルダは楽しく考え事をしていたが、とある事を失念していたのを思い出す。それをパンをかじっ ていたロイクに尋ねた。


「12月は、わたくしが死んでしまう月よね」


 自分が処刑される月を思い出し、イメルダはさっと血の気が引く。


「……はい」


 ロイクはパンを飲み込んでから、ゆっくりと返事をした。


「随分と唐突ですね」


 不思議そうにロイクが尋ねてくる。


 確かに突拍子もない会話だった。理由を何か取り繕わねばとイメルダは慌てる。12月に作るシュトレンの事は隠したい。


「だって、もう9月なのよ。処刑された月まであと3か月……気にするでしょう」


 ロイクは、まだ自分を悪い女だと思っているだろうか。また裏切られてしまわないだろうか。

 イメルダは不安になり、ロイクに恐る恐る聞く。


「ロイクは、またわたくしを処刑台に送ろうと思っていますか?」


 ロイクは眼鏡をしていない、やや幼さが残る顔を驚かせる。

 そして静かに話し出した。


「時を遡る前、お嬢様が悪行の限りを尽くすのを、私は見ていられませんでした。復讐に取り憑かれたお嬢様を、お救いしたくてロイクはお嬢様を裏切ったのです」


 イメルダはロイクの答えに疑念が残る。


 自分が悪行の限りを、と言った事。時を遡る前は、イメルダは何もやっていないからだった。


「ねぇ、何か勘違いしているわ。わたくし、時を遡った今は悪事に手を染めようとしているけれど。その前は本当に何もしていないのよ」


「そんな。確かに、私は……」


 ロイクはとても驚いていた。いつもは白い手袋をしている手が今日は素手だ。

 その手を顔の半分に持っていき、何かを思い出しているようにイメルダは見えた。


 早く誤解を解きたい。イメルダは必死になってロイクに訴えかける。


「……信じてください。今回は、もう悪い事は致しません。きっと、聖女セイラに貴方は心を操られたのです」


「セイラ様に?」


 そうよ。ロイクがわたくしを裏切ったのはきっとセイラの所為なのよ。

 人の心を操る事なんて、あの女にしか出来ない筈。


 だから、わたくしを殺そうとロイクを使ったセイラは絶対に許さない。

 イメルダは顔を険しく歪めた。


「わたくしがセイラに殺される前に、必ず。セイラを殺しましょう」


 ロイクはイメルダの問いかけに静かに頷く。


「私はお嬢様の味方です。今度こそずっと」


 イメルダはロイクの返事に胸がいっぱいになった。

 隣に座るロイクに、イメルダは抱きつく。


「――っあの! おっお嬢様いけません!」


 ロイクは、イメルダが抱きつき困った様に反応した。

 今は二人きりだから、身分の差を弁えない自分を許して欲しいと、イメルダは誰かに祈る。


 今度こそ、生きてみせる。ロイクとずっと一緒にいるために。そう考えただけでイメルダは幸せを感じられたから――

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