第2話 アカネとあおいさん
六月に入ると、鎌倉のあちこちで、紫陽花が一気に花を咲かせる。
僕は、毎年この時期になると、紫陽花の名所と言われる場所は勿論のこと、小さな川沿いや民家の石壁から顔をだす紫陽花たちを見つけてはスマホで写真を撮っていた。
この日、僕は、自転車に乗らずシロの散歩に出かけた。いつもとは違うコースだ。
昨日の雨がまだ残っているのか、霧雨のような雨が静かに降っている。
僕らは、紫陽花で有名な御霊神社へと向かっていた。
参道に入ると目の前の小さな踏切が、「カンカンカンカン」と音を立て始めた。
僕らの目の前を年季の入った江ノ電の車両がガタンガタンと音を立て、通り過ぎていく。
ゆっくりと遮断機が上がり、僕らは御霊神社へ入っていく。
線路沿いや境内の周りには、色とりどりの紫陽花がまさに満開を迎えていた。
シロも紫陽花の花が好きなようで、鼻をくっつけクンクンしている。
僕は、スマホを出してシロと紫陽花の写真を数枚撮る。雨に濡れた紫陽花はコントラストが強く、いつもより艶やかになっている気がした。
江ノ電で唯一のトンネルである「極楽寺トンネル」を抜けてきた江ノ電と紫陽花とシロのコラボ写真を撮ろうと待ち構えていた時、シロに一匹の犬が近づいてきた。
まずはお互いを匂い合って挨拶をしているようだ。両方が受け入れたのか二匹とも吠えず、お互いが首元を舐め合っている。いきなり仲良くなったようだ。
「おはようございます。アカネ、ほらご挨拶して。あっ、真っ白だ!可愛い〜」
毎朝、シロと散歩をしてきたが、これまで、他の愛犬家との交わりは出来るだけ避けてきた僕は、少し緊張して言葉を発す。
「おはようございます。名前はシロっていうんだ。あっ、余りにひねってない名前だけどね」
「そんなことないですよ。まさにシロだもんね!シロ〜!これからもよろしくね〜」
彼女は僕と同じ二十代と思われた。ノースフェイスのレインコートがとても似合っている。プライベートでも会社でも女性との接点が余りない僕は、相手が若い女性とわかり、さらに緊張していた。しかし、そんな僕にはお構いなしに、彼女は次々にシロのことを尋ねてきた。
ただ、彼女は、声や話し方などがとても柔らかい人で、僕はとてもリラックスして応えることが出来たのだった。
彼女が連れている犬はアカネというくらいだから女の子なのだろう。とても美人さんに見えた。
はっと何かに気づいた彼女は、ポケットからスマホの時間を確認した途端、急にアカネを抱き上げ、「あっ、会社遅刻だ!」と僕とシロに別れを告げて踵を返して走り出した。
紫陽花の見頃が過ぎ七月に入ると湘南は一気に夏になった。朝六時だが強い陽射しが容赦無く降り注いでいる。
紫陽花が咲いている間、僕は毎朝、御霊神社へのルートをシロとの散策に選んでいた。シロがアカネと会うととても嬉しそうだというのは勿論言い訳で、僕自身が、ただ彼女に会いたかったのだ。
アカネの飼い主である彼女の名前は、「あおい」といった。
ひらがななのか、カタカナなのか、漢字ではどう書くのかわからないが、「あおい」という名前は、彼女自身を上手く表現していて何故かとてもしっくりきた。
お互いの名前を知った頃には、僕らは漸くシロやアカネ以外の話もするようになっていた。今日は暑いとか、アイスはチョコ系かバニラ系かとか、夏に鍋をするかとか、江ノ電の駅はどこが一番好きだとか、正直どうでもいいことを、毎日毎日積み上げていくことで、僕らはゆっくりとお互いの領域に入っていった。
彼女は、三ヶ月前に埼玉から引っ越してきたということだった。海がない町から海がある町へと越してきたと彼女は笑いながら話していた。
両親が離婚し、母親の実家に戻ることになった時、自分はすでに社会人として独り立ちしていたのだが、情緒不安定の母親が心配で結局一緒に越してきたということだった。そんな彼女を癒やしていたのがアカネであり、そして毎朝の散歩だったようだ。
彼女は、歩く度に、鎌倉の素晴らしさを感じたという。
勿論、お寺や古い町並みは素敵だが、それ以上にこの湘南の海に惹かれるということだった。雲を映す水面の色は毎日が全く違う色で、それは自分の気持ちを映しているように思えたと彼女はつぶやいた。
そして、彼女は鎌倉に越してきてから、雨の日も好きになったということを話してくれた。そんな雨がとても似合う御霊神社が凄く気に入り、よく訪れているということだった。
そこで、僕らは偶然に出会ったのである。
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