神さまからのお返し

あべせい

神さまからのお返し



 両親と娘の親子連れが、3人揃ってスマホをいじっている。

 街でよく見かける、40人ほどで満卓になる中華料理店のテーブル席だ。

 そのテーブル席の横隣にいる2人掛けのテーブル席の男が、その親子連れに声をかける。

 男に連れはいない。年齢は30代半ばに見える。

「もしもし、それは何ですか?」

 親子連れのうち、8才くらいの女児が、男の声にチラッと振り向いたきり、再びスマホに集中する。40代の両親も、スマホにかかりきりで、周囲は眼中にないようす。

「もしもし、すいません」

 男は、再度話しかけるが、全く相手にしてもらえない。

 すると、低い女性の声で、

「あれは、スマホです。ご存知ないのですか?」

 男は、声のしたほうを見る。

 と、すぐ後ろのテーブル席で、使用済みの食器類を片付けている若い女性がいる。この店の店員だろうが、男を見ずに、仕事に集中している。

 男は、彼女のテキパキとした動きに感心しながら、

「スマホ? あれが……名前は知っているけれど……いまはもう、こんなに持っているひとがいるのか……」

 と言い、深い溜め息をついた。

 男は、買ったばかりの色鮮やかな、赤いジャケットに、綿の黒いズボンをはいている。

「お嬢サン、少し教えていただけませんか?」

 男は、丁寧なことば遣いで、左隣の空いたテーブルを拭いている、さきほどの女性に話しかけた。

 幸い、午後3時過ぎという時間帯のせいか、店内はすいている。

「なんでしょうか?」

 女性店員は、腰につけている小さなエプロンのポケットから、ボールペンとメモ用紙を取り出し、男のテーブルに歩み寄ると身構えた。

「お嬢サン、ぼくは携帯電話というのは使ったことがあるけれど、あなたが言った、あのスマホというのは使ったことがない。あれは、どういうものですか? あなたは……」

 男は、女性の名前を言おうとして、店員の胸の名札を見てから、

「尾田ひかるさんですか。あなたは、最近のいろんなことをよくご存知ですね」

 と、やさしい笑みを浮かべて話しかける。

 男の身なりは清潔だ。表情もやわらかだ。

 女性店員は、危害を加えそうにない人物だと見て取ると、

「あれはスマートフォンと言って、携帯電話とパーソナルコンピュータ、すなわちパソコンの2つが、一体になった器械だとお考えになればいいかと思います」

「電話もパソコンも一緒に使えるのですか?」

「そうです。お客さんは、外国の方ですか?」

 顔形や言葉遣いは、日本人だ。しかし、日本語の上手な外国人は珍しくない。

「日本人ですが、2年ほど、ちょっと離れていました」

 本当は「シャバ」と言いたいが、それだと女性が警戒する。冤罪と判明して、小菅の拘置所から、この日、解放されたばかりなのだから。

 男は、箱川洋司(はこかわようじ)。拘置所を出て、新しい服と靴を買い、用事をすませる途中、昼食をとるためにこの店に入った。通りすがりの客だ。

 彼は、収監されていたのは、ただ運が悪かったのだと思うようにしている。しかし、ひかるのような親切な女性とめぐりあえたのだから、ようやく幸運が巡ってきたのかもしれない。そう考えよう。洋司は心を引き締めた。

「そうですか。2年だと、変わっていますよね。わたしでも、余りにも変化が激しくて、ついていけないことがあります。もうすぐ、30になるから……」

 ひかるは、そう言うと、ちょっと寂しげな表情を見せた。

「すいません、余計なことをお聞きしました」

 洋司は、そのとき、ひかるに対して好意以上のものを感じて、慌てて口を閉じた。元来、臆病なのだ。

 それから10数分。

 洋司は食後のコーヒーを飲みながら、窓から見える外のバス通りを眺めた。

 そのとき、洋司の眼がキラッと輝いた。洋司は立ちあがるやいなや、

「すぐ戻ります!」

 レジにいたひかるにそう告げ、勢いよくドアを空けて歩道に飛び出した。

 洋司の大学時代からの友人、姿正史(すがたせいし)だ。大学といっても、試験を受ければ全員合格する三流の私大。

 洋司は、歩道を行く正史に後ろから声をかけた。

 数分後、洋司は正史を連れ中華料理店に戻ると、元のテーブル席で正史と向き合った。

「さっき、おまえのアパートに行ったンだぞ。しかし、留守だった」

 と、洋司。

「そうか。ちょっと出かけていた」

 正史は、2年ぶりに会う昔の学友を前にして、感激している風はない。どちらかと言うと、早くこの場から立ち去りたい気持ちでいる。

「おれが出てきたら、おまえのところで一緒に仕事をすると約束した、だろう?」

「そうだった、か?……」

 洋司は、正史の反応に苛立ちを感じだした。

 元はと言えば……、と洋司は、2年近く前のことを腹立たしげに思い起こしていた。

 もし正史の証言がなければ、洋司は掴まることもなく、2年間も拘置所に留置されることはなかった、かも知れない。正史は、証人としての義務を果たしただけだと思っているのだろうが。

 被害者は、洋司と正史の共通の知人だった鬼島美知(きじまみち)。当時、彼女は、3代続くくたびれた歯科クリニックで歯科助手をしていた。

 洋司と正史は、同じ頃、たまたま同じその歯科クリニックに通い、そこで卒業から10年ぶりに再会した。そして、気がつくと、2人とも美知に好意を寄せていた。

 歯の治療は、洋司が3週間で終わったのに対して、正史は2ヵ月余りかかった。いや、かかったというより、正史は美知に会いたくて、必要もない治療を求めてクリニックに通っていた。

 洋司はそれを知って、冷静でいられなくなった。正史に奪われてはかなわない。美知の気持ちを引き寄せなければ。洋司は、そんな思いに強くとらわれていた。

 当時、郵便局で郵便物の配達員をしていた洋司は、クリニックが配達区域であることを利用して、配達中に美知に会う方法はないものかと考えた。

 そこで思いついたのが、誤配だ。歯の治療を終えてから、すでに2ヵ月がたっていた。もう、洋司のことなど忘れているかもしれない。そんな不安にとらわれながらも、彼は美知に会いたかった。

 住所がよく似た郵便物を、間違えてクリニックに届ける。誤配した郵便物の本来の届け先が近くなら、クリニックの人間がその郵便物を届けてくれるかも知れない。しかし、都会のことだ。少し離れていれば、どこのだれか見当もつかないだろう。かといって、他人宛てに届いた郵便物を捨てるわけにもいかない。

 すると、誤配された相手は、郵便局に「誤配されている郵便物があります」と、電話をかける。

 誤配した洋司は、当然上司に叱られ、誤配した先に、間違った郵便物を取り戻しに行く。それが、美知の歯科クリニックなら、堂々と美知に会える。

 洋司はそう目論み、わざと誤配した。すると、その日の午後3時過ぎ、午後の配達中、歯科クリニックから電話があったと知らされた。

「箱川さんが誤配するなンて珍しいわね」

 パートの女性がひやかすように、洋司に言った。

 洋司が美知のいる歯科クリニックに着いたのは、午後の配達をすべて終えた午後5時10分過ぎだった。

 クリニックの診療は、午後5時に終わる。予想通り、待合室には患者はいない。

 表のドアには、「本日の診療は終わりました」とプレートが下がっている。

 洋司は、配達のマニュアル通り、ドア横のインターホンを押した。

 しかし、応答はない。

 そのとき、

「何しているの?」

 声と同時に、肩をそっと触られ、洋司はびっくりして振り向いた。

「美知さん……」

 私服姿の美知がいた。何か深刻そうな表情をしている。

「あなた、箱川さん……、いいわ、中に入って。いいから……」

 美知はドアのロックを外すと、洋司を押し込むようにして、一緒に中に入った。

 中に人のいる気配はない。

 しかし……。

「さァ、治療室に行って……」

 美知は、洋司の後ろから、受付カウンターの脇から続く廊下を、そのまま進むように命じた。

 進むと行っても、数歩で治療室のドアに当たる。そのドアが少し中に開いている。

 と、中から、かすかだが、うめき声が聞こえる。

「事故、事故があったの。さァ、中に入って……」

 美知はそう言い、ドアの前で戸惑っている洋司の背中を、ドンと押した。

「アッ、このひと、先生じゃないですかッ、先生ですよね」

 洋司の目の前に、見覚えのある私服姿の男が、うつ伏せになって倒れている。頭から血を流して。

「そォ、クリニック院長の布山(ふやま)先生。突然、わたしの体に触ろうとしたから、わたし、夢中で腕を払ったの。そうしたら、こうなったの」

「美知さんに乱暴しようとしたンですか」

「そう。エッチな先生だとは聞いていたけれど……」

「どこかで頭をぶつけたンだろう。早く、救急車を呼びましょう。このままだったら、死んでしまうかも知れない」

 洋司は、警察沙汰になることを覚悟した。彼は郵便局に事故報告しなければいけないと考え、携帯電話を取り出した。

「待って。わたし、応急処置をしようと思って薬を買ってきたの。救急車と警察はもう呼んだわ。でも、救急車が来る前に、あなたにお願いがあるの」

「お願い? 何ですか」

「わたし、襲われたから、反撃したのだけれど、あなたが偶然、ここにきて、わたしを助けてくれたことにしてくれない?」

 洋司は、一瞬、何のことかわからなくなった。おれは門外漢だろう。どうして、この事件、いや事故に関係があるンだ。

「何も言わないで、わたしを助けて、お願いッ」

 美知は洋司の手を握り、彼を必死に見つめる。

 洋司は、美知に好意を抱いている。こんな場所で、こんな美女に強く見つめられたら……。頭がおかしくなってしまう。

 洋司はそんなことを感じながら、誤配郵便物を取り戻しにここに来たのだから、美知にとってはたまたま来たことには変わりはない。医師が歯科助手の女性に襲いかかっている現場に出くわし、止めようとした。だれでも、そうするだろう。正義の味方だ。

 洋司は、いいだろうと思った。そして、頷いた。すると、美知は洋司に顔を寄せて、彼の唇にそっとキスをした。

 その瞬間、洋司の運命は決まった。

 彼は、強く幸運を感じた。しかし、それが、悪運の始まりだった。

「コレを持って……」

 美知が何かを目の前に差し出した。と、救急車のサイレン音が聞こえる。

 洋司は、美知のネットリと濡れた唇を見つめたまま、差し出された物は見ようともせずに、手に取った。

 それは、ズシリと重かった。洋司はその重みに不審を覚え、そこで目を手元に落とし、初めてその物を見た。

 それは、水道管などを回す際に用いるパイプレンチだった。先端に、かすかに血の色がにじんでいる。

「こ、これは……」

 洋司の問いに、美知は、

「この前、水道の工事屋さんが来たのだけれど、忘れて帰ったみたい。それがここにあったものだから、わたしは先生に反撃するのに、思わず掴んでしまった……あとはわかるでしょ……」

 と言っている間に、3名の救急隊員と、その後に数名の警察官がドカドカとクリニックに入って来た。


 その後、警察の取り調べで明らかになったことだが、被害者の歯科医の布山は、勤務する女性に手当たり次第言い寄り、反応の好し悪しにかかわらず、関係を迫っていたという。

 しかし、襲いかかった女性から反撃を受けたのは、今回が初めてだったらしい。もっとも、今回は偶然居合わせた洋司が、美知を助ける形で反撃したことになった。

 洋司も美知も、そう証言した。

 ところが、事件から、10日後、歯科医の布山はレンチの傷がもとで死亡してしまった。

 この結果、洋司は傷害致死の罪で起訴された。正当防衛ではなく、過剰防衛とされたのだ。

 洋司は正当防衛で不起訴という思惑が外れ、美知の身代わりに被告となり、法廷に立たされた。

 事件は、洋司の予想外の方向に進展した。

 すなわち、洋司は最初から、歯科医を狙って、計画的に押し入ったとされたのだ。それには、美知の証言が強く働いた。

 洋司は取り調べにあたった刑事から聞かされたのだが、美知は次のように証言していた。

「予約の患者さんの治療がすべて終わり、私は治療室の後片付けをしていました。いつもの手順で、器具と器械を洗浄消毒して、床を掃除して……。そのとき、先生が不意に後ろに現れ、

『もう掃除はいいから……』

 とおっしゃって、いきなり羽交い締めされました。それでも私は、

『やめてくださいッ!』

 と叫び、何か身を守るものがないかと、後ろから抱きつかれたまま、夢中で辺りを見まわしました。と、手洗い台の下に、レンチが転がっていました。先日、やってきた水道の工事屋さんが、置き忘れていったものです。

 そこへ、

『どうかされましたか?』

 と言って、郵便配達の箱川さんが入って来られました。

 彼はすぐにその状況を見て、事態を把握されたのだと思います。

 私は、彼に、目で、転がっているレンチを示しました。彼はすぐに手洗い台の下から、レンチを掴み、先生の背後に回ると、先生の後頭部めがけて、レンチを振り下ろしました」

 洋司は美知の身代わりになることを承知していたから、この証言はいい。しかし、その後の証言は、洋司の想定外だった。

「箱川さんは、以前からわたしに好意を寄せてくださっていることは薄々感じていました。そして、わたしも、箱川さんに対して一度、『先生が怖い、もうすぐやめるつもりです』と、話したことがあります。ですから、箱川さんは、重いレンチで、必要以上に先生を殴りつけたのではないか、といまは感じています」

 それは、ないだろう。解剖医が、通常の殴り方ではない、と鑑定したため、それに合わせる証言なのだろうが、身代わり犯人の洋司にしてみれば、どうして過剰防衛なンだ。おれは何もしていない。それだけ罪が重くなる。ぼやきたくなるのは、当然だ。

 洋司は、美知の本心を知って、法廷では、一転無実を主張した。すべて、美知に頼まれたこと、だと。

 もう、いくら美知が美人でも、かばってなンかいられない。美知は洋司を利用できる男としてしか、見ていなかったのだから。

 しかし、状況は洋司にとってはよくなかった。

 洋司がクリニックを訪れた口実の誤配郵便物が、旅館の広告ちらしを入れただけの、彼自身が作った偽郵便物であることが暴露された。それは、実際、洋司が工作した事実なのだから、仕方ない。そして、美知に思いを寄せていたことも。

 洋司は、一貫して無実を叫び続けた。しかし、途中から、検察側の証人として出廷した正史の証言が、洋司にとってはさらに不利に働いた。

 当時大手便利屋の社員だった正史は、

「被告とは、そのクリニックで卒業以来10年ぶりに再会したのですが、彼は美知さんが好きだとよく言っていました。被害者が美知さんに言い寄っていることに腹を立て、いつか、注意しないととんでもないことが起きる、と言ったこともあります。被告は元々、こらえ性のない人間ですから、抑えがきかなかったのだと思います」

 と、証言した。

 この結果、正史の証言は、洋司の犯行動機と計画性を立証するものとして、重要な意味をもつことになった。

 しかし、洋司の主張は変わらなかった。唯一の物証である凶器の指紋についても、美知に頼まれて、凶器を握り、指紋を付けてしまった、と正直にありのままを供述した。

 ところが、事件は意外なところから、ほぐれ始める。

 事件発生から1年半が経過した頃だった。

 布山歯科医の妻、雪美(ゆきみ)が、警察に出頭し、自分が真犯人だと名乗り出たのだ。

 洋司は、否認を続けていたため、裁判が長引き、拘置所に収監されたままだった。

 雪美の供述はこうだ。

 雪美は、ふだんから夫の性癖に苦しんでいた。夫の布山は、見境がないというか、歯科助手に採用した女性には、必ずといっていいほど、診療後、言い寄り、関係を迫っていた。もちろん、面接では、彼好みの若い女性しか採用しない。しかし、助手の女性は、そんな医師を嫌い、3ヵ月とたたないうちにやめてしまう。

 患者はそういった医師の行動には敏感だ。当然、クリニックの評判は落ち、患者が来なくなる。まして、歯科医の数はコンビニよりも多いといわれる時代だ。最近では、布山クリニックに患者が来るのは、1日によくて5、6名。それも、ほとんどが高齢者。若い女性は、悪評をききつけ、敬遠している。

 雪美は、歯科助手がすぐにやめるから間違いはおきないだろうとタカをくくっていた。

 ところが、美知は3ヵ月を過ぎてもやめない。美知はこれまでの歯科助手に比べると、年齢がひと回りも上の34才。それなりの、人生を送ってきたのだろうが、布山は美知にいままでの助手にはない魅力を感じていた。

 だからこそ、年を食っている美知を採用したのだが、布山は美知にだけは軽率な行動は慎もうと、殊勝な気持ちになっていた。じっくり時間をかけて、出来れば美知のほうから、誘いのことばがかからないものかと考えたりもした。

 美知が数ヵ月で布山クリニックをやめなかったのには、いろいろと事情がある。勿論、布山が慎重で、いやらしい行動に出なかったこともある。しかし、院長の評判は待合室の患者どうしの会話で、すぐに知れる。もっとも、噂は、すぐには信用できない。見た目の布山は、紳士だったから。

 美知が布山クリニックに留まっていたのには、ひとつには給与が他に比べて格段によかったことがある。それは勿論、布山が美知にやめられないようにと配慮した結果だ。もう1つ、患者のなかに、美知好みの男性がいたことが大きい。

 ともあれ、雪美は、3ヵ月を過ぎても夫のクリニックをやめない美知に、疑いを持ち始めた。それまでの助手より、年上という点も、美知に対して、疑いを増す材料になった。

 そして、雪美は、夫がノートパソコンに記している日記を見てしまった。

 そこには、「診療日記」というタイトルで、診療室でのこまごまとしたことが書いてあった。

 治療の失敗をはじめ、治療器具の破損や紛失についてなどだ。

 そして、美知についても触れていた。それまで、布山の日記に書かれた助手はいなかった。

「こんどの助手は離婚歴がある。しかし、まぶしいほどだ。刺激があって……。きょうは特に。美知が誘うような目をした。こんなことは初めてだ。若い女性から、優しい目で見つめられることなど、結婚以来なかったことだ」

 それは布山の全くの思いこみ、誤解だったが、彼は美知から関心をもたれていると思い込んだ。それが、彼の悲劇につながった。

 事件があった日、布山が最後の患者を治療中、彼が器具を洗浄するため、その場を離れたすきに、美知は診療台に寝ている若い男性患者の手に触れ、小声で、

「今夜、いつものところで待っているから……」

 と、ささやいた。

 布山は目敏く、その現場を目撃した。彼はたちまち頭に血がのぼり、理性をなくした。

「きょうはこれで治療を打ち切ります。お帰りください」

 そう言って治療を中断して、その患者を帰した。

 残された布山と美知の間に、気まずい空気が流れる。

「キミ、いまの患者とどういう関係なンだッ」

 布山はマスクを外し、白衣を脱ぎ捨てると、堰を切ったようにまくしたてた。

 美知は、

「弟です。月に一度一緒に食事することにしているのです。それが今夜です」

 と、答えた。

 しかし、布山の怒りは収まらなかった。

「患者を誘うとは何事だ。ここは、歯を治療する神聖な場所だ。その神聖な場所で、色恋を演じるとは、けしからン! キミのような女性は、もう、もう……」

 布山はそう言いながら、美知に正面から、むしゃぶりつくように襲いかかった。

 美知は必死で抵抗する。美知は見かけに寄らず、腕力がある。水泳で鍛えた筋力は、伊達ではない。しかし、布山の力のほうが勝った。

 そのとき、治療室のドアが開いた。布山はドアを背にしていたが、美知にはその人物が見えた。

 布山の妻の雪美だ。雪美は信じられないものを見たという表情で、バッグからパイプレンチを取り出した。そのレンチは、数日前、彼女の家を訪れた水道屋が忘れて行ったものだ。雪美は、こういう事態を予測していたわけではない。美知を脅す目的で、バックにしのばせてきたに過ぎない。

 雪美は、治療台に押しつけられている美知を見つめながら、夫の背後からその後頭部目掛けて力一杯レンチを振り下ろした。

 雪美は、犯行後、呆然としたまま、言葉を発せず、そのままドアから出て行った。

 その後は、美知が洋司に話した通りだった。美知が救急車と警察に通報し、近くの薬局で応急手当するための薬と包帯を買って戻ると、洋司が誤配の処理に訪れていた。そこで美知は、咄嗟の思いつきで、彼に犯人役を頼んだ。

 雪美の供述を立証するのに、3ヵ月近く要したが、洋司は事件から2年後、ようやく無罪放免になった。

 事件のあった日、美知が「今夜、いつものところで待っているから」とささやいた相手は、本当に彼女の弟だった。

 バイトして自費で大学に通っていた彼女の弟は、時折姉の職場を訪れ、カロリーたっぷりの食事を奢ってもらうことを楽しみにしていた。

 一方、美知が好意を寄せている男性とは、正史だった。2人は、順調に交際を続けている。事件が2人の足かせにならないようにと、美知は洋司を巻きこんだが、それについて2人は深く反省している。

 

 正史は、中華料理店で洋司と向き合うと、覚悟を決めてすべてを告白した。事件が起きる前から、美知とは深い関係にあったこと。そして洋司には、何も知らせずに、法廷では洋司に不都合な証言したことを。

 美知が雪美の犯行を隠したのは、ふしだらな夫を持った彼女に深く同情したためだった。

 美知の亡父は、布山に輪をかけた女道楽で、美知の母をいつも泣かせていた。母はいま、夫を亡くして、秋田でひとり穏やかに暮らしている。

「わかった。そういうことなら、なぜもっと早く話してくれなかった。おれだって、彼女のことを諦めたのに……」

「おまえに、それができたのか?」

 正史は、事件の全容について打ち明けたあと、そう言った。

 美知と正史の関係は、裁判でも出なかった。

 洋司は、このとき初めて、正史の口から聞かされた。

 洋司は、1度好きになった女性を見限るのは苦手だ。相手から、こっぴどく罵られないかぎり、無理だとわかっている。

「わかった。そういうことなら」

 正史は、洋司をひとり残して、中華料理店を出ていった。

 おれはどうすればいいンだ。洋司は、ポツンとひとり取り残された。これから先……。彼には、何の計画も目算もない。正史と一緒に便利屋をやろうと考えていたが、そのことを言い出せる雰囲気ではなかった。そういう気持ちもすでに失せている。

 郵便局はすでに懲戒解雇されている。新しく仕事を見つけなければいけない。

「どうされたンですか?」

 洋司が声のしたほうを振り仰ぐと、ウエイトレスのひかるが、明るい笑顔で、洋司を覗き込んでいる。

「ここで求人募集をしていますか?」

「働くの?」

「はい、もし、ぼくにでも出来る仕事があれば、ですが……」

「待って……」

 ひかるは、小走りで厨房のほうに消えた。

 やがて、小太りの中年男性を伴って戻ってきた。

「店長、こちらが求人に応募したいという方です。お名前は……」

「エッ、はい、箱川洋司といいます」

 店長は、鋭い一瞥をくれたあと、

「いいですよ。尾田クンが推薦するひとなら、間違いない。今日からでも……」

「エッ!?」

 洋司は、店長の後ろで、ニコッと笑みを浮かべ、片目をつぶって見せたひかるを目にして、パーッと運が開けていくのを感じた。

 これまでは、ロクなことがなかった。これは神さまからのささやかなお返しなのだろう、と。

                     (了)

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