その子はみち子

鹿

第1話

その子はみち子という名前だった。

両親が不仲で、登校拒否気味の妹と、スポーツマンの弟が1人ずつ。

両親は共に高校教師で、厳格な家庭で育つ。

みち子いわくの、スパルタ教育にて、進学校を目指すも受験に失敗。

それでも、滑り止めのこれまた進学校に合格。

でも、それは親に好かれたかったからだった。

本当は、絵を描く事を仕事にしたかったから、進学校に行き、有名大学に行く必要等ない。

勉強は二の次で良くて、美術部で思い切り絵の勉強をしたかった。

そして、専門学校に行って、自分の将来を決めたかった。

でも、加賀家では、そういう事は許されなかった。


長女のみち子は両親の愛情を受けずに育った。

何かといえば、体の弱い妹や、明るくて友達にいつも囲まれている弟に両親の愛情は向けられていた。

みち子は、地味で真面目な中学生だった。

髪が黒くて、ぽっちゃり・・・もっさりしてて、眼鏡をかけて暗かった。

友達と呼べる人もあまりいない。

本と音楽が好きで、一人で絵を描いていればいつのまにか日が暮れる。

一人で遊んでられるのだ。

遠方の友達に、イラスト入りのハガキを送ったり、愛するお婆ちゃんに、近況報告を漫画で送ったり・・そんな日々がみち子の全てだった。


 そんな日々が、壊れていったのは、高校に入って間もなくだった。

以前から、予知はあった。

母親が酔っ払って帰宅。

「ママ、また飲んできたの・・?今日は誰と?」

「あれ、まだ起きてたの?勉強してたの?今から勉強しないと、今度は大学に落ちるよ。ママはもう寝るから、みち子も寝なさい。」

「ママ、聞いて・・・学校に行きたくない・・・あと、最近なんか変なの。」

「何の事よ。私立行かせてお金かかるんだから、冗談でもそんな事言わないで。勉強してれば何とかなるから、ママをこれ以上がっかりさせないで。」

「・・・・・・・。」

話を聞いて欲しくても、いつもこの調子。

みち子はなんとなく、気づいている。

母親は浮気をしている。

酔って帰って来ると、ママはいつも自分を遠ざけようとする。

自分の罪に気づかれたくない。

余韻に浸りたい。

どちらかわからないけど、どちらかには当てはまるだろう。

みち子は子供ながら、気づいていた。

大人が浮気するって事は、セックスしてるって事かな・・。

みち子はまだ経験がないから、本とか映画の中でしか、それを知らない。

でも、自分の母親が、自分の父親に抱かれているの想像するのも気持ち悪いのに、知らない男に抱かれて帰って来るのもすごく気持ち悪い。

それだけは、ぼんやりと、わかっていた。


母親は話を聞いてくれない。

自分はなんだかわからないけど、本当に変なんだ。

頭の中にもやがかかったようで、毎日毎日、授業を聞いても自分が何をやってるのかさえわからない。

昨日なんて、体育が終わった後の授業に、着替える事を忘れてジャージで次の授業を受けていた。

でも、友達がいないから、皆クスクス笑ってるのだけが、どこか遠くで聞こえただけだった。

最後のホームルーム終了後、担任に呼ばれて、制服に着替えて帰るようにと言われてやっと気づいた。

昨日は体育は2限目。

ホームルームは6限目。

昼休みさえ、どう過ごしたのかわからない。

これって、アルツハイマー?

でも、みち子はまだ15歳。

早すぎるけど、そういう事?


よくわからないから、お婆ちゃんに言えば何とかなるかもしれない。

父親は母の言いなりだから、どうにもならない。

大人でみち子の味方はお婆ちゃんだけだった。


お婆ちゃんに電話をかけてみた。

お婆ちゃんは同じ市内に住んでいるのだが、交通の便が悪い場所に住んでいる為、休みを1日潰さないと会う事が難しいのだ。

「とぅるるるるる・・・・・・・。」

あ、お婆ちゃんはもう寝てる時間だ。

時計を見ると、夜中の12時を過ぎている。

明日は学校に行くふりをして、お婆ちゃんの家に行ってみようかな。

そう考えると、頭の中が急にハッキリしてきて、夕ご飯を食べてない事とか、セーラー服をまだ着ている事に気づいた。


一応、担任には風邪をひいたという事にして、休む電話を入れた。

担任が席にいなかったから、電話に出た事務?の人に伝えた。

みち子の家からお婆ちゃんちは、かなり遠い。

遠いというか、交通の便が悪いのだ。

まず、バスに乗って駅まで行く。

そこから電車を2本乗り継ぐ。

そこから、本数の少ないバスをじっと待つ。

道中、お婆ちゃんの好きな、しゅーくりーむを買う。

2個。

お婆ちゃんは一人暮らしだから、いつも1個ずつ食べて、紅茶を飲む。

そして、だらだらと最近あった出来事を面白おかしく聞かせる。

お婆ちゃんといると、みち子ばかり喋っている。

家でも学校でも、全然喋らないのに、ここでは、喋る。

お婆ちゃんはものすごい聞き上手で、心地良い相槌を入れてくれたり、大笑いをしてくれる。

本当は、面白い事なんて、ひとつもないのにね。

嘘ばっかり。

みち子が嘘をついているのに、お婆ちゃんは気づいているのかな。

それでも、いつも優しく受け入れてくれる。

あのママの母親とは思えない。

でも、どうやら、本当に母親らしい。

お婆ちゃん・・・もう近くまで来てしまったけど、お婆ちゃんいるかな?

ふと、考えた。

たまに、俳句とお花の会に行ってるけど・・・大体昼には終わってるって言ってた。

時計を見ると、11時ちょっと過ぎ。

いなかったら、家の前で待ってよう。

でも、そのまま会のお友達とお茶を飲んだりも行ってるよ、って前聞いたかも。

それならそれでいい。

くーっ

お腹がなった。

そうだ、今日はママの学校が創立記念日で休みだから、ママが起きて来なくて朝ごはん抜きだったっけ。

みち子はご飯を自分で作れるけど、最近は全く作らない。

お腹は減るけど、痩せたくて、目下ダイエット中。

なのに、手元にはしゅーくりーむ。

矛盾。

考えてみると、自分は矛盾だらけの中に生きていると思う。

行きたくない学校に行き、やりたくない事をやっている。

そして、やりたくない事を仕事にする大人になる。

ママはみちこより早く死ぬ。

なのに、残されたみち子はやりたくない事をやって、生計を立てる。

何か、おかしい。

じゃあ、自分で決めた通りにすれば良い。

そしたらきっと、自活を強要されるはずだ。

今の私が自活出来る仕事に就くことが出来るのか。

出来なければ、ママの言うとおり、矛盾の中で生きるしかないのだろう。

がんじがらめ。

お婆ちゃんに相談したところで、一時の気が晴れるだけ。

何も変わらない。

それよりも、今日も授業は進んでしまった。

学校の授業のペースは、進学校なだけあって、凄いスピードで進む。

ぼーっとしてると、気づけば5ページ先まで進んでる。

どちらにしても、最近ぼーっとしてるから、行っても行かなくても同じかな・・・という結論にとりあえず達した。

お婆ちゃんは帰って来ない。

玄関の軒先で、ノートにずっとスケッチしてたら4時をまわっていた。

5時間待っても、お婆ちゃんは、帰って来ないし、そろそろ帰らないとマズイ。

すごすごと帰ることにする。

しゅーくりーむの空き箱を抱えて。


 家に帰ると、ママが仁王立ちで待っていた。

「みち子!!学校サボってどこ行ってたの?」

「・・・・・お婆ちゃんとこ。」

「何しに行ったの?山川先生が、風邪大丈夫かって電話くれたからわかったものの、この不良娘が!!」

不良って・・こういうの、不良なのかな・・。

髪も黒いし、特にそういう感じもしないけど・・・。

「とにかく、お婆ちゃんに何の用だったの?ママに言えば良い事でしょう。」

「ママ・・・昨日、ママが酔っぱらって帰ってきた時に、相談したら、聞いてくれなかったよ。」

「あんな夜中にあれこれ言われても、困るわよ。」

「じゃあ、聞いてくれる?」

「いいわよ・・。」

ママはすごく面倒臭そうだった。

でも、チャンス。

「最近、何をしてても頭がぼーっとする。こないだも、どこをどうやって歩いて帰って来たのか途中からわからなくなって、途中で人に道を聞いた。そしたら、その道はいつもの道だった、とかご飯を食べ忘れたり、2回食べたりしてる。気づくのは、大分後。アルツハイマーなのかな?」

ママの顔色が変わった。

「後は、どんな事?」

心なしか優しい。

急に涙が出てきた。

「ぼーっとするというか、頭の中にもやがかかってる。ご飯が粘土みたい。でも、食べたり、痩せたいから吐いたりしてる。もっと色々ある。」


「病院に行きましょう。明日、ママも学校休むから。」

「みち子、病気なの?」

急に怖くなった。

死んじゃうのかな・・・・・死んでも良いけど、もう少し、楽しい事あってからにして欲しい・・・。

「簡単な薬を飲めば、すぐ治るわよ。」

何の病気かな・・・でも、ママがみち子の事を真っ直ぐに見てくれて、みち子はすごく嬉しかった。

それだけで、頭の中の霧がすーっと晴れて行くような気がした。


 「少し、入院しましょう。」

連れて行かれた病院は、精神病院だった。

みち子の話を、じっと聞いていた40歳くらいの女の先生が言った。

「娘さんは、検査が必要ですし、疲れているようだから、様子を観たいので。」

「娘は何の病気なんですか?みち子がそんな入院するような病名のはずはありません!!少し鬱っぽい感じなだけじゃないですか!!」

ママは何故か、憤慨している。

入院は嫌だ。

さっき、待合室で居た時に、変わった人が沢山いた。

独り言をずっと言ってる人が数名。

みち子をジロジロ見て、にやにやしてるおじさん。

色彩がちぐはぐな組み合わせの服装をしている派手な女の人。

何ていうか、言いあらわせられない奇妙な感じの人ばかり。

その人達と同じなのかな?

でも、何か違うような気もするし。

先生とママが何か、言い合いを始めた。

また、霧が濃くなる。


気付くとみち子は病室のベッドに寝ていた。

強制的に入院になったようだ。

ママがいない。

急に悲しくなり、おいおい泣きだしてしまった。

しばらく泣いているとどこからか声がした。

「ね、なんて名前?」

カーテンの向こうにもう1人いたのだ・・。

恥ずかしい・・・。

「みち子。」

「ふーん。アタシはラン。入院したくないとか言って泣いてるけど、入院も割といいもんよ。仕事しなくていいし、本とか読めるし。まあ、不便なのは、ハサミとか針とか持ち込み禁止だから、手芸とかは出来ないけどね。」

みち子は急に自分が大人扱いされたみたいで嬉しくなった。

涙はもう出ない。

でも、泣いて顔がぐしゃぐしゃだから、カーテンを開けて、挨拶する事が出来ない。

「・・・ランさんはなんで入院してるんですか?」

「わかんない。病気だから?」

ランはそう言って、いきなり笑い出した。

頭がおかしいのかな・・・そういう病気って事?

みち子もそうなのかな・・。

「みち子、あたしタバコ吸ってくるね。」

勝手に呼び捨てされて、ランは部屋からいなくなった。

不思議・・・でも、嫌いじゃないかも。

ランさんはいくつか知らないけど、大人なのは確かだし、こういう感じなら入院してみてもいいかな・・。

さっきロビーであった人とはちょっと違う感じ。

でも、まだ顔も見てないし・・。

みち子も見せてないか!

そう気づくと、急に何だか馬鹿らしくなって1人でクスリと笑い出した。

あれ・・これって病気なのかな???


 それからは、色んな検査が始まった。

ロールシャハテストとか、箱庭療法とか、良くわかんないけど色んな事が組み込まれた入院生活。

でも、ランさんにその都度報告?してると、気が楽になった。

「アタシも、やったよー。」

「ランさんて幾つ?」

お風呂も一緒に入ってるし、ご飯も一緒に食べている。

みち子が寂しくて、ランさんのベットに潜り込んで一緒に寝たのは数知れず。

けど、いくつか知らなかった。

顔がきつくて、やせ形の、いつもイライラしてるくせに、何か優しい人。

そんな人。


「28歳。」

「何してたの?」

「うむ・・・。こないだまで東京にいたよ、でも、なんか変だから親に言ったら、ここに居る・・・おかしいよね・・・アタシ、入院するほどなのかわかんない。アタシのドクターはみち子のと違う。あの人、何か客作って点数欲しそうだからさ。」

ん。。点数って何だろう。



とにかく。

彼女がいてくれて助かった。

へんな色彩の服を着たり、わけのわからない文句を言って唾を吐く住人と異なる。

一緒に寝てくれるし、抱っこもしてくれる。

お風呂も一緒。

ご飯はあんまり食べない。

みち子よりかなり痩せてるのに自分を太ってるっていう。

たぶんそういう病気なのかな。

病名は六個あるって言ってた。

でも、そんな感じはしない。

よくわからないけど、普通???



ランさんはママが嫌い。

ランさんは好き嫌いが激しい。

みち子は好きだけど。ママはいけ好かないらしい。

こういうことって、こんなにハッキリ言うものなのかな。

彼女はやっぱり変わってる。

人格障害が一番ひどいみたいだ。

でも、そういうの、みち子あんまりわからないし、普通に見える。


そう、普通に。

いつも部屋で体操をしたり、廊下をぐるぐると歩いてる。

太りたくないんだって。

おデブのみち子に言わせると、痩せすぎ。

でも、そういう病気もあるみたいだから。

みち子は色々な事がまだまだわからない。


ある日、おやつにケーキがでた。

久しぶりのショートケーキ。

ランさんはそれを憎々しげに握りつぶした。

そして、鉄格子の隙から捨てた。

意味がわからなかった。

でも。

なんとなくわかる。

憎かったのかな。


みち子の霧は晴れる。

病院ではみち子はランさんに。おんぶにだっこ。

でも、ランさんは良いって言ってくれる。

好きにせよと。

相手が良いと言うなら、良いのだと言う。

じゃあ、ダメって言われたらダメなの?って聞いた。

その時はね、時間を置くと良いに変わることもある。

だから、諦めたり落胆する事は無い。

時期が違うだけだから。

大人ってこういう考え方を言うのだろうか。

みち子は入院してから、色々な事を考える。

今まで考えていたこともあるけど、ランさんに話すと意見をくれる。

違う角度から物を見るのは大事とのこと。

そういうものみたいだ。

確かにそうだ。

みち子は今までママを嫌だと思いながら、好かれたくて仕方無かった。

好かれるように生活をしていた。

この後はどうするのかな。

学校には行ってない。

かれこれ、もうここでの生活も慣れたもので、3か月にはなろうとしている。

テストも終わり、夏休みになる頃だ。

毎日、カウンセリング、体操、ランさんとお喋り、日常の細々したこと。

たまにママが面会。

パパ達は来ない。

ママは来ても、本と洗濯物の入れ替えをしてくれるだけで、特段話はしない。

そそくさと帰る。

仕事の合間に来てくれるからそうそう文句も言えない。

でも、仕事が終わってからでも来れそうなものだけど。

高校教諭は何時まで仕事なんだろう。

一度ママの事をランさんに話した事がある。

ランさん曰く

「浮気でもしてんじゃないの」

ズバリ当てられた。

一度も話した事は無いのに・・。


狭い喫煙ルームで煙草を吸う。

今はラッキーストライク。

パッケージが気に入っている。

気に入らないのは、べちゃべちゃ喋ってる人たち。

内容は、生活保護の金が入らない、とか病気なんだからもっと面倒見てほしいとか

理解出来ない事を話している人たち。

病気を盾にとり、働こうとなど考えもしない。

如何に楽をして、楽しく生活をするのか。

内容はそんなことばかり。

生活保護費はパチンコや競馬に消えていくようだ。

そんな生活をするくらいなら、アタシは死を選ぶ。

ランはくわえ煙草で腕組。

目を閉じて、ゆっくり肺まで煙をいれる。

ラッキーストライクは藁のような香りが気に入っている。

ここに長居すると腐る。

煙草部屋を出て、真っ白で清潔な廊下をゆっくりと歩く。

窓には鉄格子。

もう、見慣れた風景だ。

鉄格子はなぜ必要か。

逃げる人等いるのだろうか。

理由は様々ではあるが、隔離生活にある程度満足をしているはず。

自分の場合は、霧が晴れない。

透明の箱に入っている感覚は消えた。

衝動性もない。

ここでは暮らしが穏やかなので、衝動的になる必要がないからだと思う。

また世俗にまみれた下界に戻ればどうだろうか。

考えても仕方ないから、思考を止めた。

鉄格子の隙間。

隙間からは緑が見える。

へばりついて、外の緑を眺めるのが日課。

今日は天気が良い。

布団を干して、ぬくぬくとフカフカ、太陽の匂いを思いきり吸い込みたい。

入院生活に不満は無いけれど、そういう自由が無い。

入浴日が週に三日であることは、我慢出来る。

自殺予防の為に、針・ハサミ・カッター・ベルト等が持ち込めないのも、まあ仕方がない。

窓の開閉が自由に出来ないのも気に入らない。

一日に数回看護師が、見回りに来るので空気の入れ替えを頼む。

気持ちよく応じる看護師は少ない。

ここの病院はアタシのドクター以外は不親切である。

同部屋のみち子はまだ高校生のため、たまにグズグズ泣いている。

そこに通りかかった看護師は見なかった振りをする。

舌打ちをした看護師もいた。

アタシはいいけど、みち子は気の毒だ。

まだ幼い。

だから、アタシは彼女が求めれば一緒のベッドにも入るし、たまに抱きしめてやる。

みち子は結構大きい。

アタシはまあまあ痩せている。

だから、なんだかバランスが悪い。

でも、それで彼女が泣き止むのなら、それでいい。

たまにしてやる腕枕に関しては、難しい。

みち子は頭も大きいから、アタシの腕は折れそうになる。

みち子は気づかず、甘えてくるからそういう時は黙っておく。

部屋に戻ろうと、回れ右。

時計は部屋を出てから1時間ほど進んでいた。

何もしてないのに。

毎日こうだ。

何もしてないのに、時間だけは過ぎていく。

アタシがここに来て、半年が経過した。

霧は晴れないが、そろそろここにはいられなくなるだろう。

そもそも、精神病院に入院するには、よっぽど重度じゃないと、許されない。

恐らく、精神病院に入院していたというレッテルを貼らないように通院でなるべく済ますのかと推測。

でも、あくまでも推測。

部屋にはみち子の姿は無かった。

今日は診察日か。

一日おきのカウンセリング。

お題は様々。

アタシの明日のカウンセリングのお題は、「両親との関係性」これについては、何度も何度も先生と話した。

答えは出ない。

先生がどのように感じてるかは、わからない。

でも、かなりのセッションを繰り返したので、先生は何かわかってるのだろう。

アタシにはサッパリ、わからない。

自分の事が一番わからない。

また霧が濃くなる。

ベッドに横になる。

白くて清潔なベッド。

唐突にここに来る前の生活を想いだした。

ここに駆け込む前の生活。

ボロボロのアパートに女友達と暮らしていた。

駅は麻布十番。

住所を人に知らせたくてたまらない彼女は、やたらとショップの会員になる。

個人情報を記入する。

住所に反応する店員に優越感をもつために。

ボロボロの激安アパートなのに。

トイレは和式。風呂はまともに機能しない。

建物全体が傾いている。

そこに彼女は、ウサギと暮らしていた。

アタシは何故かそこに、居候することになったのだ。

友達がいなくて、寂しい彼女に引き込まれた。

彼女は雄のウサギの小さなペニスをよくしごいていた。

白い精子が出るたびに、アタシはどんどんウサギが嫌いになった。

放し飼いのため、せんべい布団にはいつも、尿と正露丸みたいな糞が散乱。

彼女がいない時、アタシはウサギを虐めるようになった。

耳を引っ張ったり、枕で挟んで放っておいたり。

ウサギは彼女がいないと、アタシの足に股間を押し付けてきた。

しごいて欲しいのだ。

アタシは気持ちが悪くて、その度にゾッとした。

彼女はアタシを自分で呼び寄せ、働かなくても自分はタップリ稼いでいるから、当分面倒をみると言っていた。

仕事には行っていたが、真に受けて、家探しをしないアタシに辟易した様子。

なんだかよくわからない内に、アタシは今度は社宅に入る。

頭がついていかない、体だけがあちこちへ、動いている。

不潔な布団から、安い化繊の布団に変わったのが救いだった。

アタシはあれからウサギが嫌いになった。

社宅での生活は悲惨だった。

何もない。

やることがなにもない。

いつも頭がぼーっとしていて、かすんでいる。

会社に行っても、特に仕事が無い。

いつもデスクに座ってるだけ。

朦朧と過ごす中、週末だけ神保町の喫茶店でバイトを始めた。

ここでのアタシは頭がハッキリしていて、生き生きと働く事が出来た。

なぜだろう。

香り高く、かぐわしい珈琲の香り。

お客さんは皆、のんびりと読書。

そんな雰囲気に、心から癒された。

アタシは平日の自分とは別人で、生き生きと働いた。

こういう仕事は良い。

生活費が稼げるなら、こういう仕事につきたい。

健康で、文化的な仕事。

単純で人に喜ばれる仕事。

お客さんとの会話が楽しい。

しばらく働いていると、常連さんと話す事が出来て、とても楽しい。

普段の事務仕事が退屈でたまらない。

ましてや、彼女の愛人が社長の会社。

彼女は、職場でアタシを無視する。

話しかけるとやたら慌てる。

彼女はアタシが明るくハキハキと働くと思っていた。

しかし、アタシは暗く、無気力だった。

何も考えられず、朦朧としていた。

これって、精神病なのかな・・。

病院に行ってみることを考えて、一日中インターネットで検索をした。


そして、そこで様々な病名がついた。

アタシは北海道の実家に連絡をとった。

一度は捨てた実家。

親はアタシが蒸発したと考え、探すのをやめていた。

でも、もうどうしようもなかったのだ。

頭の中に霧がかかり、透明なガラスケースに入っている。

歩くとケースは自動的についてくる。

手を伸ばしてもそこからは出られずに、コツンとケースの端にあたる。

なんなんだろう。

鏡を見ると、ケースなんてない。

ぼんやりと、鏡の中の自分は歪んで見える。

田舎から出てきた母親は病院で泣き叫んだ。

精神病院の不思議なところ。

誰が医者で誰が患者で家族かわからない。

患者がドクターに見えたり、色々。

面白いけど、面白くない。


泣きたくなる。


訳がわからなくなり、泣きたくなる。

誰を頼れば良いのかわからない。

迎えに来たはずの母親は、泣いてばかりで全く役に立たなかった。

あげくの果てには、医者の足につかまり、診断を変えるまで離れないと医者にくらいついていたのは覚えている。

どうやって、帰ったのかは全く覚えていないが、アタシが連れて帰ったと思う。

夜になれば、暗闇が怖い、自分は田舎からひとりでランを迎えにきてすごいでしょ等わけのわからない事を口走っていた。

迷惑な話。

アタシは本当にこの女から生まれたのかと、ゲッソリした。


そのまま、今の病院へ。

アタシのドクターは、「君のお母さんの方が、治療が必要かもね」と後にポツリとつぶやいた。

色々な事があった。

今、ここでの生活は良い。

仲の良いおばが見舞いに来た。


「ここに入ってやっと休めると思った」

「実家じゃなくて?」

「実家でくつろいだことなんかないよ」

 

おばは静かにアタシを抱きしめ、静かに泣いた。

アタシは泣かない。

涙なんてもう出ない。

アタシは乾いてからからだ。

アタシの眼球はバキバキで、瞬きも辛い。

でも、それで良い。

涙なんて出ない。

涙を出すアタシもいらない。


そうこうしている内に、みち子は退院することになった。

下品な母親が迎えにきた。

恐らくまだ40代のはずだ。

くたびれたスカートは、白い原型を無くしていた。

煮詰まった番茶みたいな色。

こんな女が不倫等するものだろうか。

でも、みち子の話をつなぎ合わせるとそういう結論に達する。

よくわからない。

こんな汚い女が妻として、家族に包まれ

外に出れば、他の男に抱かれている。

笑っちゃう。

アタシは知らずと、ニヤニヤしたらしい。

みち子の母親が不思議そうにアタシを見る。


「ランさん、色々ありがとうございました」

思ってもいないくせに。

「自分は何もしてません」

これ以上ないといっていいくらい、冷たく言ってやる

母親は一瞬ギョッとするが、黙っていた。

みち子は心細そうだ。

この子は大丈夫か。

この先が心配だ。




















荷造りが終わった。

元々そんなに物は無い。

パジャマや下着、本は2冊。

身の回りの物。

お気に入りのハンカチは、ランさんにあげた。

彼女はいらない、と言ったけど、

昨日の夜一緒に寝たときに珍しく素直に、あのハンカチが欲しいとポツリと言った。

だからさっき渡した。

ランさんは照れ気味に受け取った。

「ありがと」 

彼女は言った。


会計を終わらせたママは、タクシーを呼んだ。

家には運転免許を持っている人がいない。

だから、こういう時はみち子の家はいつもタクシーだ。

病院から家までは、20分位。

今日から家での生活だ。

そういえば、学校はどうなっているのだろうか。

結局みち子は半年間、学校に行ってない。

かなり、勉強は遅れた。

もう、取り戻せないだろう。

そしたら、みち子はどうするんだろう。

高校も出ていない。

仕事も無い。

明日から、何をして暮らすのか。

検討がつかない。

でも、今日はゆっくり寝よう。

フカフカの布団で寝れる。

これだけでも、良い。


毎日、寝て起きて、ご飯を食べて、ランさんと文通。

本を読み、絵を描き、音楽を聴く、歌を歌い、映画を観る。

これがみち子の毎日だ。

毎日毎日。

不思議と飽きない。

ずっとこうして生きていたかのようにさえ感じる。

これに週一回のカウンセリングや、ママから頼まれた日のご飯支度等が加わる。

買い物とか・・。

平和な毎日。

頭の靄はまだある。

忘れっぽいのは、性格だったのかな。

退院しても、物忘れが激しかった。

ママは、やる気がないのだと罵った。

でも、みち子は何を言われても平気だった。

生きてる感じががしないから。


最近、リストカットをしている。

深くはやらない。

死ぬ気はないのだ。

生きてるか確認しているのだ。

白い筋が赤く染まる。

痛みは無いが、筋が赤くなると生きてると思う。

確認作業。

病院にいた時に、腕から脚から傷だらけの人がいた。

どうして、そんな事をするのかがわからなかった。

でも、今はわかる。

確認。

生存確認。

生きている証が欲しいのだ。

戸籍上は生きていても、実感が無いのだ。

今日はカッターを強く当て過ぎたようだ。

血が指を伝って、真っ白な太ももにポトリと落ちた。

「綺麗」

思わず声が出て、みち子は驚く。

自分の血をマジマジと見るのは、生理中位しかないかもしれない。

生理の血は、赤い部分とどす黒い部分とがまじり合っている。

こんなに綺麗な色ではない。

首からも、同じ色の血が出るのだろうか。

太ももからも。

乳房からも。

身体全部から鮮血を出してみたかった。

確認してみたかった。

でも、それはしないだろうと思った。

何故かはわからないけど。


枠からはみ出るのが怖かった。

普通に生きていられなくなるのが怖かった。

でも、普通ってなんだろう。

枠ってなんだろう。

はみ出るってなんだろう。

最近のみち子は、いつもいつも

「なぜ?」と考えている。

考えても考えてもどうしようもないことばかり。

しょうもなく、みち子にはどうしようもない事ばかり。

でも、考えてしまう。

暇だから。

時間だけがタップリあるから?


鏡をじっと見る。

肌艶は良いと思う。

髪の毛も黒々していて健康そのもの。

自分はどうして、学校にも行かず、家にいるのだろうか。

どうして、働きもせず、飯を食っているのだろうか。

健康な人は、学校に行くか働くかをする生き物だと思う。

健康じゃない人は??

頭が健康じゃないけど、身体が健康な人は???

誰にいうわけでもない。

頭の中でグルグルと渦巻く。


ああ、こんな時に隣のベッドにランさんがいたら

潜り込んで質問するのに。

彼女はみち子がわかりやすい答えをくれる。

納得するかはわからないが、とてもわかりやすい説明をしてくれる。

だから、それを聞くと安心する。

頭の靄が、少しハッキリするからだ。

生きてる感じがする。

人と心が触れ合って、生きてる感じがする。


ここに戻ってから、生きてる感じがしない。

誰とも心が触れ合わない。

機械的に用事を話すだけ。

ママはうっとおしそう。

パパはみち子を見ないふり。

妹と弟も見ないふり。

居ない人間のように扱う。

透明人間になった感覚。

ここにみち子はいるのに、みち子を透かしてテレビを見てる。

それとも本当に透けているんだろうか。

ここ最近、本当にみち子は頭がおかしくなったのではないかと思う。

病院に居る時より、数倍。

話す相手がいない。

挨拶する相手もいない。

寂しいとは思うけど、話したい相手はここにはいない。

ふいに、涙が出てきた。

ああ、みち子は泣きたかったんだ。

おいおいと。

声をあげて、泣きたかったんだ。

感情が溢れてきた。

生きてる感じがする。

泣いてるのに嬉しい??

なんだかまた頭が可笑しくなったのかと笑ってしまう。


今日はこの事を、手紙に書こう。

たった一人のペンフレンドに。

一人だけど、最高の友達だと思う。

まあまあの友達が10人いるのなら、ランさんがいるだけで良い。

だって、そうに決まってる。

彼女といると、自分が存在していても良いと思う。

自分の存在価値がハッキリする。

存在していて良いよ、と言ってくれているようだから。




高校の担任から連絡があったと、ママが高校に行くようだ。

みち子は来なくていいとのこと。

どんな話をするのか、本当は興味もあまり無い。

ママは仕事が忙しいのに、そんな暇はないとブツブツと文句を言っている。

でも、世間体があるので行くだろう。

担任とママは何を話すのだろうか。

もう高校には半年以上行ってない。

元々、わからない勉強はますますわからなくなってるであろう。

溜息が出る。

確かにこのまま休学にしておくにも色々問題があるのだろう。

みち子は結果が不安だった。

また学校に行かなければいけなくなるかもしれない。

しかし、そんな心配は必要は無かった。

ママは気に入らない顔をして帰って来た。


「高校は転校しましょう」

「え?」

「通信か、定時制。どちらが良い?」

「どっちでも良いけど、通い易いとこ」

「そう。希望は後はある?」

「希望・・・って?」

「進学校とか、そういうの」

「・・・進学するかわからないのに考えられない。卒業が出来れば良い。」

「確かにね・・・高校くらい卒業しないとね」


ママが珍しくまともな事を言った。

みち子もだ。

二人共まともであった。

こんな出来事は、先にも後にも中々無かった。

結局、通信を選ぼうと考えた。

学校に行き、狭い教室にいるのはしんどい。

みち子みたいな、ドロップアウト者も沢山いるだろう。

月に数回の通学とレポート課題。

これで単位を取っていくようだ。

それなら、なんとかなる気がする。

希望が出てきた。

ママは、みち子が有名大学に行かなくても、もうガッカリしないだろう。

とにかく、高校卒業という肩書さえ手に入れる。

これで、みち子もママも納得し、安心するような気がする。

結局みち子も打算で生きてるような気がする。

仕方ないが、世の中はそういうものかもしれない。

とにかく、高校さえ出れば、働いても良いし

好きな学校に行くのも可能である。

もう、訳のわからないプライドとか、有名なら良いという考え方は不要だ。

これに気づくと、頭の靄が一気に晴れた気がした。

とても喜ばしい出来事。

是非、ランにも共有したい。

だから、ペンをとる。

ペンを動かしながら考えた。

ランはいつ退院するのだろうか。

みち子の1週間後にやって来たのだから、そろそろ、退院しても良い頃なのかな。

でも、病気も違うし、どうなんだろう。

みち子にはまだわからない事が沢山ある。

ランさんは実はあまり自分の事を話さない。

問えば答える。

問わなければ黙っている。

みち子はいつでも喋っていたから、ランさんは話す暇が無かったのか。

それとも、単純に無口なのか。

少し考える。

みち子が子供だから、話をしなかったかもしれない。

結論としては、相談してもどうしようもないので言わないというところだろうか。

それか、何も考えてないか。

これは、当たってるかもしれない。

うん。

みち子は満足した。


ママがみち子を呼んでいる。

早速学校のことだった。

来週早々に、一度学校に行くようだ。

ママも一緒に行くとのこと。

私服で行くから、真面目そうな服を選ぶようにママに言われる。

ジーンズにTシャツで行こうと思っている。

れば高校生らしく。

そろそろ寒くなってきたから、パーカーもはおる。

高校生らしい。

友達は出来るかな。

前の高校では友達は、できなかった。

皆がガリ勉だったから。

ギョロギョロと隣の人の成績がどうなのかばかり気にしている。

こんなの、学校っていうのかな。

中学校の時は、隣の席の友達と手紙を回したり、消しゴムを借りたりしていた。

体育の前は一緒に着替えに行くし、帰りはコンビニでアイスを買い食いして帰ったものだった。

高校生は学校帰りに、服を見に行ったり、マックでお喋りしたり・・。

そういうイメージだった。

でも、そんなのは無かった。

学校が終わると、皆塾にまっしぐら。

あの人達は、また帰ってからも勉強している様子だった。

頭が下がる。

そりゃあ、進学校で有名大学に行く人が多い高校だ。

みち子はあの学校に割と良い成績で入学した。

でも、ガリ勉をしなかったら、成績はどんどん落ちていった。

クラスの中では真ん中より下くらい。

落胆するほど酷い成績でもない。

みち子はあまり気にしていなかった。

でも、ママの機嫌を取らなければいけなかった。

だから、どうにか良い成績を取らなければいけなかったのだ。

みち子はやれば出来る方だと思う。

塾に行かなくても、授業を聞いて、家で復習することで

成績は上った。

でも、ママは納得しない。

クラスの中で3番以内。

一学年は10クラス。学年で30番以内には入る事を必須と言い渡された。

だから、みち子はそれを達成し続けた。

それはそこまで大変な事では無かった。

あんなにガリガリやってる人も大差ない成績である。

みち子の調子がおかしくなったのと、成績は関係ない。

ママはそのまま、有名大学に進学してくれれば良いと思っていたから

それは、ある程度なら出来そうだった。

ただ、みち子は大学に興味が無かった。

出来れば美術系の専門学校に行き、絵の勉強をしたかった。

美大とは少し違う。

そんなに重々しいものは希望しない。

アルバイトもして、雑誌の挿絵なんかを書く仕事につけたら

良いな、と思っていた。

しかし、皮肉なことに今ならこの進路が叶うのではないかと思わず、ニンマリしてしまった。

少し、夢が広がった。

目標が出来た。

まずは、高校を卒業する。

アルバイトをしながら、絵の勉強。

みち子は、油とかよりもクーピーで自由に書くのが好きだ。

ポップなやつが良い。

病院でも、絵ばかり描いていた。

今も描いている。

誰かに評価をしてもらう事は、ランさんが初めてだった。

しかも、適格。

もう少し、〇〇な想いが伝わるようにしたら良いんじゃない?とか。

























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その子はみち子 鹿 @chi-sable

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る