「孤高」の主人公について
森山智仁
どうしてもそういうわけにはいかない
ベルセルク全巻を大人買いして、もうすぐ読み終える。
憎しみに塗り潰されて
プラテネスではハチが「一人で生きて一人で死ぬ」の旗を折られる。
『孤高の人』の加藤はかわいい嫁さんを貰う。
孤高の主人公たちも最後まで孤高というわけにはいかない。
『神々の山嶺』の羽生が岸ともアン・ツェリンとも出会わず、本当に一人きりのままネパールに消えたとしたら、お話にならない。
描写してもせいぜい数百字で済んでしまう。
一人で戦っている限り、基本的には「同じこと」を繰り返しているだけだからだ。
挑み、負け、工夫し、再び挑んで勝つ。
いろいろやっていてもドラマとして弱い。
ベルセルク第一巻、一切の仲間を拒絶する状態のガッツでは、戦士として早晩倒れただろうし、連載漫画としても長くは持たなかっただろう。
枯山水さえ時間帯や季節によって風合いを変える。
本当にまったく変化しないものを人はいつまでも見続けられない。
だから、孤高の主人公たちは、どうしても孤高でなくなる。
この件、実人生において孤高を志向する読者としては、いささかつらいものがある(笑うところである)。
お前それでは無理だよと言われているようなものだからだ。
失恋直後にラブラブハッピーソングを聴きたくないのに近い。
僕はガッツとは程遠く、友達や仲間に支えられて生きている。
コロナ禍でろくに会えないけれどたまのLINEやTwitterに救われている。
ガッツがLINEやTwitterに救われていたら彼はガッツではない。
しかし成し遂げようとしている事柄においては単騎である。
実に、何年ぶりだろうか。
心の底から怒ることがあって、何かと思えばそれはまったくもって自分自身のためだった。
その時思ったのだ。
「他人のために怒ってこそ主人公だろう」と。
ハンターハンターのミトさんが「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」と言っていた。
つまり僕は自分がとても大切で、自分を守ろうと生きている。
そんな主人公がいるだろうか。
いや、初期や一時期、そうであってもいい。
しかしまともな主人公たちは必ずその状態を「卒業」する。
他人のために怒るようになる。
彼らのような、家族(後天)のために怒れる人生に、まだ未練があったようだ。
そちらのルートには、それなりのコストを支払った上で、去年あたり見切りをつけたつもりだったのだけれど、そう簡単には行かないらしい。
なお、コストとは年会費である。
払っておいて何のアクションも起こさなかったのだからドブに捨てたとしか言いようがない。
この発見にはポジティブな意味もある。
僕はこの歳でもまだ、「主人公」の生き方に憧れを持ち続けているということだ。
これは物書きとして大いなるストロングポイントと言っていい。
しかも、自分が孤独だから「最後まで」孤独な主人公を書いてやろう――みたいな「若さ」とはすでにオサラバしている。
断言する。
主人公が孤独では駄目なのだ。
つまり僕は駄目であり、作中においてそれを肯定すべきでない。
孤独を肯定する「作品」は、歌や詩、絵画など、比較的所要時間の短いメディアにおいてはたくさん存在していい(存在してほしい)が、小説や漫画は所要時間が長い。
適さないのである。
変化はどうしても必要で、変化とはすなわち家族との出会いである。
自分が得られなかったものを肯定的に描くのは少し辛い。
孤独を孤独のまま塗りつけたような作品で評価されてみたいとも思う。
しかし誰より僕自身が読者としてそんな作品を読みたくない。
くそっ、くそっと歯噛みしながらあと四十年か五十年、書き続けることになるだろう。
森山先生の次回作に乞うご期待である。
「孤高」の主人公について 森山智仁 @moriyama-tomohito
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