第32話 桜木玲と馬鹿と秀才の仁義なき戦い!

 がやがやと騒がしい、昼下がりの学校。

 廊下の掲示板に張り出された前回のテストの順位表。当然、俺は下から数えた方が速かった。

「……あー、まただめだったわ」

 俺はぽりぽりと頭を掻いた。ここのところ、成績が思わしくない。

 具体的には中学二年の後半から数えてずっとだが。まあ俺のことはいいとして。

「しかしすげーな、玲は。また一位かよ」

「そ、そんなことないよ……」

 学年トップスリーが書かれている欄へと視線を移す。と、そこには桜木玲の名前があった。

 桜木玲。俺の恋人にして神が使わした天使。

 運動も家事もそつなくこなし、それは当然学業においても発揮されていた。

「いやいや、そんなに謙遜するなって。おまえがすげーってのはよく知ってるから」

「ふふ……健斗はもうちょっと頑張らないとね」

 玲がにこやかに俺の成績について言及してくる。だよな。我ながらそう思う。

 このままでは、秘かな俺の計画が瓦解してしまう。……同じ大学なんて夢のまた夢だ。

 高校一年とはいえ、今から危機感もっとかねぇと。

「しっかしほんとすげーな。トップ勢なんてほとんど常連だろ?」

「うん。四位の人から下は結構入れ替わり激しいんだけれどね」

「でも三位までは固定だもんな。おまえらそんな勉強の仕方したら毎回いい点取れるんだ?」

「え、ええと……頑張ったら?」

「ああうん、わかってるわかってる」

 けれど、それが簡単にできれば苦労はないわけで。つか上位陣なんて頑張るのがあたり前なんだろうなぁ。……玲を見ているとつくづくそう思うぜ。

 何せこいつ、普段はゲーム漬けの超がつくほどのオタクなんだぜ? それでこの成績を維持できるのはもはや、才能だと思うね。

 俺はそんな感想を抱きつつ、常人の名前を上から呼んでいく。

 桜木玲。日比谷誠。大隅健司……。

 大体一点から二年……大きくても十点の差しかない。今後の努力次第では玲が追い抜かれる可能性は十分にあった。

 とはいえ。……ちらりと玲を振り返る。

 玲はにこにこだった。確かに俺の順位は以前と比べれば一人分上がったかもしれないが、それほど喜ぶことだろうか。玲にテスト勉強を見てもらったっていうのに情けない限りだ。

「やったね、健斗。健斗も順位上がってたね」

「あ、ああ……そうだな」

 俺は何となく申し訳ない気分になった。たった一人分上がっただけでこんなに喜んでくれる玲に対して悪いことをしている気分だ。

 次はもっと頑張ろう……そう、心の内で固く誓う。俺の遠大な計画のためにも。

「見てろよ玲、次こそはおまえを負かすからな!」

「うん、楽しみにしてるね」

 にこっと微笑む玲。うわー、相手にされてねぇなこれ。ま、当然か。

 俺はやれやれと肩を竦めた。まあ玲を負かすのは冗談だとしても、次はもっと上位に入れるように一層頑張ろう。

 とにもかくにも、これでテストに関する全イベントは消化した。ここからは、いつもの日常に戻るだけだ。

 と……そのはずだった。

 俺たちの目の前に、奴が現れなければ。

「ちょっと待ってもらおうか」

「……ええと、なんだ、おまえ?」

 ザンッと、漫画の登場人物のように、そいつが俺と玲の行く手に立ち塞がる。

 なんだ……と思っていると、そいつはビシッと俺たちを指差してきた。特に玲を。

 失礼な奴だな。他を指差すなって習わなかったのか?

 俺がむっとした表情を作るのも構わず、そいつは往来の真ん中で堂々と宣言してきた。

「桜木さん、今回もたまたま僕は負けてしまった。だが、次はこうはいかないぞ」

「ええと……はい。楽しみにしてますね」

「くっ……」

 玲の大人な対応を受け、そいつがぐっと悔しそうに歯噛みする。

 なんだ、そういうことか。俺は合点がいって、一人で納得してしまった。

「……ずいぶん余裕だな、桜木さん」

「余裕だなんて……次の全国模試は目と鼻の先ですから、そんなことはありませんよ」

「だろうなぁ……だがしかし!」

 バッと、そいつが両手を振り回し、やたらと格好いいポーズを取る。お陰で周囲にいる奴らが迷惑そうだ。

「僕は余裕だ。なぜなら、日頃からちゃんとしっかり勉強をしているからなッ!」

「そうなのですか。ちなみにどのくらい?」

「ざっと毎日六時間から八時間程度」

「それはすごい」

 パチパチパチッと玲が小さな拍手を送る。悔しいが、俺だってこいつを賞賛したい気持ちになった。 

 俺なら、一時間と机に向かうのは無理だろう。三十分……いやニ十分もじっと勉強なんてしていたら発狂してしまう。それくらい勉強は苦手だ。

「ちなみに桜木さんはどの程度だい?」

「私は……まあ二~三時間ほどでしょうか?」

 その二、三時間だって、本当に全部勉強に費やしているのか怪しいけれど。

「ふっ……」

 そいつは玲の返答に、鼻で笑った。こいつ、一度ぶん殴ってやろうかしら。

 本気でそう思ったが、周囲の目もあるし、玲の手前それはやめておいた。

第一、そんなことをしなくても、どちらがより頭がいいかなんて既に結果は出ているのだ。

 俺ははぁと溜息を吐いて、憤りを外へと逃がす。さっさとこいつから離れた方がいいな。

 俺にとっても玲にとってもいい結果を及ぼさないだろう。

「行こうぜ、玲」

「え? ええと……それでは」

 ぺこりと玲がそいつに頭を下げるのを横目に見ながら、俺は廊下を行く。

 別にあんな奴にまで礼節を尽くす必要はないと思うのだが、そこは玲自身の価値観だ。俺がとやかく言うことじゃあない。

 とにかく、今の俺は割と腹に据えかねていた。何なんだ、あいつは。

「どうしたの、健斗? なんだかご機嫌斜めだけれど」

「どうしたって、おまえは腹が立たなかったのか?」

「え? 別に……だってあの人が何を言ったところでただの負け惜しみだし」

「うっ……それはそうなんだが」

 俺は立ち止まって、玲を振り返った。玲も俺の動きに合わせて立ち止まる。

 あっ……と口を開こうとして、何も言えなかった。考えてみれば、いや考えるまでもなく玲の言う通りだ。既に結果は出ているし、今更何をいったところであの野郎の負け惜しみだ。

 わかってるわかってるんだが。

「変なの。健斗が言われたわけじゃないのに」

「……俺が言われたんだったら、ここまで苛ついてねぇよ」

「それって……私のために起こってくれてるってこと?」

「……それは」

 改めが確認とかされるとかなり気恥ずかしかった。まあ、実際のところそうなんだが。

「いや、おまえのためっていうか……なんだか腹が立っちまって」

「……ふふ、ありがと」

 ぽふっと、玲の小さな手が俺の頭に乗ってくる。撫でられているのだと気付くのが、若干遅れた。

 それから更に数秒して、今の状況を把握する。

「おいおいおい! 何してんだ、玲!」

「何って……いいこいいこ?」

「や、やめてくれ……恥ずかしいだろ」

 俺は慌てて玲の手を払った。若干強めにやってしまったことを後悔したが、それをわざわざ表明したりはしない。

 玲もあからさまに痛がったりせず、むしろ面白がるようにはにかんでいた。

 全身がかーっと熱くなる。それを誤魔化すように玲から距離を取る。が、玲が俺に近付いて来るので、なかなか誤魔化し切れるものじゃなかった。

 後から真人に聞いた話になるが、この時の俺たちへの視線は二分されていたという。

 すなわち、微笑ましいものを見るような、生暖かい視線と。

 ゴミクズへ向けられるのと同様の、殺意に満ち満ちた視線とに。

 

 

                       〇

 

 

 時間は少したって午前の授業をすべて消化した直後。昼休みが訪れて五分と経っていない頃だった。

 俺はいつものように玲との待ち合わせ場所である屋上へと向かうため、教室を出る。

 廊下を歩き、先にトイレに寄ってから上階へと続く階段へ足をかける。と、二、三段昇ったところで、背後から声がかかった。

「待て!」

「……ああん?」

 俺はゆっくりと振り返った。これから玲とランチタイムだってのに、誰だよ呼び止めるのは。

 なるべく威圧感を持たせようと思って睨みを利かせる。そうして振り返った先には、一人の男子がいた。

 見覚えは……あまりなかった。とはいえ、何度か廊下ですれ違ったこともある奴だ。

 名前は……何だっただろう? ええと……よく覚えていない。

「……なんか用か?」

「君、桜木さんの彼氏って本当?」

「えーと、まあ本当だ」

 自分で彼氏とかいうのかなり恥ずかしかった。けれど、ここで否定をするわけにもいかないだろう。

 何せ俺は本当に玲の彼氏なのだから。もっと堂々と言えればよかったのだが、何となく尻すぼみになってしまっていた。

「……んで、おまえは誰だ?」

「僕を知らない? この僕を? 嘘だろ」

「……ええと、幼稚園は俺、通ってないんだ」

「幼稚園の頃の知り合いじゃねぇよ!」

 俺のまじめさとボケを半々にした言い回しにも即座に反応してくるあたり、こいつには突っ込みの才能があるな。

 俺は何となくそいつにシンパシーを感じ、勝手な仲間意識を持った。

「それで、おまえは誰なんだ?」

「くっ……本当に僕を知らないのか?」

「ああ、知らないな、おまえみたいな奴」

「くくく……いいだろう、教えてやる」

 そいつがきらりと眼鏡を光らせる。不敵に笑みを浮かべ、両腕を組んだ。

 ええと、何その中二病的な行動は。こいつ、本気でかっこいいと思てやってんのか?

 俺は関わりたくなくて、一歩後ずさる。けれども、後ろが階段なだけに躓きそうになってしまった。

 何とか体勢を保ちつつ、そいつの言葉に耳を傾ける俺。何を言ってくるつもりだ?

「……僕の名は日比谷。日比谷誠だ」

「日比谷……ん?」

 日比谷誠。その名前、最近どっかで聞いたような……。

 俺は中空へと視線を投げ、記憶を探る。どこだ? どこで見聞きしたんだ、日比谷誠。

 俺がうーんと唸っていると、日比谷はバッと両腕を広げ、ビシッと俺を指差してくる。

「単刀直入に言おう。君は彼女に相応しくない!」

「何だと? 後他人を指差すんじゃねぇよ」

 日比谷の聞き捨てならない一言に、俺は腹の中が煮えくり返る思いだった。

 我ながら沸点が低いとは思う。だけれど、俺が玲に相応しくないとまで言われたんだ。腹の一つも立つってもんだ。

 俺は日比谷を睨み付ける。と、日比谷は若干怖がったように体を引いた。だが、すぐに元の位置に戻る。ふむ、根性は座っているようだ。ただのガリ勉野郎じゃあなかったということか。

「俺が玲に相応しくないとはどういうことだ?」

「桜木さんは我が校の、いや我が国の、それどころか全世界の宝だ!」

「……はあ?」

 日比谷はどこか陶酔するように、うっとりとした様子でそんなことを宣う。

 俺はと言えば、日比谷の物言いに付いて行けず、脱力する。

 何だろう。さっきまでこいつの事をいけ好かない奴だと思っていたのに、今はただの馬鹿にしか見えなかった。

 日比谷、日比谷……ああ、思い出した。今朝テストの順位が張り出されたところで桜木の次に名前が挙がっていたあの日比谷か。

 俺はすっきりとした。思い出せてよかった。

「……んで、おまえは一体何が言いたいんだ?」

「ふっ……決まっているだろう?」

 日比谷は自分の体を抱くようにして、大仰な動作で腕を組んだ。

「君では不釣り合いだ。そしてそれは君に限った事ではない。この学校にいる誰しもが、桜木さんとは不釣り合いだ」

「……あー、ええと」

 段々見えてきた。こいつの言いたい事が。

「つまりおまえは、自分こそ玲に相応しい相手だと言いたいんだな?」

「そうだ、その通り!」

「……なるほど」

 なんだ、ただの馬鹿か。勉強はできるかもしれないが、まあ馬鹿だ。

 俺は自分の中でそう結論付けた。そして馬鹿とは関わらない方が賢明だ。

 馬鹿は自分の事を馬鹿だとは思っていない。いや、むしろ頭がいいとさえ思っている。そういうところが馬鹿だってのにな。

 俺は別に自分の事を天才だ秀才だと言うつもりはないが、こんな馬鹿な奴だとも思えない。

 ま、相手にしないのが得策か。

「そうか。それはそうだな。じゃあ俺は玲が待ってるからもう行くわ」

「待ちたまえよ、敵前逃亡を図る気か?」

「いや、だから玲がな……」

「僕は君と話をしているんだ。桜木さんは関係ないだろう?」

 ああもう、話が通じねぇ!

 俺は段々と苛々してきた。何でこいつ、俺の話聞いてくんないの?

「桜木さんは素晴らしい人だ。見目の麗しさだけではなく、その頭脳と身体能力。そして何より優しさ、勤勉さを併せ持つ、およそこの学校のすべての人間が束になっても敵わないであろう人間力を持つ、人類稀に見る稀有な存在だ。……いっその事、神か天使と言ってもいい」

「それについては全面的に同意するが……」

「だかこそ、そんな桜木さんの相手も神に近しい人間が相応しいと思うのだが」

 どうだろう、と視線で問うてくる。いや、どうだろうと問われても。

「そうか。よかったな」

 じゃ、と俺はまたもやこの場からの離脱を試みる。が、更にそいつの長広舌は続いた。

「それは君じゃあない。別に君が駄目な奴だとか、そんな事を言いたいんじゃないんだ。ただ僕は君達二人が非常に歪なものに見えてしまっていてね。つまりだ。何が言いたいのかというとだね……」

 日比谷は変なポーズを繰り返しながら、器用に話し続ける。

 が、俺としては付き合ってやる義理はなかった。ので、日比谷に背を向けて階段を昇る。

 自分の演説に酔っているのか、日比谷はその後、俺を呼び止める事はなかった。かくして俺は、無事玲の許に辿り着けたのだが。

 さて、これから先が面倒な事になりそうだぞ、と危険信号が鳴り響く。

「……はあ、面倒な奴に目を付けられちまったな」

 俺は溜息を吐きつつ、玲の待つ屋上へと続く扉を開けたのだった。

 

 

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 それからだ。事あるごとに日比谷が俺に絡んでくるようになったのは。

 移動教室の時。大体の場合において二クラスが合同になるのだが、日比谷と俺は全く一緒にはならなかった。

 それでも日比谷は俺に絡んでくる。わざわざ教室から出てきて、話しかけてくるのだ。

 それはトイレの時も、体育の時も放課後も朝のHR前の時間でも。

 ちょっとした時間を見付けては、日比谷は俺の許にやって来た。そしてやって来る度、いかに俺と玲が不釣り合いか、自分と玲が付き合った際の理想的な交際ができるのかを説いて聞かせてくるのだった。

 正直、かなり鬱陶しい。何だったらいじめレベルだ。登校拒否になりそうだ。

 その時の俺はかなり疲れていた。それはもちろん、日比谷のせいだ。

「……どうしたの、健斗? かなり疲れてるみたいだけれど」

「いや……ちょっとな」

 別段別れろとは言われていない。まあ直接的に言われていないだけだけれど。

 それにしてもあいつのしつこさは異常だ。最初の三回ほど話を聞いてやったのがまずかったのか?

 玲にも心配をかけている。ああ、今まさに俺のマイエンジェルが心配そうに俺を覗き込んでくる。駄目だ、心配をかけては。

 俺は顔を上げると、努めて笑顔を作った。

「大丈夫だ、玲。俺は元気だから」

「……本当に?」

 それでも、玲の不安そうな顔は晴れなかった。まあわかるだろうなぁ。俺が今、どれだけ疲れているかなんて。

 それもこれも、全部日比谷のせいだ。ああもう、奴には関わりたくねぇ。

 しかし、それでも日比谷はやって来るだろう。俺の気持ちなんてお構いなしに。

 あのがり勉野郎、あいつだって大変だろうに、何であんなに元気なんだ? 体力お化けかよ。

 俺は日比谷の無尽蔵とも思える体力を羨ましく思った。たぶん俺の方が単純に体力はあるだろうに。どうしてだ?

「まったく……何だって俺があいつの事でこんなに悩まないといけないんだ」

 俺はガシガシと頭を掻いた。日比谷め……忌々しい。

「何か悩みがあるなら私聞くよ?」

「ああ……いや、大したことじゃないんだ。大丈夫だ」

「……そう?」

 玲が不安そうに小首を傾げる。俺は玲に心配をかけまいと、努めて強気に頷いた。

 けれども、なぜか玲の表情は晴れなかった。どうしてだ?

 俺はその事が不思議だったが、だからといって問い質せる雰囲気でもない。第一、俺の方が玲に対して隠し事をしているのはこちらなのだ。なのに俺だけわざわざ玲に言わせるわけにもいかないだろう。

 とにかく、今は話題を変えるのが先決だ。

「そういや、また新しいゲームが出てたな」

 この前、妹と一緒にゲームショップに行った時の事を思い出しながら話題を振る。その時に店頭に並んでいたパッケージを見て、何となく玲が好きそうな奴だなぁと思っていた。

「……うん、買ったよ。ネットですごく話題になっていたんだ、あれ」

「そうか……もうやったのか?」

「まあ……大体三分の二は終わったかな」

「三分の二って……はえーな」

「まだまだだよ」

 玲の声音から判断するに、気乗りしない様子だった。けれど、俺の心境を察してくれているのか、急な話題転換に何ら疑問を挟んでくることもない。

 それはありがたかった。どの道大した事ではないのだ。このまま忘れてしまうのが一番だろう。

 日比谷だって、しばらくは面倒臭いかもしれないが、その内諦めるだろう。

 そんなふうに軽く考えていた。考えて……いたのだが。

 

 

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 それから約二週間ほど。日比谷は土日を除いてほぼ毎日俺の前に姿を現した。

 大抵は玲に関する事だ。玲は俺には相応しくない、別れるべきだ、彼女にはもっと相応しい人物がいる……などと講釈を垂れるのがお決まりの展開になっていた。それも、玲の妙なポーズをバリエーション豊かに取りながら。

 こちらとしてはうんざりする。そう毎日毎日来られては気の休まる暇もない。

 それも俺一人の時ならまだしも、玲や真人、ナギたちと一緒にいる時でさえそうなのだから更に困る。

 そしてそれは、今日も続いていた。

「……またおまえか。飽きないな、まったく」

「ああ、飽きないとも。僕は君が桜木さんと別れてくれるのを期待しているのだからね」

「残念ながら天変地異が起きたとしても、それはねぇよ。諦めろ」

「おやおや、固い愛情だ。だけれど、人間の心とは移ろうものだ。永遠などありえない」

 知ったような口を利く。

 俺は溜息を吐いて、日比谷から視線を逸らした。そろそろこいつの顔を見るのも胸やけ気味だ。他に用事はないのか? 暇なのか?

「つーかおまえ、学年二位だろ? 成績をキープするために勉強しなくていいのか?」

「心配には及ばない。毎日六時間、みっちりやっているからね」

「六時間……」

 毎日勉強する、というだけでも俺からしたら信じられないのに、六時間とは。

 俺は日比谷の日々の生活を思い描いて、ぞくりとした。

 毎日六時間、勉強している。言い換えれば、毎日六時間も勉強に割かなくてはいけない。

 ゲームしたり遊んだりテレビ見たりする時間なんてないんじゃないか?

 日比谷の生活スタイルを自分に置き換えて考えてみる。ぞくりと背筋に悪寒が走った。身震いする。

 無理だ。俺には絶対にできっこない。

「……おまえってすごい奴だったんだな」

「おおっと、褒めたところで何も出ないよ」

「褒めてねぇよ。思った事を言っただけだ」

「なお嬉しいね。だけれど、僕が桜木さんの事を諦めるかどうかは別の問題だ」

「あー……さいですか」

 俺はうんざりと肩を落とした。まったく……暇なんだか急がしいんだかわからないな、こいつは。

 俺は日比谷を振り返り、再び溜息を吐いた。

「まあ何でもいいんだが、迷惑だからそろそろやめてくれないか、こういうの」

「君が桜木さんと別れてくれたらね」

「悪いが俺も玲もお互いに好き同士なんだ。それはできない」

「ああ、それはわかっているとも」

 日比谷がバッとポーズを切り替える。

「だが、人間には分相応というものがある。そして桜木さんは君には分不相応だ」

「へっ……面白れぇ事いうじゃねぇか」

 いやー、今のは多少いらっときたよ。何だ、分不相応って。

「それはあれか。俺の成績の話を言っているのか?」

「ああそうとも。彼女のような才女の恋人が君ではね」

「……確かおまえ、勉強に毎日六時間だったか?」

「むっ……ああ、それがどうかしたのかい?」

「いいや。ただ、玲の勉強時間は多くてせいぜい二時間だ」

「……何と!」

 一瞬、日比谷のまゆがぴくりとした。さすがに驚いたのだろう。

 毎日六時間勉強して学年二位と最長で二時間しか勉強していない学年一位。

 さて、果たして日比谷よ、おまえは玲にとって相応しい人物なのだろうか。疑問だなぁ。

「……はは、別に成績だけですべてを図ろうなんて思ってはいないけれど」

「今、おまえは俺を成績だけで語ったわけだが」

「ぐっ……」

 言い淀む日比谷。何だろう、勝った気分だ。すごく気持ちがいい。

「……ま、まあいいさ。今日のところはこのくらいにしておいてやろう」

「明日以降も来ないでくれるとありがたいんだがな」

「ふっ……何を馬鹿な」

 日比谷がサッと髪を掻き上げる。その仕草がキザッたらしくて、なかなかに腹が立つ。

「何がしたいんだ、おまえは……」

 俺は踵を返し、歩き去っていく日比谷の背中を見送りながら、一人呟いた。

 まったく……なんて迷惑な奴だ。明日は姿を見せないといいが……見せるんだろうなぁ。

 明日以降もこの面倒極まりない生活が続くのかと思うと、うんざりする。

 俺ははぁと肩を落としながら、振り返った。

 その先に玲が……と、、まあそんな都合のいいことがあるわけもなく。

 人影はなかった。往々にして、あいつは俺が一人か周りに人気のない時を狙ってくる。

「……何でだよ」

 俺は呟きながら、考える。どうしてあいつはいつもいつも、俺が一人の時に現れるのか。

 考えたところで、答えはなかった。ま、俺は本人じゃあないからな。

「……屋上行こ」

 こんな事で脳みそを遣うなんて、馬鹿馬鹿しい。さっさと忘れてしまおう。

 自分にそう言い聞かせ、頭の中を切り替える。屋上へとたどり着けば、そこには玲が待っているはずだ。

 玲の顔を見れば、このもやもやっとした感覚は消えてなくなるはず。

 俺は一段飛ばしで階段を昇った。そうして、一刻もはやく玲のところへとたどり着きたかったのだ。

 屋上の扉を開ける。思いの他力が強かったからなのか、バンッと大きな音がした。

「……あれ?」

 俺はそこで、首を傾げた。

 玲が……いない? いつものベンチに。

 きょろきょろと周囲を見回す。が、今日に限って地べたに座っている、という事もなかった。

 屋上のどこにも、玲の姿がないのだ。

 俺は後ろ手に扉を閉めながら、くるりと振り返った。

 やはりいない。どこにも。

「ええと……これは一体」

 確かに約束をしていたわけではない。連絡を取り合っていたわけでもない。

 ただ、暗黙の内に何となく俺たち二人の間に築かれていたルールというだけだ。

 玲がその暗黙のルールを守らなくてはならないという道理はない。だから、俺が玲に対して腹を立てるのは道理に叶っていないのだろう。

 実際、腹は立たなかった。苛立ったり、そういう事もなかった。

 ただ、不思議だったのだ。玲がいない、という事実が。

 いつもなら、約束をしたわけでもないのにここにいるはずの玲の姿がない事が。

「…………ええと」

 不安……と問われれば、たぶんそれは不安なのだろう。

 俺は自分の中に生じたそのもやもやとした感覚を、どうにも持て余していた。

 

 

                      〇

 

 

 あれから昼休みが終わるまで、俺は玲を待っていた。

 けれども、玲は姿を現さなかった。どうしたのだろう? と不安になる。今朝は会ったのだから、不安にならなくてもいい気もするが、不安になる。

 どうしたのだろうか、玲は。何かあったのだろうか。

 俺はこそっと、玲のクラスへと行ってみた。我ながら気持ちの悪い行動だとは思うが、このもやもやをどうにか解消したいと思う。

 玲のクラスに行き、こっそりと物陰から玲を覗き見る。と、ちゃんといた。

 相変わらず上品な笑い方で、クラスメイトと談笑している玲。ゲームをしている時や、俺と一緒にいる時なんかとは大違いだ。

 ……見た感じ、元気そうだな。

 そう判断して、ほっと胸を撫で下ろす。もしかしたら、具合が悪くなって早退したのかもしれないとさえ思っていたからだ。よかった。

 けれど、ならなぜ屋上に来なかったのだろう? そのままじーっと、玲を観察する。

 と、玲の許へ一人の男子が現れた。ああん? あいつは……。

「え、ええと……あの、石宮くん、だよね? 何をしているの、こんなところで?」

 突如として声をかけられ、俺はびくんとした。思わず声を上げて飛び上がりそうになってしまい、どうにか我慢する。

「い、いや……何でもねぇ」

 俺は慌てて振り返り、取り繕った。

 女子だ。小柄で小動物ちっくな、くりくりとした瞳が特徴的な。

「何を見て……ああ、桜木さんだね。どうかしたの?」

「いや……どうかしたっていうか……」

 俺は思わず視線を逸らしていた。果たして言ってもいいものかどうか、判断が付かなかったからだ。

「えっと……あいつって」

「あいつ? ……ああ、日比谷くん」

「日比谷……あいつ、何で玲に話しかけてんだ?」

「さあ? ……あ、もしかして焼きもち? 彼女は俺だけのものって事?」

「いや、そこまで言ってねぇけど」

「まあまあ、大丈夫だよ、隠さなくたって」

 そいつはからからと笑い、ポンと俺の肩を叩いてくる。俺は対応に困り、たはは、と愛想笑いを浮かべた。


 とにかく、ここは奴を玲から遠ざけておくべきだろうか。

 別段玲があんな奴に心を動かされるとは思わないが、俺の時と同じように付き纏われているのだとしたら、放っておくわけにはいかない。

 しかし、どうしたら? ここで出て行ったとしても、目立ち過ぎる。

 俺はうーんと唸った。いい方法が思い付かない。

「ええと、大丈夫?」

「へ? ああ、大丈夫だ」

「ま、桜木さんが他の男子と話しているのを見るのは気分のいいものじゃあないかもしれないけれど」

 そこで一旦言葉を切って、そいつはにこっと微笑んだ。

「大丈夫だよ。桜木さんは君にメロメロだから。わたしが保証してあげる」

「……ええと、サンキュ。心強いよ」

 俺はつられて笑っていた。根拠なんてなくたって、こんなふうに言ってもらえるのは本当に心強い。

「さあさあ、もう自分のクラスへお帰り。何だったらわたしが桜木さんに君が来てたって言っといてあげようか?」

「いや、それはいい。……じゃあ俺は戻るから」

 時間を見れば、そろそろ昼休みが終わる。意識せず、長居をしてしまったようだ。

「それじゃあね」

「ああ、サンキュな」

「いえいえ、お安いご用ですよ」

 手を振られて、俺は手を振り返した。

 何となく、玲に悪いような気がしたが、ここで励ましてくれた奴を無視するわけにもいかないだろう。

 それに第一、浮気をしたわけでもない。何も問題はないはずだ。

 そうだ。何も問題はない。俺も、玲も……。

「ああもう、もやもやする!」

 俺はガシガシと頭を掻いて、教室に背を向けた。

 大丈夫だ。玲があんな奴に好意を抱くなんて事はない。……大丈夫だ。

 俺はずんずんと廊下を行き、教室へと戻る。

 何度となく、大丈夫だと心の中で繰り返す。が、本当に大丈夫だとは、全然思えなかった。

 思えなかった……というよりは、不安が拭えなかったと言った方が適切だろう。

 どすん、と教室の自分の席に座る。何だかなぁって感じだ。

「……どうしたんだよ、健斗」

「んあ……? ああ、いや……何でもねぇよ」

 真人が不思議そうに訊ねてきたので、俺はぶっきらぼうに答えた。

 そのあまりの迫力に真人は恐れおののいたのか、真人はそれから話しかけてこなかった。

 俺は授業が始まるまで、ずっと玲と日比谷の事を考えいた。

 お陰で、授業の大半は頭の中から抜け落ちていた。

 

 

                      〇

 

 

 いらっとする。日比谷と玲が仲よくしている様子を想像するだけで、健康の悪い。

 俺は午後の授業がすべて終わるや否や、すぐさま玲と日比谷の教室へと向かった。

 さっさと玲を誘って帰ろう。ついでにゲーセンにでも寄って、この憂さを晴らそう。

 そう思っていたのだが、玲たちの教室に着くなり、俺は固まった。

 件の玲と日比谷が、仲睦まじそうに談笑していたのだ。

 俺が入り口で固まっていると、玲が俺の姿に気付いたらしく、視線があった。

「……あ、健斗……石宮くん」

「ああ、これはこれは。わざわざお迎えかい?」

「むっ……ああ、そうだ。悪いか」

 きゃーっと教室中が湧きたった。そうだ、他の奴もいたんだ。

 俺は恥ずかしさのあまり、かっと全身が熱くなった。今なら火炎放射を打てる気がする。

 だけれど、俺は逃げなかった。そうだ、玲をあのきざ野郎の魔の手から守るんだ。

 ずかずかと教室の中に入って行く。俺がよほど怖い顔をしていたからだろう。玲の不安そうな表情に胸がずきりとした。

 だが、しょうがないだろう。こっちだって余裕がないんだ。

 俺は玲の側に近寄ると、鞄と玲の手を握って力づくで立ち上がらせた。

「ちょ、痛い……!」

 玲が痛いと訴えるが、俺はそれを無視した。普段なら絶対にしない事だ。

 けれど、今は違う。あいつがいる。あいつがいる前では俺はどうにも普段の俺ではいられないらしい。

 俺は玲の腕を引っ張り、教室を出る。背後でざわざわとざわめく声が聞こえてきたが、全部無視した。

 あーあ、何やってんだろ、俺。馬鹿みてぇだな。

 内心、冷静なままの俺がそう呟く。元々それほど頭のいい部類の人間じゃあないが、本当に馬鹿だ。脳みそ入ってんのか? と疑いたくなるほどに。

 俺は玲を引っ張ったまま、下駄箱のところまで来ていた。玲は先ほどからずっと痛い、離してと言っていたが、全部無視していた。

 下駄箱に着くと、ようやく玲が俺の手を振り解く。

 振り返ると、そこで俺はやっと、玲が苦しげに肩で息をしている事に気が付いた。

「あっ……ええと、悪い」

「どうしてこんな事……?」

「いや、その……ええと」

 俺は玲の顔をまともに見る事ができなかった。どうしてあんな行動に出てしまったのか、自分でもわからなかったのだ。

 いや、実際にはわかっている。玲とあの野郎が仲よくしているのが気に入らなかったのだろう。……でも、どうしてあいつだけに? 自問するが、俺の中に答えはなかった。

「すまん……ただ、どうにも腹が立って」

「腹が立ってって……そんな事で」

「ああいや、何というか……すまん」

 言い訳を探そうとして、でも頭の中が真っ白になっていた。

 うまい言い訳を思い付けず、俺は口篭もった。

「……もしかして、やきもち?」

「な、ななな何言って……!」

 図星を突かれ、俺は思わず視線を逸らした。けれど、玲が俺の顔を覗き込んでくる。

 そのにまにました表情が何とも言えず憎らしかった。ので、俺はまた顔を逸らした。そうすると、また冷が面白そうに俺を見てくる。

 そんな事を、しばらく続けていた。完全に二人だけの世界だっただろう。

「ふふ、健斗って可愛い」

「かわっ……俺は可愛くなんかねぇ!」

 玲の方がよっぽど……、と言おうか迷って、結局言わなかった。

 代わりに、俺ははぁーっと大きく息を吐いた。どくんどくんと激しく脈動する心臓を鎮めようと、深呼吸を繰り返す。

「……正直言うと、おまえの言う通りなのかもしれない。たぶん……嫉妬してた」

 ちらりと玲を見る。と、玲はきょとんとした表情で俺を見詰めていた。

 くっ……殺すなら殺せ! 

 ぶるぶると全身が震えるのがわかった。は、恥ずかしい……。

「……くっ」

 俺が羞恥に体を震わせていると、玲の微かな笑い声が響いてくる。

 なんだ……? と思って玲を見る。と、肩を揺らしながら、笑い声が漏れそうになるのを我慢しているところだった。

「な、何で笑ってんだ!」

「ごめ……でも、あんまり可愛かったから」

「だ、だから可愛くなんてねぇって言ってんだろ!」

 俺は続け様に怒鳴った。けれど、そこに威厳やら威圧感やらは皆無らしく、玲の押し殺した笑い声が静まる事はなかった。

 それからどれくらいだろうか。俺たちはその場に立ち尽くしていた。

 くつくつと笑い声を漏らす玲。それを恨めしい気持ちで眺める俺。

 完全に二人の世界だった。……ごほん、と背後から誰かの咳払いが聞こえるまでは。

「……楽しそうなところ悪いが、ちょっとこっちへ来い」

 その声に、ビクッと振り返る。と、そこにいたのは生活指導を担当する教師だった。

 そのまま俺は、ずるずると生活指導室へ引きずられていくのだった。

 ……つかなんで俺だけ?

 

 

                       〇

 

 

 あの糞教師から解放されたのは、それから一時間後だった。

 俺たちの……というか俺の罪状は簡単に言うと、騒がしくして周りの生徒に迷惑をかけたことだ。

 ……というのは建前で、私生活がうまくいってないあの糞教師の個人的な恨みが過分に含まれているのだろうと俺は思う。

 ああ、ちくしょう。何だってんだ。……玲と一緒に帰れると思ったんだけれど。

 俺はがっくりと肩を落とし、とぼとぼと下駄箱へと向かった。

「……まあ、俺たちも悪かったな」

 ここは学校であり、プライベート空間ではない。俺たちの行動は軽率だったと言わざるを得ないだろう。

「ま、反省しないとな」

 俺は独り言ちてそう呟いた。……反省か。

 生徒指導室から下駄箱へと向かう。その道中で、奴とばったり会ってしまった。

「げっ」

「何だその反応は? 僕と会えてそんなに嬉しいのかい?」

 日比谷がサラッと髪を掻き上げる。今にもベイビー、とか言い出しそうだ。

「何してんだ、おまえ。とっくに帰ってお勉強の時間だろ?」

「いや何、君が生徒指導室に連行されたのだと聞いて、慰めに来てやったんじゃないか」

「余計なお世話だ」

第一、おまえじゃ慰めになんてなるはずがないだろう。

俺は日比谷を睨み付けた。けれど、日比谷にはまったくと言っていいほど利いていないよう

だ。

「……それで、おまえは一体何が言いたいんだ?」

「何が……というほどの事はないが、まあそうだね」

 日比谷は例の痛々しいポーズで俺の前に立ちはだかった。

 ビシッと、人差し指を俺に向けてくる。他人を指差すなと教わらなかったのだろうか。

「僕は君と桜木さんの関係を認めていない」

「別におまえに認めてもらう必要はねぇよ」

 これは俺と玲の問題だ。おまえが首を突っ込む事じゃねぇんだよ。

 俺は内心でその一言を付け加えた。まあたぶん、というか十中八九わかってねぇだろうけれど。

「彼女は僕にこそ相応しい。君には似合わないよ」

「……は? なんでおまえにそんな事言われなくちゃならねぇんだよ?」

「当然、僕と桜木さんの間にいる邪魔者だからさ」

「邪魔者はおまえだろうが」

 どこまで自分勝手な奴だ。俺はさっさと帰りたいんだが。

 俺が日比谷の脇を通って行こうとすると、日比谷の手が俺の肩を掴んだ。

 むっ……意外と力があるな、こいつ。

「……んだよ」

「桜木さんと別れるんだ。それが彼女のためでもあり、君のためだ」

「しつこいぞ。一体何の権利があっておまえはそんな事を言うんだ?」

 日比谷の手を振り払って、振り返る。まったく、本当に不愉快な奴だ。

「言っただろう、僕の方が桜木さんに相応しいんだ」

「ちょっと勉強ができるからって調子に乗ってんな」

「乗ってねないね。第一、君を相手にそんな事を言うはずがないだろう」

「……あっそう」

 ああもう、こいつと話すだけ無駄だ。

 俺は踵を返し、早足で下駄箱へと向かう。

 と、背後から何者かが付いて来る足音がした。

「……着いて来るんじゃねぇよ!」

「着いて行ってなどいないさ。ただ、目的地が同じだというだけの事だ」

「くっ……ああそうかよ」

 ああ言えばこう言う。何だってんだ、こいつは。

 俺はいらいらしながら下駄箱のところへ向かった。

 早く玲に会いたい。何だってこんな奴に付き纏われなくちゃならないんだ。

 俺はいらいらとしながら、下駄箱にたどり着いた。すると、手持無沙汰に爪先を見詰める玲がいた。

 ああ、そんな姿も絵になるなぁ。

「あっ、桜木さんだ。僕を待っていてくれたのかな?」

「そんなわけねぇだろうが。何言ってんだ、おまえ」

「はは、怖いなぁ。冗談だって」

「冗談に聞こえねぇんだよ、おまえの場合」

 本気で思ってそうだ。……まじで何なの、おまえ。

「あっ……終わった?」

「ああ、終わったぞ。待っててくれたのか?」

 玲が俺に気付いて、笑顔を向けてくれる。さっきまでのいらいらが嘘のように消えてしまった。

「だって……一緒に帰りたかったし」

「うっ……ぐふぅ」

 はにかみながら、そう口にする玲はすごく可愛かった。だめだ、俺の心臓が持たん。

 俺は一瞬固まってしまった。隣を歩く日比谷の事も頭の片隅から消え失せる。

 お陰で、日比谷が俺の脇を通って玲のところへと行ってしまう。俺は日比谷の突然の行動に反応できず、遅れを取ってしまった。

「桜木さん、僕を待っていてくれたんですか?」

「え? ええと……違います」

「ありがとう! 僕、すごく嬉しいですッ!」

「えと、私が待っていたのは健斗で……」

「ささ、帰りましょうか」

 どさくさに紛れて玲の手を引いて行こうとする日比谷。が、玲は普通に迷惑そうだった。

 俺はガッと日比谷の肩を掴んだ。待て待て待て待て。

「何してんだ、おまえは!」

「何って桜木さんと一緒に帰ろうとしているだけだけれど?」

「だけだけれど? じゃねぇんだよ! 普通に迷惑そうだろうが!」

「ははは、何を言っているんだい? 迷惑なわけ……」

 日比谷がゆっくりと視線を玲に向ける。と、玲はかなり嫌そうな顔をしていた。

 もう、恥じらいとか分別とか全部放り出して、侮蔑と殺意に満ちた視線を送っている。

 ……こ、こえええええ!

 ヒュオオオオオッと全身が凍てつくような錯覚を覚えた。俺でこんなんだから、日比谷なんて凄まじいくらいビビッてんじゃねぇか?

 そう思って、日比谷をちらりと見やった。

 案の定、固まっていた。気絶してんじゃねぇのってくらいの固まり具合だった。

「……おい、大丈夫か?」

「だ、だだだ大丈夫さ」

 思わず安否を問うたが、大丈夫そうで何よりだ。

 一方玲はというと、度重なる失礼な言動に腹の底から怒っているようだった。

 ぷんすかっという擬音は生温い。どちらかというとゴゴゴゴゴッと背景に表示されそうな調子だ。

「え、ええと、玲……大丈夫か?」

「んーん、私は大丈夫だよ、健斗」

 声にどすが利いていた。目も座っており、今にも日比谷を八つ裂きにしかねない勢いだ。

 恋人を殺人犯にしては敵わない。俺はそそくさと靴を履き替え、玲に手招きをする。

「は、はやく……さっさと帰ろうぜ」

「……そだね」

 玲は大人しく、素直に従ってくれた。……よ、よかった。

 俺はちらりと三度、日比谷を見やった。ガタガタと震える様子は多少悪い気はしないでもなかったが、それ以上にスカッとした気分だった。

 まあ、いい薬かな?

 俺は内心でそんな事を思って、それから隣に立つ玲へと視線を移した。

 玲はやはり怒っている様子だった。が、それでも直前と比べたらいくらかマシになったようで、ぷりぷりとしながらも怖さはさっきまでより落ち着いていた。

「……ええと、何かすまんな」

「別健斗が謝ることじゃ……というか、何なのあの人。嫌い」

「…………」

 ぷいっとそっぽを向く玲。ぷーっと膨らませた頬が可愛くて、ついつい突きたくなってしまう。……なんだこれ。

「……でも、玲はあいつと仲がいいんじゃ?」

「どうして? 別に仲がよくなんてないよ。……ハッ」

 言いかけて、玲がハッとする。何に気付いたんだ?

 どうせよからぬ事だろうと思いつつ、続きを待つ。と、玲にやはりにまにまと笑っていた。

「まさか、教室に来てた、とか?」

「……いや、そんな事はないが」

「嘘だ、図星だ」

「う、嘘じゃねぇよ、本当だ」

「ふーん」

 俺がいくら弁明しても、玲は耳を貸すつもりはないらしい。

 俺は何とか玲の誤解(とも言えないけれど)を解こうと奮闘したが、ついぞ敵わなかった。

 ど、どうしたらいいんだ……助けてド〇えも~んッ!

 

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