魔法少女やめたいです

なすみ

第一話:死にたくない

 ビル風が、勢い良く足元から吹き上げてきて、わたしは思わず息を呑んだ。いくらこれから死ぬと、そう決めたところで、やはり怖いものは怖い。ましてやそれが、地上20階建てのビル、その頂上からの投身自殺ともなれば、恐怖しないわけがない。

 しかし、わたしにはここで、この数時間前まで勤めていたビルで、どうしても自殺する必要があった。それも、とびきり凄惨な最後を迎えて。

 これが例えば、家で一人、首を括ったり、あるいはタバコでも食べて、中毒自殺でも選べば、まだこれほどまでの恐怖も感じず、安らかに死ねたのかもしれない。だがわたしの、今の目標は、自殺すること、そしてそれ以上に、この会社への被害、損失を出すことを、掲げていた。

 自殺は、そのための手段であるに過ぎない。とまで言うつもりも、かといってない。それこそ、わたしはこれ以上、生きていくのがしんどくもなっていたし、最早楽しいことが、この先にあるとも思えない。これ以上、生きていたって、仕方がない。

 だから、死ぬ。

 憎たらしいこの会社から身を投げて、そして遺書で告発した内容で、一体どれほどの損害が出せるのか、それは分からない。もしかしたら、わたしが望んでいるほどの結果は見込めないのかもしれない。だが、それでも、もう、いい。どの道、生きていくのは辛い。

 辛くて、とても疲れる。

 当てつけるように、わたしは今朝、着たままのスーツに、スカート、そしてパンプスまでそのまま、フェンスの向こう側へと向かう。幸い、そのフェンス自体、わたしの胸の上くらいまでしか高さがないから、少し頑張って足をかけさえすれば、簡単に乗り越えられた。

 そして、フェンスの向こう側へと立つ。だがその両手は、背中にあるフェンスを未だ、力強く掴んでいるし、恐怖で震えている両足は、そこから落ちないよう、必死で床を後ろに蹴って、体重をフェンスに預けていた。そんなわたしの足元から、再びビル風が吹きあがってくる。

 髪の毛が撫で上げられ、頬に冷たさを感じる。そして一拍置いて、わたしは更に心臓の鼓動が早まるのを感じた。

 ついつい、反射的に下を覗いてしまったのだ。

 思わず、目が眩むような、高所。そこに命綱も無しで、わたしはいま、足の半分も面積のないところへ、立っている。フェンスを握りしめる手にはすぐに、じわりと汗が滲み、今にも滑ってしまいそうになるが、その手汗を拭くため、片手を離す度胸もない。

 いや、どうせこれから飛ぶのだが。

 わたしはそこで、自分のそんな、ちぐはぐな思考回路に気付いた。そして、思わず笑ってしまう。といっても、恐怖で声が震え、上ずっているので、上手く笑えてはいなかったが。

 そしてくすくすと笑いながら、ゆっくり、手をフェンスから離す。そうだ、これでいい。

 どうせ後戻りなんて出来ないし、死ぬのなら。

 せめて笑っている間がいい。

 ゆらり。

 吹き上げるビル風へ、鳥が羽を広げるように、わたしは後ろ手に握っていた手をそのまま、脱力させる。そして足を真っすぐに張ったまま、目を瞑り、その身を投げ出す。

 ぐらり。

 後悔する頃には、もう遅い。人間、命の危機を感じた時には、世界がスローモーションに見えるというが、今が正しくそれだ。ゆっくりと自分の手が、今更頑張ったところで届かない位置までフェンスから離れているというのに、それでも虚空を必死に掴もうと藻掻いている感覚も、小さく口から洩れた悲鳴も、背中に滲んだ汗が、風で冷やされる感覚も。

 いざこうして死ぬとなると、やっぱり死にたくなかった、なんて思ってしまう気持ちも。

 すべてがスローモーションに感じて、わたしは目を開けた。

 と同時に、右手に全体重が乗りかかる感覚。というか、激痛を感じて、わたしは別の悲鳴を上げた。

 なんだ、地面にぶつかるには、いくらなんでも早すぎる。そう思って、思わず後ろを振り返る。

「……っ、ぎ、ぎりぎり、間に合った……」

 組体操の、真ん中の一人に両端の二人が体重を預け、扇のように広がるあの形。と形容するのが、一番正しい。あの姿勢よろしく、わたしはビルから身を半分以上乗り出した状態で、右脚はビルの崖っぷちぎりぎり、そして右手は、何者かに掴まれたまま。そんな滑稽ともいえる姿勢で、どうやらまだ死んではいなかったことを、ここで自覚する。

 そして、わたしの右手を右手で掴んだ主は、とてもこんな夜中、そしてビルには不釣り合いな、一人の少女だった。

 そして、もっと不釣り合いなことに。

 彼女はこのご時世に、とても不釣り合いな格好をしていた。そう、それは形容するなら。

 アニメにも今時、出てこないような、魔法少女としか言えないような、そんなコスプレをしていた。

 ともかく、彼女が掴んでいたのが、わたしの手首。そしてわたしも、同じように、反射的に彼女の手首を掴んでいることに、お互いの手が汗で滑り、いよいよ手と手で繋がれただけの状態になってから、わたしは暢気にもそんなことを思っていた。

 がくんと、身体に衝撃を感じたのは、恐らくその為だろう。見ると、丁度二人で握手をしているような状態で、わたしは辛うじて、彼女に助けられていた。

「やばっ、す、滑るっ……」

 焦ったような声音で、彼女はそんなことを言う。事実、わたしの手からは大量の手汗が吹き出し、その手をじんわりと湿らせているところだったし、それはどうやら、彼女も同じらしい。手に一層力が籠められるのを、感じた。

 自分の全体重が、彼女の五本指にかかる。そこでわたしはようやく、自分が、自殺を考えて、決行すらした自分が、彼女の手を、同じように力強く握り返していることに気付かされる。

 死にたくない。

 そんな気持ちを、改めて感じたためだろうか。背中に、今更ながら薄ら寒いものが走る感覚を覚える。

 全身に、ぞくぞくとした悪寒が走る。

 わたし、死のうとしてたんだ。

 改めて、そう自覚する。

 だが。

 死にたくないと思えば思うほど、生きたいと思えば思うほど、人間の身体というのは不思議なものだ。手足にはどんどん力が入らなくなるし、張り詰められた腕を、自分から手繰り寄せて、引き上げてもらうことだって出来ない。頬を撫でるビル風が、より一層強く吹き荒れ、最早恐怖で、言葉も出ない。

「うっ、ぅううっ、うぅんん!!」

 そんな情けないわたしを、必死に片手で引き上げようとしている彼女は、しかしフェンス越しにわたしの腕を掴んだらしく、先ほどから、肩が痛々しくも、その丸いパイプに押し付けられている。その表情を伺うに、どうやら痛くないわけではないらしい。

 むしろ、とても痛そうに、顔を歪め、必死で食いしばった歯は、ぎりぎりと音を立てている。

 浅く、早い呼吸が耳に届く。それは彼女のものかとも思ったが。しかしよくよく聞くと、どうやらわたしのものだった。

 なるほど、過呼吸にもなりそうなほどの浅い呼吸。通りでさっきから、視界がちかちか明滅すると思った。これでは、手に力も入らないだろう。

「っ、ね、ねえ、お姉さんっ!!」

 彼女は力の限り、叫ぶ。

 本当は、痛みに絶叫したいほどの痛みを堪えながら。

「なに……?」

 わたしも答える。

 本当は、酸欠でとっくに視界が歪み、今にも手を放してしまいそうな程、朦朧とする意識の中。

 現実味がないとは、このことか。

 だんだん、意識が薄らいでいくのと同時に、恐怖心も感じなくなってきた。きっと今なら、落ちていっても、大した恐怖は感じないで済むかもしれない。そうだ。

 いや、そうだ。

 手を離そう。

 見知らぬ彼女とはいえ、こんな高校生くらいの女の子に、迷惑はかけていられない。

 わたしは今更、正義感に駆られて、ゆっくりと手の力を抜こうとする。そこに、彼女の、悲鳴にも似た声音の、叫び声が、ビル風に交じって聞こえてきた。

「死にたくないんでしょ!! 本当はっ!!」

 ずるり。

 手が滑ったのだろう。

 仕方がないことだ。どの道、あのままでは、彼女の肩が脱臼するか、あるいは肩の骨が、わたしの自重で砕けていた。

 遠ざかっていく彼女の、とても焦ったような表情を見ながら、わたしは何故か冷静に、そんなことを考えていた。そしてどうやら、命の危険が、回避できないものであればあるほど、世界がスローモーションに見えるということも、暢気に思いながら。

 両耳に聞こえる、風切り音。しかし、視界の中で小さくなっていく彼女は、何故か不釣り合いにゆっくりで。とても現実味がない。

 死ぬのか、わたしは。

 やっぱり、いやだなあ。

「嫌なの?」

 声が聞こえる。

 ゆっくりと過ぎる時間の中、わたしは何故かいつも通り、まるで隣にいた人に話しかけられた時のように、ふと首を横へ向けた。

 そこに、猫がいた。

 なるほど。

 どうやら、わたしは走馬灯に交じって、幻覚まで見てしまっているらしい。

 その猫は、自由落下するわたしと同じ速度で、いや、ゆっくりと時間が経過しているので、それもおかしいのだが、しかしまるでそこに床でもあるかのように、ゆっくりとわたしの顔の横まで、歩いて近づいてきた。だからやはり、これは幻覚なのだろう。

 死の間際に見る、黒猫。

 まいったな、最後の景色が、こんな、日曜のお昼にも今時見ないような、魔法少女のコスプレ少女と、喋る黒猫だなんて。

「嫌に、決まってるでしょ」

 わたしはぶっきらぼうにそう答えた。

 すると黒猫は、淡々と――猫が淡々と喋った、なんて、良く分からないし、わたしも分からないが、しかしそれでも、淡々と猫は喋った。

 といっても、実際に口が動いていたわけではない。ただ、わたしには、それでもこの声は、どうやらこの幻覚の猫から聴こえてきているのだな、なんて、支離滅裂なことを理解できていた。

 あるいは出来ていなかったのか。

 まあ、どうせ死ぬのだから、何でもいいか。

 じゃあ、どうせ死ぬついでだ。

 わたしは、今の気持ちを言葉にした。

「……死にたくない」

「じゃあ、契約成立だね」

 そう言って、黒猫は口元を歪める。

 それを視界の端で認めた次の瞬間、わたしは確かに、アスファルトへと、自由落下の末、勢いよく叩きつけられた。

 はずだった。

 いや、確かに叩きつけられたし、その感覚は、確かにこの身に残っている。

 わたしの身体が、ぐちゃりと潰れ、骨が激しく砕け、意識が一瞬にして、真っ暗闇に落ちた感覚。それは確かに覚えている。

 のだが。

 次に気が付いたわたしは、冷たいアスファルトの感覚を頬に感じながら、その場で、良く分からない出来事に、目を何度も、瞬いていた。

「……え?」

 初めに出たのは、そんな素っ頓狂な言葉だった。だが、その声を自分で聞いても、やはりこれは紛れもなく、わたしの声だ。

 それこそ、スワンプマンよろしく、わたしが死んだ瞬間、別の誰かとして生まれ変わったわけでもない。

 紛れもなく、わたしはわたしのままで。

 高層ビルの20階、そこからの自由落下を経て、生きていることを確かに、表していた。

「……お。気が付いたみたいだよ」

 そこへ、まるで普通の猫かのように近づいてきた、確かわたしと一緒に落ちてきたはずの黒猫は、まるで当たり前のように、言葉をしゃべって、よそを向く。わたしもつられて、身体を捩りながら、その方向へと視線を向けた。

 そこには、先ほどの少女、つまり、魔法少女然、としか言いようのない格好をしていたはずの少女が、今やまるで普通の高校生が、身を包むような制服の姿で、更に驚愕したような表情で、そこに立っていた。

「……うっ、嘘……有り得ない……」

 口を手で覆い、大きく見開かれた目は、最早恐怖の色すら感じられる。だが、その言葉には、わたしも同意見であった。

 わたしが、こうして生きているなんて。

 それこそ、あの時わたしは正しく、屋上から身を投げ、助けられた手を離し、改めて落下したはずだ。いくらそこで、死にたくないと願ったとして。

 それでもそんな祈りが、叶うはずもない。

 人間の身体とは、とても脆いものだ。それこそ、一メートルは致死メートル、なんて言われることもあるくらい、打ちどころによっては、ただ転げただけでも、致死へと繋がる。

 そんな精密機械のような、人間という生き物が、20階建てのビルから自由落下して、生きて地面に到達できるはずがない。そんなことは、流石にわたしでも理解できていた。

 だがその理解を超えて、わたしは今、こうして生きている。

 頭がおかしくなりそうだ。

「そりゃあ、普通は理解できないよね」

 と。

 まるでわたしの心を読んだかのように、いや、実際に読んだのだろう。でなければ、まだ口にも出していない、目覚めたばかりのわたしが、心の中で思ったことに対して、会話をしている理由が付かない。

 黒猫は、わたしの顔の前に、図々しくも香箱座りで居座ると、まるでこちらを見下すかのように、目を向けてきた。

「でもぼくも、同じような気持ちではあるんだ。これまで、君みたいな願いを願った子を、ぼくは何人も見てきた。それに、叶えようともした。けれど、こうして実際に、その願いが叶った例は、君が初めてだ」

 なんでだろうね。そういって、首を傾げ、顔を手で洗うような動きをする黒猫。だがわたしは、まだ頭が混乱していた。

「願い? 叶った? 待って、何の話?」

 というかそもそも。

「わたし、死んだはずじゃ……」

 よもや今は、わたしが幽霊にでもなって、意識だけがある、なんてわけでもないだろう。それこそ、さっきまで感じていたアスファルトの冷たさも、秋口に差し掛かって、少し冷えてきたこの夜の空気も、何故か聞こえてくる、黒猫の声も。全て、生きていないと説明がつかない。いや、そうなると今度は、生きていることに対する説明が付かないのだが。

 わたしはひとまず、いくら夜中で、交通もないとはいえ、いち大人の倫理観として、いつまでも公道に寝っ転がっているわけにもいかない。そう思い直し、起こした身体で、上を見上げる。そこにそびえ立つビルは正しく、わたしが夕方まで勤めていたビルで、先ほど、わたしが身を投げた、ビルだ。そして、わたしはあそこから、落ちた。

「変なことを聞くなあ」

 足元で、黒猫は口を開く。

「もし君が死んでいるんだとしたら、どうして今、言葉を話せているんだよ。心配しなくても、君は生きてるよ。少なくとも……」

 今のところは。

 最後にそう物騒な言葉を残して、黒猫は一度口を閉ざす。それに対して、わたしは言葉を返そうと、口を開きかけた。だが、それよりも早く反応したのは、コスプレ少女だった。

「ま、待ってよ、ミネット!」

 ミネット。そう呼ばれた黒猫は、ゆっくりとコスプレ少女の方へ向き直る。

「てことは、何、まさか、このお姉さん……も、魔法少女になれた、ってこと?」

「まあ、そうなんだろうね。実際、こうして願いは、叶ったみたいだし」

 猫らしく、辺りを歩き回り、改めてわたしの元へ戻ってきた黒猫、ミネットと呼ばれたそれは、一度身を小さく屈めると、近くに合ったポストの上へ、その身を翻し、器用にも飛び乗る。それから改めて私の方へと向き直り。

「おめでとう。君の願いは、聞き届けられた。今日から君は、不死の魔法少女だ」

 また一つ、訳の分からないことを、喋っていた。

 一つ、それでもわかることを上げるとするならば。

 どうやらわたしは、自殺を失敗したらしいということ。

 それだけは、確実だった。

 …………え、待って、魔法少女?

 わたしが?

 今年29歳ですけど?

 ちょっと痛くない?

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