第2話 当然のこと
確信した。
あのサラリーマンは、危ない。
朝。
いつもの三両目に乗らなくなって、一両目を利用し初めてから少し、見知ったサラリーマンの顔を見た。
その時は、「ああ、あの人も一両目を利用することもあるのか」と思った。その時はなんの違和感も持たなかったのに。
今日。
部活の後に顧問と話し、日はまだ暮れてこそいないもののいつもよりも遅い時間に電車を乗ると、向かいの席にそのサラリーマンが座っていた。
座っているのは、いい。
問題なのは、ずっと、熱い視線を感じることだ。
気のせいかな、と顔を上げてみれば目が合う。一層濃くなる笑みに背筋をゾッとさせながら、曖昧に笑って返す。そんなやり取りを、う、三回はした。
(……ずっと見られてる……。怖いな……)
かといえ、突然席を立って車両を変えるのも感じが悪いだろうし、着いて来られなんかしたら、ますます確信は間違いの無いものになり、より強固な恐怖が全身を支配するだろうと思うと動くことも出来なかった。
カタンコトン、揺れる電車の中で、自分が降りる駅を、ただ待った。
次の日から。
朝は時間をずらして電車に乗った。帰りは、なるべく幼馴染みと時間を合わせて帰った。
あのサラリーマンは、自分の隣に居た『朔也』を見ていたのかと思った。どうやら、違ったらしい。キラキラと眩しい渚や勇志、『朔也』ーーー彼らと行動を共にすると、勿論、注目を浴びる。だから、私の事を見られているなんて、一つも思わなかった。私は、地味で普通だ。彼らの隣に居なければ、私は認知されない存在だと思う。
ああ、でも。なんでだろう。
テスト期間。いつもよりずっと早いはずの帰りの電車に、そのサラリーマンはいた。他にも沢山座席が空いているのに、私の正面に座る。ああ、渚も勇志も今日は一緒じゃない。
ガタンゴトン。
居心地の悪さ。不快感。感じる視線に息が詰まる。なるべく、視線を合わせないように。でも、視界には入れておかなければ怖い。震えそうになる手を握る。早く、駅について。
ねっとりと纏わり付くような視線を十分に感じていると、不意に、サラリーマンが席を立つ。あろうことか、こちらへ一歩、足を出し、距離を詰める。
(え……、待って、止めて……来ないで。誰か……)
ぶわっと汗が吹き出した。膝の上で握った拳に視線を落とす。
「あのぅ、」
ねっとりとした、声が降る。ああ、怖いーーー…
「咲桜」
聞こえた声に、金縛りが解ける。
見れば、隣の車両から勇志がこちらの車両へやって来たところだった。つかつかと大股で傍までやって来ると、私の目の前に立つサラリーマンをじろりと睨む。
「……おれの彼女に何か用ですか?」
ドスの効いた低い声。
気の弱そうなサラリーマンは目に見えて怯んだ。「いや、あの、」と視線を彷徨わせ、「……すみません」とその場を去る。丁度停まった駅で降りていく背中を、勇志は最後まで睨み付けていた。
「………隣、いいか?」
「……うん」
恥ずかしいのと、未だに微かに残る恐怖心から「ありがとう」と振り絞った声は小さく、彼の耳に届いたかわからない。ドカッと大袈裟に勇志は隣に腰を下ろした。背もたれに背中を預ける様子は、少しガラが悪い。『インテリ』とカテゴライズされる勇志だが、凄めば知っている誰よりも迫力のある顔になる。渚のような品も無いし、『
ガタンゴトン。
沈黙。
私も、電車の背もたれに体を委ねてみる。思ったより、ふかりとした感触が背中に伝わる。
「………悪かったな」
不意に。罰悪そうに告げられて、思わず背もたれから背中をぴんと跳ね退けた。
「えっ、な、何が?!」
「いや、『彼女』なんて、……言って」
「えっ? いやいや、どうしてそれを謝るのっ?! 本当、助けてくれてありがとうっ!」
私の感謝がいまいち伝わっていないのか、勇志はそれでも苦い顔をしていた。
家まで最寄りの駅に着く。
二人並んで下車し、改札を抜ける。家は直ぐ近所なので、帰り道は全く同じと言っても過言ではない。そんなに盛り上がる会話もないまま、隣を歩く。
「………ちょっと、遠回りして帰らないか?」
「え、あ、うん」
ありがとう、とまた、呟きは小さい。
家に帰っても一人だと言うことを案じてくれたのだろうと思う。
蝉が煩い。日差しは暑い。照り返す反射光が眩しく、目を細めた。汗が伝う。蒸し暑く、喉が渇く。こめかみや首筋に髪の毛が張り付く。勇志も、それは一緒だろう。
自販機でペットボトルのジュースを二つ買って、一つを渡してくれる。レモンティー。言わなくても、好きなやつ。
「ありがとう。お金」
「いいから」
「でも、」
「女に出させたくないだけだから。プライドあるからさ、男立てろよ」
「……じゃあ、ありがとう」
勇志はプライドがどうこう言い出すような奴じゃない。だから、ここは素直に奢って貰うことにした。
宛もなく歩いている筈が、ここら辺の道は全て子供の時に制覇していて。結局、ぐるりと大回りして、あの思い出の公園に出た。丁度日陰になるベンチによいしょと腰掛ける。
「懐かしいよな、ここ」
「……うん」
私が記憶を無くした事、これまでも思い出していたわけではなかったことを、勇志も知っていたはずだ。私の病室に、足繁く通ってくれた。記憶が無いと知ると、とても傷付いた顔をした。
全てではなくとも、今はもう、幼馴染み四人組の記憶があることを、何処からか聞いたのだろう。世間は狭い。或いは朝陽が、私と会ったことを話したのかもしれない。
「……渚がさ」
「うん」
「『変わらないものなんて、無いのだろうか』って」
「……」
見慣れた、懐かしい景色。
寂れたブランコ。塗装の剥げた滑り台。三段階の高さの違う鉄棒。パンダだかクマだか解らなくなってしまった置物が見守る砂場には、誰か先客が作ったんだろう、砂の山がポツンとあった。
あの日と変わらない。けれど、確かに、歳を取ったようにも感じる。あんなに広く包んでくれていた公園が、小さく背中を丸めて、微笑みを浮かべる老人のように映った。
「……渚はさ、髪、伸びたね」
「ああ」
髪を伸ばしたい、と言っていた渚は、本当に髪を切らなくなった。それを、高校受験の時に一度切り、また伸ばしている。肩に触れるくらいの髪の毛を、後ろで一つにくくっていた。
「勇志は背も伸びたし、声もうんと低くなったよね。もうすっかり、『男子』だね」
「……」
記憶にある小さな勇志は、眼鏡をしていない。目付きが悪くなったのは眼鏡をかけ始めた小学四年生の頃で、それまでは可愛い目付きをしていたように思う。背も、誰よりも小さかった。
今、隣にいる彼の、立派な喉仏が視界に映る。
不思議な感じだ。
想像で補っていた記憶の中と、本当の記憶の中の幼馴染みの姿が違って、まだ時々、混乱する。答え合わせをするように記憶を辿らなければ、 また迷子になりそうだ。
「……咲桜は、綺麗になった」
「えっ、」
前傾姿勢に背を丸めて、ボソリと彼が言った。聞き間違いかと思ったが、目を丸めてしまった時には、こちらを向く彼の目と視線が合った。
「……全部、思い出したのか?」
「……えっと、ぜんぶじゃ、無い……と、思う」
「……アイツの事は?」
「アイツって?」
紡がれたその名前に、私は息を飲み、やっぱり曖昧に笑う。
「……彼の事は……」
口ごもる。
「よくわからない」と、口から零れた音も頼り無く空気を震わせた。勇志こそ何か知らないのかと目線で問いかけてみても、首を横に振られる。
「ある日突然、お前が『彼氏』だと紹介した。おれ達はてっきり、アイツは入院患者で、それでお前と親しくなったのかと思ったが、違った。アイツは、お前が入院した初日から足繁くお前の病室に通っていた。………アイツは、誰なんだ?」
「………」
どんなに記憶を辿ってみても、やっぱり、彼との記憶は病院のベッドの上から始まった。知りたいのはこちらの方だ。彼は、誰なの?私の、何?
「………教えて欲しい。私は、なんで病院にいたの? 記憶を無くした時、何があったの?」
「………」
後ろの木で蝉の飛んだ音がした。別の木に引っ付いて、また煩く鳴き始める。じわり、と背中に汗が滲んだ。
勇志は暫く黙っていたが、やがて、観念したように息を吐く。
「………変わらないものなんてないのかって、渚は言ったが。おれには、あるんだ。変わらないもの」
「え?」
ジワジワジワジワ、なんという名前の蝉の鳴き声なのか。煩い。何か、勇志が大事な話をしようとしている。真っ直ぐに、私を見ている。メガネの奥、その、意志の強そうな瞳が、真っ直ぐに私を映した。
「……ずっと、変わらなかった。お前が、全部、思い出したら……聞いて欲しいと思っていた」
「……」
私の手の中で、レモンティーもすっかり汗だくだった。聞いて良いのだろうか、どうか。
何かが決定的に変わってしまうような、危機感。
得体の知れない不安。
だけど、まずは、知らなくては。
私ももう、ちゃんと、……進みたい。
(……ごめんね、渚。やっぱり、変わらないものなんて、きっと、無いんだ……)
だって、生きているから。
移り変わっていく。変化する。それは、当然のこと。
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