第4話 『ハジマリ』の記憶
「先輩っ!」
あどけなく笑うその顔を思い出す事は容易い。
本当によく、慕われていたと思う。
彼は、「彼氏」なのだと私に自分を紹介した。私は恐らく、曖昧に笑ったと思う。戸惑い。疑心。罪悪感。色んなものが、自分の中にあった。
母だと名乗る人が来て、幼馴染みだと名乗る二人組もやって来た。代わる代わるやって来る顔ぶれに、名前と顔が直ぐに覚えられなかったが、次の日もその次の日も、その顔のローテーションだった。
「体はなんとも無いそうよ。記憶も、頭を打ってるわけでは無いから、一時的なものでしょうって。精神的なものでしょうってさ。いつか、思い出すわ」
言うなり、母と名乗った人は「明日から出張なの。着替えとお金、置いとくから。何かあれば
ぼんやりとする心の中で思う。
私は、本当にこの人の子供なのだろうか……。
愛されていたのか。
何故、今、病室に居て、過去の記憶が欠如しているのか。誰も何も教えてくれなかった。
「咲桜」
渚と
制服姿に、大体、見舞いだと言ってコンビニスイーツを持ってきてくれた。私の記憶がなくなってしまったことを知り、当事者の私よりも、彼らの方が息を飲み、傷付いた顔をしたのが印象的だった。
申し訳ない…。
そう思ったのと、安堵。私は、きっと、彼らにはとても愛されていたのだと思う。
二人は毎日のように顔を出してくれ、きっかけになればと思い出話をしては、同じ時間を過ごした。
「私は、咲桜の傍が一等、息がしやすいんだ」
こっそりと打ち明けてくれた、美しい青年。
勇志は委員会の仕事で遅くなると言っていた。今日は来れないらしい。彼からだと、差し入れにコンビニのガトーショコラを渡してくれた。
「……私は、貴方の言う…『咲桜』でいいのかなぁ…」
言わなきゃいいことを言ってしまったな、と言った後に後悔した。見れば、青年ー渚ーは、あの時のような哀しい目を光らせて、それでも、慈しむように微笑んだ。
「咲桜は、ーーー貴女は、どう思う?」
例えば、「いつか思い出すよ」「貴女はよく知る『咲桜』だよ」そんな台詞を紡がれるのだと思った。私は面食らって、そしておずおずと、口を開く。
「………貴方達には、申し訳ない…。きっと、貴方達の知る『咲桜』は死んでしまったのに等しい」
「……」
恐らく、言葉を選ぶ為に彼は暫し沈黙した。
ああ、酷いことを言ってしまった。
しかし彼は、少しも傷ついた顔をしなかった。或いは、もう、充分に傷付いているから表情の取り繕い方を心得ているのかもしれない。
「『私』が死ねばよかったのに」
「それは違うよ」
そっと優しく、彼の大きな手が私の頬を包んで、私を彼の方を向かせた。とても真っ直ぐな目が、私に向けられている。
「貴女が私の知る『咲桜』である必要はない。『咲桜』を演じる必要も無い。……直ぐには割り切れない私達を、どうか許して欲しい。これから、新しい思い出を重ねたらいい。思い出しても、思い出さなくても、貴女は私達の、大切な人だよ。きっと、この先も、そうなる」
「……」
複雑な想いが、その言葉でほどけたり、胸のつっかえがストンと落ちたりはしなかったけれど。
抱えていた罪悪感が少し、……ほんの少しだけ、軽くなったような気はした。
私は私でいいと、それを、彼は表面的にではなく、本心としてきちんと、伝えてくれた。
「…………ありがとう、」
「いいや。すまない。貴女だって混乱しているのに、いきなり沢山の話をして、ますますプレッシャーを与えてしまったな。気が付けなくて、すまなかった」
「ううん。……失望しないでいてくれて、ありがとう」
『咲桜』は、渚に恋をしていただろうか。そんな瞬間はあったのだろうか。
いいや、彼氏は『朔也』だ。それに、渚が『咲桜』に向ける感情はどこまでも優しい。きっと二人は、心からの親友だったのだ。気を許し合っていたのだろう。いつだったか、同じように二人きりの時、彼は自分が同性愛者なんだと打ち明けてくれた。『咲桜』にしか打ち明けていない、大事な秘密。渚の想い人はきっとーーー…。
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